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報徳記巻之七【7】相馬侯日光に献金す

報徳記  巻之七 

【7】相馬侯日光祭田再復の方法に献金す

野州日光祭田(さいでん)二万石(まんごく)地形高山丘陵(きうりやう)多くして平地甚だ少し。
土地磽薄(かうはく)にして曽(かつ)て水田なし。
下民(かみん)雑穀を以て常食となす。
近年に至り水田を開くといへども十が一に至らず。
往昔以来(わうせきいらい)租税甚だ軽(かろ)しと雖も下民(かみん)貧苦を免れず。
天明凶荒以後多く戸口を減ず。
是を以て土地蕪莱(ぶらい)し、人民弥々(いよいよ)窮せり。
幕府之を憂ひ再復安民の事業を以て、二宮先生に命ず。
于時(ときに)嘉永(かえい)五癸丑(みづのとうし)年二月なり。

先生時に疾(やまひ)あり病苦を忍び登山し、周(あまね)く八十余村を廻歩(くわいほ)して邑民(いふみん)を教諭し、勧農に導き善を賞し貧を恵み、再興の仕法を施せり。
下民(かみん)大いに感歎して旧弊(きうへい)頗る革(あらたま)り、荒蕪(くわうぶ)を開き勤業に赴けり。
是より先き弘化元年日光村々再復の策を献(けん)ずべしとの命あり。
先生三ヶ年日夜心力を尽し衰廃再興の策を筆記し数十巻を奏す。
是の故に実業広施(くわうし)の命あるに至る。
相馬侯池田大夫(たいふ)を召して曰く、
三郡再興安民の事を以て二宮に任ぜり。
此の仁術に由つて国弊(こくへい)大いに改まり再復の効験(かうけん)既に顕然(けんぜん)たり。
大慶(たいけい)之に過ぐべからず。
今幕府先生に委(ゐ)するに大業(たいげふ)を以てせり。
未だ此の地の仕法半(なかば)に至らず、微力なりといへども報恩の道を行はざるべからず。
汝夫れ之を慮(おもんぱか)れ。
大夫(たいふ)命を受けて退き諸有司(しょいうし)と此の事を議す。
有司(いうし)曰く、
国家の衰廃極まり、上下の艱難既に六七十年、天下広しといへども他の諸侯を察するに、我が国の甚だしきが如きを見ず。
此の故に具(つぶ)さに艱難の事情を以て幕府に歎願し、手重き公務を免じ玉ふ事既に数十年、専ら三郡再復の道に上下力を尽すといへども未だ半途に至らず。
領地の荒田未だ復せず、借債數(すう)十萬(まん)尚(なほ)依然たり。
斯(かく)の如き時に当りて何を以て報恩を為さんや。
若し仕法を行ふこと多年にして旧復の時に至らば報恩の道も亦尽すことを得ん。
方今(ほうこん)の為し得べき所にあらずと。
大夫(たいふ)曰く、
然り各々の言の如し。
然りと雖も上下の道を以て論ぜば豈(あに)是至当の論ならんや。
天明以来六十年余、国の廃衰(はいすゐ)するものは国の過(あやまち)にして他の故にあらず。
幕府之を憐み多年手重(ておも)の公務を免ずるものは、阜大(ふだい)の恩といふべし。
然るに艱難の故を以て永く報恩の道を思はずんば、豈(あに)是れ受恩者の道ならんや。
国盛んに民富む時に及んで報恩を為す者、何の難(かた)きことか有らん。
艱苦の中に処して為し難き事に力を尽すもの、仮令(たとひ)其(そ)の事は小(せう)なりといへども報恩の志(こゝろざし)は厚しといふべし。
且(かつ)先生日光へ仕法開業の初めに当りて力を添(そ)ふる時は必ず其の事業成り易(やす)かるべし。
今之を能はずとして後年を待つは、仮令(たとひ)後に幾倍の力を尽すといふとも、安民の事業遅々(ちゝ)に及ばんこと必(ひつ)せり。
報恩の道実に此の時を失ふべからず。
必ず疑惑を生ずることなかれ と。
郡吏曰く、
理は宜(よろ)しく然るべし。
此の時に当りて恩を報ぜんこと大夫(たいふ)それ何を以てせんとするや。
大夫曰く、
我苟(いやしく)も其の道を得ずして此の言を発せんや。
前年極窮(ごくきゆう)の時に当り幕府に歎願し、金八千五百両を恩借せり。
年々之を償ふに五百金を以てせり。
今年五百金を納る時は元金皆納なり。
明年より綿々として五百金を報恩として日光地再復安民の仕法に献ぜば、十年にして五千金となる。
是れ難しといへども前々分度の中より納め來れり。
未だ皆納に至らずと見る時は納むるの道なしといふべからず。
是に由つて艱難中といへども十年に五千金を献ぜば、日光の窮民恩沢に浴し興復の事業確立すべし と云ふ。
諸有司(しょいうし)皆之に同ぜり。
是に於て此の事を君に言上し、遂(つひ)に幕府に請願し許可を得て、年々五百金を納め之を日光邑々(むらむら)再復の用度(ようど)に下し玉ふ。


報徳記  巻之七 
 【7】相馬侯日光祭田再復の方法に献金す

野州日光東照宮の祭田2万石は、高山や丘陵多く、平地は大変少ない地形である。土地は痩せ地で、昔から水田がなかった。人民は雑穀を常食としていた。近年になって水田を開くようになっても10分の1に至らなかった。遠い昔から租税は大変軽いといっても人民は貧苦を免れなかった。天明の大飢饉以後多く戸数・人口を減じた。このため土地は荒れ果て、人民はいよいよ困窮していた。幕府はこれを憂慮し二宮先生に再復・安民の事業を命じた。時に嘉永5年2月なり。先生はその時に病気だったが、病苦を忍んで登山し、あまねく80村余りを歩いて回り村民を教えさとし、農業に勧め導き、善人にほうびを与え、貧民を恵んで、再興の仕法を施した。人民は非常に感歎して従来の弊害が大変あらたまった。荒地を開墾して仕事に勤めるようにさせた。これより先、弘化元年、日光の村々を再復する方策を提言するよう幕府から命があった。先生は3ヶ年日夜心力を尽して衰廃を再興させる方策を筆記し数十巻を提出した。このために実業を広く施行するように命があるに至った。相馬侯は池田家老を呼び出されて言われた。
「3郡の再興安民の事を二宮に任じた。この仁術によって国の弊害は非常に改まり再復の効果は既に顕らかである。これに過ぎる大きな喜びはない。今、幕府が先生に日光再復という大業を委任された。まだこの相馬の地の仕法はなかばに至っていないが、微力であっても報恩の道を行わないわけにいかない。お前はこの報恩の道を考えてみてくれ。」池田家老は殿の命を受けて退いて諸役人とこの事を議論した。役人たちは言った。「国家の衰廃は極っていて、上下の艱難は既に6,70年、天下は広いといっても他の諸侯を察しますに、我が相馬藩ほどはなはだしいようなところは見ません。このために詳しく艱難の事情を幕府に申し述べて歎願し、手重い公務を免じられて既に数十年になります。専ら3郡の再復の道に上下が力を尽してきましたが、まだ道の半分に至りません。領地の荒田はまだ復旧せず、借債は数十万両となお従来のようです。このような時に当ってどうして報恩をなすことができましょうか。もし仕法を多年行って旧復する時になったら報恩の道もまた尽すことができるでしょう。現在実行することはできません。」と。池田家老は言った。「そのとおりだ。各々が言われるとおりだ。しかしながら上下の道によって論ずるならばどうしてこれが至当の論であろうか。天明以来60年余、国(相馬藩)が廃衰したのは国の過ちであって他のためではない。幕府はこれを憐んで多年にわたって手重の公務を免じてくださったことは、莫大な恩というべきだ。そうであるのに艱難であるからとの理由でながく報恩の道を思わないならば、どうしてこれが恩を受ける者の道であろうか。国が盛んであって民が富む時になってから報恩を実行することは、何の難かしいことが有ろうか。艱難辛苦の中にあって実行しがたい事に力を尽すものは、たとえその事は小さくても報恩の志は厚いというべきである。さらに二宮先生が日光へ仕法を開業する初めに当って力を添える時は必ずその事業は成就しやすいことであろう。今、これができないとして後年を待つのはたとえ後に幾倍の力を尽したとしても民を安らかにする事業がきっと遅れてしまうに違いない。報恩の道は実にこの時を失ってはならない。必ず疑惑を生じてはならな。」と。郡の役人は言った。「理はよろしくそのとおりかもしれません。この時に当って恩を報ずること、家老はそもそもどのようにして実行なされようとするのでしょうか。」池田家老は言った。「私がいやしくもその道を得ないで、この言葉を発しようか。前年困窮が極った時に当って幕府に歎願し、金8,500両を借金した。年々これを500両ずつ償還している。今年500両を納める時は元金は皆納となる。来年から引き続いて500両を報恩として日光地を再復し民を安らかにする仕法に献金するならば、十年で五千両となる。これは難しいといっても前々から分度の中から納めて来たものだ。まだ皆納に至らないと見る時には納める道がないとはいえない。これによって艱難の中といえ10年に五千両を献ずるならば、日光の困窮した民は恩恵に浴して復興事業が確立するであろう。」と言った。諸役人は皆これに賛同した。
 そこでこの事を殿に申し上げて、ついに幕府に請願し許可を得て、年々500両を納めてこれを日光の村々を再復する資金として尊徳先生に下された。


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