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日光神領廻村の記録を読む「二宮尊徳の日光神領廻村の記録を読む」佐藤治由著 より二宮尊徳全集 廻村日記(用水路関係) 嘉永6年 6月29日 天気快晴 早朝の4時(七つ時過ぎ)に東郷陣屋出発、弥太郎、吉良八郎、伊東発身同行。宇都宮で昼食。中徳次郎村で用水路の掛樋を見分。午後4時(7つ時過ぎ)中徳次郎の市左衛門宅に到着、止宿する。 6月30日 天気遠雷 朝6時(六つ時)、徳次郎宿出立、徳次郎、石那田の水路視察。山口村の荒地起しと田畑の手入れが行き届いているので、鎌を買い求めるよう村人たちに金1両を与える。山口村の農民Aが潰れ農家を再興し、家を新築したので金5両を与え、その他に金5両を無利息5年賦で貸した。 山口村で昼食。午後2時に山口村を出立し、夕方5時過ぎに日光鉢石宿の松野屋に到着する。衣服を改めて日光奉行所へ出向き、日光奉行の用人に明日改めて着任の挨拶にうかがいたい旨を伝えて松野屋に戻り、止宿する。 7月1日 天気 昼頃より少々雨 早朝奉行所へ出頭。10時頃日光奉行に会い、着任の挨拶とする。 夕刻、再度奉行所に出頭し、明日から神領の村々を廻村視察する旨を奉行に報告し、関係する村々へ通知を発送する。 7月2日 天気 朝6時、裃(かみしも)を着用し、弥太郎、吉良八郎、伊東発身とともにお宮を参拝。賽銭と御神酒料を奉納する。9時頃松野屋に戻り、宿泊代金を支払い、10時に松野屋を出立。弥太郎、吉良八郎同道。日光同心野中包五郎の案内で小百村に向かう。途中七里村に大谷川の水除け堤防200間ほどがあり、その近くにある芝地を開墾したら耕地にすることができそうに感じた。所野村は大谷川沿いに開けた村だが、朝鮮人参の栽培の適地らしい。猪の窪、善坊にも小さな集落があるそうだが、そこまでは行かずに小百に向かった。 小百では石見川の水を利用して畑を水田にすることもできそうだ。小百から原宿村に向かう。原宿村では荒地が多く新堀を開削して水田耕作ができるようにしたいとのことなので、村人とともに村内を見て歩いた。小百村では岩見川流域の水田開発費用として農民2人に金3両を与えた。午後5時頃、一行は小百村の嘉蔵方に止宿した。 7月3日 天気晴 朝6時に小百村を出立、小休度で小休憩。大笹峠に小百から出店している一軒茶屋の金子屋で昼食。峠を下る途中で体調不良になり、所々で休憩し、午後4時頃日陰村に着いて薬をのんだ。村の自在寺という無住の寺で休憩したが、ここから先の表栗山郷奥地の村へは歩行困難であり、駕籠の用意もできないので、廻村取りやめを通知し、夜8時頃日向村の名主伊兵衛宅に着き、一向止宿した。 7月4日 天気晴 日向村では荒地開発料として金3両を村役人に与えた。それから日向村を出立し、西川村に向かった。途中の峠下で弁当を使い、峠の頂上から西川村に出ると村役人が出迎えてくれた。村役人の案内で五十里沼跡を開発していただきたい旨、熱心に嘆願した。午後5時頃、川治村に着き、湯小屋に宿泊した。 7月5日 天気晴れ 五十里川沿いの荒地見分、藤沢で弁当昼食、午後2時頃上滝村にたどり着く。鬼怒川をいかだで渡る。この村は五十里洪水で押し流された砂がたまり、砂混じりの土が多い。数年前に高原下りの荒地を開墾したというので、そこへよそから客土するように助言し、1両を与えた。午後5時、下滝村の湯場につき止宿した。 7月6日 天気快晴 朝8時、下滝村出立、小佐越村に向かう。7反9畝歩の荒れ地開墾の手当金6両1分と銭360文を与えた。下滝村との境に日光奉行所役人矢田堀理兵衛の指導で開拓した田地を視察した。 柄倉村でも1反9畝歩の荒れ地開発費用として1両2分と銭160文を与えた。水不足の田には蕎麦や麦を蒔くよう助言した。水不足を補うためにあらたに水路を開きたいが、200両もの資金が必要なので着手できないでいると言うので、役所へ出願し、許可されれば資金は出してやろうと申し渡した。 栗原村でも荒地起返しの費用として3分2朱と銭484文を与えた。 佐下部村では4町歩ほどの荒地があり、病気で死に潰れた家や大破した家もあり、養子縁組もうまくいかないとのことだった。名主が、自分の次男に潰れ農家を再興させようとのことだったので、家作料として必要な金子を与え、その半分だけを5か年賦で貸し付けることにした。 高柴新田は開墾が行き届いているので、金1両を褒美に与えた。 午後4時過ぎ、大桑村名主宅に着き、止宿する。 7月7日 快晴大暑 朝6時過ぎに大桑村出立、川室、大渡村見分。東郷から娘フミ(尊徳の門人富田高慶の妻)重体の知らせが届き、弥太郎を看病に行かせる。午後、大渡村の荒地を見分、轟、町谷、針谷の村々を見分して針谷に戻り、名主宅に止宿する。 7月8日 晴大暑 娘フミ死去の報が届く。尊徳自身は病気のことにして廻村を見合わせ、同行の野中氏は 明日 日光役所へ引き揚げることとする。 7月9日 夕方雷雨 早朝3時に東郷から飛脚が手紙をもってくる。朝7時に野中氏が日光へ出立する。 7月10日 晴夜雨 荒専八が東郷へ出立。岩崎村の村役人が来て、難村復旧のため、二、三男取り立てを願い出る。 7月11日 晴 昼より雷雨 伊東発身が針谷村内を見分する。 7月12日 昨夜から大雨、昼止む 破畑(日雇い人足)藤吉が飛脚として相馬へ遣わしたが、昨夜の大雨で橋が落ち通行不能となり、戻り帰る。 7月13日 晴夕雷雨 針谷村内の堀を見分。仮橋ができたので、破畑藤吉を相馬へ遣わす。 7月14日 晴 吉良八郎が東郷から来て、死去した娘フミの葬儀のことなどの報告を受け、安心する。 7月15日 晴 吉良八郎が日光役所へ出向き、明日から廻村することを相談する。 7月16日 晴 野中氏出張中のため廻村は明日からに延期され、日光奉行所から廻村用として駕籠が届けられる。 7月17日 晴 天気快晴 朝8時、町谷村出立、轟村見分、文政8年に大谷川から取水して芹谷・町谷に至る用水路を開さくしたが、轟村内で掛樋が破損しているというので、見分した。その後、藤山の日陰からの湧き水を引いて新堀を開き、四半場の荒地を開墾しているが、さらに3町歩ほども開発できそうである。 村の老人Aは、家族が病死し、73歳で一人暮らしをしながら農業を続けているので、金1両を与え、養子縁組がまとまったら取り立ててくれるよう願い出た。 芹沼村と同村の新田を視察したが、順調に復興が進んでいるようだ。 昼食後倉ヶ崎村を見分する。倉ヶ崎村は宝暦7年の大谷川洪水で田畑が流されて困窮している。宝永、享保、寛政の洪水でも田畑を流され、租税を減免してもらっているが、荒地起返しは困難であるとのこと。 倉ヶ崎新田では、潰れ百姓Bの跡を鍛冶屋職人のCが再興したので、村人たちも一人前の農家として取り立てられるよう願っている。耕地も4,5反歩ぐらいでは開発できそうである。村内に、かって東照宮祭礼の時に奉仕した猿引き金太夫の屋敷跡があるとのことだった。 瀬尾村を見分する。村内の黒石というところから古大谷川が流れ、分水して倉ヶ崎、芹沼、大桑、川室、大渡の水田耕作に利用させている。瀬尾村と今市宿との入会地は古大谷川の河原続きで、広大な秣(まぐさ)場になっているが、開発すれば良田になりそうである。瀬尾本村には61軒、高百に20軒、高畑20軒の農家がある。夕方5時、今市本陣に着き、止宿する。 7月18日 天気快晴 朝8時前に今市本陣を出立、宿の南東方向に15,6町歩の平地があり、吉沢用水堀を切り広げ、それを利用して水田を開発したいと宿役人たちが申し立てた。如来寺の車引き地蔵の話を聞く。 町谷村で荒地開発に着手したとの知らせを受ける。 吉沢用水路は今市宿裏清水川から取水し、赤堀川に12間の掛樋をし、長さ56町にわたっている。これほどの村普請は大事業なので、褒美のために農具代金10両を遣わした。 土沢村では、田川と赤堀川から引水して荒地起しをしたいとの話があり、とりあえず赤堀川からの用水路を見分した。吉沢村から引水している水路を5両ほどの金をかけて切り広げれば、いっそう村の役に立つだろうと話したら、村人たちは大いに喜んだ。 森友村では6町歩ほどの畑を水田にし、村の再建も進んでいるようだ。村の用水は、水無と大室は3分ずつ、森友は4分と決められているが、手入れ不十分なので100間ほど下流のところを堀り下げたいと申し立てがあった。 午後5時頃 大室の弥之助宅に着き止宿した。大室村は開発が行き届いているので、褒美として農具代金10両を遣わした。 7月19日 天気 弥之助宅を9時に出立して矢野口村見分する。同村西沢に1町歩ほどの荒地があり、東沢から引水すれば開発できそうに見受けられる。同村百姓Dは、先年流行の病で両親と弟3人を亡くし、孤独の暮らしをして大宮村の親戚の家に預けられている。可哀想なので金1両を与え、成人したら1人前の百姓になるように励ました。 続いて嘉多蔵村を見分する。この村はかって50軒余もあったが、天明・寛政の頃には33軒になり、さらに困窮して8~9軒になってしまった。しかし文化7年から助郷役を免除されるなど特別配慮して頂き、現在は18軒まで回復してきたとのこと。村役人の話によると村方下方は水はけが悪くて荒れ地になり、上方は水不足で年々根室村へ水代金を納めて分水してもらっている。文政5年からは水路の堰を低くし、水代金を100文にしているとのことで、開発は思うようでないとのことだった。 沢又村の名主宅で昼食、村では水無用水を分水して沢又村に引水しようと計画したが、水無用水下流の沓掛村がこれに反対し、仕方がなく篠井村から新堀を開削して用水を引き入れ、悪水を排水できるよう、是非是非お願いしたいとのこと。 薄井沢村見分、大室村境からの湧き水を利用して7,8反分の水田開発に成功しているので、堰を設けて増水すれば畑を水田にすることもできるので、そのようにお願いをしたいとのことだった。午後4時から大沢宿に辿り着き止宿する。 7月20日 天気快晴 大沢宿を8時に出立、板橋村の中組と下組を見分する。村役人に開発可能の荒地を書面にして出すように申しつける。 手岡村を見分、同村百姓 Eは極貧で家屋も大破しているので1両を与えて修理費に充てさせた。同じく百姓Fにも金2分を与えた。 H,Iにも同様金2分を与えて当座の暮らしをしのがせることにした。百姓の後家Jは夫を亡くし、13歳を頭に5人の子どもがあり、貧しい暮らしをしているので、金1両を与えた。盲目の夫と2人の子どもを養育して暮らしに苦しむKには金1両を与えた。2度の火災で家を失ったLには金1両を与えた。百姓Mは畑開墾を出願し、苦しい暮らしの中でも、潰れ百姓の分まで年貢を納めている。百姓Nも同様で、金1両の拝借を願い出ている。 上岩崎村を見分する。同村後家のO,P,Qが極難の暮らしをしているので当座しのぎの資金を与える。 下岩崎村見分、反別と百姓氏名を書面にして差し出すように申しつける。午後6時、文挟宿本宿に着き、止宿する。 7月21日 晴天気 朝から文挟村の荒地を見分する。同村東裏に設けた溜め池が普請未熟のために崩れて水抜けしてしまったので見分し、再度の構築費用を調べて書面を提出するように申し渡す。盲人Rが極貧の暮らしをし、家も大破しているので当座しのぎに金1両を遣わす。用水路開削の願書が提出される。 小倉村を見分する。村役人が荒地には杉桧を植えていることを報告する。南小倉村では例幣使街道の日陰地で、杉桧の植え付けも難しいので、雑木林にして落ち葉浚いの場所にしているという。 小代村下坪視察。午後4時板橋宿に着く。文挟村名主から溜池修築の見積書が届く。板橋村の百姓多左衛門は、松平正綱侯が日光東照宮へ杉並木を寄進したときに育苗を命じられたと言い伝えられているので、桧苗の育苗を依頼した。 7月22日 天気晴 板橋宿を見分。城山下に土砂で埋もれた古堀があるので掘さらいをするように話をした。同村東裏沢田の弁天様近くに湧き水があり、そこに溜池を作りたいというので見分し、そこよりも樫際の沢地の方が適地のようなので、検討させることにした。同村の百姓佐兵衛は精勤者で3反歩の荒れ地を開墾し、さらに1反歩の荒れ地開墾をしているので、手当金1両を与えた。 小代村を見分する。同村星の宮神社の境内には桧の大木があり、1本だけでも250両ほどの値打ちがありそうである。 長畑村を見分する。村内に西沢川と東沢川があり、河原5,6反歩ほどは地味も良さそうである。この村の山から産出する御影石が東照宮造営に使われたとのことである。 村の名主覚之丞宅に止宿する。村役人が5町歩程も桧苗を植え付けたいと願い出た。覚之丞宅裏に用水路を設ければ、相当面積の水田開発ができそうである。同村百姓Sは以前火災で家を失い、村民の協力で家を再建したので、建具代として金1両を与えた。百姓Tは屋根が大破しているので、屋根を修理すれば養子を迎えることおできるだろうと金1両を与えた。 7月23日 天気晴 朝8時出立、長畑遠入坪を視察する。村役人から沢水の堀を作り替えたいとの願書が提出される。 明神村を見分する。同村村人UとVは気の毒な暮らしをしているので、二人に金1両ずつを与えた。 室瀬村の行川坪を見分する。村人の暮らしは行き届いているようである。 下之内村を見分する。村人たちは貧しい暮らしをしている。行川の水を引き入れて水田耕作できるよう水路を開くために、刈り払いするように助言した。 千本木村を見分し、夜8時に今市宿に着き、本陣に止宿する。 7月24日 天気 伊東発身と大槻小輔を日光山に遣わす。 7月25日・7月26日記録なし 7月27日 晴夜 朝大沢宿出立、板橋村上組の開発場を見分、同所に止宿する 7月28日 晴 板橋村の溜池作りにとりかかれるよう村役人に指示し、下之内村に向かう。下の内村では用水路開削のための草刈りを指示し、夜8時に日光の金蔵坊に着く。 7月29日 晴 朝から空坊に引越す。土沢村役人と室瀬村役人が来て仕法歎願書を提出する。 8月1日 晴 東郷から弥太郎の手紙が届く。 8月2日 晴 日光奉行所同心の野中包五郎が来て、5日か6日から廻村を始めることになるだろうと話し合う。 8月3日 雨 都賀郡高橋村の役人が仕法歎願書をもってきたので、伊東発身に預からせた。 8月4日 雨 日光役所の小野善助を訪ね、5日か6日から廻村することを真岡の弥太郎と吉良八郎に手紙で知らせることを話す。板橋村役人から荒地起返しの報告を受ける。 明神村役人が来て仕法嘆願をする。 8月5日 雨 下之内村役人が来て水路堀削のための草刈りがすんだことを報告する。雨水村役人が荒地起返しを願い出る。土沢村役人が来て掘普請を始めたことを報告する。 8月6日 晴 山口村から板橋村と土沢村へ三本鍬などの農具を貸し渡す。板橋宿名主に開発資金25両を渡す。 8月7日 雨 土沢村へ用水路開削資金3両を渡す。文挟宿名主に溜池普請入用金1両を渡す 第2回廻村通知を関係村々へ通知する。 8月8日 天気夜に入り雨 明日からの廻村を日光役所へ届け出る 8月9日 天気 朝8時、桜秀坊出立 弥太郎と吉良八郎、下男民次郎、日光同心野中包五郎同道。山久保村見分 同村百姓Wに荒地開発渡金1両を遣わす。 小来川村見分、同村百姓X荒地開発奨励金1両1分と銭566文を遣わす。同村内の字鍛冶屋の地4畝歩ほどに水路開削の希望を申し出る。同村の潰れ百姓やYに再興資金として2両を遣わす。同村山口坪の百姓Z、滝ヶ原のAに当座しのぎの金1両を遣わす。山口坪の百姓弁吾は、貧者の世話をよくしているとのことなので褒美に金1分を遣わし名主九兵衛宅に止宿する。 8月10日 天気 8時出立、大久保村へ向かう。大芦明神の神職丹後の家で昼食をとる。午後、引田村の荒地を見分して同村名主宅に止宿する。 8月11日 天気 8時引田村を出立、久我村へ向かう。上久我村は田畑の手入れがよく、荒地には杉桧が植え付けられている。同村百姓甚兵衛の母親は盲目ながら畑寄りの草刈りをし、せがれ甚兵衛も働き者なので、金1両を褒美に遣わす。午後2時過ぎに石裂山に着き、湯沢新太夫宅に止宿する。神太夫宅で村役人に木曽桧の種を蒔き付けるよう勧める。 土沢村の新堀開削、板橋村の清水抜き工事の進捗状況が報告された。 8月12日 天気 午後4時頃から雨 石裂山の神人5人が見舞いに来る。午前8時、新太夫宅を出立、草久村へ向かう。草久村名主宅で休息中のところへ小来川字鍛冶屋の新堀開削を希望する百姓12人がやってきて新堀の総延長は365間、堰3か所、長さ5間の掛樋1本、この費用は7両余になることを報告したので、事故のないよう注意して工事にとりかかるよう指示する。 上草久村の百姓Bは病弱で、草履を古峰ヶ原道者に売ってようやく暮らしを立てているので、手当金2分を遣わす。婿取りの孫娘夫婦が家出をしたあと、老夫婦が曾孫を育て、家も大破しているので金1両を与えた。同村の百姓Cは親子共に身持ちが悪く、家も大破しているので、茅葺き替えの手間賃として金1両を遣わした。午後6時、古峰ヶ原の隼人宅に止宿する。 8月13日 朝雨 10時くらいから晴れる。足尾への山越えをしようとしたが、朝からの雨で山越えはできず、上草久村のフキの平へ行く。フキの平の百姓Dは兄と協力して30両ほどの借財を返済したが、兄が病にかかり、一人苦労しているので、当座しのぎの農具料1両を遣わした。同村の百姓Eは盲目で、婿をむ迎えた娘は家出をし、Fの妻ともう一人の娘が、盲目の父親と子ども2人を抱えて苦労しているので、金1両2分を与えた。同村のGとHも極貧の暮らしなので、それぞれに1両ずつを遣わし、荒地開墾や山や谷間への植林などを勧めた。午後6時頃、古峰ヶ原の隼人宅に戻り止宿した。 8月14日 朝8時に古峰ヶ原を出立。峠を越えて午後4時に足尾の赤沢に到着、利平次宅に止宿する。途中足尾の赤倉村で貧しい暮らしの村人Iにあい、金2朱を与える。銅山勤務の幕府役人石井啓兵衛が宿所へ来て、銅山の堀場も視察されるよう勧める。 8月15日 天気 夕刻雨 朝8時に宿を出立 新梨子村見分。銅山前の耕地は一切の作物が実らないとのことだったが、百間四方を起返して試験的に作物栽培をしてみるように助言する。新梨子村の吉左衛門が2反6畝の荒地開発をしたので、2両2朱を褒美に与えた。 遠下村を見分する。ここには足尾総鎮守の妙見社がある。同村宇津野には百姓4軒のうち3軒が潰れ、残る1軒も街道縁へ移り住み、少しばかりの大根作りをしているが、その他の耕地は荒地になっている。同村のJは家屋大破しているので、屋根修理代として1両を与え、その他の費用として名主に1両を与えた。 原村を見分し、黒木を植え付けるよう助言する。 唐風呂村を見分する。同村は地味が悪く、荒地も多いので、杉桧を植え付け、仕法を願い出るように助言する。 銅山役人の石井啓兵衛の案内で銅の吹き立て場や坑道堀の道具などを視察した。銅山権現前の川石は鉱毒を受けて残らず赤さびていた。 夕刻、赤沢の宿へ戻り止宿する。 8月16日 天気 掛水村の住民Kの他新梨子村と赤沢村の2人が極貧の暮らしをしているので、手当金を遣わした。 間藤村を見分し、続いて赤倉村を見分する。同村後家Lは極難、同村百姓Mは老婆を世話して不憫なので両人に1両ずつを遣わす。九蔵村見分。同村耕地2反7畝のうち2反2畝歩の荒地起返しを願い出たので、金1両3分余を遣わす。松木村は杉桧の植え付けや田畑の手入れも行き届いているので、褒美として金2両を遣わす。仁田村見分。荒地起返し出願、金3両3分余を遣わす。高原木村見分、同村は悪水が溢れて耕作不能になっているので、悪水浚いの費用として金1両2分余を遣わす。間藤村では極難の3人に1両ずつを与えた。夜8時に神子内村に着き、名主宅に止宿する。 8月17日 天気晴 神子内村の源之丞に荒地起返しの褒美として金1両を農具代として遣わす。村内の川に架かる橋が壊れ、修理を願い出たので、後日、修理方法を調査して返答する旨伝えた。 峠の茶屋で一休みしてから細尾村に入る。細尾村は杉桧の植え付けや荒地起こしがよくできているので、金1両を祝儀として遣わした。 清滝村を見分する。同村の荒地は水たまりになっているので、新堀開削について後日調査検討することとする。清滝観音に参詣し、午後4時に日光奉行所の小野善助に帰任報告をする。 8月18日 晴 日光奉行所へ出向き、小野善助に廻村の内容について話し合い報告する。 8月19日 晴 日光奉行に面会して廻村のことをくわしく報告する。吉沢村、土沢村、室瀬村から村役人が来て掘普請を嘆願する。 8月20日 晴 昼頃 日光役所へ出向き、廻村中に預かった村々からの歎願書類20袋を提出する。薄井沢村から仕法嘆願書が届けられる。 8月21日 土沢村から赤堀川さらい終了のこと、文挟村では東裏溜池工事の状況が報告される。 8月22日 小来川の鍛冶屋堀開削について報告があり、小百の東沢から星山まで530間の新堀が延べ人数110人の協力で用水池を完成したとの報告があり、褒美として金5両3分2朱余を遣わした。昼頃日光同心の野中包五郎に招かれて奉行所へ出向いたところ、神領復興仕法の計画年限が長すぎるので、10か年に短縮できないかとの事だった。 8月23日 土沢村の用水堀は明日には完成するとのことで、村役人がお礼の挨拶に来る。小佐越村役人が来て、神領外の高徳村との話し合いがもつれて、荒地起返しが遅れていることを報告する。 8月24日 町谷村役人が来て芹沢村との話し合いが決着して、近く新用水堀開削の願書を提出する見込みであることを報告する。大沢村役人が来て水無村との話し合いがつき、堰の修理をすることになったら補助金を下さるようお願いしたいとのこと。 8月25日 小百村名主が来て、滑川から引水する新堀が完成したので、あらかに平地の雑木山を切り開いて水路を延長したいとのことだったので、内金1両を遣わす。 8月26日 遠州引佐郡気賀町の町役人が来て仕法を嘆願したが、神領復興繁多のため嘆願を断る。 8月27日 栗山郷西川村名主と大笹峠の茶屋の主が、五十里沼で捨て苗を拾い集めて育てた稲穂2株を持参し、沼の跡地を早速に開発されるよう願い出る。 8月28日 小来川村役人が来て鍛冶屋堀が完成間近なこと、西沢と東沢の合流点近くの荒地を開き、用水を引き入れて水田にし、潰れ農家を再興したいとの話を聞き置く。 8月29日 小百村役人から星山用水堀普請状況を聞く。町谷村役人から村内の姥子沢用水の件に付き、如来寺領荊沢村との協議状況を聞き置く。 9月1日 今市宿と吉沢村の役人が来て吉沢用水の普請願書を持参する。 9月2日 (この頃から体調不振)山口村名主が見舞に来る。上久我村役人が仕法願いの書類を持参する。 9月3日~10月15日 この間、遠州から岡田佐平次、安居院庄七ら8人が仕法書類を見に来る。 9月6日には小来川の鍛冶屋堀完成の報告を受け、9月9日には文挟溜池完成の報告を受ける。9月15日には遠州の面々が出立する。 9月16日 明神村と小代村の役人が用水堀普請を出願、足尾原役人が杉桧植林を願い出る。この日、体調すぐれず、医師手塚新斎の診察を受け、夜分時々黄水を吐く。9月20日、宇都宮の日野屋ヒサが看病滞在する。 9月22日、飯泉村の屋兵衛が大前権現の病気平癒祈願の護摩札を持参する。 9月23日、壬生藩の医師斎藤玄正来診。以後連日村々役人が尊徳の病状見舞に来る。 9月26日、古峰ヶ原へ病気平癒加持祈祷の使いを出す。 10月2日、堀美濃守(日光奉行か?)の用人が病気見舞いに来る。 10月4日、門跡の宮から再度見舞の使者が来る。 10月16日 「私儀去年十六日頃より気分よろしからず、種々薬用仕り候えども当分ご用相勤まりかね候間 山内総左衛門支配所東郷陣屋へひとまず立ち戻り療養仕りたく 今十六日出立仕り候 不快中に付きこの段口上書をもってお届け申し上げ候」の書面を日光奉行所へ提出して東郷陣屋へ向かう。 尊徳の今市転居と死去 尊徳翁の東郷への帰陣後、弥太郎尊行が門人たちと共に仕法を進めた。嘉永7年5月の記録によると、昨年末までの開発状況は次のようだった。 開発された村数=33か所 荒田畑起返し反別=32町歩余 用水堀・悪水堀長さ=3,740間 溜池・堰=3か所 嘉永7年(安政元年)4月2日、弥太郎尊行は今市用水の日光大谷川取水口を見分し、和泉村役人を呼び、和泉・平ヶ崎・千本木3か村用水の開削について説明した。その後、大谷川下流の村々から3か村用水の取水について反対の声が起こり、水路開削の工事着手は遅延したが、日光奉行所の調停によって解決し、閏7月5日、工事に着手し、同月22日に完了する。 この頃弥太郎尊行は仕法役所の設置を奉行所に申請していたが、翌安政2年4月22日に今市宿西裏に報徳仕法役所が新築落成し、真岡陣屋で病気療養中の尊徳とその家族が同月25日に入居した。今市の報徳仕法役所に入居した尊徳は、駕籠に乗って千本木村を視察するなどしたが、依然として一進一退の病状だった。 同年11月29日に弥太郎尊行の妻コウ子が金之丞尊親を出産した。病床にある尊徳は初孫の誕生を喜んだに違いない。さらに11月12日には日光山輪王寺の宮法親王から尊徳の功績を賞して羽二重が贈られた。しかし、尊徳の病状はいっこうに快方に向かわず、尊徳は年末12月31日の日記に「余が足を開け、余が手を開け、余が書簡を見よ、余が日記を見よ、戦々兢々として深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」と記している。 安政3年9月15日に病状が悪化し、その後快方に向かったが、10月20日に病状急変し、巳の中の刻(午前)に永眠した。享年70歳だった。10月23日、今市の如来寺に葬られる。法号、誠明院功誉報徳中正居士。 |