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クラーク精神の教育の系譜

クラーク精神(Clarkii Spirit)の教育の系譜
 クラーク精神(Clarkii Spirit)とクラークの札幌農学校での教育を讃えたのは、札幌農学校一期生の内田瀞(きよし)である。
クラークは帰米後も生徒達と手紙で交流し、「イエスを信ずる者」の信仰が永続するように願った。
クラークは内田への一八七七年八月十九日の手紙に、昨夜ボストンから帰ると、内田からの手紙と農学校の米人教師ペンハロー教授や第一期生大島、田内からの手紙が届いていたと記す。一八七八年八月十八日の内田あての手紙に「私が日本で過した日々は私の人生の最も幸せな日々でありました」とある。一八八〇年十月九日の手紙には「君のいう『クラーク精神(Clarkii Spirit)』がいまだに君の内に宿り、すべての貴い大目的にむかって君を活発で熱心な仕事にかきたてていることを知って、喜びにたえません。日本でたった一年の間に神の摂理のうちにゆるされて成し遂げた私の仕事は、私の生涯のうちで最も興味深く、重要にみえる・・・・あの年は楽しみ実りに満ちた日々の連続でした」。内田は答える。「『イエスを信ずる者』の歴史が読まれる時には、いつでも先生のお名前が大きく聳えます。なぜなら先生は種を蒔いた方なのですから」。
 クラーク精神―札幌農学校精神―とは何か?内田と同じく一期生で、クラーク先生に親しく教えを受けた大島正健は札幌農学校の教師を務めた後、甲府中学校の校長として招かれた。その教え子の一人に石橋湛山がいる。石橋湛山は『クラーク先生とその弟子たち』に「個人主義の精髄―クラーク先生と大島正健先生―」という序文を寄せている。石橋は甲府中学校在学中に大島正健校長に師事し、大島校長からしばしばクラーク先生の話を聞いたという。
「クラーク先生がいかなる教育家であったかは、その二つの言に躍如として示されている。その一つは、札幌農学校創立の際、普通に学校に行われる『べからず』主義の校則を一切掲げず、『予がこの学校に臨む規則はただ、”Be gentleman!”(紳士たれ)の二語に尽きる』といわれたそれで、他の一つは先生が任期みちて札幌を辞するに際し、島松駅別れを惜しむ愛弟子達に、”Boys be ambitious! ”(青年よ、大志を懐け)と呼びかけたこの訓言である。」
「札幌農学校」蝦名賢造著に“紳士たれ”についてこう記す。(復刻版p.62-3)「開校にあたって仮学校時代の苦しい経験を持っている当局者たちにまず課せられた問題は、早急に学則を定めることであった。開校式を終えた数日後、彼らは学校規則の設定を持ち出してクラークに意見を求めた。当局者たちの言葉を黙ってきいていたクラークは、はっきりと、つぎのように力強くいった。『こんな細則を設けてする教育では、真の人間教育はできないのではないか。“紳士たれ”Be gentlemanそれで沢山ではないか』。・・・クラークは、厳重な規則によって生徒を威圧し統御してゆこうという教育方法は、すこしも考えてはいなかった。生徒を規則によってしばろうとはせず、むしろ繁雑すぎるほどの規則を廃して、生徒自身の良心にまかせる方法をとろうとした。・・・クラークは『余は諸君を紳士をもって対処するであろう。故に諸君はよろしく自粛自重、よく紳士たるに任ぜよ』と宣言し、各自の自覚ある生活態度を念願していた。」
 大島は、Be gentlemanについてこう語っている。
「開校直後クラーク先生は生徒を集めて一場の訓示をされた。『この学校の前身である札幌学校には極めて細密な規則があって生徒達の一挙一動を縛っていたようであるが、その内容には非難すべき点は一つもない。しかし自分が主宰するこの学校ではその全てを廃止することを宣言する。今後自分が諸君に望む鉄則はただ一語に尽きる。”Be gentleman”これだけである。Gentlemanというものは、定められた規則を厳重に守るものであるが、それは規則に縛られてやるのではなくて、自己の良心に従って行動するのである。学校は学ぶところであるから、起床の鐘が鳴ったらベッドを蹴って飛び起きねばならぬ。食卓へいく時には合図をするからすぐさま集まり、礼儀正しくハシをとらねばならぬ。消灯時間には一斉に灯火を消して眠りにつかねばならぬ。出所進退すべて正しい自己の判断によるのであるから、この学校にはやかましい規則は不必要だ。』と申されて先生は太い眉をピクリと動かされた。(「クラーク先生と弟子たち」p.92-3)
 クラーク精神を受け継いだ札幌農学校出身の教育者に、この”Be gentleman!”(紳士たれ)は脈々と受け継がれ、学生を指導するにあたっての理念になった。東京帝国大学工学部教授広井勇は、授業に遅刻者が一人、二人あると、真っ赤な怖い顔となり、早く講義を切り上げ、クラス総代を教授室に呼びつけ、「教室は寄席ではない。学生は紳士であるから、もっと紳士らしい態度で聴講すべき」旨を全員に伝えよと言った。このため学生はその授業時間には、早めに腰掛に着いて、静かに博士を迎えるようになったという。(「工学博士広井勇伝」p.59)
『農学校物語』(札幌市教育委員会編)に「農学校と中等学校教育者」の項目があり、六人の札幌農学校出身の中学校校長の名前が載っている。
山梨県立甲府中学校校長・大島正健
鹿児島県立第一鹿児島中学校校長・岩崎行親
兵庫県立第一神戸中学校長・鶴崎久米一
神奈川県中学校学校・木村繁四郎
麻布中学校校長・清水由松
北海道庁立第一中学校校長・山田幸太郎
 本六集では、大島正健、岩崎行親、鶴崎久米一、木村繁四郎の四名について資料を収録した。クラーク精神―札幌農学校精神というものが感得できよう。
 『農学校物語』では、次のエピソードを紹介する。
大島正健校長は、赴任当時、地方紙の記者会見で「私はここの生徒を養成するについて、人間の品格ということに重きを置き、その他のことはなるべく構わないようにしたいと思う」と答えた。大島は明治三四年(一九〇一)から大正三年(一九一四)まで甲府一中の校長として石橋湛山のほか、多くの人材を世に送り出した。農家で家業を継ぐことになっていた生徒がいた。卒業が近づいたある日、生徒が学校から帰ると校長が縁側に腰掛けて両親と話し込んでいる。生徒を一高に進学させるように説得していたのである。校長先生がそんなにまでおっしゃるならと両親も納得した。この少年は東京帝大医学部に進み、のち国立公衆衛生院院長となった齋藤潔である。
 岩崎行親は、札幌農学校二期生で、札幌農学校入学前に内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾と立行社を結成した。内村らは札幌農学校の「イエスを信ずる者」に入会し洗礼を受けたが、岩崎は同会を脱会した。しかし、内村らとは親密な交際を続け、内村に「岩崎行親君と私」という名文がある。岩崎は卒業後、東京大学予備門で教育に従事したが、鹿児島尋常中学校(鹿児島一中)開校と同時に教頭として赴任し、その後校長となった。その後、七高(第七高等学校造士館)初代館長となった。明治三十六年の校長会議で「我が七高は九州の南端にあるため全国から優秀な生徒が集まりにくい。だから他の六校より入学試験を一か月早くやるのが妥当と考える」と提案し、他校の校長を説得して実施している。無試験入学を提案したのも岩崎のようであり、後に神奈川一中の木村校長から推薦を受けた生徒に「木村さんとは学校が一所でよおく知っています。木村さんの推薦なら大丈夫でしょう」と札幌農学校出身者の絆を感じさせる答えをしている。岩崎は香川県出身であるが、鹿児島の教育に尽した。岩崎の十年忌に際して東京中央放送局(NHK)から「岩崎行親先生のお話」が放送された。「先生の熱心と誠実は薩摩人の気性に合致して、父兄先輩から名校長として又、教育唯一の光りとして随喜敬仰されました」「先生は最も優良な教員を得ることに努力し、又質実剛健なる校風をかざし、温情をもって生徒を指導されたので、生徒は慈愛ある母に対するような心地を感じた」とある。


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