金次郎 独立を果たす & 青年時代の逸話○「報徳記」には捨て苗を植えて一俵を得て、金次郎が「これをもって父祖の家を興し、祖先の霊を安らかにすることがきっとできる。」と喜んでいったとある。僅かな一俵を種として勤労し、増倍の道を設け、年月を経過するとともにいくたの数を満たした。そこで数年養育された恩に感謝し、家に帰って家業を興したいと願った。 万兵衛は喜んでその心にまかせた。 そして廃屋となっていた我が家に戻ったが、数年住んでいなかったため大破していて、蔓草が軒をおおっていた。 尊徳先生(これより、金次郎ではなく「尊徳先生」と呼ぶ)は一人帰って草を払い、破損を修理し、一人住んで日夜家業に励み、力を尽くして財産を作っては、田畑を買い戻した。 このようにしてようやく廃家はようやく煙をあげるにいたった。 そこで親類は結婚することをしきりに勧めた。 尊徳先生は、数年間辞退していたが、やっと隣村のなにがしとかの娘をめとった。」 ○「報徳記」には、万兵衛方を辞して、生家に帰ったかのように書いてあるが、「日本の名著・二宮尊徳」で児玉幸多さんはこのように述べています。 「文化元年、万兵衛宅を出て、村内の名主 岡部家に奉公し、 やがて文化3年には生家に帰り、亡父利右衛門が質に入れた下々田9畝10歩(約9アール)を3両で受け出している。 この年から金銭出納帳をつけ始めたが、翌文化4年には、作徳米13俵・貸付米7俵・賃金3分とあり、 5年には貸付の米金が増え、 賃金も3両2分200文と増えている。 米金を貸し付けて利息を得ることは二宮の重要な理財法であった。 これ以後、余裕があれば田畑を買い入れ、 文化7年からは、田畑の大部分を小作に出し、手元にはわずかの自作地を残すだけになった。すでに一人前の農民に成長していたのだ。 同7年には、伊勢参宮のついでに京阪をめぐり、帰ったのちに 人夫50人・職人12人を使って屋根替えもしている。」 (二宮先生道歌14) 古(いにしえ)の白きを思い 洗濯の返す返すも 返す返すも (西ヶ谷手記 「尊徳の森」より) そうか、お前の家の衰退はお前の家にその原因があるのだ。 我が国の起こったのは我が国の力であって、決して外国の力ではない。 だから衰えるのも、また我が国にその原因があるのだ。 家は大工が建てる。その破損は大工が修繕する。 壁は左官が塗って、左官が修繕する。 いま、お前の家が衰退したのを再興するのは、 どうしてもお前の祖先の足跡を踏むよりほかはあるまい。 いったいお前の女房はどうだ。お前の女房だから、やっぱり意気地なしだろう。 全体、自家の再興をはかるのに、人の力を借りるようではとうていだめだ。 それに古い貸し金などを当てにするようではとうてい再興はおぼつかない。 この貸し金などはちょうど種芋のようなものだから、これが種となってお前の家運を起こす助けとなるかもしれないが、それを掘り取って食うようではだめだ。 それにお前の家宝の藤つるで編んだ背負い縄は祖先の足跡を忘れないためのしるしではないか。 お前には年賦金など貸してやれないから、郷里に帰って、この歌の意味を日夜守って腕限り根掘り働いてみるがよい。 ふる道に積もる木の葉をかきわけて 天照神のあしあとをみん 古えの白きを思い 洗濯の返す返すも 返す返すも ○「報徳記」には、尊徳先生の青年時代について述べるところが少ない。 19歳のとき、伯父の万兵衛の家を出てから32歳のとき、服部家の仕法を引き受けるまでの間が空白になっている。 これも著者の富田高慶が尊徳先生53歳のとき、桜町において弟子入りしており、それ以前、特に小田原時代については、伝聞にたよらざるを得ず、直接承知していないからやむをえないところがある。 ○「報徳の森」の「岡本隆徳の語った尊徳逸話」より 金次郎がまだ栢山村でようやく一人前となった頃、村の若い者どもは、金次郎が一人セッセと働くのをひどく煙ったがった。 そこで、みんなで相談して、金次郎を小田原城下の遊女屋へ連れ出して、やぼったいところをなぶりものにして恥をかかせようと決めた。 すると金次郎はちゃんとそのことを聞き出して、先回りして稼いだ金から二、三十両を引き出して、若いもんが始終行く遊女屋に行った。 そして、そこの亭主に会って、金を渡し、折り入ってと事情を説明した。そして新しい着物をこしらえさせ、今度みなと来たときには、常連のお客のように扱ってくれと頼んだ。亭主もその気象を知って快く引き受けた。 それとは知らず、村の若い者が金次郎を誘いにきた。 金次郎は野良着のまま、「さあ、参ろう」と誘いに応じた。 若い衆は、金次郎が誘いに応じたのを意外に思いながら、野良着では汚いから「着替えていこう」と言ったが、金次郎は「これでたくさんだ」という。 そこで、そろって一緒に城下に行き、例の遊女屋へ金次郎を連れていった。 すると遊女屋の者たちが、いやに丁寧に金次郎を迎える。 村の若い衆は、「はて、変だな」と一同奇異の念にうたれた。 座敷に通され、女どもが出てくる。そして金次郎の野良着を脱がして、あつらえの着物を着せた。 さあ、村の若い衆は驚いた、驚いた。目をみはって声もでない。 なぶり者にするところが、あべこべに肝っ玉を抜かれて、グーの音もでない。 すると金次郎はどこかへ行ってしまい、見えなくなった。 夜が明けると、金次郎は例の野良着に着替えて、みんなを座って待っている。 それから、村の若い衆を集めて 「いったい、この野良着が、われらの裃である。村の者のくせにそんな着物を着るのが間違っている」としたたか脂をしぼったということである。 それから、村の若い衆は金次郎をおそれて、二度と悪さをしなくなったということだ。 ○この話は、夜話や語録にはない。 尊徳先生が門弟たちには語らなかった青年時代の逸話である。 ○語録にはこうある。 「私は幼少のときから、酒宴にいくことがきらいで、その暇に縄をない、かごを作って、人の窮乏を助けるのを楽しみにした。」 また、こうも言う。 「他人の酒食をむさぼり食うような者は国家の用をなすに足りない。 好んでふるまい酒を飲みにいくような者は、相談相手にするに足りない。 私は幼い時から酒盛りに行くことを好まなかった。 酒盛りに行って、無駄に時間をついやすよりは、手さげかごを作って人にやるほうが楽しかった。そうすればまた、きっと酒やさかなを届けてきたものだ。 自分が好きなことをして、楽しんだ上に、いながらにして飲み食いできる、なんとうまいことではないか」 ○義太夫を聞いたときの伝承も尊徳先生らしくて面白い。 「当時、村の若い衆が、毎冬義太夫を習っていて、その稽古の仕上げをやる。 尊徳先生は、ある時、義太夫を聞いて「不義の富貴は浮かべる雲」という文句を耳にして、 「そこじゃ!」と大声を出した。普通、声がかかるのは義太夫の節回しのところである。 そのため語っていた若い義太夫語りも驚いて語るのをやめた。 村の人は「金さんは、キ印(キチガイ)じゃ」と噂したものだ。」 これは「論語」の述而篇にある 「子(し)曰(いわ)く 疏食(そし:貧しい食事)を飯(くら)い、水を飲み、 肘(ひじ)を曲げてこれを枕とする。 楽しみ また その中にある。 不義にして かつ 貴(とうと)きは 我においては 浮雲のごとし」 尊徳先生は、きっと論語のこの箇所に感銘を受けて、義太夫のこの箇所を聴いて感嘆の言葉を発せられたのでしょう。 (二宮先生道歌15) 何事も事足りすぎて 事たらず 徳に報うる 道の見えねば (二宮翁道歌解) それ 人の欲は限りのないものだ。それゆえに本に報い始めにかえる心がなく 恩徳に報いる心がないときは 何事にも不足の思いのみが起こるものである。 たとえば親から億万の財産を譲り受けても、本に報い始めにかえる心がなく、親の恩徳を思わないときは、たちまちに不足の心が起こり、これも不足、あれも気にいらないというようになるものである。 このとき、本に報い始めにかえる教えに気付き、親の恩を思う時は、この不足の思いがたちまちに消滅して、親や先祖の恩徳が、ありがたくなるものだ。 この思いが生じて始めて報徳の道のありがたいことがわかるのである。 二宮金次郎の旅 「江戸の家計簿」という本がある。 新井恵美子さんが、尊徳先生の日記や家計簿などを調べたもので、女性の目線が面白い。 ○文化7年の夏、24歳になった金次郎は富士山に登った。 6月28日に栢山(かやま)を出発し、7月2日に戻ってくるという4泊五日の小旅行だった。 費用は金1分銭500文、現在で換算すると4万円弱だという。 ふじの山 のぼりつめたる 夕べには 心の宿に 有明の月 と金次郎は富士山を歌っている。 この年の10月7日、金次郎は伊勢講の仲間と伊勢参りに出かけた。 村内の人々から餞別を貰い、克明に記録している。 いったん江戸に出て、京都に向かい、大坂を見学し、四国に渡って金比羅参りをし、今度は高野山、吉野、奈良を巡って、ようやく伊勢についた。 帰着したのは11月24日、実に50日間にわたる旅行であった。 江戸時代の百姓が勝手に土地を離れることは許されていなかったが、信仰のための「伊勢参り」「善光寺参り」「富士講」などは許されていた。 このときとばかり庶民は足を伸ばして、物見遊山し、日記に克明につけて、故郷の人にさらなる憧れを植えつけていたのである。 ○小田原の家を畳んで、妻子とともに桜町に向かったときも、まっすぐ行ったわけではない。 これからの妻子の苦労を思いやり、まるでハネムーンのような寄り道をしている。 文政6年3月13日、家屋敷を処分し、一家3人桜町に出立した。 栢山村の79人他村8人あわせて87人が見送った。 13日国府津(こうづ)の茶屋で一休み、押切村で見送りの者に酒肴をふるまった。 大磯でも酒盛りし、見送りの者を返した。 14日藤沢宿。そして翌日道をそれて鎌倉へと向かうのである。 江の島で昼弁当をとる。2人前で銭240文(12,000円)の豪勢なものである。 鎌倉茶代案内に銭132文(6,600円) 14日 保土ヶ谷宿 15日 江戸着。麻布御屋敷に11日間とどまる。 金次郎は桜町復興の計画を練り直していた。一方波子夫人は半えりやぞうりなどこれからに備えて買い物をした。 26日桜町目指して一家は出発した。千住の宿に一泊。 27日杉田、小山、有期を通ってようやく桜町に着いたのである。 |