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尊徳先生の訓え(円蔵岸右衛門宮原書簡等)

  尊徳先生の訓え(借りない借金を返す)
○尊徳先生が桜町の復興にあたっていた頃の事である。
 横田村の里正(庄屋)で円蔵という者がいた。由緒ある家柄で代々庄屋であった。旧家で、家屋の破損はなはだしく、新築したいと思い、長年かかって材木は集めたが、建築費が足りない。そこで先生の陣屋に赴いて借金をお願いした。先生は円蔵にこう諭された。
「ああ、おまえの村は衰廃し百姓は貧困にあえいでいる。
里正たる者、これを嘆いて身を顧みる暇もないほど励み勤めるのがほんとうではないか。
 どうして自分の家屋敷などにかまっておられようか。
 それ、里正の任務は一村の長(おさ)となり、村民をよく治め、曲がったものはこれを教えて直からしめ、邪まなものはこれを戒めて正しくさせ、惰農なるものを励まし、貧しい者はこれを恵み、身に便りのないものはこれを憐れみ、村民に法を守らせ、汚俗に流れないようにし、もっぱら勤労を励まして一村の憂いをなくすのが里正の任というものである。
 おまえの家は、先祖代々里正となり、一村の盛衰安危はみなお前の身にあるのだ。
現在、村民は怠惰に流れ、衰貧はきわまり、あるいはつぶれ、あるいは離散して、土地は荒れ果て、戸数はようやく数十軒だけとなっているではないか。
 今、おまえがこれを憂いとしなければ、どうして里正の任に堪えられるのか。
一村がよく治まり、土地が開け、民百姓が豊かとなるならば、その功績は里正に帰する。土地が荒れ、つぶれ百姓となり、貧困せまるというのは、里正の罪でなければ誰の罪というのか。
 私は小田原候の命を受けて、こちらに赴いて以来、廃家を興し、民を恵み、昼と無く夜と無く肝胆を砕き、復興の道を施し、民を安んじようとするほか暇がないことはおまえもまた知るところである。
 いやしくもおまえに誠の心があるならば、亡村にも等しい衰廃に陥り、里正として民を憐れんで救い行うことことなく、亡村にも等しい衰廃に陥ったあやまちを後悔して、自分の資産を減じて節減を尽くし、民に先立って貧苦に甘んじ、余財を生じ、荒地を開き、民の飢えや寒さを救い、一村復興の道に尽力し、里正の本意を達成しようと願うべきではないか。
それを何ぞや、家を新築し、一身の安泰のみを計り、なお不足の財を借りて望みを達しようとするのは過ちの上に過ちを重ねるものではないか。
 今、おまえの家が覆るというのならやむをえない。
たとえ旧家で損じ傾くとはいっても倒れるわけではあるまい。
細民の家を見よ。
一日も風雨を支えることはできない。
どうしてお前の家に比較できよう。
しかしながら、私に不足の金を借りようと求めなければ、私がその過ちを教えることができなかった。
おまえが私の言葉をそのとおりだと思うならば、速やかに家の新築を止めよ。
そして私に借りないで、かりに二十金を借りたとして、今から五年の間返金せよ。
 もし新築を止めて、普段の生活の中で返金ができないときは、多額の費用で家を作ってもその後の返金は難しいことは必然である。試みに借らずして返納のみしてみよ。
そうする時はおまえ自ら村民を救い助けることができなくても、私がおまえの村を復興しよう。
 里正たるもの、細民に先立って艱難をなめるべきの任であるから、細民を安んじた後におまえの望みもかなえよう。
そうすれば民の怨みも生ずることはあるまい。
もし、この言葉に従わなければ人望を失い、細民から怨みが起こり、一家を保つことも難しくなるだろう」
 円蔵は感激してすぐに新築を止め、先生の教えに従って借りないで毎年返金を納めて、利息まで納めたのであった。
 後に横田村が完全に復興し、すべての村民が居住を安んじてから、先生はその地方で最第一の家を作って円蔵に与え、更にまた新たに家を作り、円蔵の子弟二人に与えたのだった。

 尊徳先生の訓え(窮民救助のため家財を売り払え)
○物井村に岸右衛門という農夫がいた。
才知はあったが、吝嗇で剛毅であった。
尊徳先生が桜町陣屋に入られてから、先生のやることなすこと嘲(あざけ)り邪魔することはなはだしかった。
先生は七年もの間、自然と自らの非を悟らせようと寛大に放っておかれた。
先生の丹精は年月を経ていよいよ顕れ、岸右衛門もこのままでは三村も復興し、罪人となるのは明白だ。
今のうちに前非を悔い、復興に尽力するほうがよいと思い、先生に人をやってそう言わせた。
 先生は喜んで旧悪を咎めず許された。
陣屋に出向いた岸右衛門に先生は仕法の概要、人として生きる道を諭された。
岸右衛門は始めて先生の道の偉大なることを知って感激し、これより先生の指揮のもと率先して励んだ。
ところが、村民は日ごろの岸右衛門の言動から信用せず、岸右衛門は憤った。先生はこう諭されたのであった。

「おまえは前非を悔いて尽力しているからと言って、村民がどうしておまえの本心がわかろうか。
それ、人が難しいとするところは私欲を去ることである。
おまえが私欲を去らなければ人は信用しないであろう。」
「先生の教えに従って私欲を去るには何を先にすればよいのでしょう」と岸右衛門は先生に聞いた。
「おまえの貯えておいた資産を出して窮民救助の用とせよ。
また、田んぼをことごとく売り払って差し出しなさい。
私欲を去り、私財を譲り、村民のために力を尽くせば、人の善行として、これより大きいものはない。
人の道として、己を棄てて人を恵むより尊いものはないのだ。
 しかるにおまえの旧来の所業は、ただ自分を利せんとするほか余念がなかった。
己を利して他を顧みないのは禽獣の道である。
それ、人と生まれて一生鳥獣と行いを同じくすることは悲しいことではないか。
今、私の言葉に従い、禽獣の行いを去り、人道の至善を行う時は、諸民もその行いに感じ、お前を信用するに疑いない。」
 岸右衛門は、尊徳先生の言葉に感動し、また
「一家を失っても必ず私が面倒みよう」という先生の言葉に感激した。
「先生はそれがしを憐れんで君子の行いを教えられました。
速やかに教えに従ってこの人道を踏みましょう。」
 ところが、家に帰ってその決心を父母妻子に話すと家族皆が反対する。
悲しみ泣き騒ぐこと激しく、岸右衛門にも疑念が沸いてきた。
そこで婦女子を説得できませんと人をやって先生に報告させた。
先生はため息されこう言われた。

「これは岸右衛門の一心にあるのであって、婦女子にあるのではない。
岸右衛門の心が目前の欲におおわれているのにあるのだ。
ああ、小人に君子の行いを教えたのは私の過ちであった。」と大息された。人がその旨を岸右衛門に告げた。
岸右衛門はそのことを聞いて憮然として
「実に私の心が定まらないからで、家族にあるのではない。」と言った。
そして断然田んぼ、器財をを売り払い、百金余を持ってきて陣屋に来て
「不肖どうして先生の大道を行えましょうか。
願わくはこれを窮民救済のためお使いください」と言った。
 尊徳先生は、その志を喜ばれ、その申し出を受けられた。

「おまえは今日から力を尽くして荒地を起こすがよい」と開墾させ、先生も力を添えて、たちまち数町の田を開いて、岸右衛門に与えた。
「この開田はおまえがこれまで持っていた田に勝っている。
旧田は五公五民だったが、この開田はすべてお前の収入となる。
七、八年は税を払わなくてもよかろう。
貢税の田で困民を救い、無税の田を得て耕せば、生産は倍しよう。
これを両全の道というのである。」
 岸右衛門は尊徳先生の処置の深遠なることに驚き、大いに喜びその後、先生の指導のもと力を尽くした。
そして村民の信用を得て、資産も以前に倍する幸いを得たのである。


天保4年2月10日 晴
一 昨日、呼び出した岸右衛門と妻子とが出頭したと村役人が申し出たので、左のように申し渡した。
物井村岸右衛門  
同人女房 たけ へ
同人息子 伴蔵  
  その方たちは家族仲よくいたして奇特なことである。
  さて当御知行所は人口少なく貧乏のため廃村同様になり、先年は家数四百有余軒もあったのにだんだんと潰れる百姓がでて、やっと百五十軒内外になり、それも脅迫した者ばかりであった。このため宇津の殿様も江戸城御出仕ができず、忠孝二つの道を放って置けないので、やむなく御本家小田原藩で数年手をつくして御救助を進められたけれども、その効果もない。またさる文政5年(1822)より御改正を命ぜられ、荒地開発、入百姓による人口増加、その他道・橋・用水路修理や分家による百姓取立て、家の新築と借金返済などのお手当・食料・農具料などいろいろと御仁恵をいただいた。このことに感激し、さる文政12年よりその方は財産を妻子にまかせ、御陣屋の長屋に詰めて親切に世話をした。なお田畑・山林・家屋敷・家財、数年溜めた米や穀物を売り払って、上下が安泰に百姓が永続するように御仁恵の一端を補うため、代金をのこらず上納し、妻子は親もとに預けておき、どのように暮らしても御仕法のため働きたいと願い出た。むかしから自分が金持になるため、妻子を養うため努力する者は多い。しかしその方どもの行ないはそれとはちがい、天の恵みに合った行為というべきであろう。人並みのことではないので、荒地を新しく開発しても人手不足で耕作人のいない田畑を妻子に与え、仕法中は努力次第、収穫全部を自分のものにするよう命ずる。もっとも年貢はもちろん諸役や高掛りなどは荒地同様と心得るよう以後は荒地に戻らぬよう、いよいよ精勤し努力すること。
  天保4年2月10日
 右のように命じた。

「近世の村と生活文化」(大藤修著)131ページ
 谷田部藩が尊徳仕法を導入した発端は、野州芳賀郡中里村の出身で、江戸に医術の修業に出ていた中村元順が、親族の桜町領物井村の百姓岸右衛門から、尊徳仕法のことを伝聞したことにある。
 玄順は、自らが借財に苦しんでいたことから、これに関心を持ち、岸右衛門に仕法金拝借を尊徳に懇願してくれるよう依頼した。これに対し、岸右衛門は「そこもとが借財に苦しんでいるには、財を施すことはさて置き、草の根木の皮のたぐいにて薬代を貪り、その身を富ますことしか念頭にないため、世間の人々に人徳を慕われることがなく、したがって医者の家業も不振にならざるをえないからだ」と批判した。そして、「自分もかつては、自分の利益しか考えなかったが、二宮様よりご教諭を受け、他人の生活が成り立つよう献身してこそ、自己の家業も安泰を保てるということを悟り、「ただただ大勢を助ける道につき自分のことは暮らし方の内を取り縮めて、冥加のために無給にて」二宮様の手足となって働いているのだ」と話して聞かせた。この岸右衛門の話には、尊徳の教諭によって、農民がどのように精神変革を遂げたかがよく示されていよう。


※中村氏岸右衛門問答聞書(二宮尊徳全集第23巻19ページ)
一 天保三壬辰年頃、中村氏江戸大伝馬塩町借宅の節、岸右衛門事、ご趣法にて折々出府致し候につき、その度毎(たびごと)、立寄り候ところ、何故たびたび罷り出候かと尋ねられ候につき
 宇津様ご知行所、人少困窮につき、小田原より二宮様ご出張にて種々ご趣法お取り掛の次第物語り仕り候ところ、不審相晴れ申さざるうち、塩町消失にて外神田黒門町、又は本所相生町等へ転宅に相成り、甚だ困窮の体、素より田舎育ちのもの、江戸住居、その上たびたび類焼に及び候かたがた、多分の借財相嵩み、難儀の趣き、たびたび物語りもござ候故、村方窮民お救い、ご撫育、並びに借財これ有るものは返済の道ご趣法成され下され候事ども、具(つぶさ)に相話し候えば、それに相違もこれ有りまじく候えども、右の通りたびたび出府いたし候には、何ほどか入用も掛かり申すべく、いかなるの手当これ有り罷り出候儀にはこれ無く、ただただ大勢相助け候道につき、自分の事は暮し方の内取り縮め、冥加のため無給にて相勤め候由これ申し候えば、右体ご仁恵のご仕法に候わば、この方当時たびたび類焼に逢い候かたがた、借財金四五十両におよび、取続方必至と差支え、難儀につき、なにとぞご仕法金拝借願いくれ候よう相頼まれ候。右につき私申し談じ候は、そこもと様の家業は、人を助くるところ肝要にこれ有り。もっとも当時は細川様よりご扶持も頂戴致され候上は、我々どもとは違い、いかようとも人の助けも相成り申すべきはず。我々は田打ち耕し、夏は炎天、冬は雪霜を頂き、粉骨を尽し、お年貢を納め、諸役を勤め、その余りにて父母妻子を養い、家小屋を作り、暑寒凌ぎ、農具の繕い、肥やし代あるいは馬の飼料、諸事万端ことごとく田畑の潤いにて、今日相助かりおり候、身分にて日々の所業油断これ有り候ては、たちまち困窮に陥入り申し候。その家業の妨げに相成らざるよう心掛け、大勢の為につき、辛苦艱難を厭わず、出府もいたし、我等ごときのものにてもその身を苦しめ候えば、それだけは人の憂苦を安じ申し候。譬えば人病あってくるしみ候せつ、撫でさすりいたし、外より取り悩み介抱致し遣わし候えば、その間は苦痛相緩み候道理にて、お家業柄申すまでもなく、我等とても困窮に相違はござ無く、さりながら今日まで大勢の家内飢えも寒(こご)えも致さず、家業相勤めおり候。我よりも又困窮のものも多きを見ては、有難き事ならずや。その身安楽にして人を助ける道はこれ無きよう心得候故、手足のたいぎくらいにて少しも人助けに相成り候事故、他事無く相勤め候段これ申し候えば、とても見込みの心得方覚束なく、江戸往来の手間隙も少なからず、その上無給にては往々手詰まりに相成り申すべくなどと申す事にて、実は貧しき風体にてたびたび罷り越し、存分がましき話等いたし候は、
 外聞にもかかわり、迷惑にも存じ候やに相察し候えば、そこもとにはそもそも人助けの家業にて出府致され、素より我々とは段格の違い候家業がら故、薬礼を貪らず、家業専らに精入られ候わば、その余徳にて今日貧しきはずはこれ有るまじく、我々と違い、発明の生質にても、人徳と財用の損徳と同じように心得られ候故に、数席の論判相分らず、まず人に財を譲れば、先の都合よろしき故に、そのものかたじけなくぞんじ候えば、人徳を潤おし、それが積り積りて大徳の人とも、徳者とも世に唱えられ候ように相成り申すべく候。そこもとは財を施す事はさて置き、草の根木の皮の類にて薬代を貪り、その身を富し、人徳を得て人の助けと成すの心得は、りょうけん違いにこれあるべしと種々これ問答。出府ごとの儀にて、つまりは相互に是よりの成行きにて相分り申すべしと、是非相決し申さず、もっとも我々共も、素よりその心得はこれ無き故、連々ご知行所も困窮及び、いかにともお上にも成され方これ無く、術数尽し果て、終に退転亡所にも相成り候につき、二宮様ご出張これ有り、厚くご教諭ござ候えども、八九年の間はわかりがたく相暮し、その内種々のご教化に寄りて、漸々今日の有難き事を心得、家業相励み候よう罷り成り、さりながらご知行所皆々同意と申すまでに至り申さず。区々の勘弁もこれ有りにつき、及ばずながら心配致し、たびたび出府もいたし候事にて、実は家業一筋に相励み、お年貢滞りなく相納め、諸役差出諸ご法度を守り、実体相続罷り在り候えば事済み候身分にこれ有り所、人としては恩報第一の趣、二宮様明け暮れのご教諭、心魂に徹し有難き事につき、責めて随身だけの事は厭わず、出府も致し、続合にもこれ有り、その上に勘弁違いにて歎かわしき事につき、たびたび問答に及び候ところ、終には感服にて、第一その身の立ち行き、当惑の趣かつ又 細川様ご難渋につき、お取り直しのご趣法お頼み成されたき含みにて、内々は申し上げ候かにて、表向きは 奥様お産前につき、野州延べの地蔵安産の御守請と申す趣にて、さる天保三壬辰年四月、中村氏罷り越し、私宅へ逗留罷り在り、二宮様御出会成され下し置かれ、右は 細川様ご趣法発端の儀お尋ねにつき申し上げ候。

宮原屋書簡

宮原屋瀛洲(えいしゅう)は神奈川県浦賀(横須賀市内)の回船問屋である宮原屋の隠居で、大磯の川崎屋孫右衛門との縁戚関係から尊徳先生の指導を受けるようになった。尊徳先生の信頼も厚く、報徳仲間の江戸における先生への取次ぎなどもしており、宮原一族にあてた尊徳先生の「大学料理の書簡」は有名である。

《年譜》天保12年<尊徳先生55歳>10月14日
川崎屋孫右衛門、宮原屋清兵衛の弟瀛洲が来て、大学料理の書簡を与える。

報徳叢書25~36頁を読みやすく改めた。

「わざわざ飛脚を以て御紙翰成し下され、貴命のごとく甚だ寒さのみぎり、各々様ご道中(どうちゆう)お滞り無くご帰宅成され、殊にご一統お揃ひ、ご精励成され、珍重斜めならず存じ奉り候。随つて当方陣屋内、詰合の面々、無異(ぶい)繁勤救助の道相励み罷り在り候條、ご安意下さるべく候。然らば去る天保7申(さる)大荒凶飢饉につき、大磯宿打壊しのみぎり、川崎氏家政取り直し趣法歎願につき、ご親類中御越成され、それより追々ご懇意に罷り成り候ところ、当年の儀はお国元大人(たいじん)初めご一同遠路のところ、よくぞやお越し下され候えども、当国の儀は、昔 西(最)明寺時頼公の巡国記にも、日本一下野国(しもつけのくに)は土地人気至ってあしく、その内寒川郡、芳賀郡の儀は別段の由(よし)、お書き置かれ候極難(ごくなん)の土地、然る処、連々人少(じんせう)困窮致し、退転亡所同様罷り成り候知行所(ちぎやうしよ)村々、ご承知の通り金一朱二朱の銭売買これ無く、豆腐などは一里余りも参らず候はでは求め難き程の辺鄙につき、珍味珍食、あるいは珍事珍言等一切ござ無く、長々ご逗留中、思ひながらおそまつ仕り、嘸々(さぞ)ご不自由とお察し申し暮らし候。そもそも趣法の根元は、まづ荒地一反歩切り開き作り立て、その実法(みのり)を残らず食ひ恩沢に報いざる時は、百歳といへどもその他に及ぼす事あたはず。之によつて右一反歩作り立て、その実法の半ばを食ひ、その半ばを譲る時は、別帳雛形の通り、その開発田反別算勘(さんかん)も及びがたく候、もっとも古語にも、一家譲り有れば、一国譲りをおこすとかや。その徳沢を以て、年々繰り返し、あるいは神社堂寺なども修復致し、人情を励まし、あるいは用水、悪水井(いど)溝等を修復致し、水旱の憂ひを去り、あるいは道を築き、橋をかけ、牛馬の通路を弁じ、あるいは家宅を修復致し、人民の居住を安んじ、あるいは夫食(ぶじき)種穀をあたへて、窮民の渡世を補ひ、あるいは鍬鎌農具を与へて、勤業を励ませ、およそ十有余年を経て、荒地あらまし開け、村柄古(いにしへ)に立ち戻り、収納初年に倍し候辛苦艱難を以て、つらつら古を案ずるに、幾千年歳の昔、神代より
天祖天孫代々のご丹誠を以て、豊葦原の瑞穂の国を、安国と平らげたまいしより、この道盛んなる時は富み豊かなり。この道怠る時は窮す。諸人平生日用に相営みおり候へども、その理にくらし。然りと雖も銘々よく耕し耘(くさぎ)る時は、その実法多く、そ作成る時は実法眼前にすくなし。是れ皆有用の財宝は、土地と民力との二つよりして国家を潤沢するもの也。以て土地の貴きゆゑんを知るべし。本来異国は異国の財宝を以て興き、我が朝はわが朝の徳沢を以てかくのごとく開け、有り難しと申すも恐れ多し。然らば昔のご丹誠を知る事は、今の艱難を以て知らずんばあるべからず。今の艱難を知って、よく永く耕し怠らずんば、荒地はあれ地の力をもつて、荒蕪の広狭にかかはらず、遂に自然と起き返り申すべく候。借財は借財の費えを以て返済致し候はば、多少にかかはらず無借に相成り申すべく候。およそ大意は荒地を引き受け、発田に引かへ、借財を引き請け、無借に引き換へ、人糞馬糞、そうじて不浄を引き請け清浄に換へ、人の憂ひを引き請け幸ひ替へ、家別(かべつ)戸毎(こごと)に営み候同様の事なり。その外富の弊は驕奢(けうしや)、是を改めずんば子孫困窮の本、貧の弊は怠惰是を改めずんば子孫滅亡の本也。願はくば富者の驕奢を省き、その貨財を以て貧者を救ひ、貧者の怠惰を励まし、有陰(ゆういん)を以て家業致させ候はば、自然と財宝生じ、国富豊かに相成り申すべく候。第一瓜の種を蒔けば瓜生じ、又茄子(なす)の種をまけばなす生じ、なる実法る世の中にして、因果因縁の熟する事、是皆然り。銘々奪つて益なく、譲つて益ある農業の道、平生日用取り扱い候かどかど、お噺し申し候ところさすが富貴兼備の非俗、渡世の名人、華美風流驕奢の棟梁、並びに生駒氏、橋本氏、その外ご一同いちいちご感心成され、ご帰着の上、微細にご伝声下され候ところ、宮原家初めご親類中、一統その外承諾致され、追々驕奢を省き、窮民潤助の趣法お取行ひ成されたき趣き、仰せ越され候へども、その御地の儀は、大都通船のみなとにして、金銀財宝の融通は申すに及ばず、諸国名産、珍物出入り、幸ひの地ゆゑ、人々衣服飲食等に至るまで、美を尽し、善を尽し、風儀三都に等しき由、かねがね承りおり候。然しながら何程上国に候とも、恩沢を報ゆるお心なければ、有るが上にも願ひ求めて不足起り、自然と借財生じ、終に困窮致し候様成り行き候へば、下国にひとし。あるいは美食ありといへども、恩沢を報ゆるお心なければ、遂に自然と不足生じて、有るが上にも願ひ求むる様に成り行き候へば、辺鄙(へんぴ)のそ食に等し。あるいは美服有りと雖も、恩沢を報ゆるお心なければ、是又終に自然と不足生じて、有るが上にも願ひ求むる様に成り行き候へば、貧者のそ服に等し。あるいは衣食住の外、風流華美の品々満備すといへども、恩沢を報ずるお心なければ、終に自然と不足の心起り、有るがうへにも異国の名産等を願ひ求むる、野鄙の心生じ候とは、やはり下国に生れし同様に陥り申すべく候。仮令(たとひ)智仁勇の三徳を得るといへども、父母祖先の恩沢を報ずるお心なければ、是又自然と不足の心起り、遊芸などを願ひ求むる様成り行き、詰り傾城(けいせい)遊女、夜発盲人等に等し、前条の通り有るが上にも願ひ求むるときは、人々貴賎尊卑の違ひは之有り候へども、その幾倍に及んでは、夏殷(かいん)の勢ひも亡びたり。仏にいわゆる貪瞋癡(とんじんち)の三毒又是也。聖語に過ぎたるは猶及ばざるがごとしとは、かくのごときか。よくよくこの理りを以て恩沢に報い奉りなば、この上も無きの土地なり。御地と当国とは、全く天地の相違、然りといへども天は地を覆ひ、地は天を戴き、而して天地相和する時は万物生ず。男は女を愛し、女は男を敬し、而して男女相和する時は子孫生ず。富は貧を救ひ、貧は富を親しみ、恩を謝し、而して貧富相和する時は、財宝生ず。是皆天地の然らしむるところ也。」


さてそのもの啓三郎殿儀、川崎氏家政取り直し趣法歎願のみぎり、ご親類一同、小田原表までお越し成され、ご内願之有り趣申し聞けられ候儀は、前々より浦賀表出店の取締りと為て、年々勤番渡世致し来り候家法、然るところ、風(ふ)と心得違にて、家法を穢(けが)し、不埒(ふらち)につき慎み中の身分、いかが相心得候て然るべきやとお尋ねに預り、驚き入り、よくよく勘考仕り見候ところ、右より困窮艱難、無禄の子孫に生れ候ものとても、家名相続の儀は人々相営み申し候ところ、かたじけなくも大家相続の子孫に生れ候ご身分なれば孝養の儀は申すに及ばず、家法守護の儀については、たとへ粉骨砕身するとも、きっとご勤仕成るべき筈のところ、遊楽驕奢に流れ、祖先のご丹誠忘却致され、規則を乱し候段、言語に絶し申し候。然りと雖も、過てば則ち改むるに憚ることなかれとの聖語に基き早々お改め成され候て然るべきやの旨申し談じ候ところ、猶又取計ひ方お尋ねにつき、前段の不埒については、何程厳重御慎み成され候ても、その罪のがれ難きところ、却つて過ちの先まで出格のご慈愛を以て、年々金五十両宛小遣ひお贈り遣はされ候段、我らにおいても実に感涙を絞り候儀、速やかに浮世の雲、迷ひの夢を覚し、日月の明鏡を拝し給はば、父母祖先の大恩身心骨肉に徹し申すべき候間、よくよくご勘通之有りたき候。然るところ、是を飲み、安く食ひ、暖かに着、空しく歳月を費やし、安逸成され候儀は、何のゆゑぞや。譬へば赤子の懐中に抱かれ、乳味を費し、母の胸をうつがごとくなるべし。今壮年のお身分に候へば、いかやうとも節倹を尽し、ご慈愛金の内十両お残り成され候はば、十両だけのご孝心、二十両お残り成され候はば、二十両だけのご孝心、もしまた何ぞ家業を相営み、口腹を養ひ、残らず御差出成され候はば、その孝心に基き、御出金だけ趣法金助成仕る旨、誓約仕り置き候ところ、天なるかな、時なるかな、昨子年(ねどし)二十五両、当丑年二十五両お残し成され候、ご改心の印を以て、川崎氏勘気宥免のほど相願ひくれ候やう、厚く内談ござ候につき、ご逗留中歎願に及び候ところ、祖先の感動にも候か、追々改心致され候潔き所行をお汲み取り、早速歎願の通りお聞き済み下され、当人儀はいよいよ本心に立ち戻り候まで申し諭しくれ候やう、野拙(やせつ)方へお任せ下され、対面まで相整ひ、一同喜悦斜めならず候。右報徳のため、ご慈愛金残らず御差出成され、ご示談の通り、趣法金五十両、年々助成仕り、都合百両宛、元入金の積りを以て、六十ヶ年趣法組立て見候ところ、別帳の通り、およそ金二十六万五千八百八十九両余り、無利五ヶ年賦(ねんぷ)に借用致し、相助かり候者之有り、其の余積年の儀は、押して算勘下さるべく候。前にも申し候通り、不浄のこらしを以て、清浄の米を作り出たるがごとし。是すなはち宮原家の凶事変じて、窮民の潤助と成り、窮民潤沢して貧富相和して親しき時は、吉是より大いなるはなし。然らば不孝変化して至孝となり、万代不朽万々歳の大幸と申し納め候以上。
 (天保十二年)十二月十五日           桜町 二宮金次郎
浦賀  宮原治兵衛様 同瀛洲様 橋本与三衛門様

追つて申し展(の)べ候。近代世上一統華美柔弱に相流れ、古人の金言などのかたき物を、よくかみしめ、深く味わふもの鮮(すくな)し。つらつら根元を案ずるに、今眼前その表前後の海底より釣り出し候大魚は勿論、小魚といへども、切りきざみ、煮焼き致し候てこそ、日用食物、人命の助けとも相成り申すべく候。況や千歳の昔、異国より来り候大学論語などは、天下国家を治めるの大徳備はわり居り候へば、肉も多く、身も多く、定めて大ひなる骨も之有るべく候につき、なかなか以て諸人もてはやすのみにて、丸呑みには相成り兼ね、年久しく店ざらし同様相成り居り候古もの、一両句見つけ、こけをふき、皮をはぎ、筋も骨もとり、平生日用に人々相用ひ候平かなにて、賎女(しづのめ)、賎男(しづのを)が、うす挽きうた同様あるいは老人、又は女小児(をんなこども)にも呑み込み、食ひ安く仕立て、御試しの為少々差進じ申し候につきご賞味下さるべく候、その外神儒仏の三味悟道即席ご料理なども、是又数年天地の間に借地仕り、人様の厚きお世話を蒙り、渡世仕り居り候間、右報徳の為めお望み次第、案外お安く差上げ申すべく候につき、早々お越しお求め、お施し下され候はば、御地三崎辺り、この節不漁の由、窮民の一助にも相成り申すべく候
以上

尚々寒威甚しく、折角お厭いなさるべく、隔通にて申し展ぶべきのところ、取り込み故、略儀の段ご用捨下さるべく候以上

明徳ヲ明ニスルニ在リ。
豊あしのふか野が原を田となして、食をもとめてくろう楽しさ。

民ニ親ムニ在リ。
田をひらき米を作りてほどこせば、いのちあるものみなふくすらん。

至善ニ止ルニ在リ。
田を作り食を求めて譲りなば、いくよへるともこれに止まる。

学ンデ時ニ之ヲ習フ、亦悦バシカラズヤ、朋有リ遠方自リ来ル、亦楽シカラズヤ。
蒔(まき)うゑて時々に芸(くさぎ)りたがやせば、しだいしだいに楽しかるらむ。

人知ラズシテ慍ラズ、亦君子ナラズヤ。
姿こそ深山かくれに苔むせど、たにうちこゑて見ゆるさくら木。

至誠之道、以テ前知スベシ、国家将に興ラントスルヤ、必ズ禎祥有リ、蓍龜(しき)ニ見ハレ、四体ニ動ク、故ニ至誠神ノ如シ。
北やまは冬気にとじて雪ふれど、ほころびにけり前の川柳(かはやぎ)。

湯之盤ノ銘ニ曰ク、苟(まこと)ニ日ニ新ニシテ、日々ニ新ニ、又日ニ新ナリ。いにしへのしろきヲ思ひ洗濯の、かへすがへすもかへすがへすも。

故(ふる)キヲ温(たづ)ネテ新シキヲ知ル。
故道(ふるみち)に積る木の葉をかきわけて、天照神の足跡を見ん。

色(しき)ハ空(くう)ニ異ナラズ、空ハ色ニ異ナラズ、色即チ是レ空、空即チ是レ色、受想行識、亦復是ノ如シ。
春は花秋は紅葉と夢うつつ、ねてもさめてもあり明の月

天何ヲカ言ハンヤ、四時行(めぐり)、百物生(な)ル、天何ヲカ言ハンヤ。
声(おと)もなく臭(か)もなく常に天地(あめつち)は、書かざるけふ(経)を繰りかへしつつ。

正直ハ一旦ノ依怙(えこ)ニ非ズト雖モ、終ニ日月ノ憐ヲ蒙ル。
丹誠はだれしらずともおのづから、秋の実法(みのり)のまさるかずかず。

赤子ヲ保スルガ如ク、心誠ニ之ヲ求ムレバ、中(あた)ラズト雖モ遠カラズ、未ダ子ヲ養フコトヲ学ンデ后ニ嫁グ者アラザル也。
をのが子を恵む心を法(の)りとせば、学ばずとても道にいたらん。

一 その表各ご一統、旧弊をお改め成され、窮民撫育の趣法御取行ひ成され候については、ご綿服ご着用と存じつき、差上げ申したく、ご逗留中相調へ置き候ところ、何分驕奢の残気相退きかね、余儀無く延引仕り置き候へども、ご出立後憤発致し、当所の産真岡(まうか)木綿五反差進じ申し候ところ、早速お用い下され、本懐の至りにござ候。右晒(さら)し木綿ご着用成され候はば、ご入用次第又又差遣し申すべく候。さて又御地名産の?(はしり)鰡(ぼら)沢山、ご老母様初め、ご一同よりご送恵下され、一方ならずご深志千万忝く賞翫、尚それぞれへも差遣し、一同大悦仕り候。然しながらご誠心に甘へ、このまま相流れ候ては詰り驕奢に陥り申すべく候につき、以来の儀は堅くお断り置き申し候
一 色紙短冊、この辺り所々相尋ね申し候へども相整ひ兼ね、有り合せいろいろ取交ぜ相認(したた)め差遣わし申し候間、見苦しき段ご免下さるべく候
一 ご逗留中お噂ござ候お国元ご詩作、頂戴仕りたく候間、お序にお恵み下さるべく候以上
十二月十五日   二宮金次郎
宮原治兵衛様 宮原瀛洲様 橋本与三左衛門様


 尊徳先生の訓え(唐鎌の教えー富を得る道)
 二宮先生が、青木村の再興にとりかかった頃、貧窮のため他郷に逃げようという者を教訓されたことがあった。
「お前はいまこの土地を去ろうとしている。
人情として故郷を思わない者はいない。
たとい他郷におもむいても、すぐに家に帰りたいと思い、村に帰って始めて安眠できるではないか。
まして当村は幸福自在の地だ。
それを祖先以来の家を棄てて故郷を去ろうというのはなぜか。」

「貧苦がせまり、負債を返すことができません。
その督促にたえず、やむを得ないのです。
どうして家産を失い、故郷を去ることを好みましょうか」

 二宮先生はこうおっしゃった。
「まことにお前の心情は憐れむべきだ。
私は今お前に唐鍬を与えよう。
この鍬をもって貧苦を除いて、負債を償い、富裕を得なさい。
どうしてこの地を去る必要があろうか。
この村には家、田畑があるのに一家を保つことができない。他郷に至れば家や田畑がなく、どうして生活の道があろうか。いたずらに道路に飢え死ぬだけだ。」

「わずかに一挺の鍬で富を得て借財を返すことができるならば、どうしてこんなみじめな境遇に至りましょうか。」
「お前は富に至る道を知らないために、困窮したのだ。
 それ天地の運動は一刻も間断がない。
そのため万物が生々やまないのだ。
人がこの天地の運動にのっとり、間断なく勤め励むこと、天の運動のようであれば、困窮を求めても得ることができない、
 お前は種々の困難があったといっても、それは農業に力が足らず怠惰に流れ、ついに窮乏に及んだのだ。
 今、私が教えるところに従って、唐鍬一つで従来の廃地を開墾し、年老いたり幼い者まで開田の草の根を取るがよい。
このようにこの鍬が壊れるほど力を尽くすならば、必ず多数の開田を得ることができよう。
いよいよ励んでこの開田を耕せば、数年もしないうちに富に至ろう。
 今お前の所有の田を売って、その代価で負債を残らず返却すれば、負債はすぐになくなる。
そして開田を耕すときは十年ないし十五年も無税である。
作物は皆お前のものとなる。
そもそも先祖伝来の土地から生ずる作物の半分は租税となる。
税のかかる田を売って負債を返し、無税の田を耕すときは、求めなくても必ず富を得ること疑いない。
 これが唐鍬一つで富裕を得る理由である。
 このような安心自在の村里に生まれて、ここを棄てて他郷に走る、愚のかぎりではないか。」
 その貧民はしばらく考えた後、大きくうなずいて
「先生の教えに従って、一生懸命働きます。」と言った。
 先生はすぐに唐鎌を与えた。そこでこの者は田を売り払って負債を償い、一家を挙げて開墾に従事し、年々多くの収穫を得て、多年の貧苦を免れ、富裕となったのであった。
 青木村の百姓たちはこのことを知って感激し、互いに励ましあって、このため開墾の進むこと速やかだった。
 先生が教諭され、怠惰を改め、仕事に勉励させ、貧民をして富を得させることはこのようであった。

○(天保十三年小田原下新田の小八に尊徳先生が与えた相続手段帳に書かれた言葉)
今ここに家政をたてなおし相続する手段は、田畑反別七町四反のところ、春夏秋冬、天が四時運行するにしたがい、年々歳々田を耕して、種を蒔きつけ、草を刈り、年貢や諸役は真っ先に納め、残りの収穫をもって父母妻子を養うことは、いにしえ神代の昔に豊葦原を安国となしたまいしより、ただいまに至るまで、一同相続してきた人倫の大道である。
この道が盛んであるときは富み、この道が衰えるときは困窮する。
よくよく力を尽くすならば、天地の感応が目前にあらわれ、米、麦、雑穀が湧き出して金銀財宝集まり来って、その家々を照らし、衣食住子孫永久に安楽自在である。この道によらないで他に富貴を願ってはならない。

天津日の恵みつみおく無尽蔵鍬で掘り出せ鎌で刈り取れ


   尊徳先生の訓え(主家艱難のとき行うべき道)
○茨城県の辻村の里正を源左衛門、門井村の里正を藤蔵といった。
二村とも旗本の齋藤氏の所領だった。
齋藤氏は負債が多く、来年の租税を先納させ、それどころか御用金と称して村人の資産を没収した。
このため二村の住民は貧苦に耐えず逃げ出し、土地は荒れ、衰貧極まった。二人は民を憐れむよう申し入れたが聞き入れない。自分の資産で補ったが、仕打ちはひどくなるばかりだった。
 そこで源左衛門と藤蔵は、語り合った。
「里正は村民を安んずるのが勤めだ。
何度も民のために憐れみを請うたが、地頭は収奪すること限りない。
どうして衰村の米や金をもってその求めに応ずることができよう。
このままでは我らともに滅亡しよう。
二宮先生は三村を復興し、父母のように民を恵むと聞く。
我らも桜町に赴いて早く苛酷な苦しみを逃れ、その民となろう。」

 二人して桜町に来て、先生の民とならんことを請うた。
「お前達の今日の不幸は実に憐れむべきだが、祖先以来居住の土地を去って、この土地の民となりたいと求めるのは大いに道を失っている。」と先生は教えられた。
「今臣民としての道を教えよう。
おおよそ上、君となり、下、臣民となるもの、本来は一つだ。
例えば一本の木の根や幹、枝葉が一体のもののようだ。
根が朽ちるときは枝葉だけ全うできない。
枝葉が枯れるとき、根もまた全うできない。お前達は数百年来、君となり、民となり、平穏無事に相続したのは一朝一夕の事ではない。
祖先以来の恩を顧みるとき、大か、小か。
もし大ならばお前達の力を尽くして報いても、百分の一も報ぜようか。
今、怨みの心を懐くのは他でもない。
利を主として、義を忘れ、財だけを見て恩を顧みないためだ。
地頭の艱難に当たって、君の憂いを憂いとせず、ただその求めを逃れようと図る。
どうしてこれが難に当たって臣民の義を尽くす道であろうか。

 かつ万物ことごとく盛衰がある。
天地の間で一つとして盛衰存亡を免れるものはない。
盛んな物は必ず衰え、存する物は必ず亡び、生ある物は必ず死ぬ。
これが自然の道だ。
 お前の君の家のみどうして盛衰がないことがあろう。
君が富む時は恩沢は下に及び、窮する時は憂いを受けるのは、枝葉が枯れて根も朽ちるようだ。
だから良民は君の艱難に当たって、身命を投げ打ちその憂いを除き、祖先の恩に報いようとする。
力が足らなければ死んで後止む。
今、君の恵み憐れむ心が薄く、多欲で貪るといっても、その所領に求めるだけで所領の物を取りつくすに及んで、その求めは必ず止もう。
薪が尽きれば火が消えるようなものだ。
お前達がしようとしていることは、薪を抱いて火に向かおうとするようなもので、早く抱いた薪を火の中に投げ出せば、薪は尽きて火が燃えることがないように、君の求めも止む。
だから、家財田畑すべてを君に捧げその不足を補うがよい。
しかし君の行いを怨む心があって出すときは、誠心の行いではない。
報恩の心で君のためのみ計り、心を尽くして高値で売る、これが主家が衰えるときに、臣民の行うべき道である。
その道理を知らず、いったん知略で君の求めを免れても、子孫に無頼の者が出て必ずその家は亡ぶだろう。
君の艱難のため良民報恩の道を行う時は神明も感じ、人も憐れみ、後に必ず廃家を再興する時が来よう。
これが自然の理だ。
この善行をなさず君と財を争えば、恩を知らないもので、君も民を虐げる汚名を顕すことになろう。
悲しむべきことではないか。
このようにして来るならば受け入れようが、怨んだ心で家財を持ち来り、この地の民となれば、地頭に対して信義がたたず、再び必ず災害が起こって滅亡することは疑いない。」
とるる二人を諭したのであった。

 後に源左衛門は私心去りがたく、財を出さず村を放逐された。
 藤蔵は君命あれば家資産を残らず差し出そうとした。
ある時、主命で金督促に門井村に来た者がいたが、藤蔵の誠意を聞いて命を伝えず帰り、禍を免がれたのであった。

☆尊徳先生は陰徳についてこう言われる。(報徳秘録)
「世に陰徳と称するものは、人知れず米や金を与えるようなことをいう。
どうしてこれが陰徳であろうか。
農夫が田を作ろうとして山に行って草を刈り、あるいは耕し、あるいは肥やしを運ぶ、これが眼前の行いで陰徳なのだ。
だから秋になると陽報の実りが多く、家は富み、豊かとなる。
そうであれば総じて木を切り、衣を織り、忠孝の道を勤める、これらは皆大道の陰徳である。
だから陽報もまた明らかに至るのだ。
どうして人知れず物を与えるような小事のみを言おうか。」

 また、こうも言われている。(報徳秘録)
「たとえば田圃へ肥やしをしっかりやれば、必ず秋に実りが多い。
もし不作の年にあったとしても、翌年になれば陰徳が現れ、実りが多いようなものだ。
己を損じて人を救う徳ほど大いなるものはない。
子孫が安らかで繁栄するには徳を積むよりほかにない。
このような積徳があれば、たとえ子孫に愚かな者が出ようとも、前年恩を受ける者が必ずこれを報いて、これを助け家を全うさせる。
これが仁者の行いである。
司馬温公の家訓に
「金を積んで子孫に遺しても子孫未だ必ずしも守れない。
書を積んで子孫に遺しても子孫未だ必ずしも読まない。
陰徳を冥々のうちに積んで以て子孫長久の計を為さんにはしかず」という。これは、先賢の確言である。
いわゆる陰徳というものは、このような行いをいう。」

○尊徳先生は、ある日お酒を召し上がりながら、息子の嫁にこう語られた。
「焼け木杭も三年保つの譬えもある。
だいぶ大きな火を焚いた跡であるから、子や孫の代くらいまでは温かさが残ろうが、永久に保つことはあるまい。
いつか冷めることもあろう。
もし子や孫も少しづつでも火の消えぬよう焚いていれば永遠に栄えよう。」

☆尊徳先生が小林平兵衛に諭された話が「報徳見聞記」に載っている。
好きな話だ。

尊徳先生が御殿場の小林平兵衛という人の仏壇を開帳されたところ、そこに
「諸人無愛敬諸道難成就(諸人愛敬無ければ、諸道成就しがたし)」
と書かれてあったのを見て、
きさまは、この語をもっぱら信じ用いる者か
とひどくお叱りになったことがあります。
諸人に愛敬を受けなければ、道は成就しないなどと思って、人に助けられることのみ修行するものだ。
これは菜っ葉の虫が柔らかい葉を食うようなものだ。
本当に諸道を成就しようと思うなら、次のように心がけるべきだ。
 諸人救助なくして諸道成就しがたし
この自他の違いは大きい。
人と生まれて諸人を救助することなければ、諸道成就することなし。
人を救い助ける心を押し広げる。
そして是非を見極め、誠をもって救い助けるべきだ。
そうして後に諸道は成就するのだ

とじゅんじゅんと諭されたのでした。

(報徳見聞記68)


「小田原藩」(内田哲夫)より
○平兵衛は小林姓を名乗り、その本家の先祖は稲葉氏の家臣奥住新左衛門の一族で、彼とともに竈新田を開いた家である。

○小林平兵衛は竈新田(かまどしんでん)の北にある村の名主の家に生まれ、小林家に養子に入った。
若い頃、身を持ち崩し、両親に勘当され、庵原(いおりはら)郡庵原村の権左衛門茲敬(しげたか)の教えを受けて改心した。
文政6年(1823)組頭となった平兵衛は、心学に深く傾倒し、しいたけの販売を兼ねて江戸へ赴き、大島有隣らの心学道話を聞きまわっていた。
その後の平兵衛については、後に彼の記した「別紙遺書」によれば、相続中にいつとなく贅沢となり、行き詰って天保7年(1837)には、すでに破滅するところまで追い詰められていたという。
江戸との往来が、その生活を分不相応なものにしていたかもしれない。

○その頃から報徳道歌や報徳訓に接するようになった彼は、折からの大飢饉のなかで、村の救済に立ち上がり、富裕者への施行の呼びかけを行っている。
竈新田の醵金額が近辺村々の中で最高であったのも、彼の積極的な行動によるものであったと思われる。
この時彼は田畑2町5反歩余りを質に入れて50両を借り、報徳金50両その他江戸の心学仲間などの援助を得て計120両の土台金(基金)を作り、竈新田の一村仕法を始めた。
すでに子の惣右衛門に家を譲り、隠居という比較的自由な身になって、彼の行動はその範囲を広げていった。

○天保10年8月、平兵衛は小田原・江戸を経て桜町陣屋に住む金次郎を訪ねた。
最初の報徳仕法の鍛錬である。
同行は6名。
22日から24日までは金次郎との問答に明け暮れている。
24日仕法の模範村として知られた青木村を見学したが、この時の平兵衛の態度は、金次郎からただの「見学」と叱られている。
この夜、相州の4名が加わり、26日夕方から9月9日まで金次郎の教諭が続いた。
その教えの中心は、分度と推譲であった。
「100石の身上は50石の暮らし」という分度生活の基本と
「禁裏様→公方様→大名・小名」という譲りの道は「万代不易の大道」だとし、
推譲とは1000石の収入のある者が大借のため300石に下って暮らす仕方ではなく、1000石の収入がある時に300石に下って暮らし、残りを譲るところにあると説く。

○この特訓は計画的で、最後の4日間が仕上げとして「二宮哲学」の講義が行われた。

○9月10日、仕法中の村々の巡見が行われ、夜はそれに基いた教諭があり、理論と実践との両面で報徳仕法の真髄を教え込まれた。

○20日から25日までの6日間は、烏山藩(小田原大久保氏の支藩)の仕法村々を、担当の藩士の案内によって廻り、30日間にすべての日程を終了した。

○帰村した平兵衛は早速居住地の上新田の字(あざ)芹沢の開発を始める。
この作業に出る農民には日当が支払われ、報徳金による開発と失業対策が同時に進行した。
烏山藩の仕法の一つを竈新田で早速生かしたわけで、尊徳の特訓の実践である。
この開発はさらに拡大して弘化2年(1845)まで続けられ、荒地の耕地化、その間の村民の仕法への打ち込み、精神的高揚が図られた。
これは同時に特訓を受けた曽比村の剣持広吉の用水堀開削とともに大きな成果を挙げた。

○平兵衛の桜町詣では天保12年(1841)5月から6月にかけてもなされ、帰途は心学仲間の伊勢原の加藤宗平衛宅に泊り、片岡村の大澤小才太と語っている。
片岡村でも用水の堰浚いが行われ、仕法が順調に進んでいるのを確認している。
この小才太の子がやがて箱根湯本の旅宿福住の養子となり、報徳仕法のよき理解者で、一方国学・歌道を吉岡信之に学んだ福住正兄である。

○天保15年(12月に弘化と改元)9月13日から12月5日にわたる平兵衛の日記をみると、彼は江戸芝田の梅津伝兵衛宅で、金次郎の仕法の最後の仕上げを助けていたのを知る。
仕法の普及化というべきこの作業は、金次郎の生涯を賭けたものであった。
あらゆるケースを想定し、誰もが実践できる再建方法を記した教科書を作成しようとしたのである。

○この間、故郷からは子の惣右衛門の帰国を促す飛脚手紙を受けるが富田高慶と相談し、あくまで止まって随身者として過ごすことを決意している。

○すでに天保13年10月からは、普請役格として幕府に召抱えられていた金次郎の許には、相馬藩家老、尼ヶ崎藩家老らを始め仕法を願う訪問者が相次いでいた。

○平兵衛の「日記」にも、「無利拝借を願うのに音物(贈物)を持参した者は貰ったまま10余年も取り合うな。年賦を返済中に音物(贈物)を持参した者には世間並みの利子を付けよ。
報徳冥加金を納めたいと願い出ても、仕法によって自分が助かったという証拠のない者には取り合うな」という金次郎の言葉が書きとめられている。

(二宮大先生御説徳聞書略)
衆人救助無くして諸道成就しがたきなり
人と生まれては衆生を助ける道を勤めざれば
人にして人でなし
譲り助けるを押し拡めて誠心厚ければ天下も治まるなり



報徳見聞記
【69】世界は惣てかたかしぎに行くもの也。譬へば一年の季候春夏秋冬と行く。一日の日は朝六ツ時より晩六ツ時と行く。後へ戻る事なし、水も下へ流るる計り上下と分れて流るる事なし。人間鳥獣虫魚草木に到る迄斯くの如し。是天理自然也。故に日蓮宗浄土真宗杯の教へは、片意地の教ゆゑ宗旨にこり、其宗旨の勧化杯には随分金銭を出し候得共、他宗へは施さず、前にしるす如く世界は惣てかたかたへよるが、自然の理故、片意地に教ゆれば、人々なびくもの也。依て中庸と言ふ事は難きことなり。然し中ならねば治らず。万事慎み行ふ可きことなり。


【69】世界はすべて かたかしぎ(片方に片寄る) に行くものである。
たとえば一年の季候は春・夏・秋・冬と行く。一日の日は朝六ツ時より晩六ツ時と行く。
後へ戻る事はない、水も下へ流れるばかりで、上下と分れて流れる事はない。
人間や鳥獣・虫魚・草木にいたるまでこのようである。これが天理自然である。
だから日蓮宗や浄土真宗などの教えは、片意地の教えであるため宗旨にこって、その宗旨を勧め教化することなどには随分お金を出すけれども、他宗へは施さない。
前に述べたとおり世界はすべて片々へ寄るのが、自然の理であるから、片意地に教えれば、人々はなびくものである。だから中庸という事は難かしいのである。
しかし中でなければ治らない。
万事慎んで行わなければならない。





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