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尊徳先生、茅の屋根で堰を作る

  尊徳先生、茅の屋根で川を止めて堰を作る
○茨城県の青木村は、旗本の川副氏の所領である。
村の西北に川があり、桜川という。
この川をせき止めて青木、高森二村の田の水とする。
この堰の左右の水底は砂のようで岩石はなかった。
そこで木や石を遠方から運んで建築したが、大雨や洪水になると砂とともに流出して、田の水に事欠いた。
田を耕すことができないため、民心が荒れ、怠惰となり、博打を常にし、民も次第に離散し、一面茅の原となった。
野火は茅を焼いてしばしば民家は灰燼し、貧困の極みに陥った。
 村の里正を舘野勘右衛門という。
廉直篤実な性格で衰村になるのを憂い、再復をはかるも貧村でどうしようもなかった。
二宮先生が三村再興のことを聞いて、村民を集めて二宮先生の力を借りようと提案した。
「しかし、先生は他の誠、不誠を察すること明鏡のようで、願い出る者が純誠でなければ断然許されない。
このたびの願いの成否は当村の一心にある。」
 村民に諮ると、すぐに嘆願しようという。
そこで川副氏に申し出ると、川副氏は喜んで書面で先生に依頼した。
 しかし先生は忙しいからと断った。そして教えられた。
「私の方法は節倹して無駄な出費を省き、有余を生じ、他の艱難を救い、おのおのその業に勤め、善行を行い、悪行をなさず、勤労して一家を全うすることにある。
このようにすれば貧村も必ず富ませることができ、廃亡の村も必ず復興する。
しかしお前達の村は私の再興の道と反対で、その窮乏は憐れむべきだが、自業自得である。
二度と来るな。」
 勘右衛門は涙を流して先生の教えに従う旨懇願した。
そこで先生は一村再興のことはともかく、野火を予防するため茅を刈り取れば、それを買い取ろうと提案された。
 青木村の村民は喜んで、未明より村人総出で二千駄近く刈り取った。
先生はその茅を常より高く買い取られ、それで青木村の社寺や雨漏りの民家を修復された。
「村中の社寺民屋みな雨漏りの心配なく、火災を免れた。
私の方法はお前達には行うことはできない。止めておけ。」
 村民は、労苦を忍ぶからと仕法を行う事をこいねがった。
「村中の田を開かなければ衣食を得ることはできまい。
もし、村中開墾に尽くすときは、私も難場の堰を建築しよう」
と先生は答えられた。
村人は喜び、直ちに開墾に勤めて、数ヶ月して荒れ果てた地を開墾した。
先生はこう言われた。
「前日の怠惰もお前達で、今日の勉励もお前達である。
勤めると怠るの二つの道があり、富の道を行えば必ず富み、貧の道を行えば必ず貧しい。
ただ行いによって禍福吉凶の差がある。
今、旧来の怠惰を改め力を尽くし永く勤労を失わなければ、村の再興も難しくはない。
約束通り堰を築いて、田に水をそそげるようにしよう。」
先生は村の水理を見、水勢を観察し、東山から岩石を得て、村人に運ばせた。
「この建築は迅速でなければならない。だから賃金を余計に払おう。」
それから先生は桜川の川の上に川幅の茅の屋根を作らせた。
水上の屋根ができあがると、先生は
「誰か屋上に登って繋いだ縄を切って水中に落とせ」と言われた。
皆は驚いて一人も応ずる者もいない。
先生は直ちに屋根に登られて刀で数所の縄を断ち切った。
屋根は振動して水中に落ちた。先生は屋根の上で、
「私がどうしてお前達に危険な事を命じようか」と言われ、
「速やかに両岸の木石を屋上に投げよ」と命じられた。
それからその上に堰を作らせた。
茅の屋根で両岸の砂が閉じたため、水漏れはなかった。
初め五十日ほどかかると思われた工事はわずか十日ほどで完成した。
後である人が先生に聞いた。
「用水堰はその数幾千万ありますが、古来屋根を作って水を防ぐという方法を聞いたことがありません。」
「川底の両岸は、細砂で木や石を保てない。
茅の屋根は雨を防いで洩らさない。これがこの堰を作った理由である。」

「桜街拾実」(烏山藩菅谷八郎右衛門)

桜街拾実 は 烏山藩の菅谷(すがのや)八郎右衛門の著作したものである。烏山藩の仕法については「報徳記」巻の3【1】~【6】に詳しい。【6】で烏山藩の報徳仕法が中止になり、菅谷が放逐される。
菅谷には盲目の弟があり、江戸で琴を教えて生計を立てていた。そこで菅谷は尊徳先生に20両の借金に苦しむ弟を救済するためにと尊徳先生に借金に行く。そこで烏山藩の仕法の中止が菅谷自身の心得違いから起こった事、たとえ放逐されても烏山藩復興のために過ちを補い烏山の再興を祈り至誠を顕し再び道が行われるよう尽力すべきである。弟への姑息な愛で救ったとしても決して全うしないであろうと切々と説諭される。
菅谷が「ああ過てりああ過てり」と猛省したことから、再び烏山藩への復帰へと繋がっていく。浪々の身であった菅谷は、幕府が尊徳先生を登用しようという動きがあることを知り、当時老中水野忠邦の歌道の師範をしていた遠縁にあたる村田大亮を通じて、この桜町拾実を天保13年5月に上程し、尊徳を幕府に推挙しようとするのである。当時幕府は印旛沼から太平洋まで運河を掘って、利根川経由で江戸へ海運を導こうという大構想が有り、青木堰建築で見せた独創的な尊徳先生の土木技術に着目したのであった。

【8】川副勝三郎様御知行所常州真壁郡青木村(桜町より三り)之儀ハ、元来桜川を堰留用水ニ仕候処、洪水ニて押流候後、大堰之儀御手届兼、御再興無之、右故田方亡所同様罷成、人別減少及困窮、致退転候外無之、村方之者、兼て金次郎難村取直人別増、其外地方普請等功労者之儀、致見聞居候付、小前百姓共一同趣法願呉候様村役人へ申出、村役人も元より同意に付金次郎方へ相頼候処、及断候得は、後ニハ小前之者追々相詰、頻ニ相歎候付、其村方是迄之人意ニて、中々趣法行通し候儀相成間敷、中途ニ廃候より却て不相始方可然旨申聞候処、如何様とも任差図、可尽精力旨挙て申聞候付、左候ハゝ先銘々軒下より生立居候茅、不残刈取為見可申旨申候処、直様致帰村、翌日村中男女共罷出茅刈取候段申出候付、右茅不残銘々陣屋え運候様申付、相運候節員数相改、不残買取遣、代銭銘々え相渡候。
 此段、人々之働精不精を知り、且各働之甲乙ニ依て得ル処之銭多少有之、則勧善懲悪因果応報等之理此内ニ籠候。
扨右茅不残村方え遣候間、又々銘々持帰可申、右茅ニて屋根葺替致遣候間、夜稼ニ縄を索、且銘々屋根坪数可申出旨申付相返、其後縄索候員数、屋根坪数書付差出候ニ付、村中家根、堂宮寺院等迄大破之分葺替遣、此後ハ雨漏不致、以前之通宅ニ屈ミ居候にも宜可有之、迚も趣法之儀ハ遂ケ行申義相成間敷旨申候処、何様之事ニても是非仕遂可申旨申出候付、左候ハゝ先荒畑起し為見候ハゝ、堰之儀は早速補理可遣旨申達候処、村中不残罷出、不日ニ致帰発候申出候ニ付、始て村方え罷越、致見分申候は、兼て承り候とは人気格別之儀、此勢分ニては趣法押立候ニ相違無之、早々堰取建可遣旨ニて、先可堰留場所え杭打並へ、其水上え長屋体之物相建置、出水之節流し掛、右杭え留候時一度ニ大石共載セ沈め、終ニ堰形致出来、其後土砂運相固、当時名代之大堰ニ相成、荒蕪元之良田ニ立返、人別御収納古ニ復し申候。川副様ニては、以前亡所同様之節之御取箇ニて御暮御建置、金次郎丹精ニて相増申候米金ハ金次郎え被成御任候付、御知行所武州加生野村趣法金ニ相廻り御世話申居候事。

【8】川副勝三郎様の御知行所は常州(茨城県)真壁郡青木村(桜町より南に三里)は、元来桜川を堰止め田畑の用水として利用していたところ、洪水で押し流されて後、大堰を建築することができなくなり、再興もできず、青木村は亡所同様になってしまいました。人口も減少し村人は困窮し、退転する外になくなりました。村の者たちは、かねて金次郎が難村を復興し人口を増やし、そのほかの地域の工事など功労がある者であることを見たり聞いたりしていたことから、小前百姓など一同が報徳仕法を実施してくださるよう村役人へ申し出ました。村役人も元から同じように考えていたことから金次郎の桜町陣屋へ依頼いたしました。
そのような暇はないと断われれても、後には小前の者などおいおいつめかけて、しきりに嘆願いたしましたところ、青木村のこれまでの心組みでは、なかなか仕法を継続することはできない。中途で廃するよりはかえって始めからやらないほうがましであると申し聞かせました。青木村の百姓たちは、いかようにも差図くだされれば、精力を尽してこぞって行いますと申しました。そうであるならば銘々の家の軒下から生えているカヤを、残らず刈り取ってみるがよいと金次郎が申しましたところ、すぐに帰村いたしまして、翌日から村中の男女とも総出でカヤを刈り取りましたと申しました。そのカヤは残らずそれぞれ陣屋へ運ぶよう申し付けました。そこで運んだカヤの数を勘定して、残らず買い取ってやり、代金を銘々へ渡しました。
 この件は、人々が働くかどうか一生懸命やるかどうかを知り、さらにおのおのの働きの甲乙によって得るところの金に多少が有ること、すなわち勧善懲悪・因果応報などの理をこの内にこめて実地教育したものです。
さてそのカヤは残らず青木村へ遣わして、またそれぞれ持ち帰るよう申しつけ、そのカヤで屋根を葺き替えるよう遣わし、夜稼ぎに縄をなうよう申し付けました。
さらにそれぞれ屋根の広さを数え、その後縄を索う人数、屋根の坪数を書き付けて差し出すようにさせ、村中の屋根、村寺や村社など大きく破損した屋根を葺き替えてやり、この後は雨漏りすることもなく、以前の通り家に住むこともできるようになった、さて仕法のことは遂げることが難しいと金次郎が申しましたところ、どのようなことでも必ず仕遂げますからと村人は申しました。
そうであればまず荒れ地をに起してみるならば、堰のことは早速建築してやろうと申しましたところ、村中残らず出て、日ならず開墾いたしました。
金次郎は始めて村を視察して申しましたのは、
かねて聞いていたように人々の気風もよくなり、この勢いなら仕法も押し立てることができよう、早々に堰の建設にとりかかろうと、まず堰止める場所へ杭を打って並べ、その川の上へ長い屋根のような物を建て置いて、水の流れが多くなったときに流し掛け、その杭へ屋根を留めて一度に大石などを載せて沈め、終に堰の形ができ、その後土砂を運んで固め、その当時有名な大堰と成り、荒地も良田に立ち返り、人口や収納も昔どおりに復しました。
川副様においては、以前の亡所同様の時に困窮していたのが御暮しも建ち、金次郎の丹精で増した米金は金次郎へ任せられ、御知行所の武州の加生野村の仕法金にも廻りお世話申しているということです。

☆青木堰の見学の後、舘野義久先生は「二宮尊徳先生顕彰碑」のところまで案内してくださった。
わざわざ原文とそれを茨城大学の瀬谷名誉教授が下し文にされたものまで用意してくださった。ここに訳文をふりがなに変えて登載し感謝する。

「報徳先生は 姓は二宮 名は尊徳 相模の国栢山の人なり
先生は 天地の功徳に報ゆるを以て教えと為す
その至る所は 則ち荒蕪(荒れた土地)を開き 民の窮するを救う
故に人称して報徳先生と曰(い)う
先生は青木村にいたり 救窮の方修を立て 堰を廃し 荒田を開き 以て窮を化して富を致す
村民今に至るまで先生の徳を称(たた)えて忘れざる也
其の時に当り 青木村は 幕府の士川副氏の菜邑也
村の西北に川有り
桜川と曰う
川は砂底細砂灰の如く
木石築堰(ちくえん)を支えず(細かい砂で流されて堰にならない)
水を引けば洪水必ず壊(こわ)る
修に随い 壊に随えども(壊れた都度修復を繰り返しても) 遂に修せず
故(ふる)き茅筏(かやいかだ)を以て田を填(うず)む
民は怠り 村は貧しく 村民の父老川副氏に聞きて 謀りて先生に懇請す
之を設くるの方針(堰が流れてしまわないように築く)は民を諭し
勤苦して以て茅を切り 蓋(ふた)を開く 
先生も又東山を掘り 石を採りて足るを促す(十分準備をするように督励した)
以て木石を両岸に聚(あつ)め先に川に架(か)して(川にかけわたして)
茅屋(ぼうおく:からぶきの屋根)を作る
民竊(ひそか)に笑いて曰く
堰を築くに何ぞ屋を架するを為すを用いん(堰を築くのにどうして家を作る必要があろうか)
屋の成るに及びて 民をして屋に上り 其の繋縄(けいしょう)を断たしむ
民皆危疑して敢えて之に応ずる莫(な)し
先生忿(いか)りて曰く
我この縄を断たば断たれたる茅屋は一震にして陥る
先生 屋上に立ちて曰く
汝等何の危きこと之あらんや
乃(すなわ)ち木石を投じ 急に屋上に填めることを命じ
然る後屋上に就いて 以て築堰(ちくえん)二門を開き 排水の利を通す
其の後 しばしば洪水に遇(あ)えども 堰復(また)壊れず
或る人 先生を詰(なじ)り 堰を築くに屋を作るの由を以てす(堰を作るのに屋根を作った理由を聞いた)
先生曰く 川底は細砂にして木石の能(よ)く支える所に非ず
独り茅屋のみ雨露を防ぐべし 豈砂を支え不(ざ)るの理有らんや
是れ吾築堰茅屋を沈めし所以(ゆえん)也と
始め 先生此の役を叫すに多く酒餅を具(そな)え
餅を嗜(この)む者には餅を供し 酒を嗜む者には酒を飲ませ
唯(ただ)過飲を禁じ 以て廃役に至らず
弱者には役を課せず 怠者は之を退け 力堪えざる者には半日を以て休ましめ 且つ雇銭は半日より数倍す
是の故に 役夫は労を忘ると云う
廃より堪えて既に復し 田間は渠(みぞ)を穿(うが)ちて水を通し 灌漑充足す
隣村高森も 亦(また)其の余水を是の田より頼み 
産滋(しげ)くして戸倍に殖やし 民を息(やす)む
勤業節倹を貴びて風俗は淳厚 皆先生の徳沢也
先生 天明七年七月二十三日を以て生まる
父利右衛門と曰(い)う
年十六父母を喪(うしな)い 伯父の家に在りて養わる
一日慨然として曰う
天下救う可きは貧民也 暇有れば則ち草鞋をしばり 銭に換(か)え 以て貧氓(ひんぼう;貧しい民)に恵む
伯父を辞して小田原に至る
藩の重臣服部氏の奴と為る
其の家児の通学の毎(たび)に僕として之に従い 傍聴し 以て四書に通ずるを得たり
又仏教を誦し 益々救窮の義を悟る
後に先生は服部氏の託に応え 其の家政を理(おさ)む
小田原藩主の聞く所と為る 先生に任ずるに支邦宇津家の邑政(ゆうせい;村の政治)を治むるを以てす
天保十一年 幕府摺(しょう)して吏と為し 印旛沼開拓の命を受け 用を果たさずして去る
嘉永七年 日光奉行に属す
神邑(日光神領の村)九十村荒蕪開拓の任に当り 居を今市駅の官舎に移す
安政三年十月二十日 病に罹(かか)りて起たず 享年七十有一 
明治十年先生の孫尊親興復社を創(はじ)む
十三年 中村藩主相馬充胤 報徳記を上奏し 
尋(つ)いで朝廷先生に贈るに従四位を以てし 且つ給与復社金一万五千円を其の用資に充つ
先生は 聘(へい)に応じ(招きにこたえ) 救窮に任じ
興復の計は甚だ多く 曰く小田原藩 曰く烏山藩 曰く谷田部藩 曰く下館藩 曰く中村藩 其の事報徳記中に詳(つまびらか)なり
嗚呼 先生の勤倹墾開の事跡は
独り牧民者(国や藩の役人)が効を収むるのみならず
誠に是れ後代も亦村民をして能(よ)く先生の教えを守らしめ 変えず伝うるを以て
則ち将に田土の腴者 其の風俗の美を益する者益(おお)し
頃者(このごろ) 村民謀りて碑を建て 以て其の徳を表わさんとして来たる
徴余の余も 亦先生の徳を聞き 以て文辞の夙(つと)に欽仰(きんぎょう)する所ならざるに忍びず 乃(すなわ)ち喜びて書を為す
 明治30年1月 正三位子爵 押小路実潔 在書」


茨城の史話 茨城大学名誉教授 瀬谷義彦

二宮尊徳の実像ー大和村青木の場合

 茨城での尊徳の活動をみれば、実践家としての尊徳の姿、尊徳の実像が最もよく理解されるだろう。
 それでは相模国生れの尊徳が生地とは遠い茨城と、なぜ深い関係をもつようになったのだろうか。それは彼が文政4年(1821年)35歳の時、小田原藩主大久保氏の分家宇津家の財政立て直しの命を受け、その2年後37歳の時、宇津家の知行地(大名なら領地という)である下野国桜町の陣屋に移ってきたからである。その陣屋は今の栃木県二宮町にあり、そこは地理的に下館市域に隣接する場所にある。桜町での尊徳の評判が、たとえ支配領域は異なっていても、下館藩領をはじめ茨城の諸地方に伝わらないはずはない。荒廃に泣く諸藩や村々が、尊徳仕法を魔力視して、辞を低くして尊徳に頼むのも、地理的条件が大いに関係していたことは間違いはない。
 また尊徳仕法の研究に新分野を開拓した茨城大学教授だった河内八郎氏が、「余りにも有名になっている尊徳像を云々(うんぬん)するよりももっと本質的に、かつ歴史的に二宮尊徳を問題にするには、何よりも、彼を、近世末期、幕藩制崩壊期における北関東人として認識することが必要なのではなかろうか」(「二宮尊徳における常総・野、そして前近代と近代」1987年発行「茨城近代史研究」2号所載)と述べている点に注目すれば、茨城地方の農村も北関東の農村として、同じような構造的危機に直面していたということから、尊徳としても、終局的には引き受けざるを得なかったという点も見逃せないだろう。
 それでは茨城において、尊徳仕法の世話になったところを、仕法開始の年代順に挙げてみることにしよう。
1 青木村(現真壁郡桜川市)
2 下高田村・高田村(下館市)
3 本郷村・堤上村(西茨城郡、岩瀬町)
4 谷田部藩(筑波郡谷田部町)
5 門井村・辻村(真壁郡協和村)他7か村
6 下館藩(下館市周辺の村々)
7 江戸崎村(稲敷郡江戸崎町)
8 大生郷村(水海道市)
9 中根村等5か村
10 花田村(真壁郡関城町)
 これによって藩としては譜代小藩石川氏支配2万石の下館藩と、外様(とざま)小藩細川氏支配1万6千石余の谷田部藩の2つと、村では青木村をはじめ20か村余が尊徳と関係をもったことになる。
 こうしてみると、藩としては小藩だけであるが、水戸のような大藩でも、ある時期尊徳仕法に関心を示したことは、(前)報徳博物館長、佐々井典比古氏に教えられたことを思い出す。
 こうして見ると、一般にはあまり知られないことと思うが、茨城県西の地を主に尊徳仕法ゆかりの地が、意外に多いのに驚かされよう。
 さて茨城で最も早く尊徳仕法と関係した青木村の場合をまず取りあげてみることにしよう。これについては「大和村史」「茨城県史」(近世編)の記事や、茨城県歴史観県史編纂室長、川俣英一氏「幕末の農村計画ー二宮尊徳の青木村仕法について」の論考などが注目される。
 もともと青木村は旗本川副氏の知行地となって以来、代々世襲された。
川副氏の知行地は10か村1,500石余あったが、そのうち青木村が850石の村高で最も大きかった。
 ところが天保2年(1831年)には耕作可能の田畑は以前の3分の1となり、元禄時代130軒もあった家も、人口減少で3分の1以下の39軒になってしまった。青木村荒廃の大きな原因は用水の不便と火災によるものといわれる。用水は桜川を堰止(せきと)めて引用したが、地盤が悪く大雨のたびに決壊して莫大な修理費を要した。古く天領で真岡(栃木県真岡市)の代官所支配下にあった時代は、何とか修理が進められたが、小旗本の支配に移ってからは修理が不十分で収穫は激減した。青木の名主(なぬし)をはじめ37人の農民が連名で、桜町御役所(栃木県二宮町にあった陣屋)の尊徳あてに、用水堰の普請(ふしん)を願って、尊徳に「格別の御慈悲」をもって一村をお救いくださるようにと、嘆願書を提出したのは、天保2年11月末であった。
 これに対して尊徳は、用水の乏しいのを口実として、良田を荒れさせる村民の現状を批判し、自己の生活態度を改め、倹約して有余を生じたならば、他人のかん苦を救うように努力すべきことを強調、それが分からなければ、2度と頼みにくるなと戒めた。名主の舘野勘右衛門はこれをみて感泣し、再び桜町陣屋に尊徳を訪ね、一刻も放置できない窮状を訴えて、尊徳の指示を守ることを誓って嘆願した。
 これに対して尊徳は、「難事業の用水だけを強調し、村民がいちようにできる事をしないのは誤りではないか。茅(かや)芒(すすき)を伸び放題にし、冬になると野火で茅芒原が焼け、民家も焼けて農民は他地方に流離する。愚もまた甚だしいではないか。一村再興の前にやるべきことはまず火災の根元である茅を刈ってみよ。刈り終われば相当の価格で買い取るべし」(大和村史)として、農民らの刈った茅に対して14両余を交付し、桜町の名主や屋根ふき職人を遣わして刈り取った茅で村の神社や民家31棟の屋根替えをした。その費用はすべて尊徳から供与されたという。感激した村民のどんな苦しみにも堪えるという決意に、尊徳も心を動かし、知行主の川副氏の許しを得たので、尊徳は天保4年3月桜町陣屋を出発、青木村を視察したところ、先に約束した荒地の開拓が予定通りできていたので、青木堰建設を引き受けることにした。
 堰の工事は尊徳自身が考案した設計図によって進められ、天保4年3月下旬完成した。人夫約1,300人余、費約60両余で、元禄15年代官支配時代に行った堰工事にくらべると、短時日で費用も半分以下だったので、世人を驚かした。青木村の古老たちはこの時の工事を「極楽普請」(普請・ふしんは土木工事のこと)といって喜んだという。
 尊徳仕法第一期は、この青木堰完成による田の水不足の解消にはじまり、荒地の開発や新規の開発も進み、仕法の分度額を超えたものは、すべて推譲の論理に従って、新しい開発資金に向けられたので収穫も倍増した。しかし飢饉や疫病などの災害もあって、その救済にかかって、思うようには進まなかったが、天保10年には第一期の仕法は完了し、入百姓も加え家数も62軒、人口も323人となり、桜町仕法とともに有名になった。
 しかし仕法の第二期には、新旧農民間の紛争、知行人川副氏の分度不確立が原因で、有終の美をなし得なかったが、堰完成、荒地開発、借財の返済、人口増加などによりかなりの成果を収めたことは事実である。青木村には明治30年尊徳への謝恩の意味で報徳碑が建立された。
 茨城での尊徳の実像はまず青木村においてみることができる。

報徳本教 青木村治績(斯民より)

 本編は二宮尊徳高弟の一人なる故小田又蔵氏が同翁の治績を漢語もて記されたるものなり
 今広く世に示すことの甚だ有益なるを認め本会より殊に吉本襄氏に託して和訳し此に掲ぐることとせり

 青木村は、常陸国真壁郡に在りて、幕府の旗下川副某の采地に属す。初め竹垣某なる者、越中国頸城郡川浦を治めけるが、頗る意を民政に用い、力を尽す所多かりしかば、民皆な其の徳に服しぬ。後ち常陸下野2州を管するに及び、謂(おも)へらく、越中は戸口繁殖して、田畝給せず、動(やや)もすれば、百姓互に耕畝を争ふに至る。今この2州を視察するに、戸口消耗し、田疇荒蕪し、往々産を棄てゝ他に逃亡する者あり、是れ大に釐革(りかく:改革)せざるべからずと。寛政8年、官に建白して、新に官舎を真壁郡東郷に設け、大に育嬰勧農の政を布き、婦人、子を産むときは、初日には銀1分を給し次月より3歳に至るまでは、毎月銀3朱を給し、4歳より5歳に至るまでは、毎月銀2朱を給す。女を嫁せしむる者には、婚資として金1両或は2両を給す。疾(やまい)に罹る者には、薬料として金2両或は3両を給す。又新に家を建て或は其の修繕を為す者には、其の費す所に応じて給与す。馬匹を畜(か)ふ者に至ては、其の価として2両3分2朱を給し、5年を以て還納せしむる等の法を制定し、之を行ふこと多年。戸口生産漸く増殖し、風俗も亦稍々改まりしも、積年の汚習陋俗(ろうぞく)は一旦にして洗除すべくもあらず。やゝもすれば官の恩恵に狎(な)れ、拘束少しく弛むときは、悪風また忽ち作る。而も尚ほ如上の目的を遂行せんが為め、別に助貸法といふを設け、元金に対する年1割の利子を以て、之を諸方に貸付け、収むる所の利子は、挙げて之を貧民に給与し、傍ら富戸を勧誘して資金を貸出さしめ、これ亦共に法の如く行ふ。然るに人民漸く遊惰に流れて、租税を納むるを怠り、督促至れば、田畝家宅の荒廃を口実として、苟も免がれんとす。郡吏も之を奈何(いかん)ともする能はず。遂に其の給与する所を挙げて、租税を償はしむるに至る、其の弊害想ふべきなり。たまたま勤勉にして業を守る者は、皆新に他より移住せし者にして、此等は必竟、単に給与の銭物を目的として、永住の念なき者なれば、少しく食足り財給するに至れば、家を挙げて逃亡し、之(ゆ)く所を知らず。助貸法一たび出でゝ、田畝却て荒(すさ)みぬ。且つ当局者も時々転免せらるゝを以て、たとひ良法の機宜に適したるものあるも之を継承し、また之を改善するを得ず。幾多の経費を支出しながら、終に其の功を収むる能はず。今に至て其の遺功の存する者は、僅に真壁郡庁付近数里の間に過ぎず。竹垣氏の施設は、斯くの如くにして失敗に畢りぬ。
その後竹垣氏他州に転じ、文政元年に至り、田口氏来りて本州を治む。その移民を愛撫すると、竹垣氏の時に同じ。たまたま某氏の采地にかかる常州の八邑籍没して、真岡の管内に入る。田口氏すなわち新たに与総兵衛と云う者と丈八とを挙げて、これを彼の八邑に遣わし、細かにその情形を調査して開発の急務なるとを説かしむ。七邑悉くこれを可とせしに、独り高森村の里長伊十郎曰く、吾が村茅葦天を蔽う。廡下(ぶか)の穢蕪すら猶おこれを芟(か)うこと能わず。いかでこの茫々たる荒野を開拓するを得ん。されど大に工役を興し、督するに官の威令を以てし、十分に資糧を備え、かつ新戸を徒さば、事あるいは成らん、われら亦切に願う所なり。ただこの地、水に乏し、雨水を引けば、あるいは少しく灌漑の用に供するを得んも、その田亦幾ばくもなし。以て数口を支うべからず。余は皆曠渺(こうびょう)たる荒野のみ。たとい大役を起すも、畢竟するに乾畝たるに過ぎず。その水田の如き今望むべからず。然るに新たに移住し来る者のごとき、素より貧農にして、些かの備蓄なき者なれば、水田の利に頼るにあらざれば、恐らくは存立せざらんと遂に丈八の為めに、青木村の古堰を起すの甚だ便宜なるを言う。丈八曰く、この事官許を得ること容易なり。ただ青木可(し)かざるときは、着手し難し、願くは子急にこれを謀れと。伊十郎すなわち青木村に到りてこれを説く。しかもその事挙らず、遷十歳を経、闔境(こうきょう)の人戸存立すべからず。すなわち相議し、村を挙げて先生の指導と幇助とを請うことに決し、邑主に抵りてその認可を請うこと甚だ力めしも、遂に何らの沙汰を得ず。すなわち丈八を江戸に遣わし、直接川副氏の執事並木柳助に会見して曰く、事情切迫、全村これを待つこと、大旱の雲霓(うんげい)も啻(ただ)ならず。何ぞ遅々此に至るやと。並木、丈八及び其の徒に告げて曰く、汝らその金二郎を如何の人と思うや。彼れ人と為り奇偉絶特己を倹して、人を恵み、かつ最も墾荒拓蕪の道に長ず。われらの甚だ敬する所なり。独り疑うその操財の道。人を択ばずしてこれを貸し、貸して利息を取らず、これ何の法に遵うや。財は天下の至宝なり。人これに由て活き、亦これに由て死す。みだりに散ずべからず。もしそれ父母の邦、親戚の郷、故旧知己の間柄は、われしばらく言わじ。彼此(かし)隔絶の地、一面の識もなく、而も随て乞えば随って貸すと云うがごとき、天下またこのごとき理あらむや。これ解せざるの一なり。これを貸して什(じゅう)一の利子を徴するは、天下の通法なり。もしそれ重きを捨てて軽きに従い、厚きを去りて薄きにつくはすなわちこれ有り。王公の紹介あるにあらず、災厄非常の事あるにあらざるに、一例恩●(おんけん)して利息を収めず、その跡あに奇に渉らずや。かつ利羸(りるい)を算せざれば、元金何に由りて増殖するを得ん。限りある財を以て、限りなき乞いに応ず、これ解せざるの二なり。証券を取れてすら、なおあるいは訟庭を煩わすことあり。然るに今これを貸すに、証文を書きず、期限を定めず、ほとんどこれを委棄するがごとし。これ最も解せざる三なり。およそ非常の業ある者は、必ず非常の望みを抱く。われを以てこれを視るに、金二郎のごときは、あに世俗のいわゆるヤマ師なる者にあらざらんや。
かかる者に軽々しく大事を託して、笑を四方に取らんよりは、依然旧によりて困労し、臣主協力一致して、力を開拓に尽し、徐ろに康寧を図るにしかず。これ遅疑して決せざりし所以なり。かつ吾が主仁慈にして、民を視ること子のごとし。あにその発達を欲せざらむや。積年これが為めに苦思し、百方これが為めに●慮(ぐんりょ)しつつある事は汝らも亦明知する所ならむ。然るに家事窘迫(きんぱく)して、資用足らざるを以て、今手を下すに由なし。嗚呼、慈母ありと雖も、乳の哺すべき無きをいかんせん、今汝ら主の意を察せず、呼号牆(かき)に鬩(せめ)いて、復た外侮を慮らざるは何ぞや。金二郎亦仁恵の人ならむも、あに主公の仁慈に如かんやと。丈八驚て曰く、図らざりき執事の疑を容るる此に至らんとは。然りと雖もその人は、実に非常奇偉の士なり。吾等その近郷に在りて、その始めや亦猶お執事のごとかりしも、面謁稍々(やや)熟するに及で、名と事と相符し、言と行と相戻らざるを見、すなわち偽善の徒の、到底企及すべきにあらざるを知りぬ。



小学生による学習発表

茨城県桜町市立 大国小学校(劇・歌) 2011年10月22日全国報徳サミット(茨城県)桜川市大会にて

児童:皆さんこんにちは。大国小学校では4年生の社会科で郷土の発展に尽してくれた二宮金次郎さんと青木の人々の努力について学習しました。

調べたことをもとにして、みんなで劇をつくったのでご覧ください。(拍手)

 

児童:ここは大国小学校の校庭です。さくらさんたちは組み立てられている古い柱を見つけました。

児童:これは昔、なにかに使われていた柱なにかなあ。

児童:二宮金次郎さんのお像の前にあるから、なにか関係があるんじゃないの。

児童:うーん、分からないな。

児童:誰か教えてくれないかな?

金次郎君:やあやあこんにちは、僕は金次郎君と言うんだ。みんなに言われて、過去からタイムスリップしてきたんだよ。

児童:タイムスリップ?信じられないわね。金次郎君はいつ、どこで生れたの?

金:天明7年、小田原の生まれだよ。それより、君たちも薪みたいなものを背負っているんだね。一緒に山へ行こうよ。

児童:これは薪じゃないわよ。ランドセルと言って本を入れておくものなのよ。

金:へえ。便利なものだね。僕は、いつも本を読みながら歩いているんだよ。

児童:勉強するのはえらいけど、いまは交通事故にあうから、そんなことをしていたら怒られるよ。

金:へえ、この時代はいろいろ大変なんだね。それより、僕はタイムマシンとどこでもドアをもっているんだ。これを使って、この柱の謎を解いてあげるよ。

さあ集って。

まずはどこでもドアで、青木地区の薬王寺というお寺に行くよ。どこでもドア!

児童:どこかで聞いたことがあるわね。

児童:ドラえもんのパクリじゃないの。

児童:いいから、いいから。

 

金:さあ、着いたよ。ここが薬王院だよ。

児童:あっ、和尚さんだ。こんにちは。

児童:わたしたち、大国小学校の校庭にある柱について調べてうるんですけど。

和尚:ああ、あの柱か。あの柱とこの薬王院にある山門の柱は、1916年、大正5年の頃まで青木の堰に使われていたんだよ。

堰を作ってくれた人に感謝して、記念に残されているんだよ。

青木村金次郎像.JPG

 

児童:へえ、そうなんだ。100年ぐらい前のものなんだね。

児童:今でも柱として使われているなんてすごいんだね。

金:よし、それじゃ次は、いまの青木の堰に行ってみよう。

児童:やった。また、どこでもドアを体験できるね。

金:何を言っているんだよ。近いんだから歩きだよ。

児童:ええっ、近くないわよ。4キロメートルぐらいあるわよ。

金:4キロメートルだって、たった一里だろ。二宮金次郎は栃木県の桜町の陣屋から青木まで毎日歩いて通ったんだよ。現代人は情けないな、しっかりしろよ。

児童:分かったよ、それじゃ、来月の持久走大会のために、みんなで走ってみるか。

児童:それいいね。

児童:よし、負けないわよ。よーいどん。

児童:1位。

児童:2位だ。

児童:3位だ。

児童:あれ、金次郎君は?

児童:遅いわね。なかなか来ないわよ。

児童:何してるのよ。金次郎君。

金:いや、じつは走るのはちょっと苦手なんだよ。

児童:まあまあそれより、これが今の青木堰だよ。

児童:水門を閉めると川の流れを止めることができるんだね。

児童:水を止め、水位を上げ、ここから田んぼに水を引く用水路をつくっているんだよ。

児童:今の堰はコンクリート製なのね。木でつくられた昔の堰を見てみたいなあ。

 

現在の青木堰.JPG

 

金:よし、それじゃあタイムマシンで1833年天保4年に行ってみようか。

児童:80年ぐらい前だね。みんなちゃんとつかまって。

児童:レッツゴー!

金:さあ、着いたよ。この時代に二宮金次郎さんが青木の堰をつくってくれたんだよ。金次郎さんは川と同じぐらいに家をつくり、前からある堰のところにこれをおとし、その家の回りに大きな石や竹や藁を詰めて川の流れを止めたんだ。それを土台にして、流れを調整する水門の付いた堰を完成させた。

青木堰掲示板.JPG

 

児童:へえ、すごい方法を考えついたのね。

児童:今の工事に使うような機械はないので、山から木を切り出したり、土や石を運ぶ仕事は大変だったのね。

児童: 金次郎さんの堰ができたおかげで、水不足が解消され、お米がたくさん採れるようになったんだよ。

児童:青木村の人たちは、そのあとも堰を修理したり、つくり直ししたりしながら大切に使ったんだね。

児童:金次郎君ありがとう、あなたのおかげで青木の堰のことがよくわかったわ。

 金:よし、それじゃあ、そろそろ大国小学校に戻ろうか。

児童:うん。

金:みんな、ちゃんとつかまって。

児童:レッツゴー!

児童:こうしてわたしたちは大国小学校の校庭に戻ってきました。

児童:昔の青木村の人たちのあきらめない強い気持ちのおかげで、今の青木の堰やゆたかなふるさとがあるんだね。

児童:このままでは村が滅んでしまう。貧しく苦しい生活をなんとかしたいという願いが金次郎さんに伝わったのよ。昔の人たちが故郷を愛した気持ちを引き継いで、わたしたちも伝統を大切に守っていきたいわね。

児童:金次郎君。

児童:教えてくれた御礼にみんなから歌をプレゼントするよ。

 

児童全員:(二宮金次郎の歌) 

 

児童:これで大国小学校の発表を終りにします。ありがとうございました。

児童全員:ありがとうございました。

児童:礼。(拍手)

 

 

 

 

 

(完)



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