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尊徳先生を讃える:草野正辰、森信三

内村鑑三

「後世への最大遺物」より

私は近世の日本の英傑、あるいは世界の英傑といってもよろしい人のお話をいたしましょう。
この世界の英傑のなかに、ちょうどわれわれの留(と)まっているこの箱根山の近所に生まれた人で二宮金次郎という人がありました。
この人の伝を読みましたときに私は非常な感覚をもらった。
それでドウも二宮金次郎先生には私は現に負(お)うところが実に多い。
二宮金次郎氏の事業はあまり日本にひろまってはおらぬ。
それで彼のなした事業はことごとくこれを纏(まと)めてみましたならば、二十ヵ村か三十ヵ村の人民を救っただけに止(とど)まっていると考えます。
しかしながらこの人の生涯が私を益し、それから今日日本の多くの人を益するわけは何であるかというと、何でもない、この人は事業の贈物にあらずして生涯の贈物を遺した。
この人の生涯はすでにご承知の方もありましょうが、チョット申してみましょう。
二宮金次郎氏は十四のときに父を失い、十六のときに母を失い、家が貧乏にして何物もなく、ためにごく残酷な伯父に預けられた人であります。
それで一文の銭もなし家産はことごとく傾き、弟一人、妹一人持っていた。身に一文もなくして孤児です。
その人がドウして生涯を立てたか。
伯父さんの家にあってその手伝いをしている間に本が読みたくなった。
そうしたときに本を読んでおったら、伯父さんに叱られた。
この高い油を使って本を読むなどということはまことに馬鹿馬鹿しいことだといって読ませぬ。
そうすると、黙っていて伯父さんの油を使っては悪いということを聞きましたから、
「それでは私は私の油のできるまでは本を読まぬ」という決心をした。
それでどうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、菜種(なたね)を蒔(ま)いた。
一ヵ年かかって菜種を五、六升も取った。
それからその菜種を持っていって、油屋へ行って油と取換えてきまして、それからその油で本を見た。
そうしたところがまた叱られた。
「油ばかりお前のものであれば本を読んでもよいと思っては違う、お前の時間も私のものだ。本を読むなどという馬鹿なことをするならよいからその時間に縄を綯(よ)れ」といわれた。
それからまた仕方がない、伯父さんのいうことであるから終日働いてあとで本を読んだ、……そういう苦学をした人であります。
どうして自分の生涯を立てたかというに、村の人の遊ぶとき、ことにお祭り日などには、近所の畑のなかに洪水で沼になったところがあった、その沼地を伯父さんの時間でない、自分の時間に、その沼地よりことごとく水を引いてそこでもって小さい鍬(くわ)で田地を拵(こしら)えて、そこへ持っていって稲を植えた。
こうして初めて一俵の米を取った。
その人の自伝によりますれば、「米を一俵取ったときの私の喜びは何ともいえなかった。これ天が初めて私に直接に授けたものにしてその一俵は私にとっては百万の価値があった」というてある。
それからその方法をだんだん続けまして二十歳のときに伯父さんの家を辞した。
そのときには三、四俵の米を持っておった。
それから仕上げた人であります。
それでこの人の生涯を初めから終りまで見ますと、
「この宇宙というものは実に神様……神様とはいいませぬ……天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに委(ゆだ)ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる」
というこういう考えであります。
その考えを持ったばかりでなく、その考えを実行した。
その話は長うございますけれども、ついには何万石という村々を改良して自分の身をことごとく人のために使った。
旧幕の末路にあたって経済上、農業改良上について非常の功労のあった人であります。
それでわれわれもそういう人の生涯、二宮金次郎先生のような人の生涯を見ますときに、
「もしあの人にもアアいうことができたならば私にもできないことはない」という考えを起します。
普通の考えではありますけれども非常に価値のある考えであります。
それで人に頼らずともわれわれが神にたより己にたよって宇宙の法則に従えば、この世界はわれわれの望むとおりになり、この世界にわが考えを行うことができるという
感覚が起ってくる。
二宮金次郎先生の事業は大きくなかったけれども、彼の生涯はドレほどの生涯であったか知れませぬ。
私ばかりでなく日本中幾万の人はこの人から「インスピレーション」を得たでありましょうと思います。
あなたがたもこの人の伝を読んでごらんなさい。
『少年文学』の中に『二宮尊徳翁』というのが出ておりますが、アレはつまらない本です。
私のよく読みましたのは、農商務省で出版になりました、五百ページばかりの『報徳記』という本です。
この本を諸君が読まれんことを切に希望します。
この本はわれわれに新理想を与え、新希望を与えてくれる本であります。
実にキリスト教の『バイブル』を読むような考えがいたします。
ゆえにわれわれがもし事業を遺すことができずとも、二宮金次郎的の、すなわち独立生涯を躬行(きゅうこう)していったならば、われわれは実に大事業を遺す人ではないかと思います。

☆二宮尊徳先生は、相馬藩(今の福島県相馬市)の度重なる依頼に応じて、一藩仕法を行った。
 これが最も理想的に行われた仕法であると言われている。
 全ての事業は人である。
 尊徳先生の一番弟子といえる富田高慶は、相馬藩の出身で、藩政の役に立ちたいという燃えるような熱情をもって江戸に出て勉学に励んだが、藩の窮状を立て直す方法を教えてくれる人にめぐり合うことなく、憂えていた。
 ところが、今の栃木県の桜町で村々を立て直した人がいると聞き、弟子入りしに行ったのである。それが二宮尊徳先生である。
 尊徳先生は、学者には用はないとして最初にべもなく取り合わなかった。
富田は、そんなことではくじけなかった。相馬藩を立て直すにはこの人のもとで教えをこう以外にはない。堅い決意があった。
 そこでその村で今の塾のようなものを開き、子供たちに勉強を教えながら、何ヶ月も弟子入りの時期を待ったのである。
 先生はその志の堅いことをうべなわれて、ようやく弟子となることを認められたのである。
 以来、富田久助(後に高慶)は先生の片腕として、尊徳先生の代わりに報徳仕法を指揮するほどになった。
 富田はまた、相馬藩の重役に二宮先生の仕法がいかに素晴らしいかを説いた。
 そこで江戸家老草野正辰は尊徳先生に会い、直接話を聞き、先生の人となりとすぐれた論を聞いて感動する。
 その感動から、相馬藩の一藩仕法が行われる。この仕法に尊徳先生自ら相馬藩に出向かれることはなかった。富田が実際の総指揮をとり、相馬藩から多くの若者が先生の陣屋に研修に来てそのやり方を学んで、相馬藩内の村々に仕法を行っていったのである。
 すなわち、尊徳先生の報徳仕法というのは、先生個人の資質や指導によるのではなく、より普遍的な方法であることが実証されたのである。

 事業は人である。人は感激し感動することから、周りの人を真に動かしていく。実に相馬藩の仕法が成功したのは、富田の熱誠と草野の感動にあったのである。
 草野は尊徳先生にあって、感動してこういった。
「私は壮年よりこの老いぼれになるまで、国家を再興し、百姓を安んじようと身命を投げうち、心を砕いて尽くしてきた。
 しかしその志が達せられず、一藩を立て直すことなく終ってしまうかと嘆いていた。こんな近くの野州(栃木県)にこのような傑出した仁者がおられようとは思わなかった。先生の道を国家(相馬藩)に開いて、その規則を立てるときは、国が再興し、永久に安泰なることは疑いがない。」
時に草野74歳である。
尊徳先生もまた、こうおおせられた。
「私は草野が忠臣であるとかねてから聞いていた。今その人となりを見るに、その内は誠直であり、外は温和である。この人があって国政を指揮し、私の道を採用するならば、相馬藩の再興は疑いない」
 草野は、国元の家老池田にあてて、しきりに報徳仕法を採用することを説いた。しかし、たかが農民出身の者に我が藩をかきまわされてはならないという反対論も根強かった。草野は繰り返し繰り返し手紙を書いて郡臣らに言い聞かせた。
「この人は誠に傑出していて、愚かな者のうかがい知るものではない。
 私が古に思いをいたし、この人に匹敵する人を求めるに
ただ一人、周の太公望(中国の周の国が興るとき、周王の師として教導した)であろうか。
思わざりき、このような近くに、このような賢者があろうとは。
 古今に論説が万人にすぐれた者があっても、事業にいたってはその論にいたらざる者が多い。
 しかしながら二宮の事業あるいは衰退した国を興し、貧民を恵み、廃地を挙げること幾千万、その教え導くことは草が風になびくがごときである」と。まさに論説ではなく実践こそ先生が重んじられたことである。
 しかし、国元の郡臣は、草野は老いぼれて、人を褒めるにもほどがあろうか。今の世に太公望ほどの人があろうかとあざけったのであった。
 しかし、草野の評したとおり、二宮尊徳先生は、日本が生んだ最もすぐれた思想家、実践者として幾千年の時の流れにたえるであろうと思う。
 誠に中国における太公望に匹敵するほど二宮尊徳先生は偉大なのであると私も思う。
 その思想は、書物から学んだものではなく、先生自らがこの大宇宙の大法則にいちいち定規をあてがうように検証されたのだ。だからこそ、先生は「この宇宙が崩れるまで、水が水平であり、糸に錘をつけてまっすぐ下がっている間は私の立てた法は有効である」と言われるのだ。


○森信三
「日本民族中、ある意味では最大の偉人ともいうべき二宮尊徳の思想と精神が、21世紀を迎えるにあたり、われら日本民族の指導原理として、再び脚光を浴びるのもそう遠くはないか、と思われるのである。」
 森先生は、全世界がこれに目覚めるのはおそらくは21世紀の後半であろうと言われていたそうです。

森信三先生の年譜には、このようにある。

「1928年(昭和3年)33歳
 二宮尊徳の「二宮翁夜話」の開巻劈頭にある『天地不書の経文を読め』との一句により、学問的開眼を得たり。」

県立図書館の書庫に1958年2月発刊の「青年に語る日本の方向」(森信三著)を借りたら、
その経緯をこう話されていた。

森先生は旧制高校のとき病気をしたため、3年も大学に入るのが遅れた。
京都大学の哲学科に入った。
戦前は哲学は諸学の王といわれ、期待を胸に入ったが、当時はドイツ哲学が全盛で、西洋の思想家の学説の紹介から一歩も出ていなかった。
西晋一郎という師に出会い、全著作を読破したが、そのアカデミックさにどうしても無条件ではついていけなかった。
真の哲学とは、もっと現実を対象として、そこから真理を求めるものではないか?

大学を出て3年あまりたった頃、「二宮尊徳翁夜話」を見て驚いた。
その最初のところに
「それわが教えは書籍を尊まず、ゆえに天地をもって経文とす。(略)
かかる尊き天地の経文を粗にして書籍の上に道を求むる学者輩の論説はとらざるなり。」

と喝破されてあるではありませんか。
これらの文字を見たときのわたくしの驚き、それは単なる驚きなどという言葉で現わせるものではなくて、
全くこの宇宙がわたくしの眼前で真っ二つに裂けて、その断面を見せつけられたような気がしたのです。
そうしてここにこそ真の道があり、真の学問とは、このような大精神を現代の哲学や科学を媒介として論理的体系的に表現するものではならぬと考えたわけです。
それは文字どおりわたくしにとっての魂の開眼だったのです。
わたくしは、そのとき尊徳翁から得たものを、簡明に「真理は現実のただ中にあり」と言う言葉で表現し、わたくしの学問観の根本公理をなしているのです。

○二宮尊徳の思想には大体4つの根本原理があります。
それは 1 至誠 2 勤勉 3 分度 4 推譲 という4つです。

そのうち第一の至誠というのは、人間の私心のない真心ということで、これは確かに尊徳の根本信念といってよいでしょう。

次の勤勉ですが、これも説明せずとも、あの歩きながら薪をしょって本を読んでいる姿がよく象徴しているはずです。

そこで尊徳の思想で最も特色のある点といえば、結局第3と第4ということになりましょうか。

その第3の分度というのは今風の言葉でいえば「生活の基準」とか「標準」ということで、手っ取り早くいえば、一ヶ月をいったい、どれくらいでくらすかという問題です。
その点を尊徳は極度に厳しく力説しているわけで、そのために一村の米の取れ高を、時には180年もさかのぼって調査したこともあるほどです。
つまりこの村では年にどれだけとれるのが標準である。
したがってそれから勘定して、年にどの程度の暮らしにしないと、結局赤字になってしまうぞーというわけです。

ここで一つぜひ申しておかねばならぬと思うのは、尊徳という人の貧富感で、これが普通の考えと違っているのです。
というのは、普通の人ですと、とかく収入の大小だけで貧富を決めてしまおうとする。

つまり月収2万円(1958年今から50年前に書かれた本である)の人は貧、3万円の人はやや富み、5万10万と月収のあるのは富というふうに考えたがるわけです。
皆さんもおそらくそうでしょう。
ところが尊徳先生は一寸違うのです。
というのは尊徳先生は収入と支出をつき比べてみて、そこに残りがあれば富であり、もし赤字となるなら、いかに収入が多かろうとも、それは結局貧だというわけです。
ですから月収は5万円あっても、月々6万円も費う者は貧乏であり、それに反してたとえ月収は2万円でも、月々の暮らしを1万8千円でやってゆくなら、その人間は、富の部に入るー少なくとも貧ではないというわけです。
ですからこれは。結果的現実で押さえる実に手堅い貧富観といってよいわけです。

この尊徳の貧富観は、経済的真理の不動の鉄則の一面を語るもので、それは小にしては個人経済から、大にしては国家の歳入歳出についても当てはまると思うのです。

尊徳先生の第4の原理たる推譲の原理ですが、
この推譲の原理は、詳しくいうと、さらに自譲と他譲という二つに分かれるのです。
そのうち自譲とは、一身一家のために譲るということであって、簡単に申せば、蓄積であり貯蓄ということなんです。
尊徳という人は、実に面白い人でして、
貧乏人というものは昨日のために今日働き、去年のために今年働くが、
富める者は明日のために今日働き、来年のために今年働くーといっております。
では昨年のために今年働くとは、いったい、どういうことかというに、
去年の端境期に米が足りなくなって、つい地主に借りたものは、今年の秋の収穫からこれを返さねばならぬ。
しかも利息までつけてーというわけです。
ここが貧乏人は去年のために今年働くと、尊徳先生が言うゆえんです。

そこで他譲の教えですが、それは尊徳先生によれば、人間は自分だけの暮らしを考えているのでは鳥やけだものと同じことで、人間が真に人間らしく生きるには、自分の暮らしの一部をつづめて、それを他人に推し及ぼすのでなければならないといっているのです。
そしてこの場合注意してよいことは、尊徳はここで施すといわないで、譲るとか推し及ぼすとかいっている点で、ここに彼の立場の道徳宗教的な点があるわけです。

つまり尊徳の考えとしては、財物というものは、もともと天下のものであって、誰一人これを絶対的に所有することのできるものではない、という思想がその根底に横たわっているわけです。
ですから他人に施すといわないで、他にゆずるといっているのです。

ところで尊徳の推譲の教えですが、尊徳は一応収入の4分の1を天引きせよ、そうしてそれを最初のうちは自譲、自分のために貯え、ついで余剰を他譲せよといっているのです。

哲人二宮翁(「森信三先生随聞記」50ページより)

森信三先生は平成4年(1992年)97歳をもって、一代の「生」をおえられましたが、
その前に、21世紀の展望のいったんを予言せられました。
それは、
日本の立ち直るのは、2025年からだろう。
そしてそれは、二宮尊徳先生のお教えに準拠せねばならぬでしょう。
そして世界が、日本の立ち直りを認め出すのは、2050年だろう

と、先見の明を示されました。
また、
『二宮翁夜話』こそは、日本人の論語とすべきものです
と。

この透察と展望は、日本民族に明るい光明を見いだすものであると同時に、
いかに哲人尊徳翁の説かれた天道と人道の原理原則を信じて疑わないものかを物語るものです。

先生の南千里のお宅をはじめてお訪ねした際、これをあなたへと授与くださったのが、
尊徳翁の『報徳要典』で、その扉書きとして
「これ正に古今に通ずる永遠の真理なり」
を、揮毫くださっております。
その時すでに、尊徳翁のご教説こそ、21世紀を導く指導原理であると徹見くださっております。

その根本精神は、至誠であり、その方法は、勤・倹・譲すなわち、一に勤労、二に分度、三に推譲と教えられております。


このGAIAの「報徳記」及び「二宮翁夜話」はその「報徳要典」に拠っている。

○二宮尊徳先生道歌

ふる道につもる木の葉をかきわけて 天照神のあしあとをみん

(二宮翁夜話1)
(前略)
それ、わが教えは書籍を尊ばず、ゆえに天地をもって経文とする。
予の歌に「音もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は書かざる経を繰り返しつつ」とよんだのがある。
このように日々繰り返し繰り返して示されている天地の経文に誠の道は明らかである。
このような尊い天地の経文をよそにして、書物の上だけで道を求める学者連中の論説は私はとらない。
よくよく天地の経文を拝見して、これを誠にする道を尋ねるべきである。
それ世界の横の面は水面を至れりとする。
たての直はさげぶり(垂針)を至れりとする。
およそこのような万古不動のものがあるからこそ、地球の測量もできるのだ。
それを外にして測量の技術があろうか。
暦道の表をたてて影を測る方法や算術の九九のように、みな自然の法則であって万古不変のものである。
このものによって天文も考えることができ、暦法をも計算できる。
このもの外にしてどんな智者でも、実行する方法はないだろう。
それ我が道もまたそうである。天ものいわず、四時行われ、百物なるところお、書かざる経文、言わざる教戒、すなわち米をまけば米が生え、麦をまけば麦の実るような万古不易の道理によって誠の道に基づいて、これを誠にする勤めをなすべきである。

(語録390)
 世人の著す書物は、多くは空言である。身を修め家を整える書物はまだ聞いたことがない。また荒地を開墾し衰村を復興する書物も聞いたことがない。廃国を興す書物などは、なおさらのことだ。みな、いたずらに古語をかすめとってきて、空論を拡張するだけのこと、それが実際の役に立たぬのは当たり前だ。私の場合は、荒地を開墾し、廃家を復興してから後にこれを書き、衰村を取り直し、廃国を復興してから後にこれを記すのである。
 お前達はよろしく私の言行を記すがよい。私がもし自分で書いたら、自慢するようである。お前達がこれを書き記せば、すなわち仁であり、義であり、これを世々の教えとして千年の後に伝えても、断じて恥ずかしいことはないのだ。

○二宮尊徳先生道歌

かりの身を元のあるじに貸し渡し 民安かれと願ふこの身ぞ

(二宮翁夜話10)
(前略)この道歌は
それこの世は、我、人ともにわずかの間の仮の世であるから、
この身は仮の身であることは明らかである。
元のあるじとは天をいう。
この仮の身をわが身と思わず、生涯一途に世のため人のためのみを思って、国のため天下のために、益あることのみを勤め、
一人たりとも一家たりとも一村たりとも困窮を免れ、富裕になり、
土地開け、道や橋が整い、安穏に世を渡ることのできるようにと
それのみを日々の勤めとし、朝夕願い祈って、怠らないわがこの身であるという心で詠んだものである。
これは私の終生の覚悟である。私の道を行おうと思う者は知らなければならない。

<大久保忠真候の金次郎評> 
鵜沢が大久保忠真候に面謁したところ、
大久保候からこうお尋ねがあったという。
「金次郎は何歳になったか?」
「当年49歳と覚えております。」
「それでは格別年老いているわけではないし、追々道が開けることもあるだろう。
あの者は、今日の所業が自然と天理にかなっておる。
世人が多く学問などしても、身の行いを正さぬところから何の役にもたたぬことにままなっていく中に、金次郎は全く青表紙(論語などの儒学の書)の学問と違い、正業、物に当てて執り行っていること、つくづく感心している。」
と喜ばれて仰せられた。


勝海舟「氷川清話」より
「いたって正直な人だったよ。だいたいあんな時勢にはあんな人物がたくさんできるものだ。時勢が人を作る例は、おれは確かに見たよ」

御木本幸吉


「文部大臣従三位勲二等法学博士 一木暮徳郎寡款」

「二宮尊徳翁ノ誕生セラレタル旧宅ノ趾ニシテ、又其ノ興復ノ辛酸ヲ嘗メラレタルノ地ハ、即チ此ノ總計二五九坪ノ地積、是ナリ。明治四十二年三重県鳥羽町ノ人、御木本幸吉氏其ノ地久シク堙晦二属スルヲ憾ミトシ、貲ヲ出シテ此ノ地ヲ購ヒ、工ヲ起シテ、適当ノ設備ヲ爲シ、其ノ歳十一月十五日ヲ以テ、土工ノ一切ヲ竣へ、其ノ地積ヲ挙ゲテ之ヲ本会二寄附セラレタリ。本会ノ有志、及チ碑ヲ建テ、翁ノ遺蹟ヲ顕彰セムコトヲ謀ル。遠近聞ク者、争ウテ醵金ヲ寄セ、女学校生徒及ビ小学校児童ノ之二応ジタル者、亦少シトセズ、頃者、碑石漸ク定マル。因テ其ノ次第ヲ記シ、之二勒ス。」
大正四年八月 中央報徳会

○稲盛和夫さんが。「リーダーシップ論」の講演の質疑応答で二宮尊徳についてこう話されている。

 明治時代、当時極東の1弱小国であった日本が、欧米の近代国家の後を追って行こうとするときに、内村鑑三が英文で『代表的日本人』という本を書いています。
 そこで彼は、西郷南洲、上杉鷹山、二宮尊徳など5人の名前を挙げ、「これが日本人です」といって、世界に紹介しております。そこで紹介されている二宮尊徳は、子どもの頃に両親を亡くし、大変苦労しながら、鍬1本、鋤1本で貧しい農村を次から次へと建て直していった人です。晩年その功績が認められ、幕府に召し抱えられ、殿中に参上したときの彼の様子を内村鑑三はこう書いています。
 「裃をつけて殿中に上がった二宮尊徳は、あたかも生まれながらの貴人の如く振る舞った。なみいる諸大名の中にあっても何の遜色もないぐらい、立ち居振る舞いといい、言動といい、どこの貴族の生まれかと思われるほど立派なものであった」
 二宮尊徳といえば、柴を背負って本を読んでいる銅像を思い出しますけれども、彼はそうやって労働の合間に独学で勉強しただけで、学問らしい学問を修めたわけではありません。その彼が、素晴らしい人間性を築いたのは、若い頃から労働を通じて心を磨いてきたからなのです。現代に生きる我々は、戦後の労働価値観の中で、労働を報酬を得るための手段でしかないと思っていますが、私はそうではないと思っています。「勤労だけが人間の心を磨く、魂を磨く唯一の方法である」と思っています。このことは内村鑑三の描いた「二宮尊徳の晩年の姿」を見れば、分かるような気がします。
    そういう辛酸をなめずに、いい会社に入られ、エリートとしてずっと躍進を遂げられて、最終的に経営者になられた方々の場合には、やはり精神的にどこか弱いところがあるのではないかと思います。私は、いまこそ精神的なものを経営者にぜひ求めるべきだと思っています。


稲盛さんは、講談社インターナショナルから「対訳 代表的日本人」を監修して出版された。
その164ページではこう訳されている。
「不思議なことに、卑賤の生まれで、まったく教育を受けていない農民の尊徳が、『上流階級の人たち』とつき合うときには『真の貴人』(原文:real noble)のようにふるまうことができたのである。」

「成功」と「失敗」の法則にも数箇所二宮尊徳にふれられている。

「二宮尊徳は江戸時代、土地も人心も荒れ果てた貧しい多くの村を何の奇策も用いることなく豊かな村に変えていきました。彼のとった方法とは、彼自身が鋤(すき)一本、鍬(くわ)一本を持ち朝早くから夜遅くまで働く一方、村人たちに勤勉、正直、誠実という人間として最も大切な道徳・倫理の大切さを説き続けるというものでした。

 そして村人たちが、彼を信頼し尊敬し、同じように一所懸命働き始めたとき、その村は物心両面において豊かになったのです。

「至誠の感ずるところ、天地もこれが為に動く」と明治の思想家内村鑑三に言わしめたように、二宮尊徳は、誠を尽くし一所懸命に努力すれば天地も助けてくれる、うまくいかないのは自分の誠意が足らないからだと信じ、ただひたすら、努力を続けたのです。」
 

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