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内村鑑三:代表的日本人

「代表的日本人」内村鑑三著

序文

 この小著は、今より13年前、日清戦争の最中、『日本及び日本人』という表題をもって刊行したもののうち、その主要部分の再版であって、一友人の手によって多くの訂正を加えられたものである。我が国に対する余の青年時代の愛が全く冷却したにかかわらず、余は我が国民の有する多くの美しい性質に盲目たることができないだけでなく、彼女こそは今なお『我が祈り、我が望み、我が勤めを、自由に』与えるべき国土、然り、唯一の国土である。余が今なお我が国人の善い諸性質ー普通に我が国民の性質と考えられている盲目なる忠誠心と血なまぐさい愛国心を除いたそれ以外の諸性質ーを外なる世界に知らしめる一助となることが、おそらくは外国語をもってする余の最後の試みなりと思われる本書の、目的とするところである。
  1908年1月8日
      東京近郊柏木にて   内村鑑三


「菊花香る」

 英文『代表的日本人』の改版がでました。英文の読める方は読んでいただきたくあります。
日本語で言いかねることを欧文をもって言うことができます、日本を世界に向かって紹介し、日本人を西洋人に対して弁護するには、いかにしても欧文をもってしなければなりません。
私は一生の事業の一つとしてこの事をなしえたことを感謝します。
私の貴ぶ者は2つのJであります。
その一つはJesus(イエス)であります。
その他の者はJapan(日本)であります。
本書は第2のJに対して私の義務の幾分かを尽したものであります。
 (大正10年(1921年)11月)

この前8月11日の日記にこうある。

「英文『代表的日本人』改版の校正をなしつつある。今日上杉鷹山の分を終り、ニ宮尊徳の分を始めた。今より28年前にこの著をなしておいた事を神に感謝する。真(まこと)の日本人は実に偉い者であった。いまのキリスト教の教師、神学士といえども遠く彼らに及ばない。アメリカの宣教師等に偶像信者とよばわるとも、鷹山や尊徳のような人物になるを得ば、沢山である。余はある時はキリスト信者たることを止めて純日本人たらんと欲することがある。 (1921年8月11日)

「代表的日本人」より

二宮尊徳ー農民聖人

1 今世紀初頭の日本農業

「農業は国家存立の大本である」とは、まさにわが国のことです。
海運や商業上の利便に恵まれているとはいえ、人々の生活は主として土に頼っているからです。
ただ自然の産出力によるだけでは、15万平方マイルのうち、わずか2割しか耕作できるところのない限られた国土で、4,800万人もの巨大な人口を養っていくことはできません。
土地は最大限の生産が可能なように利用されなければならず、そのためには、人間の才能と勤勉とを、精一杯用いる必要があります。
日本の農業は、世界で最も注目すべき農業です。
土の塊の一つ一つが丁寧に扱われ、土から生ずる芽の一つ一つが、親の愛情に近い配慮と世話を与えられます。
私たちに欠けていた科学を、たゆまない勤勉で補い、こうして菜園ともいえるような、きめ細かく整然とした1,300万エーカーの耕地を所有しています。
このような高度な農耕は、人々の並々ならない努力により、はじめて可能になります。
少しでも怠れば、実にみじめな荒地に確実に化してしまう。
一度は耕作されていた土地が、人手から放置されているのを見るのはまことに心を痛めます。
そこには原始林の有する活力も繁茂力もない。
見捨てられた荒地は、暗い絶望的な感じです。
処女地の開墾に挑もうとする人が10人いたとしましょう。
そのうち見捨てられた土地の再興に捧げようと志す人は、一人もいない。
倹約で働き好きな世界諸国の人々がすべて引き寄せられるのはアメリカ大陸です。
他方ではバビロンはフクロウとサソリの巣のままに残されているのです。

19世紀の初め、日本農業は、実に悲惨な状態にありました。
200年の長期にわたって続いた泰平の世は、あらゆる階層を問わず人々の間に贅沢と散財の気風をもたらしました。
怠惰な心が生じ、その直接の被害を受けたのは耕地です。
多くの地方で土地からあがる収入は3分の2に減りました。
かって実り豊かだった土地には、アザミとイバラがはびこりました。
耕地として残された、わずかな土地で、課税のすべてをまかなわなければなりません。
どの村もひどい荒廃が見られるようになりました。
正直に働くことのわずらわしくなった人々は、身を持ち崩すようになりました。
慈愛に富む大地に豊かな恵みを求めようとしなくなりました。
代わって望みない生活を維持するため、相互にごまかしあい、だましあって、僅かな必需品を得ようとしました。
諸悪の根源は全て道徳にあります。
「自然」は、その恥ずべき子どもたちには報酬を与えず、ありとあらゆる災害を引き起こして、地に及ぼしました。
そのとき「自然」の法と精神を同じくする、一人の人物が生まれたのです。

2 少年時代

 尊徳(徳を尊ぶ人)ともいわれる二宮金次郎は、天明7(1787)年に生まれました。
父は、相模(さがみ)の国の名もない村の、ごく貧しい農夫でしたが、近隣の村々には、情け深いことと公共心の厚いことで知られていました。
16歳のとき、尊徳と二人の弟は親を亡くしました。
親族会議の結果、あわれにも一家は引き離されて、長男の尊徳は、父方の伯父(おじ)の世話を受けることになりました。
伯父の家にあって、この若者は、できるだけ伯父の厄介(やっかい)になるまいとして、懸命に働きました。
尊徳は一人前の大人の仕事のできないことを嘆き、若年のために日中に成し遂げられなかった仕事を、いつも真夜中遅くまで続けて仕上げました。
そのころ尊徳の心には、古人の学問に対して、「目明き見えず」、すなわち字の読めない人間にはなりたくないないとの思いが起こりました。
そこで孔子の『大学』を一冊入手、一日の全仕事を終えたあとの深夜に、その古典の勉強につとめました。
ところが、やがて、その勉強は伯父に見つかりました。
伯父は、自分にはなんの役にも立たず、若者自身にも実際に役立つとは思われない勉強のために、貴重な灯油を使うとはなにごとか、とこっぴどく叱りました。
尊徳は、伯父の怒るのはもっともと考えて、自分の油で明かりを燃やせるようになるまで、勉強をあきらめました。
 こうして翌春、尊徳は、川岸のわずかな空き地を開墾して、アブラナの種を蒔き、休日をあげて自分の作物の栽培にいそしみました。
一年が過ぎ、大きな袋一杯の菜種(なたね)を手にしました。
自分の手で得た収穫です。
誠実な労働の報酬として「自然」から授かったものです。
尊徳は、この菜種を近くの油屋へ持参し、油数升と交換しました。
尊徳は今や、伯父のものによることなく、勉強を再開できると考え、嬉しさを感じました。
 勇んで尊徳は夜の勉強を再開しました。
自分の、このような忍耐と勤勉とに対し、伯父からは、ほめ言葉があるのではないかと、少しは期待した面もありました。
しかし、違った!
伯父は、おれが面倒見てやっているのだから、おまえの時間はおれのものだ、おまえたちを読書のような無駄なことに従わせる余裕はない、と言いました。
尊徳は、今度も伯父の言うことは当然だと思いました。
言い付けにしたがって、一日の田畑の重い労働が終わった後も、むしろ織りやわらじ作りに励みました。
それ以後、尊徳の勉強は、伯父の家のために、毎日、干し草や薪を取りに山に行く往復の道でなされました。
 休みの日は自分のものであっても、遊んで過ごしてしまうことはありませんでした。
アブラナの経験は、尊徳に熱心に働くことの価値を教えました。
尊徳は、もっと大規模に同じ経験を試みようと望みました。
最近の洪水により沼地に化したところを村のなかで見つけました。
そこは、自分の休みを有益な目的に使える絶好な場所になると思いました。
沼から水をくみ出し、底をならし、こぢんまりした田んぼになるようにしました。
その田に、いつも農民から捨てられている余った苗を拾ってきて植え、夏中、怠らずに世話をしました。
秋には、見事な米が実りました。
一人の孤児が、つつましい努力の報酬として、人生ではじめて生活の糧(かて)を得た喜びのほどは、容易に想像されます。
この秋、尊徳が得た米は、その後の波乱に富んだ生涯の開始にあたり、資金になりました。
尊徳は真の独立人だったのです!
「自然」は、正直に努める者の味方であることを学びました。
尊徳の、その後の改革に対する考えはすべて、
「自然」は、その法にしたがう者には豊かに報いるという簡単なことわりに基いていたのです。
 数年後、尊徳は伯父の家を去りました。
自分で見つけて改良した村のなかの不用の荒地から、みずからの手で収穫したわずかの米をたずさえて、今や、多年住む人のなかった両親の家に戻りました。
尊徳が、忍耐と信念と勤勉とにより、混乱を整え、荒地を沃地に変えようとする試みを妨げるものは何もありませんでした。
山の斜面、川岸、道端、沼地などの不毛な土地はことごとく、尊徳には富と生活の糧(かて)を与えるものとなりました。
何年もたたないうちに、尊徳はかなりの資産を所有するようになり、近所の人々すべてから、模範的な倹約家、勤勉家として仰がれる人物になりました。
尊徳は、なにごとも自力で克服しました。
また他人が自力で克服する手助けは、常にいとわずしました。

3 能力の試練

 尊徳の名声は日増しに加わり、小田原藩主の認めるところになりました。
尊徳はその領民であり、当時、藩主は幕府の老中として、全国にならぶ者のない力を握っていました。
これほど有能な領民を、田舎の生活に埋もれたままにしておくことはありません。
しかし、封建制度の強固な当時においては、一農民を相当な力をもつ地位に抜擢するのは、特別な能力が明らかに保障されるばあい以外に不可能なことでした。
平常の社会的慣習をうち破るには、それに対してだれにも不平をいわせないだけの能力がなくてはなりません。
このため尊徳に課せられた仕事は、不屈の忍耐力をそなえる尊徳のみにゆるされ、余人のしりごむ事業でありました。
 小田原藩の領地として下野(しもつけ)の国に、物井、横田、東沼の三村がありました。
そこは数代にわたって放置されていたため、恐ろしいほどの荒廃地に化していました。
三村は、一時450軒を数え、米4千俵を年貢として領主に納めていました。
しかし、今や荒々しい「自然」は田畑を侵し、狐、狸が民家に棲(す)み、人口は以前の3分の1に減少し、貧窮した農民から納めさせることのできる年貢は、せいぜい800俵にとどまりました。
貧困は道徳の退廃をもたらし、かって栄えた村は、今では博徒の巣窟となりました。
何度も再興がはかられましたが、村人自身が常習的な泥棒であり怠け者であっては、いくら費用や力を用いても無駄でありました。
もしも血の気のおおい主君なら、全住民を立ち退かせてしまい、新たにもっと働く住民を移住させ、怠け者の領主が残した荒廃地の再興を企てたかもしれません。
 しかし、なんの望みもない、このような村こそ、小田原藩主の計画していた目的にかなう村でした。
このような村を復興して、もとの富裕と繁栄とを取り戻すことができる者なら、領内にある廃村すべての再興を託せるであろう。
また、以前の人がことごとく失敗したところで成功するほどの者なら、最適の指導者として人の前に立たせても、特権階級の不満を恐れずに正当な権力を与えることができる。そう考えたのであります。
これが、藩主から尊徳に依頼され、説得された事業でした。
 一農民である尊徳は、低い身分であること、そのような公共事業にはまるで能力のないことを理由に、大任にあたる栄誉を辞退しました。
土を相手に耕す農民である自分が、せいぜい一生のうちで成し遂げようとしている望みは、自分の家産の再興であり、それも自分の力によるものでなく、先祖から受け継いだ余徳によるのだと考えていたのです。
3年もの長い間、藩主は、この領民に頼み続けました。
一方、領民の方も、謙遜な態度をゆずらず、草屋根のわが家のもとで、無事平穏に暮らす願いを言い張り続けました。
 しかし尊敬する藩主の懇望を、これ以上は断りきれないとわかると、尊徳は、自分が再興をはかる村の様子の検分を願い出ました。
その地まで130マイルの道をみずからの足で歩いて行き、数ヶ月の間、村民とともに過ごし、一軒一軒たずね、生活ぶりを注意深く観察しました。
そのうえ、土質、荒れ具合、排水、灌漑の設備などを詳細に調べあげ、荒廃した地域を興すに足るだけの、十分な判断を下すための情報を、すべて集めました。
だが、尊徳が小田原藩主に提出した報告は、きわめて悲観的でした。
ただ、全然見込みがないわけでもありませんでした。
「仁術さえ施せば、この貧しい人々に平和で豊かな暮らしを取り戻すことができます」と尊徳は報告のなかで述べました。
「金銭を下付したり、税を免除する方法では、この困窮を救えないでしょう。
まことに救済する秘訣は、彼らに与える金銭的援助をことごとく断ち切ることです。
かような援助は、貪欲と怠け癖を引き起こし、しばしば人々の間に争いを起こすもとです。
荒地は荒地自身のもつ資力によって開発されなければならず、貧困は自力で立ち直らせなくてはなりません。 
殿には、この痩せた地域からは相当の収穫で足れりとなし、それ以上を望まないでいただきます。
もし一反の田から2俵の米が取れるなら、一俵は人々の生活を支えるために用い、残る1俵は、あとの耕地を開墾する資金として使わなくてはなりません。
このような手段によってのみ、わが実り豊かな日本は、神代に開かれたのです。当時はみな荒地でした。外からいかなる援助もなく、自分自身の努力により、土地そのものの持つ資源を利用して、今日見られるような田畑、庭、道路、町村が成ったのです。
仁愛、勤勉、自助ーこれらの徳を徹底して励行してこそ、村に希望がみられるのです。
もしも誠心誠意、忍耐強く仕事に励むならば、この日から10年後には、昔の繁栄を回復できるのではないかと考えます」
なんという大胆にして、なんと経済的な計画でしょう!
このような計画に反対を唱える人がいるでしょうか。
道徳力を経済学の要素として重視する、そのような村の再建案が、これまで提出されたことは、まずありません。
これは「信仰」の経済的な応用でもありました。
この人間にはピューリタンの血が少しあったのです。
むしろ外国から来た「最大多数の最大幸福の思想」に、まだ侵されていない真正の日本人があったといえます。
なお尊徳には、自分の言葉を信用してくれる人物がありました。
とりわけ、それは良い藩主でした。
「文明」が、この百年そこそこの間に、私どもをなんと変えてしまったことでしょう!
 計画は受け入れられ、この農民道徳家は、10年間、村の実質的な支配者になりました。
しかし尊徳は、先祖の資産を再興する仕事が、中断されたままであることを悲しみました。
尊徳のような誠実一途の人間には、どんな事業でも精魂込めて取り組まないならば、それは罪でした。
公の仕事に着手したからには、私事は少しも顧みてはいけません。
「自分の家を投げ出してはじめて、千軒の家を救うことができる」。
尊徳はみずからに言い聞かせました。自分の大切にしてきた望みを犠牲にすることについて、妻の同意をえ、「先祖の墓前では声を出して」決意を告げました。
家を処分し、別世界に旅立つ身のように「背後の舟を焼き払って」故郷の村を後にし、主君と住民にあえて約束した仕事にのぞみました。
尊徳の「土地と人心の荒廃との闘い」については、ここではくわしく述べません。
そこには権謀術策はありえませんでした。
あるのは、ただ魂のみ至誠であれば、よく天地をも動かす、その信念だけでした。
ぜいたくな食事はさけ、モメン以外は身につけず、人の家では食事をとりませんでした。
一日の睡眠はわずか2時間のみ、畑には部下のだれよりも早く出て、最後まで残り、村人に望んだ苛酷な運命を、みずからも共に耐え忍んだのでした。
部下の評価にあたっては、自分自身に用いたのと同じように、勤勉の誠実さで判断しました。
尊徳からみて、最良の働き者は、最も多くの仕事をする者ではなく、最も高い動機で働く者でした。
尊徳のところへ一人の男が推挙されてきました。
ほかの人の3倍は仕事をする働き者である上、好人物との触れ込みでした。
このようなほめ言葉に、わが農民指導者は、長い間、動かされたことはありませんでした。
ところが、その「好人物」の表彰を同僚からうながされたときのことです。
尊徳は、その男を自分の前に呼び寄せました。
そして自分の面前で、他の役人の前でしたという一日の仕事を、同じようにするように求めました。
男には、その能力はありません。
即座にこれを認め、監視の役人の見ているときだけ3人前の仕事をしてみせた悪だくみを白状しました。
わが指導者は、自分の経験上、一人前の仕事の限界を知っていたのです。
だから、そんな報告にだまされることはありませんでした。
その男は罰を受け、嘘偽りを厳しく誡められて畑に送り返されました。
労働者のなかに、年老いて一人前の仕事はほとんどできない別の男がいました。
この男は、終始切り株を取り除く仕事をしていました。
その作業は骨の折れる仕事である上、みばえもしませんでした。
男はみずから選んだ役に甘んじて、他人の休んでいる間も働いていました。
「根っこ堀り」といわれ、たいして注目もひきませんでした。
ところが、わが指導者の目はその男の上にとまっていました。
ある賃金支払いの日のこと、いつものように、労働者一人ひとり、その成績と働き分に応じて報酬が与えられました。
そのなかで、最も高い栄誉と報酬を得る者として呼び上げられた人こそ、ほかでもなく、その「根っこ堀り」の男でした。
一同びっくりしました。
なかでも誰よりも驚いたのはその男自身でした。
男は通常の手当に加えて15両授かることになりました。
労働者の一日の稼ぎが、やっと2セントであった時代だから、破格の金銭でした。
「ご主人様、私はご覧のような年寄りですから、一人前の賃金をもらう値打ちはございません。
仕事も他の人たちよりもずっと少ない量です。
なにか勘違いをなさっているに違いありません。
もったいなくてこのお金をいただくわけにはまいりません。」
と男は言い張りました。
「いや、そうではない。」
とわが指導者は重々しく告げました。
「おまえは、他の誰もがしたがらない仕事をしたのだ。
人目を気にせず、まことに村人のためになることだけを考えてしたのだ。
おまえが切り株を取り除いたおかげで、邪魔物は片付けられ、われわれの仕事は大変やりやすくなった。
おまえのような人物に褒賞を与えなかったら、わが前途にある仕事を、とうてい遂行することはできないだろう。
おまえの誠実に報いる天からのご褒美である。
感謝して受け取り、老後の安楽な生活の足しにするため役立てるがよい。
おまえのような誠実な人間を知って、私はとても嬉しい。」
男は子どものように泣き、涙で袖をぬらしました。
村中の人が感激しました。
隠れた徳行を明るみにもたらす神のような人が出現したのです。
尊徳に反対する考えも少なからずありましたが、「仁術」をもってこれを取り除きました。
小田原藩主が同僚として派遣した人物を、尊徳は、自分にも自分の手法にも従わせるのに3年の忍苦を要しました。
村人のなかに一人の手に負えない怠け者がいました。
尊徳の計画には、ことごとく猛然とたてつきました。
この男の家は朽ちて倒れかかっていました。
男は自分が貧乏であるのは、尊徳の新しい行政の失敗を物語る確かな証拠である、と近所の人々に言いふらしていました。
あるとき指導者の家の者が、この男の便所を借りたことがありました。
永年、便所は修理もせずに放ってあったため、ひどく腐っていて、ちょっと触れただけで倒れてしまいました。
男は怒り狂いました。
不始末の許しを乞い懇願する家の者を、探してきた棒で一、二度なぐりつけ、主人の家まで追いかけてきました。
尊徳の門前にその男は立って、周囲に集まった大群衆に向かって大声でしゃべりました。
自分の受けた「大損害」のことや、指導者が、その土地に安定と秩序とをもたらす能力のないことを告げたのです。
尊徳は、その男を面前に呼ぶと、家の者の過失に対し、まことに丁重に詫びました。
「おまえの家の便所が、それほど壊れやすい状態にあるなら、さぞかし母屋の方もよくはないだろう」と述べました。
「貧乏人だから、家を直すことはできない」
男はぶっきらぼうに答えました。
「それなら当方で修理させるが、異存はないか」
先生はやさしく応じました。
男はびっくりして一種の恥ずかしさを覚えながら答えました。
「異存のあるはずがございません。身に余るお情けでございます」
男はただちに家に帰り、古屋を取り壊し、新しい家屋を建てるための地ならしをするように言い付けられました。
次の日、指導者の部下が、新しい家屋の資材をもって現れました。
数週間のうちに近所でも目をひくような、立派な家が完成しました。
便所も、ちょっと触れただけでは壊れることのないように修理がほどこされました。
こうして村人のなかも最も困り者が降参したのです。
この男は、それ以来、指導者に対して誰よりも忠実な人間になりました。
男は、そのとき味わった実に恥ずかしい思いを語るときには、いつも涙を浮かべていました。
あるとき、村人の間に不満がひろがり、どんな「仁術」をもっても収拾できない事態が起こりました。
わが指導者は、その責任は自分にあると考えました。
「天は、このような手段で私の誠意の不足を罰するのである」
とみずからに言い聞かせました。
ある日突然、尊徳は人々の前から姿を消しました。
人々は皆、その行方を案じました。
数日たって、尊徳が遠方にある寺に行き、そこで祈念に明け暮れていることがわかりました。
実は、村人を導くために必要な「誠意」を授かるようにと願って、21日間の断食の日々を送っていたのです。
早く尊徳に帰還してもらうために、その地に迎えの使いが送られました。
尊徳の不在が、村人の間に混乱をもたらし、尊徳なしでは、今や成り立たないことがわかったからです。
断食期間が終わると尊徳は、軽い食事で体力をつけました。
「3週間にわたる断食の明けた翌日、村人が非を悔いていると聞いて喜び、25マイルの道を歩いて帰った」とされています。
この人物はよほど頑健にできていたに相違ありません。
数年におよぶ不断の努力と倹約、とくに「仁術」によって、荒廃地はほぼ解消され、なんとか生産力が回復し始めました。
指導者は他国から入植者を招き、「他国者にはまが子にまさる親切が要るから」といって、もとからいる村人にまして心を配りました。
尊徳には、いかなる地域でも、その完全な復興は、ただ土地の肥沃の回復を意味するだけではありません。
「欠乏にそなえて10年分の備蓄」が必要とみました。
尊徳は
「9年分の備蓄のない国は危ない。3年分の備蓄のない国はもはや国とはいえない」との中国の聖賢の言葉に文字どおり従ったのです。
わが農民聖者の見るところでは、現在堂々と存在している国々のいずれも「もはや国とはいえない」ことになります。

しかし、この備蓄がととのう前に飢饉が襲ったのです。
1833年という年は、東北地方全域にとり大災害の年でした。
尊徳は夏、ナスを口にして、その年の不作を予言しました。
秋ナスのような味が強くしたので、明らかに「太陽が、すでにその年の光を使いつくした」しるしであると告げました。
尊徳はただちに、その年の米の不足を補うために、一軒に一反の割合でヒエを蒔くように村人に命じました。
それは指示どおり実行されました。
次の年、近国はことごとく飢饉に見舞われたにもかかわらず、尊徳配下の三村では、一軒なりとも食糧の不足で苦しむところは出ませんでした。
「誠実の人は、前もってことを知ることができる。」とあるように、わが指導者は予言者でもあったのです。
約束の10年が終ると、全国で最も貧しかった地方が最も整い、最も貯え豊かな土地になり、自然の生産力に関しては、国内では、一番恵まれた地域に化しました。
昔繁栄していた時代と変わらず、米4千俵の収穫をあげられるようになりました。
それだけではなく、何年にも及ぶ飢饉に備え、今や別々の穀物でつまった倉庫をいくつも所有するほどになりました。
その上、結構な話をつけ加えると、指導者自身も数千両の貯金ができ、後年、人々を助けるために、それを自由に用いることさえできるようになりました。
尊徳の名声は遠くまで広まり、諸大名は、領内の貧村再興の助言を得ようとして、至るところから使いを寄越しました。
ただ「誠実」だけで、これほど素晴らしい成果をもたらした話は、かって聞いたことがありません。
どんなにとるに足らない、見くびられている人間でも、「天」にしたがいさえすれば、このような大事業を成し遂げることができるのです。
尊徳は、最初に取り組んだ公共事業において道徳面を重視しましたが、当時の怠惰な風潮の社会に対し、その与えた印象は強烈でした。

4 個人的援助

 尊徳が、祖国で行った他の公共事業の話をする前に、身近の困っている人々の求めに応じて、尊徳の与えた親切な援助について述べましょう。
尊徳自身、独立で地位を築いた人でしたから、勤勉と誠実とにより、独立と自尊に至らないわけはないという信念をいだいていました。
「天地はたえず活動していて、私たちをとりまいている万物の成長発展には止むときがない。
この永遠の成長発展の法にしたがって、休むことさえしなければ、貧困は求めても訪れることはない」 
 このように、尊徳は貧困にあえぐ農民たちに向かって語りました。
農民たちが領主の悪政に不平を訴え、先祖伝来の故郷を立ち去ろうとして、尊徳の指導と助言を求めて訪れたときのことです。
尊徳は告げました。
「あなたがたに鍬(くわ)を一丁ずつさしあげよう。
私の方法にしたがって実行するならば、荒地が天国に変わることを約束します。
他国に運を求める必要もなく、負債すべて支払うことができ、再び豊かな生活を楽しめるようになるでしょう」
 村人は、その言葉にしたがって「鍬一丁ずつ」を農民聖者から受け取り、勧められたとおり懸命に働き続けました。
そして数年後には、以前になくしたものすべてを取り戻した上、ありあまるほどになりました。
 村人の信頼を全く失っていた名主が、尊徳の知恵を借りにきました。
わが聖者の与えた答えは、意外なほど簡単でした。
「自分かわいさが強すぎるからです。利己心はケダモノのものです。利己的な人間はケダモノの仲間です。村人に感化を及ぼそうとするならば、自分自身と自分のもの一切を村人に与えるしかない」
「それには、どうすればよいのでしょうか?」
と名主が尋ねました。
「持っている土地、家屋、衣類など全財産を売り、手にした金はすべて村の財産にと、自分の全てを村人のためにささげるがよい」
と尊徳は答えました。
これほど極端な方法となると、普通の人はなかなか応じることはできないものです。
名主は決意するのに数日の猶予を願い出ました。
そして名主には、自分の払う犠牲があまりに大きすぎると言ってきました。
尊徳は告げました。
「よもや自分の家族が飢えることを心配しているのではあるまいな。
あなたが自分の役割を果たしているのに、あなたに相談された私が、私の役割を果たさないとでも思っているのか」
その男は帰りました。
そして教えられたとおりに実行しました。
彼の影響力と声望は、ただちに回復しました。
一時の不足は、尊敬する師が、自分の貯えから調達しました。
まもなく全村こぞって名主を支援するようになり、短期間のうちに名主は以前にもまして裕福な身になりました。
藤沢(大磯が正しい)に一人の米屋がありました。
不作の年に穀物を高値で売って相当な財産を築いていましたが、あいついで家族にふりかかる不幸のために破産に瀕していました。
その親戚の一人が尊徳の親しい知人だったので、亡くした財産の回復をはかるために、尊徳の知恵を借りにやってきました。
尊徳は、個人的な利益をもくろむ人の相談には、いつもあまり気乗りがしませんでした。
長い間のしつこい依頼にしぶしぶながら願いに応じました。
その男を道徳上診察したところ、即座にただ一つ、不幸の原因があることがわかりました。
尊徳は語りました。
「回復の方法としては、今残っている全財産を人に施し、裸一貫で新規にまき直すがよい」
尊徳の目にはあくどい手段で獲得した財産は本当の財産ではありませんでした。
「自然」の正しい法則にしたがって、「自然」から直接に与えられたものだけが、本当に自分のものなのです。
その男の財産は、本来、自分のものでないから失ったのです。
手元に残っていたものも同じく「汚れた」財産であって、もう防ぎようがないのです。
 そんな過激な改革に、貪欲な心を従わせるにいたるまでには、長い苦しい闘いを伴うものです。
しかし、わが道徳の医師は高い評判を勝ち得ていました。
その医師の出した処方箋の効き目を疑う人はいませんでした。
尊徳の勧告は、米屋の友人や親戚の驚いたことには、いや、仰天したといってもよいかもしれませんが、なんと実行されたのです。
米屋は、残っていた700両(3500ドル)にも達する財産の全てを町の人に分かちました。
自分は、子どものころから馴染んでいた、ただ一つ「はだか手」でできる仕事の、回漕業をはじめました。
その男がした決断が、本人にも町の人一般にも与えた道徳的影響のほどは、容易に想像できます。
男の貪欲がもたらした人々の怨恨は、ただちにきれいに消滅しました。
男の不幸を喜んでいた人々も、今や彼を助けにも来るようになり、回漕業は、ごくわずかの間手がけただけで終りました。
運命の女神は、今度は、全町の人々の好意をともなって、その男のうえにほほえみ、その後は、前におとらず繁盛したといわれます。
ただ残念にも、年をとるにつれて、再び貪欲の念が男には戻ってきて、最後は貧乏のうちに終ったということです。
孔子の書物に
「禍福は、向こうから訪れるのではなく、ただ人間が、それを招くものである
と記されているではありませんか。
わが先生は、近づきやすい人ではありませんでした。
初めて会う人はその身分にかかわりなく、例の東洋流の弁明「仕事が忙しくて」と言われ、きまって門前払いにあいました。
それに根負けしない人だけが、話を聞いてもらうことができました。
来訪者の忍耐がきれると、いつも「私が助ける時期には、まだいたっていないようだ」とわが先生は語りました。
あるとき、檀家を救済するための助言を求めて、一人の僧侶が徒歩で遠方より訪れました。
面会はそっけなく拒絶されましたが、忍耐強い僧侶は、先生の門前の地面に着衣を広げて敷き、そこに3日3晩坐り込みました。
難行に耐え、不屈の精神であたれば先生も対面してくれるものと信じていたのです。
しかし尊徳は、「犬のような」「乞食坊主」が門の近くに坐っていると聞くと、はげしく怒りました。
ただちに立ち去るように命じ、
「人々の魂のために祈るなり断食するなりせよ」と言いつけました。
このような扱いが、数回繰り返されました。
結局、僧侶は尊徳の信頼をかちとり、門内に迎え入れられました。
後年、その僧侶は、いつでも自由に尊徳から、金銭も知恵も親交も与えられるまでになりました。
尊徳から親交を得るためには、常に大変な努力を要しましたが、いったん与えられると、これほど尊いもの、また永続するものはありません、。
不誠実でふまじめな人間は相手にされませんでした。
そのような人間は「天」にも天理にも反しているからです。
いかに尊徳の力を用い、いかなる他の人の力をもってしても、その陥っている不幸や堕落から救い出すことはできません。
その人たちに対しては、まず「天地の理」と和合させます。
そのあと人間による必要不可欠の援助なら、なんでも提供されました。
「キュウリを植えればキュウリとは別のものが収穫できると思うな。
人は自分の植えたものを収穫するのである」
「誠実にして、初めて禍を福に変えることができる。
術策は役に立たない。」
「一人の心は、大宇宙にあっては、小さい存在に過ぎない。
しかし、その人が誠実であれば、天地も動かしうる」
「なすべきことは、結果を問わずなされなければならない」
これらのことを述べたり、またこれに類する多くの教訓によって、尊徳は、自分のもとに指導と救済とを求めて訪れる多数の苦しむ人々を助けました。
こうして尊徳は、「自然」と人との間に立って、道徳的な怠惰から、「自然」が惜しみなく授けるものを受ける権利を放棄した人々を、「自然」の方へとひき戻しました。
私どもの同類であり同じ血を共有する、この人物の福音に比べると、近年、わが国に氾濫している西洋の知とはいったい何でしょうか!

5 公共事業一般

尊徳の信念にもとづく、荒廃した下野地方3村の再興は成就しました。
その評判が誰も疑えないほど確かになると、尊徳は、全国の諸大名により、たえずわずらわされる身となりました。
例の無愛想な応対によって、尊徳は、そういう邪魔の入るのを退けましたが、尊徳の「信念のテスト」を通過する人たちも少なくありませんでした。
その人々は誰もが、尊徳から賢明な相談と実際の援助の便を与えられました。
 尊徳の一生の間に、広汎な領地をかかえるおよそ10人の大名が、荒廃した自領の改良のために尊徳の力を借りました。
同じく尊徳に助けられた村の数は数えきれないほどです。
最晩年には、徳川幕府にも用いられるほど、尊徳の国家への貢献は重要になりました。
しかし、尊徳の使命は、もともと内輪でしたから、特権階層の公的、社会的慣習にわずさわされることを好みませんでした。
自分同様、貧しい労働者のなかに立ちまじっているときが、大満足にみえました。
しかし不思議にも、賎しい生まれの、教養の乏しい小農の尊徳が、「上流階級」の人たちと付き合いながら、「真の貴人」のように振舞っていたのです。

 尊徳の領主である小田原藩主は、むろん尊徳から大きな恩恵を受けました。
小田原城下の広大な領地は、尊徳の支配下におかれ、そのなかの多くの荒廃地が、尊徳のたゆまぬ勤勉と、変わらぬ「仁術」とにより回復をみました。
尊徳が同藩の人々に尽くした最も顕著な最大の功績の一つは、1836年の大飢饉に際してみられました。
数千の人々が餓死寸前にあったとき、尊徳は、領主(当時江戸在住)から、迅速な救済にあたるようにと委任を受けました。
尊徳は、その頃2日の道のりの小田原に直行するなり、役人たちに、飢民を救うために、城の倉庫を開く鍵を渡すように求めました。
「殿様直筆の文書がなくては」
と、尊大にかまえた答えが返って来ました。
「よろしい」
尊徳は応じました。
「そのかわり、今から殿様直筆の許可状が到着するまでの間に、多くの植えた領民の餓死を招くことになります。
領民を忠実に守るべき身の我々は、領民が食物を断たれているように食を断ち、使者の帰るまで、この役所のなかで当然断食をして待たなくてはなりません。
そうすることで人々の苦しみが、多少なりともわかるでしょう」
 役人たちにとって、4日間の断食など、とても恐ろしくて思いもつかないことでした。
鍵は即座に尊徳に渡され、救済はただちに着手されました。
飢餓が人々の門前に迫っている場合には、民を守る責任を持つ者は誰もが、いつの時代のいかなる国にあっても、わが道徳の師の提案をどうか肝に銘じてほしいものです。
役所仕事というものは、無駄な手続きを経なければならないので、その間に苦しんでいる人たちへの救済が手遅れになってしまうのです!
「手だてに困ったときの飢饉の救済法」という名高い講和を尊徳が行ったのは、このときのことでした。
主だった聴講者は、領主によって藩政の執行に任ぜられていた国家老(くにがろう)でした。
この講話には、講師の特徴がよく反映しているので、その一部をここに紹介しましょう。
「国が飢饉をむかえ、倉庫は空になり、民の食べるものがない。
この責任は、治める者(領主)以外にないではありませんか。
その者は天から民を託されているのです。
民を善に導き、悪から遠ざけて、安心して生活できるようにすることが、与えられた使命ではありませんか。
その職務の報酬として高禄を食(は)み、自分の家族を養い、一家の安全な暮らしがあるのです。
ところが、今や民が飢饉に陥っているのに、自分には責任はないと考えています。
諸氏よ、これほど嘆かわしいことを天下に知りません。
この時にあたり、よく救済策を講じることができればよし、もしできない場合には、領主は天に対して自分の罪を認め、みずから進んで食を断ち、死すべきです!
ついで配下の家老、郡奉行、代官も同じように食を断って死すべきです。
その人々もまた職務を怠り、民に死と苦しみをもたらしたからです。
飢えた人々に対し、そのような犠牲のもたらす道徳的影響は、ただちに明らかになりましょう。
『ご家老とご奉行が、もともと何の責任もないにもかかわらず、私たちの困窮のために責任をとられた。
私たちが陥っている飢饉は、豊かなときに備えようとしないで、ぜいたくと無駄遣いをしたためだ。
立派なお役人らをいたましい死に追いやったのは私たちのせいだ。
私たちが餓死するのも当然だ』
こうして飢饉に対する恐れも餓死に対する恐怖も消え去るでしょう。
心は落ち着いて、恐怖は除かれ、十分な食糧の供給も間もない。
富める者は貧しい者と所有を分かち、山に登って、木の葉、木の根も食べることになるでしょう。
たった1年の飢饉で、国にある米穀をすべて消費しつくす心配はありません。
山野には緑の食物もあるのです。
 国に飢餓が起こるのは、民の心が恐怖におおわれるからです。
これが食を求めようとする気力を奪って、死を招くのです。
弾丸をこめていない銃でも、撃てば臆病な小鳥を撃ち落すことがあるように、食糧不足の年には、飢餓の話だけで驚いて死ぬことがあるものです。
したがって、治める者たちが、まずすすんで餓死するならば、飢餓の恐怖は人々の心から消え、満足を覚えて掬われることでしょう。
郡奉行や代官にいたるまでの犠牲を待たずに、よい結果が訪れると想います。
このためには家老の死のみで十分です。
諸氏よ、これが何の手立てもないときに飢えた民を救う方法です。」
講話はおわりました。
家老は恥じ入って、長い沈黙ののちに言いました。
「貴殿の話に異存はない」
尊徳の痛烈な話は、まじめに語られた話ではありますが、もちろん実行をねらったわけではありません。
救済は実直に遂行されました。
実直であるということは、他の即断、勤勉、苦しむ人々への強い同情、「自然」と「自然」の恵み豊かな理法への信頼と同じく、尊徳の仕事には常にあらわれる特徴でした。
穀物と金銭が、困窮する農民に対して、5年以内の穀物による分割払いの約束で貸し与えられました。
約束は、忠実に、いとわずに守られ、4万390人の窮民の、一人として約束期限に支払えなかった者を出さなかったのです!
これは、救済を提供する側の深い信頼とあわせ、救済される農民側の純真な心の賜物でした。
このことを忘れてはなりません。
「自然」と歩みを共にする人は急ぎません。
一事しのぎのために、計画をたて仕事をするようなこともありません。
いわば「自然」の流れのなかに自分を置き、その流れを助けたり強めたりするのです。
それにより、みずからも助けられ、前方に進められるのです。
大宇宙を後ろ盾にしているため、仕事の大きさに驚くこともありません。
「万物には自然の道がある」
尊徳は常々、こう語りました。
「自然の道を探し出し、それに従わなくてはならない。
それによって山は均(なら)され、海は排水されて、大地は我々の目的に役立つようになる。」

 あるとき、幕府から、利根川下流の大沼の排水に必要な計画を立て、報告するように命ぜられたことがあります。
もし、その計画が実現されるとしたなら、三重のはかりしれない公益をもたらすものです。
すなわち、水浅で有毒物のこもる海は何千町歩もの沃地に変えられ、洪水のときに溢れる水を排除して、毎年この地方の受ける大被害は防がれ、利根川と東京湾の間に新しく短い水路を作り出すことになるのです。
開削される距離は、沼地と湾の間の10マイルと、沼地のなかの2つの要地の間の5マイルで、全長15マイルが、泥沼と砂地とを切り開かれます。
この計画は、それまでも一度ならず試みられましたが、あきらめて放棄されていたのでした。
事業は、これを完成させる日本のレセップスのような大人物の出現を、待望する状態にありました。
 この巨大事業に対する尊徳の報告は、なかなか理解に苦しむ報告でした。
だが、同じ規模の多くの土木技術事業が失敗した急所をついていました。
「できるかもしれない、しかしできないかもしれない」と報告書は記しています。
 自然にかなう、ただ一つのできる道をとり、それに従うならばできるでしょう。
しかし、人の本性はおおむね、その道に従うことを厭うから、その場合はできないでしょう。
私は運河を掘る地域の民の堕落ぶりを知っています。
まず「仁術」によってその精神を正さなくてはなりません。
それが仕事に着手する前の用意として、最初に必要な処置です。
そのような民に金を費やすならば、金を投じてなされる実際の仕事の量はもちろん、民の上にも悪影響を与えざるをえません。
しかし、調査によるかぎり、この事業は、金と力のいずれを用いても、ほとんど期待できる性格ではありません。
強い報恩の念により動かされ、心を合わせた人々にしてはじめて可能なものです。
ゆれゆえ、当面は「仁術」を用いて、やもめを慰め、みなしごを保護し、今の道徳なき民を道徳的な民に変えることが必要です。
いったん人々が誠実の念を取り戻しさえすれば、あとは山をうがち岩をくだくことも望みのままになるでしょう。
たとえ回り道のように見えても、それが最短で最も効果的な道です。
植物の根には、花も実もこおごとく含まれているではありませんか。
最初に道徳があり、事業はその後にあるのです。
後者を前者に先立ててはなりません。

今日の読者は、このような非現実的な計画を受け入れなかった当局に対し、むしろ共感する人が多いでしょう。
しかし、「パナマ疑獄事件」をみて、あの巨大事業の失敗の主な原因が、道徳面であって財政面でないことを疑う人があるでしょうか。
コロンとパナマとを本物の盗賊の巣と化した黄金は、多くのがらくた同然にその地に埋もれました。
実用的な目からみると二つの大洋は、シャベル一杯の土が地峡から除かれたときと少しも変わらず、離れた距離のままに置かれているのです。
偉大なフランス人技師が、この日本人農夫の道徳的な知恵を、最初に少しでも持ち合わせていたらどうでしょうか。
その6億の金を、事業そのものにすべて消費するかわりに、一部なりとも、「仁術」による人心の改良に投じていたら、どうでしょうか。
そのときレセップスは、疑いもなく、別の運河の輝かしい成功を、一方の運河の不名誉な失敗で塗りつぶす目にはあいません。
そうして自分の白髪に、二つの運河の成功の冠をいただいたでありましょう。
金銭により、多くのことが可能となりますが、道徳はそれにまさることを可能にしてくれます。
運河建設の計画を立てるのに道徳的要因を教える人物、その人こそ、結局は、もっとも実際的な人物になるのです。

尊徳が、その一生にてがけた土地の地理的な面積は、決して広大とはいえませんが、厳格な身分差別のあった時代に、そのような社会的地位の人間としては相当なものでした。

 その全事業のなかで、とりわけ顕著な事業は、今日のいわき地方にある相馬領の復興でした。
同地は230カ村からなり、もともと寒村といえない地方であったものの、今や、国内でもっとも豊かで栄えた土地の一つになりました。
どんな規模の事業でも、尊徳が仕事にとりかかる方法はまったく単純でした。
尊徳はまず、その地方を代表する村ーたいていもっとも貧しい村でしたがーそこに自分の全勢力を集中し、全力をつくして、その村を自分の方法に従わせます。
これが、仕事のなかでは、常にもっとも難しい部分でした。
その一村がまず救われると、そこを全地方の回心を起す基地にいたします。
一種の伝道精神を農民改宗者のうちに起して、自分達が先生から助けられたように隣村を助けることを求めました。
驚くべき実例を目の前に示され、新しい息吹をふきこまれた人々の惜しみなく提供する援助により、全地で同じ方法が採用され、回心は伝播の単純な法則にしたがって進みました。
「一村を救いうる方法は全国を救いうる。その原理は同じである」
尊徳は尋ねる人にきまって言いました。
「当面ひとつの仕事に全力をつくすがよい。
それがいずれ、全国を救うのに役立ちうるからである」
これは、日光地方の荒廃した村を再興する計画を立てている間に、その門弟たちに述べられた言葉です。
この人物は、自分が永遠の宇宙の法を体得したことがわかっていました。
尊徳が試みるのに困難な仕事はありませんでした。
また、容易な仕事もなく、尊徳の全身全霊をあげる必要がありました。
むろん、尊徳は一生の最期まで、働きに働いた人でした。
尊徳は遠い将来のためにも立案し働いたので、その仕事と影響は、今日なお私どもの間に生きているのであります。
尊徳の手で再興された数多くの村々の晴れやかな姿は、尊徳の知恵とその計画の永遠性を称するものであります。
一方、日本の各地にあって、あちこちに、尊徳の名と教えとにより結ばれた農民団体がみられ、無気力な労働者に対し尊徳の教えた精神を永遠に伝えているのであります。


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