12336126 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

GAIA

GAIA

「尊徳」西晋一郎

「尊徳と梅岩」西晋一郎著より

3 尊徳の教義

1 仁空二名。天人一貫

備忘録に曰く
「天地の道とは天地間有物我身を初めあらゆる物みな天の作ざる物なし・・・
しかりといへども人間生じて人気を以てはかり天の御気叶ひ候哉かなわざるや
天地物ゆわざるあらわれず天地の気にて生じ人間成るゆへ人の気かない申す事
是すなわち天の御気叶うなり
人気本として人のためより致す事なり
人ためは善事なり
善事と申すは人の為を道と申す
己が為を悪といふ
己が身は本ちゝはゝ天子天下両親其の上々にまかせ我をわすれたる天地と我と人と一体なり
天地と一体成る時は万物成る命長じ世安し」
云々。
これらの言葉の中に教説の大綱、実行の原理具備すといへる。
あらゆる物みな天の作れるものであって、大いに人為人作を逞しくする人間自身も天作である。
天道人道を分けるのは肝要の所であるが、同時に人道も畢竟天道の中にあるもの、否天道を知って天道に則とる所に人道が立つのである。
この天道を悟道と称する。
天地は言はざるから顕はれないが、天地の気で生じた人間であるから人気に叶ふことが天の気に叶ふ。
その人気は人の為にするところに帰する。
ここから天地の心を知る。
天地の心は万物を生育するにある。
人だめをなす所に人気の帰するは人が天地生育の心を心として万物を生かすからである。
人道とは人間が自から天地の初めに立って、人界といふ一天地を開くことである。
それゆえにこれを天地開闢とも言ふ。
 
曰く、
我が道は天地開闢の道なり と。
曰く、
古道にゆもる木の葉をかきわけて天照らす神の足跡を見ん と。
天照大神の天地開闢とは人界を開き玉へること、即ち国を立て玉へることをいふ。
蓋しこれ実に天地成立であるからである。
天地無心の心を以て万物を生々発育して息まず。
この心が真実となるは人間の自覚によつてである。
悟道は造化の霊妙を実にするもの、人間無くしては天地もその精霊を発揮しない。
人間の成立を以て天地開闢となす旨はまことに深い。
天地が万物を生育する旨は即ちこれである。
この空文字をまた大極ともいふが、有心を以て測るべからざるの故を以て、これを思慮言語を超ゆるといふ。
天はその不思議の所からひたすらに生育して息まぬ。
これを不止不転ともいふ。
天の至誠無息を誠にするが人道であって、仁といふも誠に外ならぬ。
誠は人間の大極である。
種から草、草から花、花から実、実はやがて種、かく種草花実と循環して須臾も止まらぬを不止といふ。
千百の草花生じては滅し、滅しては生じ、時に減じ時に増し、千変万化するとも畢竟不増減の一草を出でぬ。
これを不転といふ。
米の種からは屹と米、麦の種からは屹と麦が生じて、米の種から麦、麦の種から米の生ずることは万々無く、また種から草、草から花、花から実となつて、決して種から花に一足飛はしない。
この不止不転、循環して其端を知らず、天命流行万古渝(かわ)らぬ所を常といひ、如是といふ。
万有のこの不止不転を天理自然といひ、これが悟道の内容である。
天理自然に外づれるものは一物もなく、天道も人道もこの天理自然の裡にある。
ただ人道は天理自然の行はれる初発点を転じて開くので、ここが天地の化育に参加して、草木人類を生育し、文物制度を造立する所であり、天地人として三才を成す所である。

「米を喰いて体を養い、体を養いて寿を保つ、天道自然。
米を施して民を救い、民を救いて国を得る、人道自然。」

米を施すは人道の始め、天地慈育の心を心とする所から発して、天地が万物を生ずる如く万民を生かすが、その「米を施す」が「民を救う」となるは、「米を喰いて体を養う」の天道によってである。
それ故天道を逃れるものでなく、天道に由るのである。
「米を喰う」を転じて「米を施す」とするが、それも矢張天地の心たる仁である。
故に天道人道を通じて道は愛育に外ならぬ。
「己が子をめぐむ心を法とせば学ばずとても道に至らん」。
この愛育の本に反へるを報徳といふ。
「己が身は本ちゝはゝ天子天下両親其上々にまかせ我をわすれたる天地と我と人と一体なり」とはこれ報徳の教の根本である。
「天地と一体成る時は万物成る命長し世安し」とは人道の極地である。
天は生むもの、人は造るものと判然別けて仕舞ふとき物質的機械的人生観が起る。
却て人が内自から覚える所のめぐむ心こそやがて天地の意であることを知るべきである。
文物制度一切の人間界を起すものは天地の心と通ずる愛育の心である。
ただ農作経済の道ばかりでなく、法律制度然りである。
天祖丹精に依りて一界開く、名づけて人界と為す、法界礼法を守る。
これ天祖の天地開闢であって、人界即ち法界を組成する礼法は人為ではあるがその人為は天道に本づく。
曰く、
自然為身体、是謂天生、万物不無生哉。自然受養育、是謂天恵、万物不無食哉。自然有礼敬、是謂天敬、自然有愛情、是謂天愛万物不無愛哉。
天敬天愛といふ。
生育の天然なるが如く敬愛も元来天然であって、これ礼法の本である。
米作は人事なれど一歩一歩天に外づれず。
その如く礼敬は人倫なれど一歩一歩天に外づれず。
農耕衣食経済の道は一応功利であるが、功利の根底に生命愛育の仁がある。
法律制度は人為であるが、その根底に天敬天愛がある。
器物の末に至るまでその造作奥底は大極の理に外ならぬ。

「天地の間に何一物もなし・・・・・・これを神代ともいふべきかな」
この天の空は屋敷の空と一義である。
「屋敷へ今、竹・木・家・蔵・小屋・大手垣数へる時は屋敷更になし品々合せて屋敷なり」
この空は人にあっては仁である。屋敷文字、空文字、仁文字一理である。
空仁二名論稿は天も地も天地間万物も人倫道徳も経済も器物筆墨舟車の末に至るまで一理貫通する旨を述べたものである。
天に空といひ、人に仁といふ。
宇宙に大極といひ、人に誠といふ。
天人一貫、人によって天地開闢し、天によって人生育する。
ただ道徳経済一致とのみ言ふのではない。
寒暑昼夜の季候、寤寐動静出入死生の形体、君臣父子仁義礼智の人倫、順逆興廃の人事より善悪邪正喜怒哀楽の心意に至るまで仁の一字に洩れるものはない。
音もなく臭もなく常にあめつちは書かざる経をくりかえすのである。
「天地物ゆわざるあらわれず」と云ひながら、
「天地の気に而生じ人間なるゆへ」
人間が開眼すれば書かざる経を四時行はれ百物生ずる裡に読むのである。
尚ほ農具の間に生育の心を読み、舟車の通ずる所に仁文字を読むのである。


 しかしながら天人一理の裡に矢張天道人道の別を弁へることが一大肝要である。
天理自然には善悪共にさまたげぬものであり、死生一如であり、貧富一円であるが、人道は悪を去つて善に就き、死を厭うて生を長くし、貧を除いて富を来さうとするものである。
これは矛盾するものではなく、却つてよく天理自然を了得する上によく人道を立てるのである。
我が身を天道に委せるものが天道の確実なる実行者である。
故に天理自然の悟道が根本である。
天道を知るは宗教、人道は謂はば道徳である。
よく生死を脱する者がよく生を全くする道を立て、よく貧富に居らぬ者がよく貧富の所を得させる。
「かりの身を元のあるじにわたしをき」
といふは生死超脱の天道に属し、
「民安かれといのる我れなり」
といふは生を全くすべき人道の事に属する。
天道は受に與(くみ)して施に與し、人道は受に與して施を悪(にく)み、天道は楽に與して苦に與し、人道は楽に與して苦を悪む。
その外天道は富貧、得失、吉凶、栄辱、益損、易難、興廃、貴賎、寿夭、逸労、勝負、賞罰、治乱、強弱、生死、盛衰等のいづれにも與みして平等であるが、人道は富に與みして貧を悪み、一方のみに與みして他の一方を悪む。
しかのみならず、墾荒、怠勤、奪譲、驕倹、利義、愚賢の相対に於ても、天道はそのいづれにも與みして凝滞なきに、人道は奪に與みして譲を悪み、驕に與みして倹を悪み、利に與みして義を悪み、悪に與みして善を悪み、愚に與みして賢を悪むのである。
天道が奪譲いづれにも與みするといふは、奪ひ合ふ所には争が起り、譲り合ふ所には和が生ずるので、只天理自然であることをいふ。
その外労すれば富み、逸すれば貧、正しければ治、邪なれば乱なるは天理自然であって免れない。
これ即ち天道は労にも逸にも、従てまた富にも貧にも、又正にも邪にも従てまた治にも乱にも與みするといふ意味である。
與みするとはただ天理のままに行はれることである。
然るに
天道は受に與して施に與し、小人は受に與して施を悪み 云々とある。
するとさきに引用した所に照らして天道は君子に、人道は小人に相当する。
これは一見上述天人一貫の理に背馳するの如くである。
蓋し人道は人道であつて人の立場に立つものである。
然れども天理自然を知るものからは人も天の中にある。
故に天の中の人であると知つて人の立場に立ちさへすればここに始て人を全くすべき真の人道が開けるのである。
これが即ち君子の態度であって、君子とは天道に居て人道を行ふものである。
それ故に人道を全くすることが出来る。
即ち人の悪む所の苦を去つて人の與みする所の楽を得、人の悪む所の貧を去つて人の與みする所の富を得、人の悪む所の罰を去つて人の與みする所の賞を得さす道を立てるのである。
人が争に與みして譲を悪むは畢竟得るに與みして失ふを悪むからであり、驕に與みして倹を悪むは畢竟富有に與みして欠乏を悪むからであり、利に與みして義を悪むも畢竟施して失ふことを悪んで受けて得ることに與みするからである。
君子は故に失はしめずして得しめるやうに、乏しからずして豊かなるやうにするので、これ即ち人道に外ならぬ。
人道に居て人道を立てんとする者は人道を失ふ。
これが小人の境である。
貧富、吉凶、栄辱、夭寿、生死、盛衰、利義、賢愚の相対に住するは、仮りの身に凝滞する所から此等相対の元来一円一元であることに気づかぬからである。
仮りの身を元のあるじにわたしをける者は吉凶、栄辱、夭寿、盛衰を平等視する。
一吉あれば一凶あり、十吉あれば十凶あり、十栄あれば十辱あることを知る。
かくの如くして始て民安かれといのる我となることが出来、人だめを為し、吉ならしめ栄ならしめ、寿命長からしめ、世盛んならしめて、人道を立てるのである。
君子とは天道を自覚する者のことで、君子によつて天道もその霊活の機を発して、人界といふ今一つの天地を開くのである。
人道に拘泥して人道を失ふものが小人である。
法律と権力とによって利害相制せしめ、妥協契約によつて利益交換せしめて、これを以て社会組織、国家制度の根拠となす者は謂はば人道を以て人道を立てんとするものであつて、人間の真に触れざる皮相的生活を暫有的に営むに過ぎぬ。
法律経済を道徳とはそれぞれ別の原理の上に立つものとし、器具機械を文字通り器具機械だけのものとする者は、尊徳から見れば天理自然を知らぬのである。
 

すべての事物は対待の形に於て存在するので、対待を没すれば事物悉くその姿を消して存在せない。
天地、東西、寒暑、方円、種草、花実、男女、親子、智愚、善悪、治乱、興亡等、事物の無量なると共に対待もまた無量である。
然るに譬へば物に表裏あつて表は見えるが裏は見えぬが如く、事物の形相は見える表であるが、見えぬ所の裏は対待存在の根柢である。
この表のそのままの裡に裏を洞見するを天理自然を知るといふ。
しかるときは天地相依り、男女相依り、貧富相扶け、智愚相輔け、善悪相贊けることを知る。
不善人は善人の教導に俟たねばならぬことは言ふを要せないが、善人も不善人を資としてその善を施すのであつて、不善人がなければ教化改善の善的努力をなすべき地がない。
不善に対して善がいよいよ善を磨く。
これ元来善悪不二一円なるが故である。
善心悪心元来一心である。
これを知らない善人は善に泥みて善を失ふのである。
小人あつてこそ君子の徳も徳たるのである。
さもなければ善悪相争ひ、君子小人朋党対立して世は却て乱れる。
善悪に居らない境涯からして善悪各各その所を得さす、即ち悪は善に遷り、善は悪を化していよいよ善を実にする。
これ天道に居るものにして始てよく人道を全くする所である。
人道に於ては善はいかにも好ましいもの、悪はいかにも忌むべきものであって、些の苟且妥協を容るさないが、しかするには不善人は善人を贊ける意味あることを知らねばならぬ。
財物界に於て貧富の対立も又全くかくの如くである。
貧富互に相済して天下の財は足り、人は衣食を得るのである。
しかるにこの貧富互に相済す事実を只皮相的に見る者は利益の交換とのみ思ふ。
これ貧富に住して貧富相利せんとするものであつて、道徳を離れて経済を立てんとするのである。
貧をも厭はず、富をも辞せないといふ境地を得たものが始て真に貧富各々その所を得さすのである。
即ち真に貧富互に相済して財用足り、衣食豊かにして、人道が行はれる。
これ天道にして始て人道を立て得る所以である。
ここには仏老に通ずる見処があるやうで、儒教をあさはかに解せる者を超えて居る。
しかしまた教化の親切から出た言葉遣ひに執着して、天道人道相背馳することを説いたと思つてもならぬ。
人道は原野を田地とするが天道は之に反して田地を廃して原野とすると説くは一応事実その通りであり、かく説いて少しも誤でないが、天地(アメツチ)の書かざる経を手本とする所の人道であるから根本に於て実に相背くのではない。
相背いてしかも相背かぬのが天人の間である。
原野のままに措かずして鍬鋤を入れて開墾するは天に背くやうであるが、その開墾の一歩一歩が天道に従はなければ田地を成さぬので、植付けた稲の生長が天道に従ふばかりではない。
雑草を芟除して稲を育てるは天に背くやうであるが、その実天に従つてのことである。
天道に於てと雖も甲種の雑草が蔓衍すれば隣接の乙種の雑草は除かれる。
且つ人道といふもそれ自身天生である所の人間が大天地の中に小天地を開くので、この小天地である人界こそ大天地の開眼をなすもの、大天地の開眼をなすもの、大天地の精輝を発するもの、真に始て天地を開闢する意味のものである。
天地間の万物は天地に依つて存するもので自(みずか)らに依つて存しないが、天は他に依る所あるものでなく自らに依つて天たるのである。
万物の中人間のみは自らに依る所の存在を実にして無依の天の真に迫るものである。
故に人界といふ自己の天地を開くのである。
この人間の人間たる所を実にするものが悟道である。
報徳の教は悟道に至らしめるものであり、悟道から発する人道を立てさせるものでもあつて、教といふものにはともすると弊の生ずるものである中に、弊の少ない稀有の教と思はれる。
尊徳曰く、
忠勤を尽くして其の弊を知らざれば忠信に至らず。忠勤を尽くして其の弊を知れば必ず忠信に至る。
仁愛もまた然りであつて、その弊を知らねばならぬ。
忠勤を尽すを道理と思ふは可なり。忠勤を尽し報徳を思へば忠至る
報徳の二字が至理を言表はして弊少く、実事に施して効多く、教として報徳教と名づけてある。


二 不止不転。多即一、一即無

 尊徳の悟道といふは日常の生活、万物に接し万事に応じ、体認実践の間に得られたもので、特種の修行をして達せるものでないことは言ふまでもない。
しかもその一生を貧農を救ふことに捧げた経歴から、その啓発する所多くは草木の自然の上、耕耘の人事の上、農民の人倫の上に於てであり、その立言教訓もまた従て此等に即してせられてをる。
種草花実の循環といふは儒の所謂天命の流行、約富奢貧の輪廻といふは仏の所謂因果応報であつて、而して二者は異名同質と見た。
循環周流して間髪を容れざる処、輪廻流転してその端を知らざる処に悟道を得るとする。
「花の事今は忘れて紅葉かな。」
これ詩に維れ天の命、於(あゝ)穆已まずの意、逝くものは斯くの如きか昼夜を舎てずの意、若し宋儒ならばここに道体を見るであらう。
「腹くちく食ふて舂き引く尼かかも仏にまさる悟りなりけり。」
天道は至誠不息。
これを誠にするから悟れりとする。
「やれば喰ひ喰へばまたやるせからしや長くたもちのならぬ此身ぞ。」
無常迅速、しかも這裏に常を見る。
「春は生え秋は実法と来る年も名のみかはりて果しなき世ぞ。」
「咲けば散り散ればまたさき年毎にながめつきせぬ花の色々。」

生滅の裡に不生不滅、増減の裡に不増不減を見る。
故に題して色即是空、空即是色といふ。
桜の花が将に蕾を破らんとしてをる、そこに四時悠久を観んずる。
千種千草、万花万実、この裡に一草を観る。
一生あれば必ず一滅、一増あれば必ず一減、元来増減無く、生滅無き所に一草を観る、一米を観、一麦を観る。
「一人変化して万父と為る、万父の本を●(りっしんべんに曹)れば則ち一人也、男女本来増減無し」
この一人、この一草は無象の象であり、目にも見られず、手にも取られぬが、しかも千百の男女の生死の裡に、億万米麦の栄枯の裡に厳然たる実在である。
この一人あつて千百の男女生滅往来し、この一米一麦あつて億万の米麦種草花実輪廻して息まぬ。
これを天理自然と言ふは悟道の語であつて、仏に自然法爾といふが如きである。
私意のために引き留めようとし取り越そうとすることなく、只そのある通りに随つて観る、自(みずか)らそれと一つとなつて行く。
「一物元より増減無く、一色元より変化無く、一命元より生死無し。」
「生滅と皆いかめしく思へどもいつも草実と名のみかはりて。」

只形体あるが故に一物、一色、一命を見ることが出来ぬ。
「草木有体を以て、葉落ち木枯れて後、実ある事を知ることあたはず、実能く木枝葉を知ることあたはず。
人有体を以、れい体を見ることあたはず、又れいたいをもつて有体を見ることあたはず。」

只私意を離れるに従て形骸を有ちながら形骸を超えて父祖が子孫を知り、子孫が父祖を知り、父子一円一元と知る。
されど一円無人に達するを極地とする。
「夫元一円無人なり、人未だ生ぜざれば必ず父子無し、人生自然父子有り。
夫元一円一人なり、一人種実父子と為し、父子元を悟れば一人に帰す。
夫元一円父子なり、人父無ければ必ず人子無し。」

一円父子であるから父は父の道、子は子の道を尽す。
尽して一円一人に達する。
「人未だ生ぜざれば必ず父子無し」は未生以前である、ここには一人も亦無く、無人である、解脱境であり聞察の及ばぬ所である。
一円父子と知るは人倫道徳である、聞察の及ぶ所である。
財宝に於てもまたこの通りである。
「夫本一円無財なり、無財相変一宝を生ず、一宝増化して万宝を為す。」
ここに無財は無人の如く、一宝は一人の如きである。
無財は聞察の及ばざる所である。
「無財相変一宝を為す。」
この一宝は聞察及ばざるにはあらざるが、目にも見られず手にも取られぬ。
「一宝増化万宝を為す。」
とは傾くに始まる。
「夫れ本(もと)一元宝、傾く故に貧富有り。」
貧富、賃借、施受、増減は通用である。
通用にして始て財の財たるを実にする。
この通用の裡に不増不減の一元宝を観る。
この一元宝を観て、一元宝に居て、貧富増減に居らざるものが財用の道を全くする。
一元宝とは何ぞ。
「財本(もと)我が財ならず、天道の財なり。」
天道之財が一元宝である。
一国で言へば天子の有を一元宝とする。
されどこの天子の有何処に存するかと言へば、万民の貧富貸借あらゆる財的流通裡に存するので、その外に別に存するのではない。
されど万民個人個人として何人の有にも住せざる一元宝、個人的立場からの貧富増減を超ゆる一元宝、即ち天子の絶対有が、万民間の貧富貸借増減の根柢である。
人民個々の私有は天子の絶対有の発現であつて、畢竟この絶対有に外ならぬと知るとき、一国の財政経済の根本原理が確立する。
知ると知らざるとを問わず根本原理ではあるが、知らざるときはそれが実とならぬ。
それが実となるのが所謂報徳仕法に由つて経済が行はれることである。
この一元一宝、一元一人、一元一生命、一元一草、一元一米、一元一麦は生じて生ぜざるもの、増して増さざるもの、減じて減ぜざるものであつて、ここに住するものが財を全くし、乃至米麦を全くする。
財用流通、貸借、増減、施受、貧富千変万化の裡に道を見るは、春華秋実、来る年も来る年も名のみかはりて果しなき世に常を見るとその意全く同じである。


 然るに万宝は一宝に帰し、万父は一人に帰するが、一宝は宝であって人でなく、一人は人であって宝ではない。
万田は一田に帰し、万草は一草に帰するが、一田は田であって草でなく、一草は草であって田でない。その他万米は一米に帰し、万麦は一麦に帰するが、一米は米であって麦でなく、一麦は麦であって米でない。
すると財はどこまでも財、人はどこまでも人、田はどこまでも田、草はどこまでも草、乃至米はどこまでも米、麦はどこまでも麦として存在するものであるか。
曰く
「夫本と一円無財。夫本と一円無田。」
万宝の帰する一宝も本と無財、万父の帰する一人も本と無人、万田の帰する一田も本と無田である。
人無く、田無く、米麦無く、万づさまざまの物無きとき、いかで財宝といふものあるべき。
財といふは自余万物の流通循環する処に出現するものである。
万物の流通循環を余所にして別に財といふものは無い、無財である。
又田無く、米麦無く、万づさまざまの物無きとき、いかで人といふものあるべき。
人といふも自余万物の流通循環する処に出現するものであって、それを余所にして別に人といふものは無い、無人である。
その外田といふも、米といふも、麦といふも、いづれも自余一切の物の集散離合する所に出現するものであって、それを余所にして本来田無く、米無く、麦無しである。
之を推し窮めるに、地水火風の四大と雖も、
「水無れば火無く、火無ければ水無く、地無ければ風無く、風無れば地無く、体無れば気無く、気無れば体無し」である。
故に地空、水空、火空、風空として空を本とする。
空を大極とする。
「夫本と一円大極也。大極一元本と其号ヲ獲ルニ非ズ。其体ヲ推権(オシハカ)レバ非不空、非不無空、非不有体、非不無体、非不無気。
人力ヲ以テ観察ノ及バザル所ナリ。
唯一ヲ一ト号ケ、元ヲ元ト号クルノミ。
之を大極ト謂フ。」

又曰く、
「万物化生、莫不以大極為元」。
財も人も田も米も麦も、その外万物一として独自に存在するものはない。
成程米は米の種から出でて決して麦の種からは出ないし、麦は麦の種から出でて決して米の種からは出ない。
米は米で種草花実循環息まずして依然米である。
これを一円一元といつて、その一元は米の一元である。
然れども自余の万物との流通循環が無ければ米として種草花実の循環をなすことは出来ぬ、万物との流通、大にしては天と地、土と水、温と光、さまざまの肥料等の徳の塊が米となり、又は麦となる。
天地万物の間の外何物も現ぜず、その万物といふものの一一も自余の万物の間の外存し得ないものである。
米麦の然るが如く財も人も田も然りである。
故に無財、無人、無田といふ。
この無財から一宝、一宝万宝、万宝とは財界である。
この無人から一人、一人から万人、万人とは人界である。
この天理自然を知るが悟道であるが、また我が身はもと父母、祖先、君国、その外天地間あらゆるものの賜であつて元来我といふ固有の一物無しと知るは即ち徳を知つて徳に報ゆる心である。
報徳は無我に至る道であり、また無我から出づる道である。
我のみならず米も麦もその外天地間何物も皆独自固有の存在でなく万徳の賜であるから諸法無我である、
無米、無麦、無田、無財である。
賜であり徳であると知る所からはすべてのものの根元は生育そのもの、慈恵そのもの、即ち仁である。
その由つて生ずる所を知らずして生じ来る。
その知らざる所は空であり、その生ずる所は仁である。
大極は本と仁である、只生じて生ぜざる所から大極といふ。


その生ずる所は目にも見られず手にも取られぬ。
このことをすべて生ずるは間に於てすといふ。
「非彼山非此山之間、不尽流、謂滝川也。」
(彼の山に非ずこの山に非ざるの間、流れは尽きず、滝川と謂うなり。)
成生はすべて生ずるは両間に於てする。
天地間、男女間、双手間、貧富間に百物生じ、子孫生れ、音声生じ、財宝生ずる。
間ならずして生ずるもの一もあらず。
「天地間無而生、有而滅、非天非地、不尽生滅者、皆謂二間也、人己而非謂人間也。」
(天地間無にして生ず、有にして滅、天に非ず地に非ず、生滅して尽きざる者、皆二間と謂うなり。人すでに人間と謂うに非ずや。)
天地間無而生の無は即ち間なり。
天が生ずとも地が生ずとも謂われず只両間に於てす、この間は間なるが故に無である。
財は富が生ずとも貧が生ずとも謂はれず、貧富の間に生ずる。
間なればこそ流通する。
その流通する所即ち生ずる所である。
「元来天之(下)地之上、雲行雨発草木鳥獣虫魚一切万物、是則天地也、謂天間地間心也。」
(元来天の下地の上、雲行き雨発して草木鳥獣虫魚一切万物、これすなわち天間地間と謂う心なり。)
又曰く、
「非父非母、父体母体間、不尽生死者我也。」
父に非ず母に非ず、父の体・母の体の間、生死尽きざる者我なり。)
父が生むとも母が生むとも謂はれず、間に於て生死尽きざるものが我である、人である。
間に於て生々尽きず、この間これ有無一如である、その捉ふべき実体がない。
それ故に和合の根元である。
和合せざれば生ずるもの一もない。
天地間空しき処に雲行雨発し、貧富間空しき処に財通ずる。
通ずるは即ち生ずるのである。
陰陽始無く、動静無く、
「滅物根元者、在増物発端。」
(物滅する根元は、物を増す発端に在り。)
「ひんぷくは打てばひゞくのおとならん打たねばたへて有るや無きやを。」
これ即ち一円無財である。
「生死とは打てばひゞくのおとならん打たねばたへて有るや無きやを。」これ即ち一円無人である。
「有る無きは打てばひゞくのおとならん打たねばたへて有るや無きやを。」
これ即ち空文字である。
しかし空、無人、無財はただ無なるのではない、さう思ふは断見である。
「無きといへば無きとや人の思ふらん呼べばことふる硲のこえ。」
それならば有かと言へばそれは常見である。
「有りといへば有りとや人の思ふらんのきの松風音ばかりして。」
有無に滞らざる間に無限の生々を見る。
さてその間に生ずるは施受の形である。
天は施し地は受ける。
男は施し女は受け、富は施し貧は受ける。
而して形の上では受ける側に生ずる。
地が生じ、女が生じ、貧が生ずる。
「富者は貧者に根差し、財宝集り、土蔵文庫を建て、美服美食す。
富者は木徳にて、根の水を吸上げて花美に暮らす。
木根一本を悟れば恵を離るべからず。
貧者は富者の下に垂れ、粗服粗食、今日を凌ぎ得。
貧者は根徳にて、財宝を作り出して富者に財を送り、銭を受けて暮らす。
木根本を悟れば財を受け徳を運ぶべし。」

貧ならざれば労して財を生むことをなさぬ。
漁農百工皆然りである。
「天恵万物、地生万物、恵万物者天也、生万物者地也。」
(天万物を恵み、地万物を生ず、万物を恵む者は天なり、万物を生ずる者は地なり。)
その如く男思ひ女愛して子孫があり、その如く富者の貸す心と貧者の借る心によつて財用通ずる。
この理は天人一貫である。
道と人もさうである。
「以道贊人、以人贊道」
(道をもって人をたすけ、人をもって道をたすく。)
人を以て道を贊くとは人能く道を弘むる意である。
神と人ともさうである。
人は神の加護によつて安く、神は人の崇敬によつてその威を増す。
君と民ともさうである。
「以身贊民、以民贊身」
仁不仁、善不善もまたさうである。
「以善贊不善、以不善贊善」
善心不善心の間に徳が修まり、善人不善人の間に徳が行はれる。
善人がなければ不善人を善に導く者がなく、不善人がなければ善人は徳を行ふ資がない。
所謂不善人は善人の資である。
善悪相贊くるかくの如くであるが、生々するものは善であり徳である。
逆臣の反逆が忠臣の忠戦を致しはするが、忠臣の忠戦が逆臣の反逆を成すのではない。
貧富相贊けるが、生々するものは徳であり財である。
貧者の貧は富者の施与を致しはするが、富者の施与が貧者の貧乏を成せるのではない。
故に循環とは天地間只徳の流行あるのみを言ふ。
徳は報徳であり、報徳は徳である。
天地施受合して百物を生ずる、その合するは天地一元であり、合するの間は混沌である。
男女施受合して子孫ある、その合するは男女一円であり、その合する間は無人である。
善不善施受合して善の起る、その合するは善不善不二であり、その合する間は無善である。
しかも間は間であるから別に在るのではなく、両つの間の間である。
両つは両つであつて各々己れを虚くするから間である。
人間にあつてはこれを譲といふ。
譲るから和し、和するから生ずる。
譲つて己れを有たぬのが誠であつて、誠は通じ、動かし、かくして生ずる。
その生ずる所に慈といひ仁といふ。
これ天地人一貫の所である。


 間とは空間的に言つたのであるが、それを時間的に言へば現在である。
万事万物両間に生ずる如く、また過去未来の間に生じて三世を有たぬものはない。
一切成生は三世にわたりてのみ見られる、所謂輪廻であって、具体的に言へば種草花実の序である。
「夫人今日相則有三日相。夫人今月相則有三月相。夫人今日心則有三日心。夫人今世心則有三世心。」
(夫れ人今日の相あれば則ち三日の相有り。夫れ人今月の相あれば則ち三月の相有り。夫れ人今日の心あれば則ち三日の心有り。夫れ人今世の心あれば則ち三世の心有り。)
善悪、苦楽、貧富等一切の万事、草木人畜一切万物、皆然らざるはない。
然らば三世の真相は何であるか。
三世を知らんには、
「先可悟今世也。今世則前世也。前世則今世也。又今世則来世也。来世則今世也。譬大樹在焉。地上松樹則其根松也。其枝葉則松也。是何非松樹而巳。天地間万物古今然矣。」
(先づ今世を悟るべきなり。今世は則ち前世なり。前世は則ち今世なり。また今世は則ち来世なり。来世は則ち今世なり。譬えば大樹在り。地上の松樹は則ちその根なり。その枝葉は則ち松なり。これ何ぞ松樹のみならん。天地間万物古今然り。)
前世も来世も畢竟今世に外ならぬから、先づ今世を悟るべきである。
現在を知るのが真に時間を知ることである。
三生とは何であるか。
「先可悟今生也。我人即親人也。親人則我人也。子人則親人也。譬松樹過去則松種也。松種悟過去則松也。慮今松未来則松実也。慮松実未来則松也。天地間古今然矣。」
(先づ今生を悟るべきなり。我人即ち親人(おやひと)なり。親人則ち我人なり。子人則ち親人なり。譬えば松樹は過去則ち松の種なり。松の種過去を悟れば則ち松なり。今の松の未来を慮れば則ち松の実なり。松の実の未来を慮れば則ち松なり。天地間古今然り。)
前生も後生も畢竟今生に外ならぬから、先づ今生を悟るべきである。三世にして然かも今世、三生にして然かも今生を知るのが、天理自然を知るのである、因果必然天命流行を知るのであり、
「花の事今は忘れて紅葉かな」
の境である。
松と種と実は一実であつてしかも組織整然紊るべからざるものである。
その時序組織に寸分の隙なき所が今世今生であり、今である。
この天道が人道の據つて立つ所であつて、米を見て直ちに食はんとする鳥や盗人と違つて、先づ種を貯へ、春蒔き、耕耘して秋実を俟つが人道である。
因果歴然は因果一如である。
今によつて因果一如を知り、間によつて対立の不二一物を知る。
空間的の言葉で間、時間的の言葉で今、これは二にして実は一であつて、生の元である。
間は間であるから虚であり、虚であるから捉へられない。
今は今であるから止まらない、止まらないから捉へられない。
然れどもこの間を捉ふべき人道が譲であり、この今を捉ふべき人道が勤である。
よく譲る者がこの間を実にし、よく勤むる者がこの今を逸せない。
故によく譲る者がよく生じ、よく勤むる者がよく生ずる。
譲と勤とは人道としては各々一徳であるが、天道にあつては只一誠である。
之を誠にする人の道は且つ譲り且つ勤めるにある。


 三 一理万理

 天理自然は四時の運行、草木の生長、人事の消息等一々皆それぞれの天理自然であつて、しかもその天理自然たるに於て四時の運行、草木の生長、人事の消息等通じて一であつて寸毫も相違もない。
これを一理万理といつてよい。
現代の学問に於て倫理には倫理の規範、法律には法理、経済には経済の原理法則、又認識には認識の範疇、心意には心理の法則、生物には生理法、物質現象には物理的法則、皆それぞれそのその領域に於て独自の法則があつて、彼を以て此を、此を以て彼を律することが出来ぬとするならば、尊徳の説からはかくの如き法則は皮相的設定であつて所謂天理自然ではなく、かくの如き互に相隔歴する如き衆多の法則を以てしては自然と人生、人生諸方面の間の真実なる統一、内面的なる融合は不可能であつて、自然的法則は道徳的法則と両立せずとせられ、科学は宗教と相容れずとせられ、経済は倫理と別原理に立脚すとせられ、従て自然と人生とは征服の関係にあり、人生諸方面の調和は妥協に外ならずとする機械的人生観に帰着せねばならぬ。
毫末も人為を加へざる所の、毛厘も人智を以て計らざる所の天理自然に於ては、大は宇宙の運行より小は一草一木の栄枯に至るまで、顕は日星の昭々たるより幽は心裡一念の微に至るまで、唯一無二の道によつて一貫せられて寸毫の間隙を容るさぬとする。
然る故に覆トウ持載、百物発育、人間出現、心識来往、只一呼吸の裡にありとする。
日月の運行と喜怒哀楽の起滅との間只感応あるのみであつて、これを隔てる別物も無いとする。
ただ道徳経済一致といふ如き小範囲のものでなく、天地人生挙げて只一生命であつて、この一生命の動き方である天理自然には二も無く三も無い。
無二無三の天理自然を知つてこそ天道の外に人道を立てることが出来、しかもその人道は終局に於て天道に外づれぬ。
大自然界の外に人界を創始して、しかもその人界は終局に於て大自然界裡にある。


天体が動かなければ此地上に季節がない。
地上に季節がなければ草木は生長せない。
草木が生長しなければ人体は養はれない。
人体がなければ人心がない。
「此身あれば此心があり、此心があれば此身がある。此身なければ此心がなく、此心がなければ此身がない。」
それ故に日月の運行と心意識の往来とは相呼応して間隙がない。
最も縁遠く見えるものがその実一脈相通じて四肢五体相互間もただならざる関係にある。
その然る所以は万物万事、一一皆各自特有の天理自然を具へながら、天理自然たるに於て万物万事些の相違がないからである。
草木の理も経済の道も人倫道徳の理もそれぞれでありながら畢竟一理である。
一草生ずれば一草滅する。
一葉増せば一葉減ずる。
一里行けば一里還る。
因果法と貸借利足の法と同一理、利足の法は生者必滅、会者定離と同一理、借りたものは返へす期のあるもの、入つたものは出づるに極つたものである。
賃銀の理も忠孝の理も一である。
労すれば報があり、報ゆれば労する。
尽忠勤思至善非忠。尽忠勤思道理可也。尽忠勤思報徳至忠也。
(忠勤を尽くすを至善と思うは忠に非ず。忠勤を尽くすを道理と思えば可なり。忠勤を尽くすを報徳と思えば忠に至る。)
道理と思うとは天理自然と知ること、当り前と知ることであつて、忠勤を尽すは借金を返へすと同理である。
別に善事を為したと思つてはならぬ。
天理自然より一毫も加ふることも出来ず、一毫も減ずることも出来ぬ。
当り前以上に加へたとするのが至善と思ふのであって、之は忠でない。
報徳とは四時の循環春花秋実のことである。
只道理至極なのである。
かく思つてこそ忠に至る。
忠といふは君に対する当り前のことである。
忠勤の弊は忠勤を当り前と思はずして別に加ふる所があるからであらう。
すべて善人が悪人を向ふに廻はすは道理でない。
すると善人には善人の非が出来、君子小人朋党の禍が起る。
「善は不善を贊(たす)け、不善は善を贊ける。」
「善悪元来不二」
である。
その善と不善と相済すは男女相済し、貧富相済すと同一理である。
不善人は善人に導かれて善に至るべく、善人は不善人によつてその善を修める資を得る。
所謂不善人は善人の資とはこれである。

 施受によって物は生ずるの理は到る処然らざるはない。
施者なければ受者はないが、又受者がなければ施者独り在りやうがない。
生ずるは只施受の間に於てのみである。
施独り生ぜず、受又独り生ぜない。
富は施し貧は受けて貸借交流して財は生起する。
生ずるは受の側に於てするが常である。
男施し女受けて生ずるが、生ずるは女の側に於てする。
財物を製産するは常に貧者である。
貧でなければ漁農工商、百般の労苦以て生産することはない。
夫れ一歳は天地の呼吸であつて、その中に一人の身体は幾万の小呼吸をなす。
この小呼吸は大気と五尺の小身内の気との施受のことであつて、それによつて身体は生きて行く。
火大と五尺の小身内の温気との施受によつて体温を保つて行く。
骨は地大と、血は水大と施受の間に生命を続ける。
これは天施し地受けて万物生ずるの裡にある。

意識の極限界は記忘である。
記し通しならば何ぞ識とせん。
忘れ通しならば何ぞ識とせん。
忘から記に、記から忘に出入する所正さしく識を成すのである。
識は識なるが故転識である。
忘れて何の処に没し去るか、憶ひ起すは何の処よりするか。
尊徳曰く、
「一心思忘無し。」
「記忘元を悟れば一心」

である。
この一心は識ることも出来ず、感ずることも出来ぬ。
記忘交互してこそ識であるから、交互往来の起る所は超識であつて、これを一心とする。
思忘とは、即ち意識とはこの一心と小我の心との間の施受であり、呼吸であり、心の大海に於ける往来である。
五尺の身体といふ隔を取去れば一気元来呼吸無しである。
その如く我が心といふ隔を取去れば
「一心思忘無し」
である。
善悪は記忘と一理である。
善心悪心といふは一心からの遠近往来である。
一心に近づき親むほど善心であり、疎遠となるほど悪心である。
悪とは畢竟忘であり、無知である。
故に一切意識は善悪の識ならざるはない。
かくと知る所に於て尊徳とプラトーと符節を合する如くである。
善悪の心から是非の心が起り、好悪の心から苦楽が起つて来る。
それ故に一切の意識は是非ならざるはなく、好悪ならざるはなく、苦楽ならざるはない。
苦楽元を悟れば一心、好悪元を悟れば一心であつて、この一心好悪無く、苦楽無しとする。
一貸万借を生じ一借万貸を生じ、貸借増滅する所貧富であり、財界出現する。
一貸あれば一借、一借あれば一貸、貸借元を悟れば一宝である。
この一宝は手にも取られず目にも見られざることは一心の識を超ゆると同一理である。
 

 学問は慎思明弁であり、弁証は問答に外ならぬ。
答ふるは施であり、問ふは受けんとするのである。
問ふ心は借る心、答ふるは貸す心である。
問答思弁によつて智識の開け行くは貸借施受によつて財を生ずる道に外ならぬ。
問ふ者は学ぶ者、答ふる者は教ゆる者である。
問答弁証は教学に外ならぬのである。
自から問ひ自から答へる所の思索と弟子が学び教師が教へる所の教学とを重大なる相違の如く思ふは事の真相に達せぬのである。
教学は文化の大海を代表する師が施して弟子が受け、受ける側に新内容を生じて、文化の進行する形である。
かくして教学は経済と同一理に本づき、学問の開け行くと産業の発展とは同じ天理自然である。
即ち天道に則とる人道である。

 陰陽昼夜寒暑と、君臣父子夫婦と、呼吸寤寐飲食と、記忘問答教学と、善悪是非好悪と、順逆盛衰興亡と、凡そ天地東西、日月風雨、四時季候、形体心意、人倫人事悉皆その理を一にする。
この一理万理は天人一貫であり、自然界も人間界も同じ生育の心から発すると共にその生育の様式もまた同一である。
即ち施受の間に和合起り、和合する所に生ずる。
和合するは元来一円一元であるからであり、一円一元は施受対立の間そのものであつて、この間に事物は生ずる。
この間はそれぞれの対立を超える大自在の地であつて、財にあつては無財、人にあつては無人、心にあつては無心、天地にあつては空であり、渾沌である。
故によく無量在の無尽蔵地であつて、無量の財、無量の人、無量の識、無量の物を生ずる。
天道の中に人道を起して人界を開闢し、無量の文化を生ずるは独り人間がよく道を悟つて此の間を体得するからである。
これによつて自然界の行く先を転換して文化を開く自在を得る。
その開く所、その生ずる所に即して仁の名がある。

以上一理万理の意味を述べ了つて、次に少しく尊徳自身の記せる所を引いてその意を充実しその内容を補足しよう。
空仁二名論の図説は七十四の題目を挙げて、空は万物の成る所以、仁は人倫の開くる所以、而してその理を一にすることを示してある。
人事、心意、形体、人倫、季候はその理を一にする。
人事には始終、本来、首尾、彼我、内外、表裏、進退、前後、左右、遠近、衆寡、順逆、興廃等がある。
而して此等皆一理である。
形体には呼吸、飽飢、飲渇、吐納、寤寐、起居、出入、動静、死生がある。
而して此等皆一理である。
人倫には神人、男女、父子、朋友、君臣、上下、貴賎、知愚、儀礼、智信等がある。
而して此等皆一理である。
季候には陰陽、寒暑、春秋、夏冬、昼夜、朝夕、明暗、陰晴、燥湿等がある。
而して此等皆一理である。
而して以上人事、形体、人倫、季候通じて又皆一理である。
而して以上と心意と又通じて一理である。
心意には誠偽、迷悟、善悪、清濁、明暗、邪正、苦楽、愁喜、喜怒、驕謙、思忘、治乱、奢倹、慢慎、曲直、順逆、随背、夢覚、寤寐があり、又受施、貪恵、強弱、是非、神我、仏我、聖我、賢我、逢別、締緩、会離、幸災、悦歎、問答、学教、阿吽、呼吸、得失、集散、結解、浮沈がある。
而して此等皆一理である。
これを万物一円鏡といふ。
人事、心意、形体、人倫、季候の五、或は天地、夏冬、昼夜、貧富、得失、男女、体気、根葉の8、此等は万事万物に通じて一である。
不増不減も然り、一円一元も然り、悟元不二一物も然りである。
一元渾沌から一元開闢も一である。
貧には貧の因あり、富には富の因あり、善因善果、悪因悪果、種草花実、米種米花ならざるはない。
悟道は米を蒔いて米を得、麦を蒔いて麦を得、勤を蒔いて富を得、惰を蒔いて貧を得ることを知るに外ならぬ。
我が国開闢の大道は無一物より発するにある。
而して仏の輪廻、儒の循環の説又実にこれに外ならぬ。
財を生ずる道は開国の道と同じく、心意の消長変化の道と同じく、人倫道徳の道と同じく皆報徳の道である。
草木にあつて花実もその時を忘れざるは報徳である。
報徳は施徳であり、施徳は報徳であつて、輪廻循環、互に因となり、果となる。
教を立てる上から報徳といふ。
その実は
以天贊地、以地贊天。以陽贊陰、以陰贊陽。以男贊女、以女贊男。
(天を以て地をたすけ、地を以て天をたすけ、陽を以て陰をたすけ、陰を以て陽をたすけ、男を以て女をたすけ、女を以て男をたすけ)
かく互に相報ゆる。
天道に於てかくある如く人道に於て、
以道贊人、以人贊道。
(道を以て人をたすけ、人を以て道をたすけ)
人を以て道を贊けるは人能く道を弘むるのである。
以身贊民、以民贊身。
(身を以て民をたすけ、民を以て身をたすけ)
その如く、
以善贊不善、以不善贊善。以仁贊不仁、以不仁贊仁。
(善を以て不善をたすけ、不善を以て善をたすけ、仁を以て不仁をたすけ、不仁を以て仁をたすけ)
かく互に相贊くる所に報徳が行はれる。
ここに於て人間に於て一言一行、一挙一動悉皆報徳ならざるはない。
今学問に従事するもの此の意を知つて従事するとき自覚を以て学問をなすものである。
直接学問界に於ける施受の恩は勿論、広く開国衣食住の恩、法礼秩序の恩、此の国あつて始て国際的文化流布に与かる恩、安んじて日々学問を出来る恩を忘却して、只己れの力で学問し、漢洋学者の力で学問するとのみ思ふは忘恩の徒、吾身の程を忘れたる徒である。
若しよく覚醒して学問をなすとき、学問は先づ以て君父に報ゆる所以であり、次に広く学会に報ゆる所以である。
故に曰く、
「おもへただ天竺(から)学びする人とても我が身をめぐむこの日の本を」。
学会にあるもの学会の恵を受け得る所以は国恩にあることを忘れざる心、この報徳の心が天地以前無一物に還る心であり、誠であり、仁であり、学会に於いては学問的活動の真源である。
報徳を知り報徳を行つて空仁二名が実となる。























© Rakuten Group, Inc.