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富田高慶翁と西郷南洲翁

「斯民」 第3編第2号(明治41年5月7日)
 「富田高慶翁と西郷南洲翁」 古橋源六郎  (読みやすくするため若干原文を直した)

 私の父が民力を発達させるには、殖産にあるといって苦心してやりましたので、私もその志を継いでやりましたが、一体ならば金ができるに随って、民心がよくならなくてはならぬのに、かえって貧乏の時よりも悪くなりました。これでは仕方がない。「衣食足って礼節を知る」という古語があるが「衣食が足るほど、人心が悪くなる。どうしたらよかろうといって、親子して苦しみぬきました。
 その結果これは二宮尊徳翁の報徳社を立てたらよかろう。それについては誰かを頼まなければならぬが、誰がよかろうかと彼がよかろうかと、いろいろ相談をしました。岡田良一郎さんは父と私も存じませぬので、湯本の福住正兄は父も私も懇意でありましたから、私が行ってその話をしたところが、それでは俺が行ってやろうということになって、あの人が来て報徳社を開くことになりました。
 そうして段々やっているうちに、品川(子爵)さんが
「報徳については、相馬に富田高慶という人がいるから、行って逢ったがよかろう。おれは農商務大輔の時に、行ってその人に会ったところが、実に体が縮んでしまって、農商務の大輔とはいえぬようになった。実に偉い人だ。マア行って来い。」
といって再三勧められました。その折りに愛知県令の国貞廉平という人からも勧められて、仕方なくどんなものかと思って、行って会ってみましたが、会ってみまして、なるほどと実に敬服しました。富田先生は身体の弱い人で、始終寝ておられました。毎日1回ずつ話してくれましたが、その論理のシッカリとして明白なる、その秩序の立っていることなどは、実に敬服しました。そうして今日一段落を話すと、明日話す所をちょっと問題にしておかれる。それを押して聴こうとすると、すぐ立ってしまわれるので、誠に惜しいことだと思うと、翌日それを話してくれました。
どうもその人に思考力を与えられるぐあいといい、話される順序の立っていることは、実に敬服しました。そうしていろいろ話を聴いているうちに、国もとにいろいろ用事ができたために、しきりに迎えが来たので、帰って参りましたが、なるほど品川さんが「之を仰げば愈々高く、之を鑚(き)れば愈々深し」といわれたとおりで、私も富田先生に会った時は、どんな人に会ったよりも、心が清らかになって、非常に勇気を増しました。それ以来あのくらいの人に会ったことはございませぬが、その割合に相馬の人がそう申しては悪いが、富田先生の値打ちを知らぬでしまっていると思います。
 富田先生が「困窮した折は、事が能く成功するが、成功すると必ず壊れてしまうものであるから、そこを覚悟しておらなければならぬ」と話されましたが、そのとおりです。私の地方は山間でございますが、非常に苦しんで回復しました。教育を始めすべて順序を立てて、これでよいとなったら、バタバタ壊れてしまって、サッパリ今は形が無くなってしまっている。それを再び回復しかけて、少しずつ芽が出かかりましたが、どこのを聞いて見ましても、人物があって回復ができても、その志を継ぐ人がいないと、維持が困難です。私の地方などは、国貞県令の時分には、皆なが非常に賛成してくれて、回復が大いに楽でございましたが、一時は県庁が先へ立って打ち壊す。警察が打ち壊すということで、いかんとも仕方ありませんでした。それはまた今日では大いに楽になりましたが、私どもの親のやる時分には、非常に苦心して、サッパリ効が無かったのです。しかしながらやる気になってやればいかぬことはないと思います。私も愛知県の県農会へ副会長に出まして、何とか農家の発展を図らにゃいくまいといって、段々話しました。
(略)
そこで富田高慶先生が、最後に私にいわれましたのは、
「それを主張した者が、己れが功を取る気になるといかぬ。十分に骨を折って、功を人に譲る気ににならなければならぬ」
と草鞋(ワラジ)をはく時までもいわれましたが、その気でやっても、どうもこの凡夫のあさましさは、己れの骨を折ったことが知らずしらずの間、かえって敵を求めることになります。全く高慶先生の言われたとおりです。それで繰り返して申しますが、どうしても農村の基礎を堅くするには、二宮翁のいわゆる分度を定めて、それから人にやらせた方が一番根が堅くなると思う。とても空理空論では治まりませぬ。
 それから私が富田先生に大いに敬服したのは、相馬藩のあれだけの改革に当って、藩から一粒も手当を受けられなかったということです。「どうしてあなたは生活していられましたか?」といったら、「イヤ二宮先生に金を借りて来て、開墾させて、その作得で食っていた。改革をする時分に、君主から金を貰うと、敵を求めるに依りていかぬ」といっておられました。それで段々昇って家老職まで進んだが、禄は辞して受けられなかったのです。それから禄を辞してから何もなくて食うことができぬようになったが、公債証書を貰った。それでようやく食えるようになったのです。
「とにかく衰村を挽回して事をなさんとするには、功利の念を去ってかからぬと事ならぬ」ということを、非常にいわれたが、これは至言であると思います。

 それから先生は戊辰の際にも、非常に大義名分を論じて、帰順論を主張された。ところがどうしても、奥羽の各藩が皆連合して、承知しないので、ひとり相馬藩が大義名分を唱えても持ちこたえぬというので許されない。
「然らば私を奥羽各藩の会議にお遣わしください。私が論破してくる」と言われたが、どうしても許されない。そこでこうなった上は己れの生命が惜しいためにいうのではないによって、藩論に同意するといって、それから薩摩の官軍に当って、その先手を大分斬ったということです。
「とてもこれは勝ったところがいかぬ、では中村城を枕にして打死にしても、役立たぬことであるから、帰順すればよい」というて、他藩の者に先立って帰順し、早速先鋒となって仙台を衝いた。その後、高慶先生が西郷南洲翁に初めて会った折に、南洲翁がしきりに尊徳翁の事績を問われた。そこで高慶先生が「あなたはどうして尊徳翁の事をお問いなさるか」というたら「俺は若い折に、藤田東湖の所へしばしば行った時に、お前勤労ということを知っておらねばならぬ。勤労を知るには、二宮金次郎の所へ行って聴けと、たびたび言われたが、ツイよう聴かぬでしまったが、どうか話してくれ」というので、南洲翁に話したら、大変感心して聴かれたそうであります。その後伊地知伯爵も、再三富田先生を訪(おとな)われた。それから南洲翁がこれは知っておらなければならぬといって、当時長野県の大参事をしておった伊集院某を始め、若い人が大勢官を辞して先生の所へ来たので、先生は誠心をもって尽くされたが、その連中は皆西南の戦争で死んでしまった。
「それでこれきりで絶えてしまうかと思っておったら、宮内省から侍従が見えて、委細問われたによって、経歴を取り調べて差し出し、その後品川さんが巡視になった折にも。委細申上げて、遂にその事が上聞に達し、この上もない事になったが、いずれ秩序が立つに従って行われるが、今強いていっても行われない。二宮翁の遺書は倉庫に散乱しないように皆しまってあるので、いずれ時が来たら国家に用を為すであろうから、時の来るのを待つ外仕方がない」と。こういう話でございました。
 それから私が高慶先生の所から帰って、品川さんにも申上げたら大層喜ばれました。またその後元田侍講にお目にかかった折にも、この事を話しましたら、大変喜ばれましたが、二宮翁について研究をして、これを一藩の政治に応用したのは、相馬の富田先生である。どうも民政については、富田先生に聴いた事は用に立つと思います。富田先生は聖堂で学問をされ、学問はあり才智があるので、幾度も各藩から抱えようといってきたが、「私は相馬の改革の為に来ているのであるから、多くの禄を下さるといっても、ご免を蒙る」といって断られた。
 ある時、高慶先生が寒中に袷(あわせ)を着てふるえておったら、相馬の君主から使者をもって時服(君主から、毎年、春・秋(または夏・冬)臣下に賜った服)を賜った。そこで高慶先生が申されるには「二宮金次郎に頼んで、相当に人の艱難を救うことを心がけている。民どもが寒さに苦しんでおることは察せずして、私等に時服を賜るなどということは、余ほど重役の人が愚かなことを見せるのである。私はなぜこうしておるかといえば、自分はまだ袷が着ておるが、領分の人民はこの寒中に単衣(ひとえ)の上に蓑を着て凌いでおる。それにくらべると袷を着ておれな、この上もない幸福である。皆寒中に単衣の上に蓑を着て苦しんでやっておる。それで堪えうるかどうかを、自ら試しておるのである。それをご承知ならないような不明な重役達であっては、いかに富田が力を尽くしてもできませぬ。よろしく申上げてくれ」といって賜った服を返した。こんな話もあります。まだいろいろございますがこれだけにして置きます。
(本編は特別講話会における古橋氏の談話を筆記したものなり)

武者小路実篤全集第9巻431頁
「西郷隆盛と二宮尊徳(志賀の叔父さんに聞いた話)」抜粋
 まだ若い渋沢栄一が役所で仕事をしていると肩をたたく男がある。ふりかえるとそこに大きな男が立っていた。それは大西郷であった。西郷は渋沢にちょっと話したいことがあるといった。それは日本は農をもってもととしなければいけない。それにはどうしても二宮尊徳の教えによるのが一番いいと思う。それにはどうしても二宮尊徳の教えによるのが一番いいと思う。それで西郷自身の考えとして言い出すのは面白くないから、渋沢の考えとして持ち出してくれというたのみだったそうだ。(略)
 自分はこの話を志賀の叔父さんにきいて、志賀の叔父さんは渋沢さん自身からきいたのだと言っていたが、西郷に感心し、又それが実現出来なかったことを残念に思った。・・・西郷がもっと長生きし、もっと熱心にその実行に骨折ったら、その結果はいくらか挙がったろうと思った。

「前文西郷氏の話の訂正」同書432頁
「青淵回顧録」(青淵とは渋沢栄一の号)の西郷の話の次第

「大西郷その他の果断によって明治4年廃藩置県が実行せられたのであるが、その年の秋ごろ、大西郷が突然神田猿楽町の私の陋屋へヒョッコリ訪ねてこられた。何しろ一方は世に時めく大将で参議を兼ね、明治政府の中心を成しておった顕官であり、私は大蔵大丞の一官吏に過ぎぬのであるから、大西郷と私との地位には非常な隔りがある。従って大西郷が私の茅屋へ訪ねて来られるなどという事は夢想にもしなかったので意外に思いながら、ともかく座敷に請じて
『御用が御座いましたら私が御伺い致しますのに、わざわざ御尊来下さいまして恐縮に存じます』
そう御挨拶申上げると、至って磊落な大西郷は、
『いや、今日は君に頼みがあって参ったので公用ではない。決して構ってくれるな』
と少しも見識ぶらずに要談をされた。・・・
大西郷の要件というのは、『大蔵省では相馬藩の興国安民法を廃止しようという意見であるそうだが、興国安民法は二宮尊徳以来の藩是で至極適切な制度であると思う。この折角の良法が廃藩置県の実施によって廃絶せしめられるのは惜しいから、貴公の計らいで何とか存続できるように取り計らってもらえぬだろうか』という意味の話であった。
この後、渋沢は自分が仕入れていた相馬仕法をとうとうと大西郷に述べて、『二宮先生の遺された興国安民法は、要するに入るを計って出づるを為すの道に叶った誠に結構な制度です。』と述べた後、今日一藩の興国安民法の存廃を顧慮する余裕はない、井上大臣ほか大蔵当局は興国安民法を全国に実施したいと切望し、日夜苦心している。しかるにあなた方参議は無い袖をふらせるようなことばかりされると今でも旧の大蔵官僚が言いそうなことをいいたてて、大西郷を辟易させるのである。
『いやしくも政府を双肩に担われ、国政料理の大任に当っておられるあなたが一小部の相馬藩のために違法を存続されようと奔走せらるるが、一国の興国安民法をお認めくださらないで一藩のために労せられるのは、本末てん倒のはなはだしいものでその意を得ぬように考えられます。この辺の事についてはよろしく御賢慮下さるようお願い致します』と不遠慮に申し上げた。

「明治を耕した話」(渋沢秀雄著)115ページ
 明治5年に渋沢栄一は居を神田小川町へ移していた。するとある日突然、思いがけない来訪者が現れた。カスリの羽織を着て草履を履いたチョンマゲ頭の西郷隆盛が2人の供を従えて玄関に姿を見せ、「西郷吉之助と申す者でごわす。」と案内を乞うたのである。何しろ参議筆頭のご入来だから、栄一も丁重に迎え入れた。「議事の間」では同席するものの、先方は参議、こちらは一書記官に過ぎない。個人的に面接するのは、京都の相国寺で豚鍋をご馳走になった以来である。そして西郷の用件は大体次の通りだった。
 旧相馬藩は二宮尊徳の「興国安民法」なる制度を実施してきたが、もし今回の廃藩置県で、それが廃止されたら残念だ。藩が県になっても、あの良法だけは存続させてほしいというのである。しかし西郷は相馬藩士の頼みを取りついだだけで、「興国安民法」の内容は知らないらしい。そこで栄一はまずその説明をした。
 同藩では歳出に一定の予算を定めておき、収益が多くて剰余金が出た年はそれで殖産をはかったり、新しい土地を開拓したりするのだと述べた。すると西郷は「なるほど良法じゃ。」と率直に感心した。そこで栄一は微笑しながら訊く。「失礼ながら、あなたの職分は何ですか?」彼は怪訝そうに、「参議でごわす。」と答えた。「その参議ともあろうものが、御繁用中にわざわざ私風情の宅へ駕(が)をまげられて、二宮翁の違法存続にご尽力なさる。これは誠に美談です。しかし西郷閣下。閣下が真に興国安民法を良法と思われるなら、なぜご自身がこれと正反対の処置をお取になるのですか?大蔵省が一生懸命で組んだ国の予算を、程よく各省へ割り当てて置くと、各省からこの金は緊急に必要だから是非ともよこせ、何としても搾りだせといったぐあいで、参議さんが先立ってお攻めなさる。それを断れば井上はけしからん。渋沢はケチだ・・・それでは興国安民法を小さく守って、大きく破るものは西郷参議・・・」
「や、とんだ罪人にするね!」と、西郷は大きな声で笑った。
「いえ、二宮をして今日あらしめば、もっとキツイことを申すかもしれません。どうぞ参議の御身として、一相馬藩の良法保存などより、日本全体の興国安民法を実施なさるようお願いします。
 栄一の弁舌で煙にまかれた西郷は、「いや、ごもっともでごわす。」と答えてから、やがて無邪気に首をかしげると、「渋沢さん、オイドンは今日何しに来もうしたかな?オハンに物を頼みにきたのか、それとも叱られにきたのか、こりゃいかん。マア帰ると致そう。」
 西郷は笑いながら帰っていった。彼は栄一より13歳年長だった。そのケタはずれな人物の大きさと、天衣無縫の包容力は、茫洋とした後味で栄一の心を包んだのである。

「二宮尊徳とその弟子たち」(宇津木三郎)
 明治4年の春、富田高慶のもとに、政府から7等出仕で磐前県に採用する旨の通知が届いた。翌5年(1872)正月、高慶は東京に出て、政府要人への働き方を始めた。2月6日には松方正義にも面会した。松方は「磐前県興国安民法(報徳仕法)」に賛意を示し、同郷の西郷隆盛にも面会するように勧めた。
 高慶が西郷と面会したのは、明治5年3月13日のことであった。ところが、西郷はこの面談以前に高慶の人と業績を承知していた。安政元年(1854)、西郷は江戸に滞在していたが、このとき面識を持った水戸藩の藤田東湖から二宮尊徳のことを教えられたというのである。西郷は、若い頃から薩摩藩における農村荒廃を嘆き、その復興策を探していた。しかし、当時尊徳との面会は実現せず、明治維新を迎えてしまう。西郷は、それでもあきらめなかった。尊徳の後継者として富田高慶がいることを知った西郷は、高慶に会って、その教えを仰ごうとしていた。
 富田高慶との会談では、報徳仕法の継続を実現するため関係者に働きかけることを、西郷は約束してくれた。西郷はそのとき、東は相馬から、西は鹿児島から報徳仕法を展開して、全国的に押し広めようと、将来的な構想を高慶と語り合ったのである。
 西郷は、そのあと天皇の行幸のお供で鹿児島に出かけ、7月に帰ってきた。そしてこの夏、約束を果たすべく大蔵省の渋沢栄一や大隈重信などへ、報徳仕法存続について申し入れた。また鹿児島への仕法導入についても、県の幹部に働きかけた。
「西郷隆盛のすべて」浜田尚友著久保書店刊行
『西郷が日常生活のうえで最も範としていたのは二宮尊徳翁であった。その尊徳の高弟富田高慶翁が小網町の偶居にかって隆盛を訪ねた。富田は隆盛より40歳も年長で、乞食みたいな風体であった。隆盛はそれと知るや跣足(はだし)のまま庭に降りて迎え、富田翁の話を熱心に聞いた。「南の鹿児島から、尊徳先生の報徳仕法を実行したい」とその時約束したのであった。その直後、汾陽五郎右衛門などに命じ、実施するように言い、桂久武に、霧島山麓の開墾植林することをすすめた。』

「随感随筆」(「富田高慶 報徳秘録」268~269ページ)には富田高慶は、こう語ったとある。
【15】明治元年、官、富田翁を召す。翁。年老いたるを以て固辞す。官召すこと再三、終に磐前県属某をして代理たらしめ、7等出仕を命ぜらる。属吏之を達す。翁曰く、我、年老い身衰え、命を奉ずる能わず。故に固辞す。然るに今や三顧を蒙り代理をしてすでに命を拝せしむ。辞するに道なし。知らず、しばらく命に従わんと。
直に中村を発し京師に到り、西郷参事に謁して曰く、再三の 朝命、辞するも不敬なりと一たび命を奉じて出仕すと雖も、不肖他に技能なし。かって野州において学ぶ所の民間再復の方法はいささか為すところあるべしと雖も、果して学ぶ所を行えとの命なるや。然らば尽す所あるも、もし汝が学ぶ所を措きて吾に従えとの命なるときは、老躯また為す所なし。
西郷曰く、汝が挙ぐるに急にして施行の目的未だ定まらずと雖も、子の論是なり。而して良法興廃の秋(とき)なり。速やかに意見を具して上陳すべし。我もまた力を添うべし と。
翁曰く、然らば命を奉じかの地に赴任し上申すべしと。これ磐前県仕法の初めなり。

「富田高慶 報徳秘録」323ページ
「日本に生れて、これほどの大業を編み出して、これを終始その志を行はざらしむも、法は法で残りてあれば、万年を経るも必ずこの法を行わば、必ず万民を安んずること有るべし。然り今世にてはこの法を布く者は西郷その人ならんことを思えり。余の人を知らず」と歎息せられたり。

 西郷南洲翁と社倉の設立
「斯民」第1編第7号(明治39年10月23日)86頁

 経世家の考えは又特別のものにて時勢に逢うと否とを問わず、世の為に尽くす志の厚きには感佩せざるを得ざるものあり。かって南洲翁大島に幽囚の身となりける時、時の与人土持政照に勧めて沖永良部島の為に凶歉救済の一法として社倉を造らしむ。翁の社倉設置の趣意書なるものに曰く

  凶荒に備ふると云ふは豊年の時に致すことにて其仕様は村々にて現夫のつらつらに賦り付けては親疎もあるのみならず、苦情も起り候半歟。然れば第一作得の余計をしらべ、家内の人数又は雑穀の余分まで相考へ夫に応し出米割付候はゝ人気も宜敷、自ら社会の趣旨に基き仁忠の大事相立候半・・・・・・若し荒年に逢ひ候時は窮民は天の賜と仰ぎ候はん、然るときは積年の心苦に引かへて如何斗り嬉しきそや、どれ程の陰徳かも知るべからず。自然百姓の上に立ち御役を勤め候は何の訳に候哉、第一百姓の融通をいたし呉候為には有ましきや、凶年に臨て飢亡に及び候を見なから只安閑として年●の事なれば致方は之無と年数に打まかせ候ては弥天よりは其罪役々に帰し候義相違有ましく、畢竟此処古人も論判せられたり。いづれにも前以ての備肝要の事也、百姓は力を労して御奉行を致し、役々は心を労して御奉行を致すは天然の賦付に候へは心の限りは可尽事に候。云々

土持氏この趣意に基づき広く全島の有志に相謀り、社倉を興し、事務所を設け以て翁の意志を実行したりしが今に至りてその建物と金数千円は残存して全島の共有財産とはなるに至れりと謂う。


西郷隆盛と富田高慶



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