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静岡の報徳運動の発展 森町報徳社

「森町史」通史編下巻(59~61頁)

安居院(森町史では「あぐい」とルビ)庄七と農業技術 新村里助は、山中勘左衛門(豊平)の子で、1851年(嘉永4)森町内の廃家新村家を継ぎ、負債74両も引き請けて、細々と家業の古着屋を営んでいた。里助は、衰家を興し貧村を立て直すという江戸で評判の「報徳先生」二宮尊徳の話を聞き、同じく貧しかった中村常蔵といつか会いにいこうと約束していたが、旅費が工面できず果たせずにいた。そんな時、常蔵が佐野郡で「報徳安民」の方法を行っている者の噂を聞きつけてきた。里助は大いに喜び、直ちに一緒に山名郡不入斗(ふにゅうと)村(現袋井市)庄右衛門方にいた「報徳先生」に会いにいった。この「報徳先生」が安居院庄七で、庄七が語る報徳の理念や方法に感銘した里助らは、庄七を森町村の里助の家に招き詳しく教えを乞うことにしたのである。
 森町村に入った安居院庄七は、新村里助家に滞在したが、滞在中激症の間欠熱(おこり)にかかってしまった。庄七は数百日病床にあったが、里助らにとっては庄七から報徳を学ぶ絶好の機会であった。里助らは、看病をしながら庄七が持っていた尊徳の教書を筆写したり、その説話を筆記したりして報徳の理解を深めたといわれる(静岡県「静岡県報徳社事績」)。
 現在、森町内にある社団法人報本社(1895年(明治28)設立)には581点に及ぶ報徳関係資料が保管されている。ここには、報本社やその所属報徳社の関係資料のほかに新村里助の手によると思われる仕法書や報徳関係書の写本も多数含まれている。こうした写本の多くは、庄七病気滞在中に筆写されたものではないかと思われる。写本中には、庄七の著作もあった。庄七の著作には「報徳作大益細伝記」「報徳勤行歌」「莫忘想」「人間算当勘定」「算法地方大成全」「万作徳用鏡」「極難取続安楽鑑」などがある。このうち「報徳作大益細伝記」と「極難続安楽鑑」の写本が報本社に残されている。
 二宮尊徳は、借金の返済方法として、最低限必要な支出の限度額を定めさせ(分度)、倹約してそれ以上に生じた余剰分を返済に充てたり、貯蓄させたり(推譲)した。尊徳は、基本的にこの方法をこの方法を個人、村、藩、幕領のレベルで実施し、成果を上げた。個人が集い社を結ぶ方法、すなわち報徳社を組織する方法は、尊徳の中でなかったわけではないが少なかった。これに対し庄七がとった方法は、報徳社を組織する方法である。これは藩や幕府の権力を背景とした尊徳と一個人あるいは敬神家に過ぎなかった庄七の立場性からきているといえるかもしれない。
 森町報徳社は、こうした庄七の指導により組織されたのであり、明治に至り、報徳運動の拠点は、栃木でも神奈川でもなく静岡県がなっていったが、それは報徳社が簇生(そうせい)されるかたちで展開したのであって、その出発点に庄七がいた。この庄七の報徳の特徴は、結社ということのほかに、上方の進んだ農業技術を合わせ伝えたということにある。庄七は遠州に足を踏み入れる前は上方にいた。敬神家として活躍する一方、京都や奈良、大阪など上方筋の進んだ農業技術を見聞した。ここでも見聞をもとに自らの考察を加え伝えたのである。この農業技術は、遠州の農民に大きな影響を与え、報徳運動が遠州で発展するひとつの大きな要因になったと思われる。報本社に所蔵されている「報徳作作大益細伝記」は、報徳理解の上に立って庄七の理想とする農業や農民のあり方が語られていると共に、庄七が会得した農業技術の集大成が記されている。
「報徳作大益細伝記」により、庄七の農業技術の特徴を挙げると、正条植、苗代の薄まき、株まき、客土・土肥などである。正条植とは、苗の植え付け方のことで、東西南北に正確に一尺五寸(約45.5センチ)の株間をとって植え付ける方法である。施肥が均一にできることや通風や日光の便、除草の便などの効果があるが、水田に一定の形がなかった当時にあっては新奇であった。新村里助も「縄張定木を用ひ方向を正し東西南北縦横一直に 挿することを始め衆に先ちて之を実行したり」(静岡県報徳社事蹟))といわれる。報徳社が発展した遠州では、比較的早くから普及したが、全国的に奨励されたのは1900年(明治33)前後である。正条植は「報徳植」ともよばれたように、報徳社の勧める植え方となっていった。
苗代の薄蒔きとは、苗代への播種数を少なくすることである。薄まきは健苗を生み、多収につながるといわれる。明治はじめの中遠地方の播種量は反当たり4升、苗代1坪当たり1升であったが、庄七は反当たり2升から1升5合、一坪当たり2合5勺、2合、1合8勺まくのがよいとした。株まきとは直まき栽培のことである。客土とは性質の異なった土壌を加えることである。客土では、庄七は「和らき田」に山の荒れ地を持ち込むことや畑の土と田の土を入れ替えること、土肥(つちごえ)を入れることなどを勧めた。土肥はごみを入れてつくられたが、こうした客土は、1885年(明治18)前後佐野郡倉真村、山名郡浅羽村、城東郡入山瀬村など各地で実施された(「日本農業全集」63巻)。
以上のような庄七の報徳の方法や農業技術を、庄七の病気滞在中に里助らは学んだと思われる。

森町報徳社の設立 1852年(嘉永5)閏2月、庄七の指導により森町報徳社が結成された。ただ、「森町報徳社」という名称はこの時点では使われておらず、報徳を信奉しようとする仲間が数人集まったという程度の組織であったと思われる。1852年閏2月の「勤行義定連印帳」には「休」や「病死」の抹消を除くと、8人が銘記されている。そこには、里輔(里助)、常造(常蔵)の名も見える。連印帳によれば、彼らは毎月3日、13日、23日に集うこと(参会)にした。参会の日は、朝から心がけて7つ時(午後4時)には仕事を終えるようにし、暮れ前に余業を行って、夕飯後集まるようにした。参会では、重立った者が「御報書」の読み聞かせをしたり、「勤行之図」を見て感服したり、農業や家業の「勤方」などが話し合われたりした。また、「義定一札之事」として、無駄な出費をせず余業に励みできたものを日掛けにして積み立てておくこと、公儀法度を守ること、天照皇太宮ならびに氏神への拝礼、困窮者には「窮民撫育金」を入札により「無利足年賦」で貸し付けること、休日には早朝から昼まで村内の道造りをすることなどが決められた(資料編4、148号)。
この「勤行義定連印帳」には、里助、常蔵のほかに「勘左衛門」の名が見える。山中勘左衛門である。山中家の当主は代々勘左衛門を襲名しており、この勘左衛門は9代目山中勘兵衛で、新村里助の兄にあたる。勘兵衛も里助同様報徳に熱心であった。勘兵衛は森町村の名主も勤めた人物である。・・・山中勘兵衛や里助の父豊平(とよひら)は「遠淡海地志」をはじめ多くの記録を残している。

尊徳との面会 1852年(嘉永5)の暮、佐野郡成滝村(現掛川市)の平岩佐兵衛は、旧主の病気見舞いのために江戸に向かったが、その際二宮尊徳が相馬藩の中屋敷に滞在していることを聞きつけた。佐兵衛はさっそく訪問したが会えず、二度目にも会えず、明けて正月7日3度目にして面会することができた。その時尊徳は遠州の報徳の重立った世話人たちを当方に呼ぶよう取り次ぐことを、佐兵衛に指示した。勇躍遠州に帰郷した佐兵衛は、それを遠州の報徳人に知らせたのである。
1853年春の報徳大参会は山名郡高部村(現袋井市)の高山藤左衛門方で開かれた。ここで遠州報徳連中419人の総代として日光にいる尊徳のところにだれがいくかが議せられ、7人が選ばれた。佐野郡影森村(現掛川市)内田啓助、倉真村岡田佐平治、気賀郡竹田兵左衛門、同町松井藤太夫、森町村中村常蔵、同村山中里助、下石田村神谷久太郎の7人である。同年8月10日一行は安居院庄七に連れられ出発した。一行は二手に分かれ、佐平治、里助、常蔵、久太郎の4人は、途中十日市場にある安居院家を訪れたり、曽比村(現小田原市)の剣持広吉のところで報徳の資料を写したりして、尊徳のいる桜秀坊を訪ねたのは9月に入ってからだった。9月4日一行は揃って桜秀坊を訪ねたが、尊徳は多忙のため会えない。やむなく一行は仕法書を写しつつ逗留を続けた。待つこと1週間以上に及び13日にやっと面会することができた。庄七にとっても尊徳に直接会うのは初めてであり、一行の感慨はひとしおであったろう。一行は「報徳安楽談」などの報徳書を頂戴して、面会の2日後帰途についた。桜秀坊では里助も多くの仕法書を写した。既述のように、報本社には多数の仕法書の写本が残されているが、その一部はこの時写されたものと思われる。

安居院庄七の死と福山滝助の来遠 庄七は、日光行きの後も遠州、駿州を中心に相州、甲州などをまわり報徳を積極的に伝えた。岡田良一郎撰による庄七の頌徳碑には「本州業を受くる者六十邑」とあり、遠州だけでも60余村を指導したと思われる。 
 1863年(文久3)8月13日庄七は、浜松宿の門人田中五郎七方にて没した。享年75歳であった(鷲山恭平「報徳開拓者安居院義道」)。師を失い、報徳にもかげりが見え始めたとき、遠州の報徳人たちは庄七の3回忌を機に新しい報徳の師を求めることにした。1866年(慶応2)里助の弟で浜松の商家を継いでいた小野江善六は、相州前川村の滝沢庄右衛門に推薦を依頼した。庄右衛門が選んだのは小田原報徳社員で菓子商の福山滝助、しかし滝助は辞退した。翌67年尊徳の晩年の門人でもあった岡田佐平治の息良一郎は、同じく尊徳門人の福住正兄に相談した。正兄が推したのも滝助であり、意を決して滝助は秋葉山参詣を名目に遠州に旅立ったことにした。
 福山滝助(1817年<文化14>~1893<明治26>)は小田原町古新宿の菓子商の子に生まれ、1844(弘化元)に独立、小田原報徳社には、1843年(天保14)の設立から参加した。尊徳に初めて面会したのは、1843年8月で、その後「道ニ篤キヲ以テ、余暇アレバ東都ニ出デ、二宮先生ニ随身シ教ヲ受ケ、或ハ日光ニ行キ帳簿ヲ納ムル等独特ノ行」をしたといわれる。家業は1861年(文久元)に隠居し、以後報徳の道に専心していた。
 その滝助は、1867年3月、小田原町を出発する。遠州に入り、同月28日、早速岡田佐平治に面会した。当時岡田佐平治は掛川藩地方御用達として、藩の力を背景に尊徳が行ったような荒廃村の立て直し(行政仕法)を行っており、名実とともに庄七以後の遠州報徳の中心人物であった。倉真村の佐平治宅に一泊してのこの面会は、しかし不調に終わったようである。
 これは両者の立場の違いや報徳に対する考え方の違いから生じたものと思われる。佐平治は掛川藩の大庄屋で、上からの報徳の推進者であったのに対し、滝助は一介の菓子商に過ぎず相互扶助の結社である小田原報徳社で報徳の実践を積んできた人であった。佐平治は庄七から先進的な農業技術とともに窮民撫育手段や褒賞手段として報徳金貸付を位置づける方法を学んでいた。これに対し滝助は報徳金貸付を仕法として重視する小田原報徳社の方法を経験していた。このように両者は相違し、以後それぞれの報徳をめざすことになる。とりわけ、報徳金の問題は重要で、後の報本社独立はこの問題と深く関わっていたのである。


森町報徳社再興と遠譲社の設立

福山滝助のこと(1)(「尊徳の裾野」佐々井典比古著抜粋336ページ~)

福山滝助のこと(2)(「尊徳の裾野」佐々井典比古著抜粋339ページ~)

文久元年(1861)45歳になった多喜蔵は、その名と家業を養子に譲って隠居し、滝助と称した。養子といっても、彼より2つ年上で妻子もあり、兄の店で年季を入れた職人だったから、彼は安心して一切を任せ、小田原報徳社を始め、近辺の報徳仕法の世話をしたり、心学を勉強したりで日を過ごすことができた。
遠州地方の村々では、弘化4年(1847)ごろから、相州出身の安居院(あごい)庄七(義道)の指導を受けて報徳社ができ始め、およそ60か村に広まったが、文久3年(1863)に庄七が歿すると、しだいに衰退に向った。そこで有志が相謀って、報徳発祥の地から師たるべき人を招こうということになり、白羽の矢が立ったのが福山滝助であった。滝助は最初は固辞したが、福住正兄の強い勧めもあって、ついに意を決して遠州に赴いた。慶応3年(1867)、滝助51歳の時であった。
森町の新村里助(しんむらりすけ)のもとに足をとどめた滝助は、社員わずかに8名となっていた森町報徳社を手始めに、西遠地方の報徳組織の再建に乗り出した。そのやりかたは、掛川在倉真(くらみ)村の大庄屋岡田佐平治(無息軒)が志向する一村式仕法とは異なり、小田原報徳社のモデルそのままに、同志が相結んで勤倹の余財を積み立て、毎月、持ち回りの常会で研究と修養に努め、年1回、投票によって無利息金の貸付を行い、これを繰り返して相互の永安を図るというものであった。
社の数がようやく増えかけた明治4年、滝助は、これを統括する本社として「遠譲社」をつくった。推譲の道を永遠に行うという意味だ。小田原報徳社はこれを祝って、尊徳由来の善種金120円を貸与してくれた。滝助は各社の推譲加入によってこれを倍増した上で、無利息金の原資として各社に還元した。それはやがて、元恕金(お礼金)づきで本社に戻ってくる。こうして、組織と、報徳金と、勤勉推譲の気風とが相まって増殖して行った。三河にも本社として三河国報徳社ができたし、遠譲社では本社の下に第一から第六まで、6つの分社をつくって、支社数の膨脹に対応するほどになった。
滝助の組織づくりには、大きな特徴があった。自分はもとより、各社の役員についても、旅費から筆紙墨まで一切の経費を自弁とし、社の金を使わせなかったのである。遠譲本社そのものさえ、社屋も造らず事務員も置かず、春秋2回、各社持ち回りで参会(総会)を開いて、万事をそこで処理するという、簡素きわまる『移動本山』であった。その代り、帳簿の作成を厳しく指導し、だれにも読めるよう楷書で書かせて、責任者から責任者へ、確実に継承させた。あるとき、滝助からこの自費自弁主義を聞いた富田高慶は「それだ!遠州に御仕法が盛んに行われるわけが、これでわかった」と激賞したという。
この自費自弁主義は、実は尊徳じきじきの訓戒から出ている。小田原報徳社草創のころ、世話人の竹本屋幸右衛門が、滝助を連れ、帳簿を持って、尊徳の指導を受けに行った。じっと目を通していた尊徳は、「金弐分入用」と記した箇所へ来ると、「これは何の入用か?」と聞いた。「世話人の入用です。」と幸右衛門が答えたとたん、落雷のような叱責がくだった。
「これは恐れ多くも彰道院様(小田原先君)の仰せ出された御仕法なのだぞ。お前たちの身分でその世話を勤める。もったいないことではないか。そのために、お前たちの家の5軒や10軒、つぶれたところで構わんではないか。」
幸右衛門は返す言葉もなく黙っていたというが、この痛烈な教訓が若い滝助の中に根をおろして、遠州三河の地に花開いたのであった。
遠州に赴任して三河に没するまでの25年間、滝助は家も持たず事務所も置かず、社から社へ、常会から常会へ、一所不住の行脚をつづけた。脚絆にわらじ、菅笠、矢立、それに書類を入れた幾つもの竹行李を、大風呂敷に包んで背負った格好は、富山の薬売り同然で、出迎えの者が間違えるくらいだったという。常会では、まず仕法書を朗読し、講話をし、社員の芋こじに加わった。どこの社員宅にも喜んで泊まったが、菜は一菜に限り、酒はいくら勧めても形ばかりしか飲まなかった。
彼は、故郷の小田原には春秋2回、遠譲社の参会終了後に帰省し、4~5年に1回は、小田原社・遠譲社関係の帳簿を持って相馬を訪れ、三代尊親や富田高慶への報告を楽しんだ。明治26年4月、三河の上吉田で77歳の生涯を閉じた。
彼の残した『虚空蔵』のせいか、子孫も家業も栄え、当主の里見氏は小田原氏の菓子商組合長を勤める。
(昭和57年11月)

 遠州地方に報徳を広めた福山滝助翁の口ぐせは

「蓑(みの)笠(かさ)で暮らせ」であったという。つまり蓑も笠も下を向いて使用する、つまりいつも謙虚に暮らしなさいということだった。

福山滝助の自費自弁主義は、富田高慶が「それで遠州地方に報徳が広まったことが分った」と絶賛したというが、その謙虚な姿勢は報徳運動を支援した品川弥二郎にも強い印象をもたらした。

「富田高慶 報徳秘録」338頁の「報徳史料 富田高慶先生との対話」には

「福山瀧助一日品川大輔〔明治15年6月~18年9月農商務大臣〕の邸を訪ふ。大輔懇侍して福山に「汝の信ずる二宮先師の道、如何の意味有る事か話されたし。二宮先生は拙者も竊かに其徳行を聞き景慕に堪へず、『何』にか其方の授受せられたる話を以て聞せられよ。」福山「辱なくも只今の御一言恐懼に堪へず。愚老何んぞ故先生の大道を知らん。只先師の高徳至恩、有難く信じ居ることを、其侭此道を信ずる者へ話す迄なり。」と述ぶとある。

その後、品川弥二郎が明治13年11月相馬に富田高慶に会いにきたとき、品川卿は富田に「質直誠心、天下に立って恥ずるなき者はそれ福山の類か。衆人信を置くは理わりなり」と賞賛したという。

福山滝助翁は次の言葉も残している。

「福山先生がかつておっしゃった。
『昔の報徳は窮民救助などという事が口癖となって、重立った者たちは権力をかさにきるところがある。これには私も大変困惑したものだ。またその頃は報徳の仕法といえば利倍増殖をはかるものと心得て、ひたすら金をためる一方に傾いて、推譲の道であるなどと夢にも思わない。これにも大変困惑した。このような報徳は、これを行う事が5か年にも及ぶならば、上に立つものは世話が多いこと懲り、下になる者は苦しいことに懲り、上下ともにコリゴリして後々続かなくなる。私はこのような報徳を行うことを好まない。人は天命分限だけのものである。もし天命分限を守っていれば欲をかかなくても思わない所に思わない大きな利益が得られるものである。もし天命分限がないときには、どのように欲をかいても思わない所に思わない大きい損失を生じるものである。だからあがいても、あがかなくても、つまるところ同じに帰す。報徳社もまた同じだ。ただ無利足貸付を行って、多くの工夫をなさないことが必要だ』とおっしゃった。

 



148 勤行義定連印帳(森町村)嘉永5年・閏2

150 三才報徳現量鏡 

小野江善六翁小伝

西遠山間における模範的報徳社員 「斯民」第4編第5号

周智農林高等学校 より

福川泉吾&鈴木藤三郎

その1 福川大人
 報徳に2種あり。一は説法報徳の人にして、一は実行報徳の人なり。
 説法報徳の人は口の人筆の人にして、或いは演説に或いは講話に、頻りに翁を説き翁の道を述ぶるも、是れ遂に実行の人に非ず。現時この種の報徳家世に盛んに、為に報徳は一の流行物となり、説いよいよ多くして道いよいよ行われず。嘆ずべきなり。翁の曰く、「我が道は実行を尊ぶ。夫れ経文と云ひ経書と云ふ。その経と云ふは元機(はた)の縦糸の事なり。されば縦糸計りにては用をなさず。横に日々実行を織り込んで初めて用をなす者なり。横に実行を織らず、ただ縦糸のみにては益なき事弁を待たずして明らかなりと。実行をよそにして説法のみを事とせる是ら報徳の人は、まことに翁の道をそこなうものというべきなり。然るに今これを福川大人に見る。それ毫も報徳臭を帯びずして、しかもその行いや報徳の軌道を外れず。真に是れ実行報徳の人にして、大人に於て始めて報徳の典型を見るべく、吾等深くその人となりに推服す。
 1 幼年時代
 大人、名を泉吾を呼び、先代五郎右衛門氏の次男にして、天保2年9月2日遠江国森町に生まる。11歳の時同国豊田郡(今磐田)鹿島村村田代周作につき書算を学び、嘉永6年実兄三千助死亡せるにより家督を相続す。時に年22。家業は世々古着太巻商を営み、ひろく東海道より奥羽地方に及びて取引をなせり。安政2年6月厳父世を去り、爾来家務を挙げて自ら主宰するに至れり。

 2 奮闘時代
 この時代における大人の奮闘はまことに目覚ましきものありき。安政3年には米穀を買い入れて伊勢及び江戸方面に送り大利を収め、文久3年には三河伊勢及び大和地方より繰綿を需(もと)め、之を横浜に送り大利を収め、この時代を知れる某老人の直話に、何しろ泉吾さまくらい眼のきいた、敏(さと)い、そして度胸の据わった人は珍しい。その時分の森町はまだまだ開けない田舎町で、泉吾さまが何をして御座るやら丸で知らない。その間にいつも機先を制して、私どもの思いもよらぬ大きな仕事をされた。そして世人がやっと気付いて手を出す時分には、もう知らぬ顔で他の事をして御座ったと。
 かくて明治の初年より盛んに製茶貿易に従い、明治21年には製糸器械を購入して製糸場を設け、又山林経営の必要を看破し、広く山林を求めて盛んに植林をなしなお明治35年より東海道島田駅に一大製材場を設け、今なお盛んに各種の製材を行いつつあり。
1 太田川堤防の事 太田川は森町の東部を流れる川にして、森町付近以南の農地は何れも灌漑をこの川に仰げり。大人は明治以前より今日に至る40余年間自らこれを担当し、その利害を見ること、なお自家の休戚(喜びと悲しみ)を見るがごとく、いまだかつて放任したることなし。そもそも河川水利事業たる淵端、常に変転異動し、一日監視を怠る時は一朝不測の害を被る事なきを保せず。されば大人は常に毎朝未明に起き、必ず太田川の沿岸を一週し、その異変あるに当たりては、直にこれが修復に力を注ぎ、40余年の永き、いまだ一日も忽諸(軽んじること)に付したることなかりき。
2 明治丁新設 明治16年野口東作等の企てに係る森町明治丁新設の挙を賛し、松井善平、大石清一郎外数名と共に地を拓き田を埋め、幅3間長さ数町にわたる市街地を新設せり。
3 伏間道路開削 森町より伏間に至る道路は、従来甚だ狭隘険悪にして、僅かに人の通ずるのみなりしが、明治5年私費私力を以て山岳を切り開き、幅1間長さ6町余の新道を開削せり。
4 私立農学校の創設 明治39年鈴木藤三郎氏と謀り、地方農林業発達の為、巨万の私財を投じて私立農学校を創設し、鈴木氏と共に年々4千円内外の経費をこの校のために費やしつつあり。
5 その他 警察署、郡役所等の創設新築に当っては委員としてこれを助け、又新村豊作等が森町電信局の設置を計画するに当たり、数百金を寄付してこれを助け、明治8年地租改正の際には委員として尽力する所あり、なお最近において公共のため寄付せられたるもの次のごとし。
   (明治)39年  山林1町6反8畝     森町尋常小学校校有林
       同    新築費金2千円      同 尋常小学校校舎
       40年  新築費金310円     森町火葬場
       同    山林1町1畝3歩     大洞院附属林
       同    新築材時価2百円     同本堂新築

    4 大人と鈴木氏との関係
 大人はまた極めて義侠心に富み、大人の恩顧を受け事業に成功する人少なからず。中にも鈴木氏を助けて氏が今日あるの基礎をなさしめたるは、実業界の美談として永く後世に伝えるに足る。左に少しくこの間の消息を記さむ。
 始め鈴木氏が多大の苦心を経て氷砂糖製造の法を発明するや、貯財これがために尽きてまた如何ともするなし。ここにおいて親友遠江報本社長新村理三郎氏に諮る。新村氏曰く、君の要する3,500円。しかもこれに充つべき抵当なく、恐らくは容易に融通するものなからん。ただ独り報徳社長岡田氏は仁者にして工業熱心家なり。君が精神を聞かば或いは助力せんやも知るべからずと。かくて岡田氏にこの事を請いたりしも、不幸事情ありてその目的を達するあたわず。氏は失望の極、遂に決意して、祖先伝来の居宅及び家具を売却し、これが一部の資に充てんとせり。たまたま新村氏これを聞き、そは極めて不可なり。いわんや両親の存するあり熟議を遂げさるべからず、更に再考せよと。是れ実に明治16年12月の事なりき。
 ここにおいて鈴木氏は、胸中ふと福川大人の人物経歴を想起し、さなり、さなり、わが助力を請うものこの人より外あるべからずと。帰来閾(しきい)を跨(また)ぐの隙なく、直(ただち)に大人を訪(おとな)いて、年来の苦辛を語り、事業の成績及び予算表を出してこれが助力を請う。大人具(つぶ)さに聞き終わり、かつ子細に予算表を点検し、やがて口を開きて云うよう、予が事業可なり。子が精神殊に可なり。薄利の予算に基づき勤労を怠らざれば天下何事か成らざらん。
 子の事業吾れこれを助けんと。後年鈴木氏語って曰く、この時は実に地獄で仏に遇ったと云う嬉しいことでありました。
 かくて氏は十年元利済崩法の予算を立て、大人より資金の供給を得、直に工場を新築し、明治17年6月より始めて秩序ある氷糖製造の業を創(はじ)むるに至れり。爾来大人は陰に陽に氏の事業を助け、森町における微々たる一製糖工場は、後年東京小名木川畔における日本有数の大会社、大日本製糖株式会社となるに至れり。

   5 老年時代
 明治36年9月森町長を辞してより、家務は挙げて息忠平氏に譲り、爾来静かに老後を養いつつあり。然れども老後の楽しみ敢えて風月を友とせず、常に誠意の人にして資を乏しき者を求めてこれを扶助し、そが事業の成功に進むを見て無上の楽しみとなせり。今や齢70有9、眉の霜は有りし昔の労苦を語り、額の皺は過ぎ去りし世海の波の跡を示すも、面のあたり接すれば温乎(おんこ)たる風貌常に喜色を含みて、和気室に満ち、また昔時奮闘の俤(おもかげ)を止めず。
 想うに大人や、洵(まこと)によく恭倹己を侍し博愛衆に及ぼし、更に進んで公益を広め、世務を開きたるの人。今や世を挙りて名を逐い利に趨(はし)り、滔々これが極まる処を知らず。希くは大人が性行に鑑みて深く戒むる所あれ。



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