運命を拓く(中村天風)運命を拓く(中村天風)☆この本の中にしばしば出てくる「宇宙霊」は、違和感があるので、ここでは「宇宙の無限の力」に言い換え、言葉を若干現代風に改めた。少しずつ足していく。 1 思考が人生を創る 1月8日の土曜日、暮れに返し損ねていた坂村真民さんの「たんぽぽ魂」という詩集を図書館に返しに行く。 開架の書棚をみると、「おっ」いい本が何冊もあった。 「運命を拓く(中村天風)」という本があったので借りてくる。 家に帰りがけ、公園の裏手の山道を登り、お気に入りの見晴らしのいい丸太に腰掛ける。曇り空だが、風もなく穏やかだ。谷越しに見渡せる緑の木々を目にしながらおもむろにバッグから本を取り出し読む。 あたりには誰一人いない。ただ、緑の木々に包まれている。 「運命を拓く」の序章の朝旦偈辞(ちょうたんげじ)だけ大きな声に出して三度読む。 序章は 朝旦偈辞(朝の真理の言葉)だ。 (読みやすくするため、一部改変した) 「私は今、力と勇気と信念とをもって甦り、新しい元気をもって、 正しい人間としての本領の発揮と、その本分の実践に向かわんとするのである。 私はまた、私の日々の仕事に、溢れる熱誠をもって赴く。 私はまた、歓びと感謝に満たされて進み行かん。 一切の希望、一切の目的は、厳粛に正しいものをもって標準として定めよう。 そして、恒に明るく朗らかに真理の道を実践し、ひたむきに、人の世のために役立つ自己を完成することに、努力しよう。」 「人としてこの世に生まれ、人間として人生を活きるために、第一に知らなければならないことは、人間の『いのち』に生まれながらに与えられた、活きる力に対する法則です。 自分の命の中に与えられた、力の法則というものを、正しく理解して人生に活きる人は、限りない強さと、歓喜と、沈着と、平和とを、作ろうと思わなくてもできるようになっているのです。 哲学とは、私たちが今見ているもの、現象を遡ってその原因を探求する学問です。哲学とは、自然界に存在する、今、在る物質的な形にその現象を現わした力の法則と、その究極的原因とを探ろうとするものです。 一番根本は何かというと、ただ一つの実在から生み出されたものである。哲学では「根本的本源実在」と呼び、中国では「気」と呼び、儒学では「正気」という。いずれにしてもこのただ一つのエネルギーを産み出す元が、宇宙を創り出したのである。これを天風哲学では「宇宙本体」あるいは「宇宙霊」という。霊とは、見えない「気」のことである。この「気」が動こうとするときに、現れる現象が「アイディア」である。人間でいうと「心」ということになる。英語で「アイディア」とは、「気」の動く場合における現象事実に対する名称で、元はギリシャ語の「イデア」といった。だから「心」とは気の能動を名づけた名称だ。 心の活動は、思うことと考えること以外にはない。つまり、思考によってのみ「心」の活動は行われる。この思考には意識的なものと無意識的なものの二種類ある。 私は、長い間考え抜いた結果、こういうヒントを得た。 人間は、日ごろ、人生に生きる刹那刹那、いかに心を運用することが適当かということであり、言い換えれば、心の運用を良くしたり、悪くしたりすることによって、人間の人生は、良くもなり、悪くもなるということだ。 長い間、病気に苦しめられて、苦しみ悩んで本当に命がけで取り組み、漸く考え付いたことが、「人間の日々の人生に活きる刹那刹那の心の思い方、考え方が、やがて私たちの生命を完全になしあたうか、なしあたわざるかという事実が産み出される」ということ、分かりやすく言えば、 「人間の心で行う思考は、人生の一切を創る」 これが数十年来かかって考えて悟った、人間の生命にからまる宇宙真理であった。 まことに峻厳侵すべからざる宇宙真理である。 心の思考作用と、宇宙本体の創造作用とは本質的に一つのものだということを忘れてはならない。」 2 健康も、運命も、心一つの置きどころ およそ人間として完全な活き方をするには、本当に心を積極的にしなければいけない。 いかなる場合には、心を清く、尊く、強く、正しく持たなければならない。 その何よりも大切である積極的な心を作るためには、まず第一に何が必要であるか。 人間というものは、その正体をつきつめていくと、何も見えない、また感じない、霊魂という気である。その霊魂が、現象界に命を活動させるために、その活動を表現する道具として肉体と心が与えられている。いわば画家の持つ絵筆、大工の持つ鉋と同じようなものが、命に対する肉体である。 これを正しく理解し、正しく応用した人にのみ、その命に、限りない強さと、喜びと、安心と、平和とかが与えられる。したがって、人間はまず第一に、 「人間の生命に与えられた活きる力というものは、肉体にあるのではなく、霊魂という気の中にある」 ということを、正しく、はっきりと理解する必要がある。 ところが、このことを理解していないために、くしゃみ一つしても、せき一つしても神経を過敏にしてしまう。心が肉体に消極的に注がれると、生きる力が本来の強さを発揮できない。一言で言うならば、 「人間の健康も、運命も、心一つの置きどころ」 心が積極的方向に動くのと、消極的方向に動くのでは、天地の違いがある。これが「思考が人生を創る」ということである。 私も自分の病を考え、人生や生命を研究するにつれて、この重大なことが分かってきた。それ以後の私は、自分でも驚くほど丈夫な体になったばかりでなく、思いもよらない長生きを重ねてきたのである。 命の力を豊富に受け入れられる活き方とは、いかなる場合にも心の態度を積極的に保つことである。 どんな場合にも、人間の生命は、一切の生命をしのいでいる力の結晶だ、と正しく思いこんでしまうことである。そしてこれをいかなる場合にも、心に堅持することである。 この悟りこそ、理想的人生建設の何より大切なことであり、人生の本当の幸福の宝庫を開く鍵である。たとえどんなに宝の充満している金庫があっても、これを開く鍵がなければ、中の宝はないのと同じだ。つまり、心の置き所、積極か消極かというだけで、人生の幸福の宝庫が開かれるかどうかが決まってしまう。 「心」とは何か。心は、人間の生命の本質であり、目に見えない気の働きに対する名称である。気の働きがないかぎり心という現象は生じてこない。つまり心が思ったり考えたりすることによって気の活動が表現される。そして思考は個人の命の原動力である気を通じて、本源たる「大宇宙の無限の力」に通じている。そしてこの「大宇宙の無限の力」が一切の万物を創造するエネルギーの本源である。この絶対関係が「思考は人生を創る」と結論されるのだ。 たとえわが身に何事が生じようと、またいかなる事態に会おうとも、完全に活きるための根本基礎となる心の態度を、いつも「清く、尊く、強く、正しく」という積極的態度で終始しなければならない。そうすれば不思議なほど、元気が湧き出してくる。その元気、元の気が原動力となり、健康でも運命でもすべてのことが完全に解決される。 事あるごとに、時あるごとに、次の力の句を唱えよう。 私は、力だ。力の結晶だ。 何ものにも打ち克つ力の結晶だ。 だから何ものにも負けないのだ。 病にも、運命にも、 否、あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ。 そうだ! 強い、強い、力の結晶だ。 3 宇宙の無限の力は、霊智ある大生命である。 この宇宙ならびに世界の本質は、実に宇宙の無限の力である。 人間が真理を思うとき、宇宙の無限の力は人間の心を通じて、その正しい思考を現実化する。 悪を思えば、そのとおりの事実を人生に作り出そうとする。 人間は宇宙の進化と向上に順応するために生まれてきたのだ。 およそ人間として、ひとたびこの世に生を受けたからは誰でも人生というものを活きなければならない。この一度しかない人生を、人生がいかなる法則によって支配されているかを知らずに活きている人がいかに多いことか。 人間の心は、一方においては、運命や健康そのほか人生の一切をよりよく建設する力があると同時に、またこれと反対に人生をより悪く破壊する力もある。すなわち積極、消極の両方面の作用が心にはある。しかし、理解しただけではいけない。心の作用を正しく理解するとと同時に、これを正しく応用しないと、どんなに完全な人生を活きることを望んでもそれは不可能である。そこで人生を支配する法則について、正しく理解する必要がある。 この世のすべてのものは、すべて一つのものから生み出されている。万物創造の根源であり、絶妙の力を持つ「霊妙」な気がこの一切を作る根拠をなしている。すべての存在は、この気の中に終始いかなるときでも存在している。 ちょうど、水の中に住む魚が水の中にいることを忘れているように、人間もこの霊妙な気の持つ力にいるからこそ生きているのである。この気を、天風哲学では「宇宙霊」(☆ここでは「宇宙の無限の力」と読み替える)と呼ぶが、仮に名づけたもので、宇宙の大本の気という意味で、神、仏何でもよい。この霊妙な気は普通感覚的に認識できない、しかし感覚できないからないといえない。 「観念的に想定するより、認定の方法はない」 私はインドの山の中でこれを一人考えた。心を澄まし、山の中で考えているうちに魂の夜明けが来た。 「自分が生きているこの周囲に、目には見えないが、一切の存在を確保している、しかも認識できない気が存在する」 さらに一歩進んで「一切の事物の根底に横たわるただ一つのものは、この霊妙な気である。宇宙の一切は、この気から作られている事実を考えると、これは純精神的なものである」と思ったのである。 眼前の草、木、青く澄んだ空、流れ行く白い雲、また落ちる滝の水、どれも人間の力で作られたものは何一ない。 陽が西に落ちれば夜になり、夜が明ければ朝が来る。春、夏、秋、冬、この整然たる秩序、一糸乱れぬ自然の状態を思い、その自然の法則を考えたとき、その気の持つ働きは、人間の知識ではとうてい計り得ない広大無辺なものであると気が付いた。またその霊知の尊さを感じた。現象界の一切を見ると、生きとし生けるもの、小さな虫まで、生きるに必要な器官、機構が完全に存在している。 「何と有難いことか。山の中に坐っている自分は、この霊智の力とともにいるではないか。いや気に包まれているではないか。そしてここに坐っている。生きている」 そして誰もいないヒマラヤの山奥で一人坐っているにもかかわらず、何とも形容できない力強さを感じた。 「人間の心の態度で、これを受け入れる分量が相違する」 ということをその霊智は考えてくれたのである。 それまで医学を修めながら、その知識は自分の病を治すのに役に立たない、ただ死を待つばかりだった。二年間のヨーロッパの旅で何も得られず帰る途中、カリアッパ師の導きでインドに行った。そして人間の心こそ宇宙一切の造り手である宇宙の無限の力と自分の生命の本体たる霊魂を交流結合させる回路と知ったのである。 活きる瞬間瞬間の心の鏡にするための思考作用の句 私は今、宇宙の無限の力(宇宙霊)の中にいる。 私はまた、霊知の力とともにいる。 そもそも宇宙の無限の力こそは、万物の一切をより良く作りかえることに、常に公平な態度をとる。 そして、人間の正しい心、勇気ある心、明るい心、朗らかな心という積極的な心持ちで思考した事柄にのみ、その建設的な全能の力を注ぎかける。 そうして、このようにその力を受け入れるものこそは、まさに力そのものになり得るのである。 4 潜在意識はその上に映された印象のままに作用する だから、どんな場合でも心を虚ろに、気を平らかにして、心を集中してこの心が躍動するよう努めよう さて、この現象世界に存在する一切のものを造り出す力について理解されたことと思う。そこで今度は人間の生命と宇宙生命とはいかなる関係を有するか。 それは「一すじの流れの中にある」のである。 まず第一に、人間の心について正しく理解しなければならない。人間の心には、実は二つの異なる意識の領域がある。「潜在意識」と「実在意識」である。この二つの意識も実は一個の精神を本としてただその働きの上で二つに分かれているものである。 次に知っておくべきことは、実在意識が直接に行った動作は、いかなることにかかわらず、数多く繰り返していくと、その動作が潜在意識の支配で行われるようになり、実在意識は以前のように直接監督の努力をしなくてすむようになる。この事実を考察すると、潜在意識は、肉体の随意動作だけでなく、不随意動作をも支配することが明らかになる。心臓の鼓動、肺の伸縮、胃腸の消化などいずれも潜在意識の働きによって行われている。 そして特に記憶すべき重大な真理は、潜在意識こそが、肉体の建設者であり、人生の建設者であるということだ。 私たちの肉体は、この潜在意識のもとに間断なく新しい細胞を生み出し、作り出しているということだ。このような不思議な働きは、寝ても覚めても、私たちの生命の中で行われている。実在意識はそれを意識しない。 真理の上から形容すれば「日々私たちは新しく生まれ出で、朝ごとによみがえっている」といってもよい。 しかし、世の中には何年も同じ病で苦しんでいる人がいる。それは、肉体を再生する力が「心の態度・精神状態」に著しく関係しているという事実を正しく自覚していないからである。すなわち潜在意識の再生力が実在意識の邪魔、悪同化によって十分働かない結果である。 「潜在意識はその上に映された印象のままに作用する」 たとえば諸君は課題を抱えていてどうしても解決できない。 そのまま眠りについて、夜中ふと眼が覚めたとき、はからずもその解決法が頭に浮かんだという経験はないか。これは潜在意識の作用の結果である。心を打ち込んで思考していると潜在意識がそれを受け入れて、実在意識によい合図を与えてくれる。というのは、その心の態度が潜在意識に同化的に反映して、ちょうどカメラのシャッターを切ったと同様に、実在意識が接触した一切が潜在意識に印象されるからである。だから潜在意識は、肉体にも精神にも驚くべき影響を与える。それは建設にも破壊にも、深甚なる影響を有している。潜在意識は、実在意識を通じて宇宙の無限の力と結ばれているからにほかならない。つまり潜在意識は、一切のものを作り出し、産み出す想像力を有しているわけである。 そして同時に、私達人間は、この意識を完全に整理することによってのみ、宇宙の究極的真理を知ることができる。 これはまさに重大な人生への理解である。もともと潜在意識は、宇宙の無限の力と直結して高い作用を有しているが、さらにこの意識は実在意識に同化的に活動する。 こういう事実があるからこそ、古来、洋の東西を問わず哲学、宗教、修養法のすべてが「心の持ち方」「心がけ」ということを人生の一番重要なものとしているのである。 人間の本質を自覚させる句 人は、宇宙の無限の力と結び得る不思議な働きを心の奥に持っている。 このゆえに真人となるためには、他に力を求めてはならない。 人の心の奥には潜在意識の中に常に一切を建設しようとする絶大な力が待ち構えているのだから、どんな場合でも心を虚ろに、気を平らかにして、心を集中してこの心が躍動するよう努めよう。 5 「言葉の誦句」 朝、歯医者に治療に行ったついでに図書館に本を返しに行く。 中村天風の「運命を拓く」を再び借り、自転車で公園に寄る。 梅の花がもう五分咲きだ。 古民家の裏手の山道を登る。 あちこちに山鳩の羽毛を見かける。 冬毛から春毛に生えかわる頃なのだろうか。 山道に積もり歩くたびにサクサクと音を立てていた落ち葉が、今は細かく砕け土に戻りかけてる。 ちっとも汚ならしくない。 丸太のベンチに腰掛けて、本を開く。 正面は谷越しに林が広がり、近くの散策路も誰も通る人がいない。 腰骨を伸ばし、天風の「言葉の誦句」を声に出して読む。 「私は今後かりそめにも、私の舌に悪を語らせまい。 いや、一つひとつの言葉に注意しよう。 同時に今後私は、自分の境遇や仕事を、消極的な言葉で、批判する言葉は使うまい。 終始、楽観と歓喜と、輝く希望とはつらつとした勇気と、平和に満ちた言葉でのみ活きよう。 そして、宇宙の無限の力を、私の生命に受け入れて、その無限の力で自分の人生を建設しよう。」 (カリアッパ師と天風との会話) 時 明治の末 場所 ヒマラヤのカンチェンゼンガの麓 カリアッパ師「お前は毎朝、朝の挨拶の後、私がお前に How do you do? (調子はどうだ) と聞くと、必ずお前は I am not quite well.(調子はよくありません) と言うなあ。 それを言って楽しいか?」 天風「いや、楽しくはありませんが、こういう病ですから、朝、目が覚めても快くありません。 熱っぽくて、体全体けだるく、頭は重いし、快適じゃないんです。」 師「そういうふうに言ってお前は気持ちがよいか?」 天風「気持ちはよくはありませんが、真実そうですから」 師「お前は自分の使う言葉によって、自分の気持ちがダメにされたり、あるいは非常に勇気付けられたりする事実を少しも考えていない。 言葉が積極的に表現された時と、消極的に表現された時では、実在意識が受ける影響は大きな相違がある。 お前のように、今日は気分が悪いとか、頭が痛いとか、熱があるとか言っているときは、愉快を感じないだろう。 今日は嬉しい、楽しい、ありがたいという言葉を言ったときは、快さを感じるだろう。 その感じる主体は何か、お前には分かるか。 実在意識が感じたものが、直ちに潜在意識に直接的に影響して、潜在意識が同じような気持ちになると同時にお前の生活機能も同じように良くも悪くもなるのだ。 つまり、お前の生きる力は、その言葉の良し悪しによって、やはり良くも悪くもなるのだ。」 「具合が悪い時、悪いと言っちゃあいけないのですか?」 「具合が悪いと言って、悪いのが治るか?」 「治りはしませんが、痛いときは『痛い!』と言います」 「痛いとき痛いと言うのがいけないんじゃない。 それは当たり前だ。重要なのは、それから後だ。」 「それはどういう意味ですか?」 「お前が今日は頭が痛いと言っている言葉の後で、愉快じゃない、不愉快だと心の中で思っている。 よくない症状が現れれば、さらに痛いと言って、もっと悪くなりはすまいか、死にはしないかと思いはしないか。 それがいけない。 寒い、暑い、痛いとか言うことはかまわない。それは現実に対する表現だ。 それに対してお前は付け加えなくていいことをしょっちゅう付け加えているじゃないか。」 「でも、普通の人間はそうですよ」 「お前は私のところで真理を探究しているのではないのか。 毎日毎日、くだらない人事や世事にせわしく働き、その言葉を汚し、自分も他人も悪くするような言葉のみを使っているのが普通の人間だ。 真理を探究している人間がそういう考え方を持つことは、非常に恥ずかしいことだ。」 何ケ月かが過ぎた頃、天風の中で気付きが起こった。 「自分の辛い、苦しいという言葉が、からだを病気にしているのではないだろうか。」 カリアッパ師がやってきて尋ねた。 「調子はどうだね。」 「今朝は何か調子が良いです。 いえ、きっとこれからずっと良いと思います。」 カリアッパ師は、にっこりと笑ってその場を去っていった。 6 中村天風「大偈(だいげ)の辞」 ああそうだ! 私の生命は宇宙の無限の力と通じている。 そして不健康なものや不運命なものは、宇宙の無限の力の中には絶対にない。 そして、その尊い命の流れを受けている私はまた、完全でそして人生の一切に対して絶対に強くあるべきだ。 だから誠と愛と調和した気持ちと、安全と勇気とで、ますます宇宙の無限の力との結び目を堅固にしよう。 「公園の裏山を一回りしてくる。」 今日は朝から暖かい日差しだが、快晴というわけではない。 それでもハイキング日和だ。 山道では大学生らいしい研究グループや幼児を大勢連れた幼稚園の先生らしくグループに出会った。 お気に入りの丸太に座り、この「大偈の辞」を声をあげて読む。いい気持ちだ。溌剌とした気持ちになる。 中村天風師は、道元の『正法眼蔵』に書いてあった 「大いなるかな 心や 天の高きや極むべからず しかも心は天の上に出ず 地の厚きや測るべからず しかも心は地の下に出ず 日月の光や こゆべからず しかも心は日月の明かりの外に出ず 天地 我を待ちて覆載し 日月我を待ちて運行し 四時 我を待ちて変化し 万物 我を待ちて発生す 之を最上道と名づけ また無上菩提と名づけ また正法眼蔵と名づけ また涅槃妙心と名づく」 を読まれてハッと気がつかれたという。 「広大無辺の大宇宙よりもさらに心は大きいんじゃないか・・・」 宇宙の広さは、一秒間に約三十万キロメートルを走る光の速さで飛んでも、その半分を行くのに、五十億光年かかるとアインシュタインが言っている。 そしてさらにこれらの星の中にも進化がある。 こういうことを知ると宇宙の荘厳さに敬虔の思いを感じるが、その果てしない宇宙よりも、人間の心の方が偉大だ。 外観上、遙かに大きい太陽や星にも心はない。 人の心にはこうした不思議な働きが与えられている。 ありがたくも、尊いこうした偉大なものを頂戴していながら、かえってその心を粗末にして、自分の健康や運命を悪くしている愚か者が世の中にいやしないか。 哲学的にいうなら、自我の中に、造物主の無限の属性が宿っている。 自分と人の世のために、その尊いものを善用し、この世に生まれた人間達の幸福を増進し、進化と向上を現実化させようとする造物主の意図に他ならないのだ。 人間の生命はみんな公平にこの恵みを与えられている。 さあ、そこで考えよう。 人間として一番必要なのは、この造物主と自分の生命の結び目を堅固に確保することだ。 この結び目を堅固に保たないと、病や不運が来たりする。 蒔いた種子のとおりに花が咲くのである。 消極的になると、造物主の心と自分の心が離れ離れになってしまうのだ。 しからば、この結び目を堅固に保つにはどうしたらよいか。 それには、自分の心を、造物主(宇宙の無限の力)の心と同様の状態にして活きることが、第一の秘訣である。 造物主の心とは、真善美だ。 真とは誠だ。 誠とは一点の嘘偽りもないことだ。 筋道が少しも乱れていないのが誠だ。 善とは愛情、美とは調和のことだ。 造物主と同様の心になるには、どんなことがあっても、心に誠と愛を満たし、和を旨とした生活をすれば結び目が堅固になる。 この用意が完全になれば、宇宙の無限の力が自然に自己の生命の中へ、無条件に同化力を増加する。 心を積極的にしなさい。 病人は、その病気を心から放しなさい。 病は忘れることで治る。 心の持ち方を積極的にしさえすれば、健康になり、運命も立ち直るように出来ている。 だからもっと心を磨きなさい。 7 「運命の誦句(しょうく)」 およそ宇宙の無限の力は、人間の感謝と歓喜という感情で、その通路を開かれると同時に、人の生命の上にほとばしりでようと待ち構えている。 だから、平素できるだけ何事に対しても、感謝と歓喜の感情をより多く持てば、宇宙の無限の力の与えられる最高のものを受けることができるのである。 そうであるがゆえに、どんなことがあっても、私は喜びだ、感謝だ、笑いだ、こおどりだと、勇ましくハツラツと人生の一切に勇ましく邁進(まいしん)しよう。 ○「運命を拓く」第六章を読んでいたら、ハッとした。 「人生は心一つの置きどころ」 さあ、今日からは良い運命の主として、何事に対しても感謝し、歓びの気持ちをもって、人生に活きていこう。 それには、閻魔(えんま)が塩をなめているような顔をしてはいけない。ニコニコ微笑みを顔にたたえよう。 ニコニコして馬鹿にされるなら、馬鹿にさせておけばいい。 女房が尻の下に敷きにかかったら、自由に敷かせてやりなさい。 そうすると女は敷かないものである。 敷かせまい、敷かせまいと百万抵抗するから敷かれてしまうのだ。 泰山鳴動するとも、ニッコリ笑っていられるくらいの強い心を持ちなさい。 ○カリアッパ師がヒマラヤで天風にこんなふうに問うた。 「痛いといって、病が治るかい。つらいといってつらさがなくなるか?。」 「ああ今日は熱があると言って熱が下がったか?。」 「それを、自分が人に知らせて歩いて、人までそんな気持ちにさせて、いい気持ちなのか?。」 天風師は「なるほどそうだ」と思った。 「自分の気持ちを、自分自身で、もっとにこやかにしたらどうだい」 とカリアッパ師は天風に教えたのだ。 本当に「心一つの置きどころ」なのだ。積極的な心構えを持続すれば、潜在意識は、無条件に同化し暗示感受習性が働いて、連鎖反応を起こす。 ちょうど筆を洗った真っ黒なコップの水が、水道の蛇口の所に置くと、ポタリポタリと水が落ちて、一晩のうちにきれいになるようなものだ。 だから、折にふれ、腹式呼吸して大宇宙の無限の力を丹田に納めて、心を感謝と歓喜で充たすのだ。 およそ宇宙の無限の力は、人間の感謝と歓喜という感情で、その通路を開かれると同時に、人の生命の上にほとばしりでようと待ち構えている。 すべての宗教は、「神や仏は、人間が本当に現在を、あるがままに、感謝して活きている人間には、限りない恵みを与えたもう」と言っているのだ。 だから、平素できるだけ何事に対しても、感謝と歓喜の感情をより多く持てば、宇宙の無限の力の与えられる最高のものを受けることができる。 どんなことがあっても、私は喜びだ、感謝だ、笑いだ、こ踊りだと、勇ましくハツラツと人生の一切に邁進しよう。 天風師は、毎晩寝がけに 「今日一日本当にありがとうございました」 と言って鏡に顔を写し 「お前は信念が強くなる!」と言って、床に就く。 「明日は今日より立派な人間として活きるぞ」と心に描く。 そして朝起きると、まずニッコリと笑う。そして 「今日一日、この笑顔を壊すまいぞ」と自分に約束するという。 8「統一箴言(しんげん)」 人の生命は宇宙の創造を司る宇宙の無限の力と一体である。 そして人の心は宇宙の無限の力を、 自己の生命の中へ思うがままに受け入れる働きを持つ。 しかもこうした偉大な作用が人間に存在しているのは、人は進化の原則に従い、宇宙の無限の力とともに創造の法則に順応する大いなる使命を与えられているためである。 私は心から喜ぼう!この幸いとこの恵みを! 私は今、人の世のために何事かを創造しようと欲する心に燃えている。そしてこのように心を燃やしていれば、宇宙の無限の力は私に何をなすべきかを教えたもう。 私は今、私の生命の中に、新しい力と新しい元気とを感じる。私は今、心も肉体も新生しつつある。 同時に私は、限りない喜びと輝く希望とにこおどりする。 それは、私は今、宇宙の無限の力を、真実に、自分の生命の中に受け入れる秘訣を会得したからだ。 それゆえに私の創造の力は、最も旺盛でかつ完全だ。 したがって私の人生は、きのうまでの人生でなく、ハツラツとした生気があふれ、敢然とした勇気でみなぎっている。 そして何事をも怖れず、また何ものにもひるまず、人生の一切を完全に克服し、ただ一念宇宙の無限の力と一体化して、あまねく人類幸福のために、創造に勇ましく奮闘しようとするのみである。 『人間の生命の本来の面目』をはっきりと知らせよう。 『本来の面目』とは、本当の目的ということだ。 そのままの『すがた』ということだ。 生命の本来の面目は、『創造の生活』である。 ところが、多くの人々は、これを全然自分の念頭におかない生活をしてやしないか。 ただもう自分本位だけ、食うこと、着ること、儲かること、楽しむこと、遊ぶことだけ。 なぜ、人間の生命の本来の面目が、創造的にできているのか。 それは、進化と向上を現実化するために、人間に、この本来の面目が与えられているのである。 どんな人間でも、「何ものかを完全であらしめたい。完全につくりたい。」という気持ちがある。 ものの成就や完成を好むという気持ちが心の中にある。 これは、人間の生命の中にある、自然に与えられた活動的能力である。 だからこの自然傾向を確実に応用すれば、もう死ぬまで健康でいられるし、仕事はすべて成功する。 特に私が言いたいのは、老年になっても、自分の心からこの意欲をピンボケにしてはいけないということだ。 どんなに年をとろうと、自分の心の中で創造の意欲という情熱の炎を燃やしていなければならない。 ただし、世の中の多くの人々の卑しい希望や汚れた欲望から出発した創造意欲や創作意欲は断然排除すべきである。 この生命の本来である創造意欲は、常に価値の高い目標で定めなければならない。 それは第一に『自己向上』ということだ。 活きている間、一日一刻といえども、完全に活きることが、この貴重な生命を授けてくれた宇宙の無限の力への正当な義務である。 いくつになっても、いかなる場合も、自己向上を怠らないようにすること、これが自分の本来の理想的な活き方なのだ。 そういう気持ちを持っていると、年老いても、壮健で元気よく、若さと溌剌さに満たされ、その生命が活躍してくれるのだ。 そういう人の言葉や行いは、期せずして進化と向上に順応することになる。私達の生命は、常に伸びよう、伸びようとしている。 これを忘れてはいけない。 自己向上の意欲の薄くなった人は老衰を早める。 だから、病でも運命でも、消極的な気持ちにしないこと。 そうするには、まず相手にしないことが一番である。 病は忘れることによって治る! いいか!ズバリ言おう。 「人間は、健康でも、運命でも、心が、それを断然乗りこえていくところに、生命の価値があるのだ!」 私はカリアッパ師から聞いた時、 「そうだ!」と思った。 若々しい力強い精神状態を、常に、自分に持たせるのだ。 それが頼もしい精神活動をする要素なのだ。 9 中村天風「信念の誦句(しょうく)」 信念、それは人生を動かす羅針盤のように尊いものだ。 信念のない人生は、長旅の航海ができないボロ船のようなものだ。 だから、私は真理に対して純真な気持ちで信じよう。 いや、信ずることに努力しよう。 もし疑う心持ちが少しでもあれば、それは私の人生を汚そうとする悪魔が、魔の手を延ばして、私の人生の土台石を盗もうとしているのだと、気をつけよう。 天風先生が、以前、九州の八幡製鉄所に講演に行ったときのことだ。 野田工学博士が海軍中将後、そこで技監をしていた。 講演が終って、天風先生は夜は野田氏の官舎に泊った翌朝のことだ。 「いやあ、まったく驚きました。実は先生の寝がけをのぞき見したんですよ」という、 「何のために」と尋ねると、 「先生が、寝がけに、どんな自己暗示をされるのかと思って、夫婦でもってのぞき見したんです。」 「それでどうだったかい」 「鏡を見られて、あんなに真剣な態度でされているとは思いませんでした。先生くらいになられても、まだおやりになられるんですか」というから、 「ああ、一生やるよ!」と答えた。 夫婦顔を見合わせて、 「私どもは聞きっぱなしにしていましたね。 いえ、やらないことはないんですけれど、一週間に一回か二回です。」 観念要素の更改は、真剣にやらなければならない。 どこまでも自分を作り変えていくという心で、真理を聞いた以上、真剣に実行していかなければならない。 合理的な方法を知らないで、信念信念というと、いわゆる盲信という価値の無い精神状態になる。 あの鏡を用いる合理的な方法で煥発された信念は正しい信念だ。 正しい信念は、宇宙真理に自然に感応して、疑いの心が発動しない。 盲信という精神状態は、ただもう雑念、妄念のみで消極的になるため、迷信に陥るのだ、ハツラツさっそうとした人生を活きたかったら、動かざること山のごとき、断固とした信念を造っておかなければならない。 どんなに学問ができようが、どんなに金ができようが、信念がなければ、その人の人生は、哀れ、惨憺(さんたん)たるものになる。 夜の寝がけに誦句集をパッと開いて、宇宙の無限の力が今夜私に、この誦句を与えられたのだと信じて唱えるのだ。 そしてその気持ちをどんなことがあっても失うまいと、堅く刻み込んで床に入る。 そうすれば確固たる信念が確立されることは断然間違いない。 諸君の一人一人が、健康も運命も、本当に幸福になり、そういう人が増えれば、その言葉や行いで、多くの迷っている人が、美化善化してくる。 私みたいな人間がこういう尊い仕事をする気になったのも信念だった。 田中智学という日蓮宗の坊さんが「ダメだから、およしなさい」と言ったが、私はこう思った。 「本当の気持ちで人のためを思ってする仕事が、ダメとはいかなる理由か。人によいことを勧め、人を幸福にすることがなぜダメなのか。 いやダメとか、ダメでないとかは考えない。 ただ人を幸福にすればよいのだ。それが自分にできないはずがないんだ!」という気持ちでこれを始めた。 だから、私の気持ちを信じたのは、母と家内だけだった。 他の人々は皆私が気が狂ったと思った。 それはそうだろう。 銀行の頭取をしていた人間が急に草履ばきで、焼おむすび持って、上野のお山で大道講演すれば、精神異常者だと思うかもしれない。 しかし私には私なりの信念があった。 尊い真理に国境はない。 自然の摂理にしたがって、ただ自分だけではなく、他の人々を幸福にするために活きてこそ、この世に生まれた甲斐がある。 だから、どうか、人のため、世のためお願いする。 「信念の人」に成りなさい! 10 中村天風 座右箴言(しんげん) 私はもはや何ものをも怖れまい それはこの世界ならびに人生には、いつも完全ということ以外に、不完全というもののないように宇宙真理ができているからである。否、この真理を正しく信念して努力するならば、必ずや何事といえども成就する。 だからきょうからはいかなることがあっても、また、いかなることに対しても、かりにも消極的な言動を夢にも口にするまい。また行うまい。そして積極的で肯定的な態度を崩さないように努力しよう。 同時に、常に心をして思考せしめることは、「人の強さ」と「真」と「善」と「美」のみであるように心がけよう。 たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで病ますまい。 否、一切の苦しみをも、なお楽しみとなすの強さを心にもたせよう。 宇宙の無限の力と直接結ぶのは心である以上、その結び目は断然汚すまいことを、厳かに自分自身に約束しよう。 今の人は、楽しみは楽しみ、苦しみは苦しみ、と別にしてしまう。その苦しみをもなお、楽しみに振り返る心持ちを持つということが、人間として、ぜひ必要だということを天風教義では説いているのである。 三年四年経った人が、私にお礼を言う場合、たいていの人が 「ありがとうございます。ご縁がありましていろいろ教えていただいて、お蔭さまで体も丈夫になり、商売も繁盛いたしまして、本当に先生に手を合わせて拝んでいます。」という。こういうお礼を言われると、 私は 「この人は、一体どういう聞き方をしていたんだろう」と思う。 そういうお礼を言う人は、もし、それが逆になったら、きっと私を恨むだろう。 三年四年来ていても一向に体も丈夫にならなければ、運命もあまり開けないと。 私がよくわかってくれたねえ、ありがとうと言うのは 「このごろはもう、どんな苦しいことがあっても、それに負けなくなりました。たまには病気にかかりますが、病気があれば、ああ、ありがたいなあ、自分の活きかたが悪かったから、神様がそれを教えてくださるために与えてくださった慈悲だと、先生がおっしゃっていらっしゃいまうが、私もそう思うようになりました。この頃では、心が憂いこと、苦しいこと、こっちから引き受けようという気が起こるんです。ありがとうございます。」と、 こういわれると、その人を抱きしめたいような気になる。 それが本当の目的だからである。 人間の思考が良いにしろ、悪いにしろその事柄を自分に作ってしまうのである。 心が積極的であれば積極的なものを引きつけるし、消極的であれば消極的なものを引きつける。 それにもかかわらず、普通の人は、環境をやたらに呪い、運命をやたらに悲観するのを人生の毎日にしてやしないか。 そういう人間はどんなにお金ができようがどんなに境遇がよくなろうが、本当の幸福は感じない。 本当の幸福とは、自分の心が感じている、平安の状況をいうのだ。 だから、現在の生活、境遇、環境、職業、何もかも一切のすべてを、心の底から満足し、感謝して活きているとしたら、本当にその人は幸福なのである。 生きていることを、ただありがたく感謝しなさい。 一切を感謝と歓喜に振り替えていく。 そして観念要素の更改を一生懸命やっていく。 そうすれば、自然とそのことが、宇宙の無限の力と結合している努力をしているのと同じになってしまうのだ。 自分自身の心の中の思い方や考え方がよくも悪くも自分自身をつくりあげるのだ。 これが絶対の宇宙真理である。 常に感謝と歓喜を心から失わないようにしよう。 そして積極的に心が変わっていくよう真剣に自分の心を焼きなおしていこう。 10 恐怖観念撃退の誦句(しょうく)(中村天風) 人の心が宇宙の無限の力と一致するとき、 人の生命の力は驚嘆に値する強さを持つにいたる しかもこの尊厳なる宇宙の無限の力と一致するには、第一に必要なことは、心の安定を失ってはならないことである。 そして心の安定を失うことの中で、一番戒めるべきことは恐怖観念である。 そもそもこの恐怖なるものこそは、価値のない消極的な考え方で描いているシミだらけな醜い一つの絵のようなものだ。 否、寸法違いで書いた設計である。 そうであるがゆえに、きょうから私は断然私の背後に、私を守りたもう宇宙の無限の力のあることを信じて、なにごとをも怖れまい。 否、人が常にこうであるよう心がけるならば、必然、人生に恐怖に値するものはなくなるからである。 ゆえに健康はもちろん、運命の阻まれるときといえども、本当に私は私の背後に、私を守りたもう宇宙の無限の力のあることを信じて、何事をも怖れまい。 きょうは朝からとてもいい天気だ。 朝、郵便局に行って田舎に手紙を発送した後、公園の裏山に登る。 いつもの丸太のベンチのところに行くといつも座るベンチの一つが壊れて前に転がっている。 昨日の強風のせいであろうか。 日差しが暖かく燦燦とあたる。 もう一つの丸太のベンチに座り、「運命を拓く」の「恐怖観念撃退の誦句」を声を出して読み上げる。 「人生、人として活きていくときに、一番戒めなければならない重大なことは、『恐怖』ということだ。 恐怖観念、病気はもちろん一切の出来事に対して、物を怖れるという気持ちくらい、価値のない結果を人生をもたらすものはない。 なぜ物事を恐怖すると、人生に良くないかというと因果律の法則による。 ベーコンが「人の大いに怖れるところのものは必ず、遂に襲い来るべし」といったが、実にこのコンペンセーション(報償)の法則は必然的のものである。 人生、事業であろうと日常生活であろうと、何事に対しても、自分の心の態度を、恐怖から断然引き離しておかなければいけない。 本当はこの世には恐ろしいということはないのだ! さあ!なにも怖れない! 心の中に、恐怖なんて全然ないという人間になって眼を覚まそう!」 天風にはこういう逸話がある。 天風が虎の檻に入った話だ。 イタリアからコーンという猛獣使いが来日した。 コーンは、イタリア大使館を通じて、頭山満(中村天風氏の師)に面談を求めた。頭 山側で同席したのは、黒竜会会長の内田と、頭山の甥と、天風の4人であった。 初対面のコーンは、頭山に挨拶した途端、「猛獣の檻に入っても、あなたにはけっして猛獣は襲いかかりません」と述べた。 猛獣使いは人の目を見て、その人の心が定 まっているかどうかを判断するという。 さらにコーンは、天風を見て、「この方も大丈夫だ」と言った。 負けん気の強い黒竜会の内田が、自分はどうかと尋ねたが、 「あなたはすぐに食われてしまう」 というのが、コーンの答えだった。 頭山の甥も猛獣に襲われるほうだと言われた。 頭山が、笑いながら天風を見た。 「やっぱり、長う生死の中を歩いてきただけ、見る人が見るとわかるんじゃなあ」 天風は頭山と同じ、泰然自若の人となっていたのである。 「この中に、まだ馴らしていない虎がおりますので、檻の前を通るときには吠えるかもしれませんが、ご勘弁ください」 とコーンは注意した。 虎が三頭、低い唸り声を上げていた。 「虎の親子です。人馴れさせるまでに半年はかかるでしょう。馴らすために、こうして連れているんです」と説明する。 頭山は、「勢いのあるやつじゃ。天風、いっちょう入ってみるか」と促した。 天風は何の疑いもなく、気負いもなく、絶対信念で入っていった。虎は、天風の周りに来て、二頭がうずくまり、一頭がその後ろにいた。しばらく虎と戯れていた。 新聞記者がフラッシュをたいて写真を撮った。虎が記者に牙をく。天風は平然と檻を出ていった。 虎の檻に平気で入れる理由を天風はこう話している。 「信念が強く結晶した人の周りには、非常に強い同化力が働き出す。 霊的作用の感化で、その場の雰囲気をスーッと同じ状態にしてしまう。 猛獣が同化するのは当たり前じゃないか」 ○「君に成功を送る」(中村天風)より 「ショックや衝動を、いちいち心だけで受けてると、そのショック衝動に心がいたぶられちまう」という章がある。 この本は天風先生の講演筆記だけに、語り口調がなかなか面白い。 「驚いたり、怒ったり、あるいは悲しんだり、つまり、外からの刺激や衝動によって心がおののいたり、乱れたりすると神経系統はうまく働かなくなってしまうんです。 ですから、日常の生活で、心が乱れをきたさないようにしなきゃいけませんよ。 ではどうすれば心の乱れを防げるか。 すべての感情や感覚の衝動や刺激を、今までは心ですぐ受けて、あるいは驚き、怒り、悲しんでたろう。 今度はそれを腹で受けるようにしてごらん。 といっただけじゃわからないか。 いいかい、何かの感情なり感覚の衝動や刺激があったらば、まず第一番にグッと腹に力をいれる。 同時にアットワンス(瞬間的に)にケツの穴をしめて肩を落とすんだよ。わかるかい? 昔の武士が「腹を練れ」ということをやかましく修練で言ったのはこのことなんです。 よろしいか、へそを中心とする腹筋神経から脊髄の十三番目に連絡しているこの神経系統をもってして、心の動乱を防ぐがために修練していたのです。」 ○ロシアのバルチック艦隊を撃沈した東郷元帥に教えた話も面白かった。 「元帥は、晩年に喉頭ガンに侵されてしまったんですが、喉頭ガンというのは、とにかく食べるのはもとより、息一つするんだって、そりゃ痛みの激しいもんなんです。 そのため元帥もだいぶこれには悩まされたらしく、あるとき私に、 「天風先生、このできものは、痛みのひどいものですが、いったい、どうしておればよいでごわすか」 と尋ねてこられました。 私は単刀直入に、 「その病は痛いのが特徴です。 ですから痛いと言っても、言わなくても、生きているかぎりは痛みます」 と言ったんです。 すると元帥は破顔一笑されて、 「痛むのがこの病の特徴でごわすか」 と言われ、なんとその後、亡くなられるまで、一言も痛いと言われなかったそうです。 医者が「お痛みですか」と診察したときも、 「痛むのがこの病の特徴でごわす。 しかし天風さんのお陰で元気でごわす。」 と笑顔でお答えになったそうです。 これが普通の人なら、医者が「痛みますか」なんて訊けば、 「痛いですよ、とってもたまりません、何とかしてください。」 なんておおげさに騒ぎますよ。 そしてこのことが軽くすむ病を重くしているのです。 厳粛に真理をいえば、 消極的な言葉を使えば使うほど、より一層悪い状態が自分自身に返ってきてしまうんですよ。 ですからどうせなら、その同じ口で 「ああ、ありがたい」 「ああ、楽しい」 「ああ、うれしい」 って言ってごらんよ。 積極的な言葉を自分から発すれば、病も運命も、どんどんよくなっていくようになっているんですよ。」 ☆なるほど斎藤一人さんの考え方の源泉はここにもあるんだな。 ジャンル別一覧
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