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湯布院の挑戦&旅にでないワイン話

湯布院の挑戦

 11月18日の火曜日のプロジェクトXで「湯布院・癒しの里の100年戦争」の放映が
あった。大分の友人からぜひ見てくださいという連絡が入り、知り合いの何人かにも
メールした。新しいビデオテープを買って、酒を熱燗にしてテレビの前に陣取り、
コップ杯を飲みながらじっくりと見た。

 最初にかつての湯布院の田舎田舎した光景と、反対に別府の歓楽街の繁栄ぶりを写
した映像がでる。
 湯布院はその頃全く無名で、町ごとダムに沈め、補償金をもらう計画まで役場や議
会で検討されていた。当事青年団長だった岩男さんが反対運動を組織し、町長となっ
た。
 昭和46年、週末でさえ客のない日が続き、夢想園の主人志手康二さんは宿を閉めよ
うと仲間に相談した。中谷健太郎さん、薫平さんは危機感を抱いた。
 その頃、健太郎さんは、町の再生のために参考になるものはないかと図書館で資料
を探した。一冊の資料を見つけた。日々野公園など全国各地に近代公園を作った本多
静六博士の公園記録だった。
「由布院は歓楽型の温泉地になるのではなく、ドイツのバーデン・バイラーという保
養型の温泉地になるように努力せよ」と書いてあった。驚いた。健太郎さん達三人は
岩男町長に訴え、町から100万円の借金をして、ドイツの温泉地を視察に行った。名
目は温泉熱を利用したイチゴ栽培の視察だった。

 この時、ドイツの一保養所での感動が実に湯布院を日本を代表する温泉地にしたと
いって過言ではない。

 バーデン・バイラーでは、湯布院に似た緑の豊かな温泉地だった。そこで出会った
ホテルのオーナーのグラテヴォルさんは、「農村の緑と静けさが大事だ。」「まちづ
くりには100年が必要だ」と説いた。
 健太郎さんは、その時受けた感動をこう綴った。

「あの日、グラテヴォルさんは熱く語ってくれた。
『町にとって最も大切なものは、緑と、空間と、そして静けさだ。その大切なものを
つくり、育て、守るために、君たちはどれほどの努力をしているのか?君は?君は?
君は?』
グラテウォルさんは、私たち三人をひとりずつ指さして詰問するように言った。私た
ち三人は顔が真っ赤になってしまった」

 このグラテヴォルさんの詰問が、三人を奮い立たせた。

 また、薫平さんは、グラテウォルさんがこうも語ったという。

「まちづくりは、ひとりでやっていては孤立する。最低でも三人は必要だ。まちづく
りは、大勢の仲間で進めることが大切だと、私たちはグラテヴォルさんから教わった」

 こうしてヨーロッパを見て回った三人が帰国し、新しい湯布院のまちづくりがス
タートした。全国の温泉地が鉄筋の高層ホテルにネオンを灯し、団体客を奪い合って
いた時代、湯布院の人々はかたくなに静かな田舎の佇まいを守り続けた。
 7年後、健太郎さん、薫平さんは、約20人の仲間と一緒にドイツのバーデン・バイ
ラーを訪れた。グラテウォルさんは病床の身ながら待っていてくれた。そして震える
両手でしっかり、健太郎さんと薫平さんの手をそれぞれ握りしめてこう語った。

「君たちは約束を守った。君たちは長い道を歩き始めた。世界中どこの町でも、何人
かの人が、あるいは何十人、何百人かの、決して多くはない人たちが同じ道を歩いてい
る。
 ひとりでも多くの人が、よその町を見ることが大切だ。そして、その町をつくり、
営んでいる『まじめな魂』に出会うことが必要だ」

 昭和50年代、最大の困難が襲いかかった。バブル経済で一攫千金をねらう開発業者
と銀行が町に殺到し、田んぼの値は1反1億円に急上昇した。町の世帯数に迫る3000人
規模のリゾートマンションが計画された。
「ビル乱立で町が壊滅する前に開発阻止の条例を作るしかない。」
 高さは五階以下に制限しよう、周辺の住民の同意を必要としよう。しかし、役場の
担当係長は突然建設省に呼び出され、五人の若手官僚に「高さを5階以下に制限する
条例案は法律より厳しく、認められない。同意を求めるのは国の通達違反だ」と指導
された。
条例は廃案の危機を迎えた。がっくりして湯布院に帰ってきた係長を健太郎さんと薫
平さんは激励した。この由布岳の見える美しい緑と空間と静けさを壊してはいけな
い。
 係長は町の命運をかけて、再び国との交渉に挑んだ。砂防会館の一室にあらかじめ
湯布院の緑豊かな風景のポスターをいたるところ貼った。そして、出席した官僚に
熱っぽくこの湯布院を守りたい。どうか智恵を貸してくださいと深々とお辞儀してお
願いした。
しばらく静寂が続いた。そして官僚の一人がこう言った。
「五階建て以下を条例ではなく指導要領で記載すれば法律には違反しないでしょう。
「同意」を「理解」とすれは通達には違反しないでしょう。」若手官僚たちは一緒に
条例案を考えてくれた。

 こうして多くの町が林立するリゾートマンションの荒波にもみくちゃにされるな
か、湯布院の田舎のたたづまいは守られ、無名の農村が日本中の人々が憧れる保養地
へと変貌していったのである。
 グラテウォルさんは、「まちづくりには100年かかる」と言った。まだ半ばにも
なっていない。いまも湯布院のまちづくりの挑戦は続いている。

(追記)新潮新書から「由布院の小さな奇跡」という本が出た。
この本の中に、由布院の挑戦者たちとグラテウォルさんとの出会いが出てくる。また。本多博士の由布院振興策は今でも多くの示唆にとんでいる。

http://www.shinchosha.co.jp/shinsho/shinkan/index_sokuhou0411.html
(楽天ブックス)
http://books.rakuten.co.jp/RBOOKS/0001730935/

    旅にでないワインが旅に出た話

「以前、大分県の直入町役場で働いていた首藤さん、県議会議員をされているんだけど、その人の講演録をインターネットで見つけたらとてもよかったんだ。

 直入町ではドイツのバードクロイツインゲンと友好都市となっていて毎年未来を担う中学生を派遣していたんだ。ドイツからも市長さんはじめ毎年多くの方が見える。
 町民が百人ドイツに行ったのを記念して、国際シンポジウムを開催した。ドイツの物産展を開催したらね、これが好評で、特にドイツワインが飛ぶように売れたんだ。するとね、『首藤さん、あのワインをうちの町でずっと飲むことはできないだろうか』と商工会のメンバーが言うんだ。ところがこのワインは、「旅に出ないワイン」と言われて、そこに旅をしないと飲めない。そのくらい貴重な、少量だけど非常にうまいワインだ。商工会長自らドイツに行ったが分けてもらえない。そこで町長と首藤さんと通訳でドイツに渡った。それで苦しんだんだけどうまくいかない。最後の日、向こうの商工会が招待してくれたので『未来の子供達にあなた達が作ったヨーロッパでも有名なこのワインを飲ませてあげたい』と頼んだんだって。

 すると通訳のマチ子さんが黙りこんで横を向いて泣き出した。
『どうしたの、マチ子さん?』と首藤さんが聞いた。
『首藤さん、私は長い間、日本の方々をドイツにお招きして通訳の仕事をさせていただいた。ただ、これほど、今夜ほど私は自分が通訳をしていてよかった。こんなに感動した夜はありません』というふうにマチ子さんが言うんだ。
『首藤さん、ドイツの皆さんは遠く海を渡って何回も来たあの日本の友人たちに自分たちの秘蔵のワインを分けてあげようじゃないか。そのために直入とクロツィンゲンの頭文字を取ったナークロという会社を新たにつくって、ワインを上陸させて、直入町の皆さんの期待に答えてあげようじゃないかと話しているですよ』
 マチ子さんはそういう会話を聞いて思わず瞼が熱くなったんだね。

 首藤さんはね、宿に帰って、シャワーを浴びながら男泣きに泣いたんだって。
 平成元年からドイツとの交流が始まってまだ四年にしかならない。こんな農村であんなことをやってあいつらはドイツかぶれだという陰口もある。それなのに、こうしてまだ数回しか会ったことのないドイツの友人が私たちの夢を実現してあげようという、そう思うと泣けて泣けて仕方がなかったというんだ。

 そして喜んで帰りの飛行機に乗ったらね、
帰りの機内誌の中に、マザー・テレサの特集があった。
マザー・テレサが生涯愛した言葉、
「暗いと不平を言うよりも、自ら進んで明かりを灯しなさい」
という有名な言葉があるが、実は、マザーが愛したのは、そのすぐ後に続く言葉なんだって。
「誰かがやるだろうということは、誰もやらないということを知りなさい」
マザーが愛したその言葉が強烈に首藤さんに降り注いできたんだって。
つまり、前年に商工会のみんながドイツに渡っている。
ワインの交渉もやろうと思えばできていたかもしれない。
ただ、誰かがやるかもしれない。
地域づくりのほかのことに対してもそうだ。
これはいい話だが、誰かがやるだろう。
そうではなくて、気がついたあなたがやらなければ、誰もやりませんよ。
そういうマザーテレサの言葉に、『ああ、そうか。3人でこのことに挑戦をする』ということの意義がマザーテレサから示唆されたような気がしたと首藤さんはいうんだよ。いい話だろう。」

「うん」とちょっと感銘を受けたようにうなづく。



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