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「武士の娘」2

20 祖母の教え「旦那さまには忠実に、旦那さまのためには、何ものをも恐れない勇気、これだけでお前はいつでも幸福(しあわせ)になれましょうぞ」

『武士の娘』に出て来る祖母の話が面白い。

長岡藩の国元家老の家に嫁ぎ、その妻として一国を支えた気概と見識が伝わって来る。

 31 黒船

ある日、腕白盛りの孫娘が、ちじれ毛の黒髪を風に吹かせながら下駄をふみならしてご門をかけこみ、家族のもとへの挨拶もそこそこに、お座布団の上に座っていらした祖母のもとへ急ぎ、大きな平たい本を広げました。

その子は世界地図を指しながら

エツ子「お祖母様、ずいぶん心配なことがございます。こんな大きな世界の中で日本はこんな小さな島が少しばかりあるのです、と先生に教わりました」

祖母「それはそのはずですよ。エツ坊、これは黒船に乗って来た人たちが書いたものですからの。

日本人がこの地図を書けば、日本をもっと大きく書きますよ」

エツ子「黒船に乗って来た人って何ですか」

祖母「あから顔の異人さんでの、来てくれともいわないのに、この神国へ渡って来たのですよ。

帆なしで走る大きな黒い船に乗って来たのですがの」

エツ子「どうして黒船っていうのでしょう」

祖母「それはの、船が海の向こうにいると、黒い煙が雲のように見えて、それがだんだん近づいてくるように見えたものでの。それに黒い大砲もついていて、どんどん打ったのでの。黒船の人達はきれいな物などちょっともわからないものですよ。日本人が美しい錦で帆をこしらえていたり、櫂(かい)には彫り物がしてあったり、サンゴや真珠がはめこんであるのを見て、笑ったそうですよ。それに皆商人(あきんど)のような人ばかりで、神国日本のことはわからないのでね」

「それからどうなんですの」

「黒船もあから顔の異人さんも帰ってゆきました。けれどもね、それから何度もひき返して来ましたよ。

今じゃお船はいつも往来しているし、この日本人までが あきんど のようなことばかり言うようになりましたからの。もうもう泰平も何もありはしませんよ。」

「両方のお国は泰平で安心していられないのでしょうか。船はお互いの国を近づけるものですと先生はおっしゃいましたが」

すると祖母は姿勢を正して申しました。

「エツ坊や、異人さんと神国日本の人々がお互いの心の中がわかりあうまでは、何度船が往来しても、決してお国とお国とが近づきあうことはありませんよ」

 4 旧と新 

は初めて牛肉を食べることになった日の出来事の回想である。仏壇には目張りをしておそるおそる肉を食べた。

孫娘たちは内心おいしいと思ったが、そんなことは口に出さなかった。祖母は結局一口も食べなかった。

エツ子「なぜ、みんなと一緒に召しあがらなかったのですか?」

祖母「異人さんのように強くなりたくもないし、賢くなりたくもありません。

ご先祖様方が召しあがった通りのものをいただくのが、祖母(ばば)には一番よろしいがの」

悲しそうに申しました。

祖母(ばば)様のおっしゃりようは、抱きしめたくなるくらいいとおしい。これは作者エツ子の想いなのである。その真情が読む者の心に流れ来て、伝わって来て、この本を魅力的なものにし、永遠的なものにしている。


 6 お正月

 エツ坊が姉の嫁入り仕度のカヤのあさを編みながら、雪合戦について祖母(ばば)に話す。

「お祖母さま、学校で雪合戦をしますのよ。おはなさんが一方の大将で、私がもう一方の大将になるんですのよ。・・・」

「どれどれ、お前、あのあさ糸の歌を知っておいでかえ

  あさ糸の
  よつれ もつれつ
  むつかしや
  うむの心ぞ
  なお もつれゆく

 もうお忘れなさるなよ」

エツ坊「あまり雪合戦に夢中になっておりましたので」

祖母「エツ坊や、一番上のお姉さまはの、お嫁にゆくまでに、カヤ二つ分のあさ糸をおよみだったよ。お前ももう十二におなりだから、もっと娘らしゅうおなりなされ。」

「はい、私も冬の間にたくさんよんでお姉さまのカヤが二つできるくらい溜めて、お正月までに いし に織ってもらいますわ」

「そうお急ぎにならなくてもよろしいがの」


 10 酉の日

では、祖母が自身が長岡に嫁入りした時のことを話す。

ある寒い夜、私は祖母の部屋のコタツにうずくまっておりました。・・・

その夜、祖母と話し合っていますうちに、武士のしつけをうけた人は、来るべきどのようなことにも処してゆけるものだということを悟らされました。

僅かに赤い炭火ばかりが、かすかに照らしている静かな部屋の中で、祖母はちょうど60年前のその日、花嫁としてこの家に輿入(こしい)れするため、遠い生家をいでたった当時のことを話してくださいました。・・・

「お前と同い年の14でしたがの、山を越えたり、大川を渡ったりして、見知らぬ国々を通ってきましたが、その間には、いろいろ珍しいことがありました。

お祖母様のお国は京都よりももっと遠いところで、国境ごとに、関所でずいぶん待たされました。すると、乳母がかたわらに来てくれたり、おともの役人や槍持ちや6人かきの駕籠かきがいてくれたので、別にこわいとも思いませんでした。
こちらへきてみると、お国とはすっかり違い、習慣も言葉も奇妙に思われ、まるで異国にいるような心持でしたがの。

それでの、祖母(ばば)はこの頃異国へゆくお前のことが気になってなりませんがの。これエツ坊や」

「住むところはどこであろうとも、女も男も、武士の生涯には何の変わりもりますまい。

御主に対する忠義と御主を守る勇気だけです。

遠い異国で、祖母(ばば)のこの言葉を思い出してくだされ。

旦那さまには忠実に、旦那さまのためには、何ものをも恐れない勇気、これだけで。

さすればお前はいつでも幸福(しあわせ)になれましょうぞ」

19 ニュートン夫人のこと

ヘレンさんは橋をわたりながら、振り返っていうのでした。

「ともかくあなたはゾウリをはく人の中では、一番やさしい人だと思っていますけれど、あなたのおっしゃることには承知できません。
 アメリカ婦人は日本婦人とは違いますよーお気の毒さま!」

 むやみに私の肩を持ってくれるこの友の、とほうもないお世辞をききながら、玄関の方へ歩き出しますと、橋のむこうの暗闇から、突然、声がかかって

「ニュートン夫人のことを忘れていましたわ!私のまけね、あの方こそ日本人そっくりね、さよなら」

 私はその朝「母上」が話して下さったニュートン夫人のことを思い出し、笑いながら玄関の方へ近づいてゆきました。

ニュートン夫人はヘレンさんとは反対側のお隣りの人で、よく存じ上げておりました。

この方はお声のやわらかな、内気なおやさしい方で、小鳥を大変にかわいがっておられて、お庭の木々に小鳥のための巣箱をたくさんつるしておいでになりました。

ヘレンさんがニュートン夫人こそ日本人そっくりだとおっしゃったわけはよくわかりましたが、私にはどうしてもそうは思えませんでした。

夫人の物の考え方は常識的であり、実際的でありました。

そして、ご主人にコートや傘の世話をやかせながら、平気でいらっしゃれるのでした。

ある時など馬車の中で、ご主人が夫人の靴の紐を結んでいられるのをさえ見たことがありました。

 ニュートン夫人について「母上」から聞いたのはこんなことでした。

2,3日前、夫人が窓際でお裁縫をしていられると、驚いたような、小鳥のなき声が聞こえてまいりました。

ふと見ると、低い枝につるした小鳥の巣箱を、大きな蛇がねらっているのでした。

夫人は縫物を投げ出し、窓から発砲して、蛇の頭をあやまたず打ちぬかれましたで、小鳥は救われたということでした。

「よくもあの奥様にそんなことがおできになりますこと。

あのきゃしゃな奥様が銃におさわりになったということだけでも信じられそうもございませんわ。

街で犬に会ってもこわがっていらっしゃるにいらっしゃるし、お母さまが不意にお話しかけてなると、じきにびっくりして、顔をあからめておしまいになるのに、どうしてまあ、上手に蛇などおうちになれたのかしら」

と、私は「母上」に尋ねたのでした。

「母上」は笑って、

「ニュートン夫人は、あなたが思い及ばないようなことを、何でもなさいますよ。

ある吹雪の夜、ご主人のおられぬ留守に、あの銃を腰につけて、暗闇で危険ななかを6マイルも歩かれて、怪我した労働者を助けて来られたのですよ」と申されました。

 私はニュートン夫人のもの柔らかなお声や、もの静かで臆病とも申すべき動作を思い浮かべまして、

「結局、あの方は日本の婦人に似ていられるのだ!」と自分で自分に申したのでした。


このニュートン夫人のことについて 『武士の娘』の見たアメリカ では『ボーグ夫人』としている。

『武士の娘』では、作中に出る人物に迷惑がかからないように仮名が用いられている。

夫も『松雄』は『松之助』がただしい。

この小鳥を狙う話を聞いたのも『母上』ではなく、『黒人の女中』である。


 もう一軒お話したい隣人は、ボーグ夫人でございます。

 ご良人(りょうじん:夫)は名の知れた医学博士で、はやくから隠退されて悠悠自適の生活をこの村に送っておられました。

夫人は見るからに淑やかでお声も優しく、村人が小鳥のおばあさまとおよびするほどの愛鳥家であられました。

夫人の庭には、みごとな果(み)のなる桜の樹(き)があり、日本ではさくらんぼなど見たこともなたった私は、その甘い果の美味しさを、今も忘れないほどでございますが、その収穫の時にさえ私どもの眼にはもったいないと思われるほどたくさんの果を、小鳥のためにと枝に残しておかれました。

コレッジヒルあたりの冬の寒さは、東京では今日は寒い、雪になるだろうかと申しますところを、今日は暖かいから雪になるだろうかと申す事でもご想像がつきましょうが、極寒には零下20度がまず通常でございました。
そんな時、小鳥たちが餌をあさりあぐむのも不憫だからと、夫人は冬になると立木の枝に獣脂をしばりつけておかれるのでありました。
このように日本語でいえば虫も殺さぬというふうのご夫人に、思いがけなく剛毅な一面のあることを知らされたことがございました。
ある夏の暑い日でした。
宅の黒人の女中が息せき切って飛び込んでまいりました。
「奥様奥様、ボーグさまのおばあさまが、あのボーグさまのおばあさまが、鉄砲で大きな蛇をお撃ち殺しになったんですよ!」
「なんですって?」と驚いて聞き返しますと、
「編み物をなさりながらふと外をご覧になると、大きな蛇が今にも小鳥を呑もうと身構えていたそうでございます。
おばあさまは、あっ!とおっしゃるなり、ボーグ先生の戸棚へかけていらっしゃり、ひきだしから猟銃を出して来て、ドン!と一撃ちでございますって!まあ、みごとに命中して、どさりと蛇が落ちたというじゃあございませんか!
ああ、恐ろしい恐ろしい、あの優しい小鳥のおばあさまがでございますよ。
私、今その蛇を見てまいりましたの」と申します。
「まあ!そう・・・」


 『武士の娘』は、いろいろな挿話を繋ぎ合わせたもののように思われる。

それとともにエツ子という女性の 『武士の娘』の見たアメリカ の 小鳥のおばあさま を語る語り口のうまさ、天性のストーリー・テラー(語り部)の資質をもっているようである。

18 アメリカ人が面白いと感じるユーモア

『武士の娘』には、この種の「皮肉」や「複雑なジョーク」というものが散見され、それがアメリカ人読者を面白がらせたようにも思われる。おそらくは、これはエツ子その人ではなく、というのは『武士の娘』の見たアメリカではこの種の皮肉、ジョークは姿をひそめ、懐古と感謝になっている。おそらくはフローレンスがエツ子の観察から引き出してアメリカ人好みに表現したのではなかろうか。

18 風習の違い

 アメリカに来て、どうしても馴染めないものの一つは、婦人と金銭に対する不真面目な態度でありました。あらゆる階級の男女、新聞、小説、講演、時としては教会の講壇から諧謔まじりであったにせよ、女が靴下の内にお金を貯えるとか、夫にねだったり、友達から借りたり、何か秘密の目的でそっと貯金したりするというような、おかしい話を暗示されました。

 とのべ、小さな村で見聞した具体を列挙する。

19 思うこと

 ある時、世界の名優エレン・テリーとアーヴングの「ヴェニスの商人」を見に参りました。午後のお芝居でしたので、はねてから、お茶を頂きにまいりました。皆さんは夢中でこの名女優テリーをほめていらっしゃいましたが、私ばかりは一言も言葉が出ませんでした。
と申しますのは、その日のお芝居にすっかり失望していたからです。(略)
舞台に現れたポーシャは、真紅の上衣に、同じ色の帽子をかぶり、まるで、日本の道化役者のみなりでした。それに、自由に自然にふるまう様子は、いってみれば、日本では決して身分の高い姫君の動作ではありません。声は大声の上に、早口で、たとえ仮のすがたとはいえ、教養ある、身分ある淑女にはふさわしくないことに思いました。ことにその所作は力強く、男性的で、ただ、私は驚いたばかりで、何の印象も受けませんでした。
 ジェシカが恋人に会う月夜の場面でも、二人の男が各々その妻を見出す最後の場面でもあまり接吻が多すぎて、品がないように思われ、観劇に来たことを後悔したほどでした。

 エツ子は英文であるからこそ、こうした赤裸々な批判や皮肉を表現できえたのである。

17 安息日の教会の鐘の音

鈴木藤三郎の「米欧旅行日記」には、日曜ごとに「例の休業日」と当時のアメリカとイギリスにおける安息日として日曜日には一切の活動が休止するようすがみてとれる。
ドイツにいって安息日にも営業する工場があることを知って驚く。
その間、藤三郎は美術館を見たり、公園を散策したりと、仕事から強制的に解放されるのが常であった。
もっとも最後のロンドン滞在中はホテルの一室で設計に没頭していたのであるが。

『武士の娘』で、安息日になる教会の鐘の音を故郷の長岡のお寺の鐘をつく音に比べるシーンがある。
『武士の娘』が見たアメリカ においても、そのことを語っている。


数々の美しい印象の中でも、特に忘れがたいのは安息日の朝の教会の鐘でございます。六日間の働きもこの日は休んで、家に在る良人と共に迎えるゆるやかな朝に、あの鐘の音は淡い郷愁をよび起しつつ胸に伝わってまいりました。日に三度時を定めて打ち出される生れ故郷越後長岡の寺々の鐘を、私はその響きの中に聴くように感じるのでありました。清教徒の流れをひくその村の日曜日は、どことなく私の幼い頃の日本の元日を想わせる安息の日でございました。家々ではこの日は煮炊きをいたしません。土曜日に十分焼いておいたパンと、用意した料理とをいただきます。そうして大概二食でした。服装をととのえて大人たちがこぞって教会へと家を出る頃、日曜学校を終えた子供たちが三々五々足どりも軽く帰って来るのに出会うのも、嬉しいものでございました。


『武士の娘』
21 新しい経験

 幾週も幾月も過ぎ去る中に、目新しいと思っていましたことが、遠い過去に深いつながりを持っていたことに気づきました。
日ごとの経験を通して、アメリカが日本によく似ていたことに気づいていたからでした。
時が流れ去るにつれ、もの珍しい周囲の事情は、古い記憶の中にとけこみ、私の生涯は、故郷の子ども時代から、これまで、少しも乱されることなく、坦々と流れて来たもののように思い始めて参りました。

 教会の鐘が「日ー日のーみーめぐみーゆめーなー忘ーれーそ」と響くのを聞きますと、

「生ー滅ー滅ー已-寂ー滅ー滅ー為ー楽」

と鳴る菩提寺の鐘の音かと思われるのでした。
 朝8時半頃、学校道具を持った子ども達が街いっぱいに笑いあい、呼びあって行く姿を見ますと、日本の朝の七時半頃、男の子は制服、女の子は袴をつけて、おさげ髪もつややかと、お道具は風呂敷包みにして、下駄の音も高らかに、行きかう様を思い出しました。

16 オースティンの『高慢と偏見』から見るフローレンスの表立つことへの拒絶

コリンズ氏はエリザベスへの求愛を拒絶されて呆然とする。

それを引き受けたのがエリザベスの親友シャーロットであった。

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シャーロットの親切は、エリザベスの思いもよらないところまで延びて行った。

それもそのはずで、彼女の親切の目的というのは、コリンズ氏の求愛を自分の方へひきとって、エリザベスに二度と言い寄らないようにすることにほかならなかった。

それがルーカス嬢の策略であった。

形勢はたいへん有望だったので、ルーカス嬢は、晩に別れる時には、もし彼がこんなに早く、ハーフォードシアを去ることになっていないのだったら、自分の策略は功を奏するにちがいないと思ったくらいだった。

(略)

実はシャーロットもかなり誘いの水を向けていたので、たいていは大丈夫だとは思った・・・

彼はこの上なくうれしい迎えられ方をした。

(略)

世帯がもちたいという純粋な私心のない欲望から、彼を受け入れたルーカス嬢としては、どんなに早く世帯がもてても、かまわないわけであった。

 ウィリアム卿とルーカス夫人とが、さっそく承諾を求められ、彼らは二つ返事で承知した。

コリンズ氏の現在の境遇は、財産をわけてやれない彼らの娘にとっては、願ってもない良縁だった。

(略)

ただ結婚ということが、彼女の目的であった。高い教育をうけた財産のない若い婦人にとっては、結婚が唯一の恥ずかしくない食べて行く道であった。

幸福を与えてくれるかどうかはいかに不確かでも、欠乏からいちばん愉快にまもってくれるのは結婚であった。

それを彼女は今えたのであった。

27歳の今日まで、ついぞきれいと言われたことのなかった彼女は、結婚の幸福をしみじみと感じた。

ただいちばん不愉快な事情は、彼女がその人の友情を誰との友情よりも大切にしていたエリザベスがこのことを知ってびっくりするだろうということであった。


当時のイギリスのジェントリ階級の娘にとって、財産をもった男性との結婚が「唯一の恥ずかしくない食べて行く道」であった。


『武士の娘』は、エツ子とシャーロットとの事実上の共作であった。

後にエツ子が英文で刊行する「農夫の娘」はフローレンス・ウェルズの協力を得た。

ウェルズは「杉本夫人は糖尿病です。我々はなんとか第1章を書き終えました。本全体の構成が固まりましたら、私から草案をお送りします」とダブルディ本社のラッセル・ダブリディーに手紙を書いた。(『鉞子』210ページ)

ウェルズは「日本にはいま日本語を正確な英語に訳すことが出来る人がおりません。」とも書いた。

これに対してフローレンス・ウィルソン」は自らの名前を出すことを出すことに難色を示し、鉞子はその意志を尊重し、英文には一切フローレンスの名前を出さなかった。

フローレンスが亡くなった一周忌に鉞子は日米の友人に手紙を出した。

「ミス・ウィルソンと私自身は、共に文筆生活を始めたのでございました。彼女は私に支援と激励を与えてくださました。・・・

 彼女こそ、愛と勇気と力と智恵をもって私を助けてくださり、丘の上に導いてくださった恩人なのでございます。
 ところが、私たちが図らずも成功したとき、彼女は当然うけるべき敬意(クレジット)を一切受け入れようとしなかったのでございます。」

このフローレンスとの関係は昭和15年の『婦人の友』1月から3月号で初めて明らかにされた。

「ぜひ共著者としてミス・ウィルソンのお名がほしいと存じましたが、表立つことを極端に嫌われましたのでそれに叶わず、今になってこうしてお話していますが、それさえ黙っていた方がお喜びになるだろうかなどとも考えられ、ともすると気おくれがするのでございます」(『婦人の友』)

なぜフローレンスは、名前を出し表立つことを嫌ったのであろうか。

フローレンスは内気で表だって働くことを嫌う人ではなかった、シェークスピアの研究者であり、

日本滞在中、長岡の中学校の英語講師を勤め生徒の教育に勤めた。また東京滞在中は早稲田大学のシェクスピア劇の指導を行い、大隈重信から感謝されている。また、日本文での文章をも寄せている。

おそらくは終生独身だったフローレンスは英文の書物に自分の名が載って、自分のことが穿鑿されることを嫌ったのではあるまいか。

イギリスやアメリカのジャントリに相当する社会階層にとって「高い教育をうけた・・・若い婦人にとっては、結婚が唯一の恥ずかしくない・・・道」であったことは、オースティンの時代と変わりはなかったのである。

15 オースティンの世界から見るジェントリの交際の風習

「『高慢と偏見』にコリンズ牧師がエリザベスにイギリスのジェントリの交際の風習について語っているところがあるんだ。」

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 コリンズ氏が、いやにすまして落ち着いているくせに、感情にはしるなどと言っているのが、エリザベスにはたまらなくおかしかったので、せっかく彼が与えた話のきれめに、なんとかして彼にそれ以上話させないような手段を講ずることを忘れているうちに、彼はまた話しつづけたー

「僕が結婚する理由は、第一に(略)

第三には-これはもっと早くお話しすべきことだったかもしれませんが- 僕がパトロンと呼ばせていただいている例の高貴な令夫人が、特に僕に忠告し、結婚をおすすめになったからです。

その方は、この問題について(お願いもしないのに!)2度もご自分の意見を聞かせてくださいました。

それは、つい土曜日の晩、僕がハンスフィールドをたつ前のことでしたがカドリルを遊んでいた時に、キャサリン令夫人はブールとブールとの間におられて、ジェンキンソン夫人がダ・バーク嬢さまの足台をなおしてあげていると、こうおっしゃったのです。

『コリンズさん、あなたは結婚しなきゃいけません。あなたのような牧師は、結婚しなきゃいけません。適当な人を選んでください。わたしのために立派な人をえらんでください。そしてご自分のためにも、あまり教育の高くない、すこしの収入でも上手にやっていけるような、働きのある役にたつような人にしてほしいものですね。これが私の忠告です。なるべく早くそういう女の方を見つけて、ハンスフィールドへお連れあそばせ。そしたら、わたしもその方を訪ねてあげるから』」

 こういう次第でコリンズ氏は婚活にネザーフィールドにベネット家の五人姉妹をめあてにやってきたのである。

 ところがエリザベスに断られ、エリザベスの親友シャーロットと結婚する。


 ジェントリの世界では、キャサリン夫人のせりふにあるように、より高位のジャントリが下位のジェントリの新婦の面倒を見る(社交の場に引き出す)という役目があるということなのであろうか。

ちょうどこれと同じようなことが、稲垣鉞子がアメリカのシンシナティで日本商品を商う杉本松之助の(作中では松雄)もとに嫁入るときに、大統領を輩出した一族に連なるウィルソン家の夫人が面倒みようと言いだされたのである。

「私の見たアメリカは、ウィルソン家ご一統を通して私の眼に触れたアメリカです」(『武家の娘』が見たアメリカ)

夫となる松之助は14歳で京都の実家を出て、アメリカでひとあげしようと、日本商品を扱っていた。

エツ子の兄が、アメリカの協同事業で一儲けしようとやってきて、だまされていることを知って、困窮したとき、助けたのが松之助だったのが縁となってエツ子は嫁入りすることになった。

まことにこの縁は不思議としかいいようがない。

アメリカに永住する覚悟であるということを知って、「アメリカの家庭を見、その実生活を学ぶようにと望んだ」松雄の願に答えたのがウィルソン家の人々だった。

夫人はアメリカに到着した新婦のために、停車場まで美しい二頭立ての馬車を差し向けられた。

松雄はそこで初めてエツ子に会い、何よりも和服姿で到着した新婦の姿に驚き落胆した。

「どうして日本の着物を着て来たのですか」

これが第一声であった。

 馬車は広い芝生にそうて曲がり、灰色の大きな建物の広い玄関の前にとまりました。

 扉を背にして、見るから気高い感じの夫人と、背の高い白髪の紳士が立っておられました。

 夫人は手をさしのべて、真心こめた出迎えのことばを述べてくださいましたが、余りのありがたさに、言葉も出ない私でした。

 かたわらの白髪の紳士のやさしいお顔を仰いで、その慈愛に満ちた笑いのかげに、また亡き父を見出して、私の心には平和がしのびよるのでした。

 このご夫妻が私どもの結婚前後、私ども両人にお示しくださったご親切は、霊智が人の眼をきよめると伝えられている天国の輝く門に立つまでは、お二人にさえおわかりになれないものであったことでございましょう。


 このウィルソン夫妻こそが、アメリカの社交界へ導きいれたのであり、その姪フローレンスが日本人が英語で著作し、世界的ベストセラーとなる事実上の共著者であったのである。

青山学院のミス・スプロールスは「内容、用語の美しさは確かにこの作品をクラッシクの一つに列させるものと思う」と感嘆した、用語の美しさはおそらくは英語を母国語とする者の感性でなければ使えないところであり、フローレンスが助言し、手を入れたところが多数あるように思われる。

14 『名著発掘』杉本鋮子著・大岩美代訳『武士の娘』
   司馬遼太郎 〔 〕内は編者の注
 日本には『福翁自伝』のほかいい自伝がないとおもっていた。ところが数年前、新潟県長岡市の図書館で借りだした杉本鉞子さんの自伝のみごとさにはおどろかされた。長岡からの帰路、「白鳥」(特急)の車中で読み、京都についたころ読みおえたが、ひさしぶりでいい小説を読んだあとの文学的感動を覚えた。
同時におもわぬ書物を発見したよろこびをも覚えた。しかしそれはつかのまだった。その年の講演旅行で河盛好蔵氏とご一緒だったが、私が「発見者」としてそれを語ると、
「ああ、あれ」
 と河盛氏はうなづかれた。その書物への十分な知識と高い評価をもっておられ、あれはすぐれています。しかしながら知られざる書物ではなく、戦前、それが刊行された時は非常に評判でした、とつけ加えられた。紅顔経ヲ講ズというところだった。
 しかもこの書物は、昭和三十五年に筑摩書房で復刊され、「世界ノンフィクション全集(巻の八)」のなかにおさめられているのである。いい書物というのは、落ちこぼれることがないらしい。
 題名を、武士の娘、という。アメリカで刊行されて評判になったものを、日本で翻訳されたものである。
 著者の杉本鋮子という婦人は越後長岡藩の家老の娘にうまれ、維新で藩も家も瓦解したあと、さまざまな遍歴をした。滞米中の一士族〔杉本松之助は京都出身の町人であり士族ではない〕とのあいだで縁談がまとまり、渡米するためにまず横浜のフエリス女学院〔明治二十二年海岸女学校予科を卒業、明治二十六年東京英和女学校(現青山学院)卒業の誤り〕に入り、その後渡米し、わずかな歳月で未亡人になった。〔渡米・結婚は一八九八年で、夫が死去したのは一九一〇年で十二年の結婚生活で二人の子女があった〕それでもなお滞米し、アメリカ人の上流家庭でずいぶん敬愛されたらしい。彼女のもっている教養と節度のうつくしさが、アメリカ人の目にもただごとでなく映ったのであろう。エツコは、さむらいの娘であると、ひとびとからいわれた。日本人がつくりあげたサムライという精神像が、たとえば新渡戸稲造などによって紹介されたりしてひとびとの関心をよんでいたころであったのか〔新渡戸稲造が英文で『武士道』を 著述したのは一八九九年(明治三十二年)、『武士の娘』は一九二五年(大正十四 年)〕、あるいはそれと無関係なのか、よく知らない。とにかく、キリスト教的なストイックな精神とは別に、それらとは無関係に、異教徒の世界で発生し完成したこの精神美は、純良なキリスト教徒であればあるほど、おどろきと関心がふかかったのであろう。
 彼女は、むこうでの彼女の周囲にすすめられ、自分の来歴を新聞に連載した。武家美とはなにか、というのが主題であり、その主題は彼女の小さな家庭―小藩の若い家老だった父、つつましさを美徳であると信じて疑わなかったその母と祖母、知恵ぶかくて明るい乳母、旧主家から離れようとせぬ爺や、維新後やや軽薄な欧化青年になった兄などそのわずかな登場人物のこまかいしぐさや微妙な息づかいを通して語られている。
 この新聞連載〔新聞ではなく、雑誌『アジア』の誤り〕はずいぶん評判であったらしい。彼女は老いてから日本に帰った。〔一九〇九年帰国、一九一六年再渡米、一九二七年帰国、五十三歳〕ある日、若い婦人が訪ねてきた。その婦人がいうのに、自分は津田英学塾で英語を学んだ者であるが、『武士の娘』を読み、その美しさに感動した。ぜひ日本語訳させてほしい、というそれが訳者の大岩美代さんである。
 実際には、著者と訳者の共訳だったのであろう。全編女性のはなしことばで翻訳され、その特異な文体が、主題がとらえようとしている秩序美をみごとに奏(かな)で出している。


13 How I became a Christian

『武士の娘』の15受洗 の英文題名は How I became a Christian である。

内村鑑三の著名な英文の世界的著述と同じであり、意識していたに違いない。

ところが、「なぜ私はキリスト教信者になったか」については明瞭に記されていない。

「故郷の家では、ずいぶんかわいがられて、育てられましたが、私の胸の中には、いつも、解けがたい疑問がいっぱいでした。」


「かつて、ご先祖さまの三百年忌を終えたすぐ後、私は父に向かって尋ねました。

『お父さま、家のご先祖さまの一等初めの方はどなたですか』
" Honourable Father, who is the first, the away-back, the very beginning of our ancestors? "

父はまじめな顔で答えました。

『エツ坊や、そういうゆき過ぎたことをきくものではないよ。
" Little daughter," Father bravely answered, " that is a presumptuous question for a well-bred girl to ask;

正直に答えるが、お父さまにもわからない。

but I will be honest and tell you that I do not know.

孔子さまもお弟子がちょうどそれに似た質問をしたとき 未だ生を知らず とお答えなされたのだよ』

私はその頃、まだ幼のうございましたが、これからは、物をたずねるにも、控えめに女らしくて、男の子のように無遠慮なきき方をしてはならないと、しみじみ思わされたのでした。」

ここで、a well-bred  とは 育ち[しつけ]のよい; 行儀のよい,上品な という意味であり、日本語訳では省略されているため、あとの「控えめに女らしくて」という意味とつながりにくくなっている。

「ところが、東京の学校の感化は微妙なもので、私の心は知らずしらずのうちに成長し、やがて、質問することは進歩の第一歩であるということを悟るようになりました。」

稲垣鉞子は、アメリカで日本商品を商売している杉本松雄のもとに嫁ぐことが決まって、アメリカでの生活を準備するため東京の宣教師の経営する学校に通っていた。


「さて私がどうしてキリスト教信者になりましたのか、その動機ははっきりわかりませんが、それは突然起こった変化ではありませんでした。
 I do not know exactly how I became a Christian.

私の精神の自然の発達に伴って起こったことであろうと思います。
It was not a sudden thing. It seems to have been a natural spiritual development.」

と自分でも動機ははっきりしない、自然のスピリチュアルな発展のためとしている。

日本のそれまで教えられてきた「哲理や神秘や諦めの信仰を離れて、自由と快活と希望との高い理想の世界にとけこんでいった」のだという。

「私の信ずるこの世の最大の信仰の力や栄光について語ろうとは思いません、どなたもご存じのことですから」

とアメリカの読者は、キリスト教えの「最大の信仰の力や栄光」についてご存知ですからとそれ以上語らない。

もともと『武士の娘』の副題には

How a daughter of feudal Japan, living hundreds of years in one generation, became a modern American.

「封建日本の一人の娘がいかにして近代的なアメリカ人となったか」であって、

キリスト教信者になった理由は、内村鑑三がアメリカにいたころとはアメリカ人自身の関心のありどころが違ってより世俗的になっているためかもしれない。

鉞子は、内面的なことには口を閉ざし、ひたすら故郷の母や親族や友人たちが自分がキリスト教信者になったことへの驚きとその後の応対の変化について詳しく語る。

12 どうして日本の着物を着て来たのですか

BS1『武士の娘』を見ていて印象深かったのは、エツ子がアメリカに嫁入りするときに、和服のままで洋行したことで、「サムライの娘」の志操の固さを物語るエピソードとなっている。
アメリカで花嫁を待ち受けていた松雄は「どうして日本の着物を着て来たのですか」と驚くのであるが、テレビではそれが好意的に描かれていた。

ところが、大岩美代訳の「16 渡米」でその前後を確認してみると、

「汽車が目的地の薄暗い駅の構内に滑りこみますと、私はもの珍しそうに窓の外を眺めていましたが、ちょっとも心配していませんでした。
いつでも誰かのお世話をうけてきた私は、見も知らぬ人に会うことも気がかりではなかったのです。
混雑したプラットフォームに、真直(まっすぐ)に立って汽車から出る人を熱心に見守っている日本人の青年を見つけました。
それが松雄でした。
ねずみの服に麦わら帽子をかぶった松雄は、その顔を除けば、近代的なアメリカ人としか見えませんでした。
松雄のほうでも、すぐ私に気づいたのですが、驚いたことに、初めて聞いた言葉は
『どうして日本の着物を着て来たのですか』というのでした。
その時あの親族会議と筒っぽ袖といった祖母の言葉が私の心にひらめきましたが、
思えば、私はその筒っぽ袖の服に来て、筒っぽ袖の服を着た未来の夫を仰いでいたのでした。
思い出しては笑っておりますが、その時私は長袖の着物を着て叱られた、さびしい一人の女に過ぎなかったのであります。
松雄が私の服装に失望しましたのは、あの母が長年大切に仏壇に供えていた、松雄の手紙に出ているウィルソン夫人の手前を思うたためであったのでした。
夫人はご親切にも、ご自分の馬車に松雄を乗せて私を出迎えさせて下さったのでした。
それで、松雄は、この夫人の眼に、私が少しでもよく映るようにと願っていたものですから、長袖姿を見て驚いたのでした。」とある。

未来の夫、松雄はエツ子の和服姿に驚くとともに「失望」した色を見せ、『どうして日本の着物を着て来たのですか』と言ったのを、「叱られた」とエツ子は受け取ったのである。

ここのところは、英文の原文の「16 Sailing unknown seas」ではどうなっているのであろうか。

On the crowded platform I saw a young Japanese man, erect alert, watching eagerly each person who stepped from the train.

It was Matsuo.

He wore a grey suit and a straw hat, and to me looked modern, progressive, foreign in everything except his face.

Of course, he knew who I was at once but to my astonishment, his first words were,

" Why did you wear Japanese dress? "

エツ子が和服でアメリカに渡るというのは、家族会議で祖母の決めたことであった。

兄は洋装を主張し、叔父も「欧米人の間では、肌を出すのは大変な不作法とされているので、男でさえ、高いカラーや固いカフスをつけているんだから日本服のようにえりもとをついて、裾の狭いのは、あちらで着るのはまずくはないかね」と言った。

しかし、「祖母にとって、神国日本の風俗は批評を許されないものとなっていました」ので

「絵で見ると、あの筒っぽ袖は品が悪くて、まるで人足の着るハッピのようですがの、私の孫が人足をまねるまでになる時節が来たかと思えば、情けないことですわい」

この祖母の意見によって、当方では日本服ばかりを用意し、洋服は夫の意のままにすることとしたのであった。

この日本語訳の長岡弁には、叔父の言葉と違って、杉本鉞子の手が入っているように見受けられる。 鉞子は祖母と母の言葉を日本語訳にあたって、訳者に丁寧にてほどきしたように見受けられる。

それだけ愛情深くその言葉を受け止めていたに相違なく、英文でも二人の言葉は光彩を放っているようにも感じられる。

"According to pictures," she said, " the pipe-shaped sleeves of the European costume lack grace.

They are like the coats our coolies wear.

It grieves me to thing a time has come when my posterity are willing to humiliate themselves to the level of humble coolies. "

coolies(インド・中国などの)日雇い労働者,苦力(クーリー)のことである。

祖母にとって、筒っぽの洋服は、クーリーのような卑しい者の着るものに見え、

それを愛する孫に着せて送り出すのは、
humiliate(1〈人に〉恥をかかせる,〈…の〉自尊心を傷つける)のように感じられたのである。

その祖母の想いのこもった サムライの娘としての誇りをもった 和服 を松雄になじるように『どうして日本の着物を着て来たのですか』言われてエツ子は不満だったのである。


11 独白

『武士の娘』では、批評ないし反論(独白をその場ではなく、地の文でのべる)や「独白」という手法が使われている。

それは

1 アメリカの知人との間で、日本の風習への批判、批評がされ、それ以上弁明しても意味がないと思われると

きとか


2 夫の松雄の商売のやり方について、不満を伝えてもとりあってもらえないとき

などに登場する。


18 風習の違い では

招待された席で一人の婦人が愛想よく話しかけてきて、エツのはいていた草履が健康のためによい、ハイヒールは非衛生的だと話した。

「じゃあ、どうしてそんな靴をおはきになるんですか?またどうして流行りだしたんでしょう?」

「別に理由はございません。ただ、流行りなんですよ。

まあ、あなたのお召し物が右前になっているのと同じことでしょう」

「でもこの着方には理由がございますのよ。左前に着るのは死人だけなのですから」

婦人が怪訝な顔をしたので、エツは日本では左より右をおもんずることなどを話した。

すると婦人は帯に話題を移し、最後に

「役にも立たないのに、そんなに長々と立派な布を買うのはいけないことですね。そうお思いになりませんか」と批評する。

そこで、地の文で「その方ご自身も美しいビロードの服の裳裾を長々と後にひきながらお帰りになったのでした。」


19 思うこと 

で松雄が店で売っている日本品は、日本人が見たら欧米の珍しい品々と思うようなものだったが、みな「日本製品」としるしがあった。

松雄がいうに、これらはアメリカ人が自国向きに考案して日本の工場に発注したものだという。

「アメリカ人が欲しがって考案し、発注し、手に入れて満足する限り、これを供給する商人があるわけさ」

「でもこれは日本のものじゃございませんわ」

「そうだよ。だが、今は生粋(きっすい)の日本のものだったら、売れないのだ。

あまりもろいし、見た目にも派手ではないから

 唯一の対象は、アメリカ人に日本文化を吹き込むことだよ。やがてそれも始まるだろうさ」

エツはいろいろ考えて独白する。

「でも、もし日本が、その芸術的な標準を下げてしまったら、日本は世界に向かって、何を求めたらよいでしょうか。

今、日本が持っているものや、今の日本の姿は、その理想と誇りとから生まれ出たものであり、高いのぞみも技量も礼儀作法も、みなこの二つの言葉にたたみこまれているのではないでしょうか」と、ため息まじりに独りごとを言ったことでありました。

そして最後に総括する。

誇りをきずつけるということ、努力の結果として到達し得た最高、最善なるものを支え得なくなるということは、個人にとっても国家にとっても、その精神の発達を死に導くものでございます。


ここに至って、日本人の読者は、これらの独白・批評は、現代の日本にも向けられていることに思い至るのである。


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