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「尊徳の森」(佐々井典比古著)という本の243~251ページにわたって
「柴田権左衛門と尊徳」として書かれていて、それから先日来抜粋している。 尊徳先生とその門下が宇津家の屋敷で仕法書雛形の編集に全力を挙げていた弘化2年(1845)6月、宇津家の用人岩本善八郎にあてて旗本秋山主殿(とのも)の家来小林角右衛門から書状が届いた。駿州富士郡本市場(もといちば)の陣屋から6月12日に出した「早状」であった。 秋山主殿の名前は落語「火事息子」の解題にも見え、定火消しでもあったようだ。 「表中の旗本の名前は安政2年(1855)発行の「昇栄武鑑」による。知行高及び屋敷の広さ(一部四捨五入しています)を記した。年代によって旗本の名が変わる定火消し屋敷もあった。この9人の他に次の2人が見えます。 秋山主殿正光 4700石 駿河の国駿東・富士・庵原・有渡郡」とある。 書状の内容を佐々井氏が現代語訳されている。 「まだ拝顔の機を得ないが、旗本石川又四郎の御領所、庵原(井原)郡原村の百姓権左衛門が、いま貴宅に居られる二宮金治郎様の御厄介になっている由で、感謝申し上げる。 実は私がこの2月から5月まで江戸勤番をしていた節、石川家の重役猪瀬毛左衛門と役所詰めの牧田七左衛門から折り入って頼まれた相談があった。 それは、領内でも旧家であり、かっては財政的にも大きく貢献した柴田家を、このまま見殺しにはできない。原因となっている村借の累積を解決し、村民を和解させ、権左衛門・清五郎・卯右衛門の元名主・組頭3軒が家名を相続できるよう、何とか骨折ってほしい、というものであった。 再応の懇請なので及ばずながら引き受け、帰陣後、原村まで出向いて種々調査の上、権左衛門の家族・親類からは残余財産一切を弁済に充てられても異存がない旨の念書をとり、村民一同からはこれまでの不実意を改めて昼夜出精し、年賦償還に協力するという誓詞を得た。 そこで金主たちと内談して、あらましの解決案はできたが、権左衛門が作っていた帳面の数字と合わぬ箇所もあり、また証文も写しだけでは差し支えがちなので、どうか当人に当地までのお暇(いとま)を下さるよう、二宮先生にお取りなし願いたい。 帳面の調べさえ済めば早速解決案ができるので、くれぐれもよろしく。」 (全集27巻696ページ) この書状で「二宮金治郎」とある。本来「金治郎」が本来で、小田原藩で金次郎と書類等に誤記して使っていたため。金次郎で通用させていたという。 幕府に登用になるについて正式の書類に金治郎と使うようになったので、幕府関係の書類等は金治郎を使うようになったのであろうか? 小林角右衛門という人物は、西方村(旧清水市庵町)の百姓出身で、組頭、名主となり、領主秋山家に取り立てられて賄役になったと佐々井氏は「静岡県の歴史」から引かれている。 この時代貨幣経済が流通し、各藩や旗本の領主経済が思い通りならなくなるについて経済的な手腕にたけた百姓を藩士に抜擢して領内の経済をまかせるという現象が起きているようである。 尊徳先生の小田原藩主大久保忠真侯が抜擢して宇津家の領内の復興を委任したのもそうした大きな歴史的な動きの一こまとも言える側面があろう。江戸時代の士農工商という身分制度は、そういう形で実体経済に対応した流動性によって維持されていたといえなくもない。 尊徳先生もそうした動向に関心があったと見えて関西で「大根屋」という名で藩の建て直しに携わっていた人物の手法について照会された手紙がある。 小林角右衛門と近隣に領地を持つ旗本曾我伊予守の家来、佐野小一郎にも協力を求め、調査した6月13日付けの「・・・御無心趣法帳」(全集27巻692ページ)によると 村借総額399両につては、質地の評価増で50両、無尽の落札金で150両を償還、残り199両を30年賦とする。 権左衛門の自借金93両3分については、田地や蔵などの売却でその半額を返し、あと半額は20年賦とする。 そして権左衛門が引き受けた村入用149両余については、実に40年賦にしてもらうということで、金主の全面的な理解と協力を要請するものだった。 さらに権左衛門の父の樵山から手紙が来て、6月16日早朝、小林角右衛門の回状があり、金主、村代表が招集され、金主、村方も「思し召しどおりに屈服」したので、一件は実質的に解決し、後は現金と年賦証文の授受が残るだけとなったというものであった。 小林角右衛門が無尽の「300両講」を発案し、原村として7分5厘加入してすぐに150両を落とせる仕組みで、掛け金、年賦償還金も村民全員が自覚して勉励して分担する仕組みになっていた。 柴田家としては、自分の借金の半額を、その担保として残されたわずかな田畑を耕作して年賦償還するだけでいいというっものであった。 尊徳は6月18日に江戸へ出てきた小林平兵衛に指示して現地調査させ、全て解決済みになっていることを確認させた。 7月4日に平兵衛の書状を受け取って、7月20日権左衛門は平兵衛とともに宇津家を辞して浦賀と竈新田に寄った後、故郷に帰った。 帰るにあたって、尊徳先生は権左衛門に御殿場村と藤曲村の「日掛縄索(ひがけなわない)仕法帳」が桐箱に入れて贈られた。 (全集4巻216ページ)
最終更新日
2009年01月01日 14時11分30秒
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