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2009年08月21日
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「いまいち市史」


二宮尊徳日光神領復興の構想
  1 日光神領仕法への意欲
 水野忠邦
 水野忠邦は、文化14年(1817)に九州の肥前国唐津(佐賀県)から遠江国浜松(静岡県)に国替してねらった老中職への野望を果たした。天保12年(1841)から開始されたのが天保改革である。将軍家慶を援け、まず文化・文政の華美の世風を粛正し、次いで印旛沼の開拓を実行しようとした。「村々風俗其外之儀に付御触書」は、天明ききんの直後に出したものにならい、55年後の天保13年に公布して、寛政の治にならったものである。それらの改革諸法令の中で、都市へ流入した農民を帰属させ、「荒地起返し」にも力を注ぐよう農業を励まし、半年間の食物の確保に貯穀の放出を命じ、天保ききん後の処置を強調している。
 尊徳が天保13年に忠邦に登用され、幕府勘定奉行所で最初に命ぜられたのは、印旛沼の開拓と利根川の治水であった。忠邦が一介の小役人である尊徳にこの大事業を下命したのは、同じ老中在任中の大久保忠真が採用していた尊徳のことであったからであろうが、他の推薦があったとしても、大英断だった。尊徳は天保13年10月から1か月現地を調査し、報告と計画を提出した。15年間に40万両で、周辺農村の民力を充実させることに重点を置く施策であった。別に鳥居耀蔵(ようぞう)が命ぜられた印旛沼干拓は、翌年7月から4か月間、25万両を投じながら失敗している。
 尊徳は同14年、2度目に命ぜられた仕事は大生郷(おおのごう)の復興である。幕領の下総国岡田郷大生郷(現水海道市)は、戸数が197戸から98戸に、人口が918人から515人と半減していた。この疲弊を救うのは自分の本務であると考え、現状を調査したが、仕法金が出ず、更に代官の理解が無く、大地主の名主久馬が反対しており、農民強化の必要を痛感しながらも、実施の運びに至らなかった。
 この2度の幕府からの下命は、いずれも不発に終ったが、尊徳の活動舞台が村から藩、藩から幕府へと拡大したところに意義深いものがあり、彼が全国的人物として注目されるに至ったのである。

 日光神領
 弘化元年(1844)4月5日、幕府から3度目の大役を命ぜられたのは、日光神領の荒地開発の調査であった。日光神領は、日光山の開基勝道上人が1,200年前、二荒山の山頂を極め、天平神護2年(766)に四本龍寺を創建して以来、山岳仏教の隆盛に伴って繁栄してきたが、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに組みしなかったため、所領の大部分を没収され、わずかに門前と足尾村を安堵されたにすぎなかった。
 元和3年(1617)徳川家康の遺骸が駿河国久能山から改葬されて後、秀忠が寺領(光明院)を拡大し、東照大権現社領5,000石を寄進したのをはじめとして、家光が全体で7,000石の「判物」を出し、更に家綱が東照大権現領として1万石、大ユウ院領(家光)に3,600石余、計13,600石余の「判物」を出している。元禄14年(1701)の綱吉の「判物」では合計25,000石余の日光領となっている。
 その内訳は神領54か村、御霊屋(みたまや)領9か村、御問跡領26か村とされているが、高29,065石余、反別4,064町歩余、家数4,133軒、人数21,186人、馬2,669匹で、これが日光仕法開始にあたっての、嘉永6年(1853)3月日光奉行所の調査記録である。旧今市市に含まれる41か村をはじめ、日光市13か村、栗山村9か村、藤原町4か村、鹿沼市8か村、足尾町14か村の地域である。過半は山村であり、地味はやせ、高冷の気候のため収穫は乏しく、不作凶作が多く、そのたびに潰れ百姓が続出、耕地も荒れて、1,074町歩の荒地をかかえ、生活は細々として恵まれない土地柄であった。

 仕法雛形の作成
 日光仕法復興のための調査は、突然にできあがったわけではない。日光に在勤した奉行の報告にも、すでに実状が明らかにされており、村々が困窮している事情については、大体のところは幕府も早くから理解していた。また凶作のたびに社家(神官6人)や神人(雑務に従う村人76人)からの窮状の訴えがあり、その対策を講じていた。
 弘化元年(1844)4月、荒地復興の「目論見」の提出を命ぜられた尊徳は、当初勘定所の普請役元締渡辺棠之助と協議し、現地を視察の上、実状に適した仕法を立てようと必要な日数を見積もった。4月21日に、明日差し出すようにと命ぜられたが、早急には作れないと返答した。書類の作成に相馬藩の家老草野半右衛門の協力を得て、江戸芝田町5丁目の海津伝兵衛の隠宅を借用し、7月6日から日夜作成に精励した。どこの土地にも適用する普遍性のある計画を作ろうとしたため、規範・標準が必要となって手数を要し、計画書は1期を60年とし、3期180年分となった。180人の名も重複を避け、計数は数十けたに達するものも生じた。相馬藩の富田高慶をはじめ、小田原の脇山喜藤太・小路唯助、旗本川副家の荒川泰助、韮山の町田時右衛門、谷田部の吉良八郎・大島勇輔、烏山の多賀又助等30余名を督励し、手紙も開封する暇が無く、不眠不休で作業を続けた。このため弥太郎は風邪で数回病臥し、富田も度々薬に親しむ有様であった。しかも弘化2年正月24日の江戸の大火に類焼し、家財・衣類が焼失したが、書類は一同が必死で持ち出した。以後は、宇津ハン之助の邸内に建て増しにした2間を使用した。この間提出の督促を受けたので、1年後から差し出し、弘化3年6月28日まで2年3か月を要し、「仕法雛形」84冊を完成させた。ことごとく計算書であるが、勘定所の理解が十分でなく、もっと簡明にと望まれたので、180年を60年減じ、60冊とし、各6冊ずつまとめ、桐の箱に納めて進献した。他に「総目録」と「書付」を付した。

 雛形の内容
 「日光御神領村々荒地起返方仕法雛形」は、「仕法雛形」と略称されている。日光神領のために作られたものであるが、内容はどこの土地にも適用できる普遍的なものである。「日光神領の文字、誠に妙なり、世界のことと見て可なり」との尊徳の言はこれを裏付けている。仕法雛形の一例を示すと
一、百行勤惰得失先見雛形(甲6冊)
 金利の増殖の例を示して、この利殖を我欲とせず、金利を活用すれば、荒地を沃野とし、衰廃を復興し得る方法であることを明示している。
「先見」は、真の姿を前もって知り得ることであり、「雛形」は、手本でありその様式を指している。
 天地間の植物の無い処に、一種が開花すれば、千万年も年々歳々、不止不転し、一種が数百数千粒を生み、一両の財貨は、数百年数千両と増す、との説明文を前に掲げ、次に百種百草の歌がある。
  米蒔けば 米草生えて 米の花 咲きつつ 米の実のる世の中
 と米・麦・稗・粟・黍・豆・瓜・茄(なす)・蕪(かぶら)から樫(かし)まで順に同様の歌を並べて、百種百草の各々が輪廻転生を繰り返しごとくに、永遠の増益を見るという結果を示している。
 善悪・正邪・曲直・貧富・受施・貸借・貪欲等も同様であり、「百行勤惰」によって得失のあることは、万代不易の真理であることをさとしている。

甲一 五分利倍積之事
   元     永1貫文(1両)、利率5分、利子 永50文
   1年後   合永1貫50文、利子52文5分
   60年後  合永6,517貫525文09厘

甲二 一割利倍積之事
   元     永1貫文(1両)、利率1割、利子 100文
   180年後 合永2,822万8,265両

甲三 一割五分利倍積之事

甲四 二割利倍積之事

甲五 二割五分利倍積之事

甲六 三割利倍積之事

 各冊の数字は、利率の相違による係数の変化である。一見繁雑に見えるが、人間は労を省き煩いを略することが多いが、毎日の食事は省略ができない。一木一草も、春咲くことを省き、秋に実ることを略することはできない、金利も同様である。以下乙から癸まで「窮民御救余荷作(よないさく)」、「鍬下十ヶ年・二十ヶ年・三十ヶ年」、「無利足年賦金五年・七年・十年」、「仕法入用金」、「日掛縄索(なわない)」があり、各6冊で計60冊となる。更に全体の「目録」1冊及び「仕法見込書付」1冊があり、合計62冊を献じたのである。

 仕法の下命
 先に弘化元年、日光神領の荒地起返しについて老中土井大炊頭(おおいのかみ)利位(としつら)から下問があったとき申し上げた中に「容易ならざる御場所」と尊徳が述べているのは、日光には東照宮があり、将軍家、幕府及び各大名が尊崇している特殊な地域であることを意味していた。従って神領の仕法の成否は、尊徳個人の責任だけで済むものではなかった。それだけに、日光仕法雛形の作成には万全を期したのである。
 嘉永5(1852)年6月23日、尊徳は「荒地起返し、米麦を取増し、雛形旧復の仕法は、御国の益の根元としての取行い方を願い上げ奉り」と、願書を出している。一畝、一歩ずつでも起返し、一家、一村でも取り直せば、その余徳をもって起返しは前後左右に拡大し、貧者一同が助かり、永久万代までも莫大の御仁恵として幕府が賞揚されるえあろう、と記している。その後に尊徳が必死に書き綴ったことは「今まで繰り返して仕法の実施を嘆願してきたが、当年66歳となり余命いくばくかははかり知れず」と、至急存命中に実施できるように訴えていることである。真岡代官山内総左衛門はこの願書に付箋をつけ、尊徳が真岡の手付であっては日光仕法の取扱いはできがたいから、日光奉行所への転属を特別に計らっていただきたいと、好意的な意見を添えている。
 それから8か月、一日千秋の思いで待っていた許可の下命が、ようやく翌嘉永6(1853)年2月13日、勘定奉行松平河内守近直から申し渡された。「見込通り、御料・私領手広く取計らうよう致すべく候」と、従来手がけた諸仕法も認められている。追いかけて2月26日に、日光奉行所手付を命ぜられた。この日を待望すること久しかっただけに、尊徳の生涯中最大の喜びに満ち、その後死去する70歳まで、わずか3年間であったが、日光仕法に全力をふりしぼって余命をささげたのである。このとき尊徳は、3か月間江戸に出府中であり、直ちに日光奉行小出長門守英照と連絡をとり、89か村の村高・反別とを調査し、仕法実施を調査し、仕法実施の態勢を整えています。 
 ただ不幸なことな4月19日、松村忠四郎宅を3度訪れたとき、急病となり、黄水を吐き1か月病臥した。伊東玄朴・坂本松庵等一流の医師の手当により快方に向かい、6月1日江戸をたって東郷へ出発した。







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最終更新日  2009年08月21日 03時54分58秒



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