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2014年03月12日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
技師・青木政徳と技師・内田富吉
 広井勇は「小樽築港工事」の講演で「今日現在、工事に従事しております者は、その調査以来続いてやっておる人でありまして、即ち北海道庁技師青木政徳氏であります」と、技師青木政徳を特出した。
 『小樽築港の礎 技師 青木政徳』小澤榮著に、青木の業績が詳しく載る。
 小樽市手宮公園の小樽港を望む南斜面に「技師青木政徳之碑」が建立され、碑文には次のようにある。「君の姓は青木政徳。幼称、武之助。元治元年十月京都城番屋敷に生れる。父は政元、所司代に属し、砲術師範であった。母は桂氏。君はその二子である。長兄は早く亡くなり、君は家の姓を継いだ。活達勇毅、幼時、群児と戯れ常に領袖であった。明治十三年鉄道局の見習生になった。明治十八年琵琶湖疏水の工事を担当するや、起工の初め、君を長等山トンネル井状坑工区に従事させた。けだし長等山トンネルは本邦第一の長いトンネルである。わが国の工業は幼稚で、工事困難であったが、君はよくこれを完成した。(略)明治二十六年北海道庁属に任ぜられ、広井博士について小樽築港の事に従う。明治二十九年北海道庁技師に昇進した。築港防波堤工事起こすや、君は自ら潜水服をかぶり、深く海中に入り工事を監督した。時に寒冷膚(はだ)を裂き、風雨をおかして波濤(はとう)の力を験すことに尽瘁して昼夜を別(わか)たなかった。遂に病を得ても、なおやまず。防波堤工事ますます進み、君の病むところ、いよいよ篤(あつ)し。堤が完成しようとして、君は鬼籍に入る。悲しいかな。其のとき明治三十三年五月十八日、後年三十有八。京都六角大宮万福寺に葬る。防波堤と手宮山は海を隔てて相対し呼べば応えん。君を知る者が謀って碑を参上に建て君の功績を伝えようと欲す。前北海道庁長官北垣男爵。」
 青木は明治二十六年から三十三年まで北海道庁に勤務した。当初雇員として道庁職員となり、明治二十六年十二月十五日判任官に任ぜられた。道庁では広井勇の下で主として小樽港湾調査及び函館港改良工事、小樽港湾工事に従事した。青木は明治二十七年五月から深浅測量、干満・潮流・風力・波浪観測、試験工事、セメント試験を担当した。北垣北海道庁長官への「小樽港調査報文」で「本調査は着手より二年余にわたり、その間事業担任技手青木政徳等が寒暑風浪を冒し精励、事に従いし結果なり」とする。
人造石(コンクリート塊)は横浜築港で亀裂した前例もあり、明治二十八年八月三十一日付の北海道毎日新聞(以下「道毎新聞」)に青木が製造した人造石の一個を破壊してセメントの凝結力を試験して好成績を得たとある。また青木が時に潜水器を使用して海底に潜って工事の模様を監督したとある。青木は明治二十九年六月から三十年三月まで広井のもとで函館港改良工事に携わった。明治二十九年九月十九日の道毎新聞に広井技師の築港談が掲載されている。「着手前に最も心配したのは浅野セメントである。里程が遠いので時には必要の場合に間に合わないのではないかと心配していた。しかし続々運搬してきて、かえって置場に窮しているほどである」とある。
青木は函館港改良工事を専任で担当し、属から技手、更に技師へと昇進した。小樽築港が議会で承認されると、北防波堤築造が明治三十年五月に着工した。施工は広井を所長とする内務部臨時築港事務所が担当したが、広井は築港課長という本庁業務もあり、小樽港に専念できず、青木が創業時から明治三十三年まで技師として工事を推進した。
明治三十二年の九月八日付の道毎新聞は広井の東京帝国大学教授就任を告げる。「北海道庁技師小樽築港事務所長から帝国大学工学部教授兼小樽港築港技師に転じた工学博士廣井勇氏は同大学の新学期授業が来る十一日より開始されるため至急着任するよう命じられ・・・・・同氏は小樽港築港技師を兼務する」。
上京後は青木が十日に一回は工事の状況を報告し指示を仰ぎ、広井も北防波堤が完成するまで年に二~三回小樽港に赴き、所長としての役割を果たした。
この年十一月二十八日の工学会通常会で広井は「小樽築港工事」と題して講演した。明治三十三年五月十六日の小樽新聞は「小樽築港工事を担当していた道庁技師青木政徳氏は肺患で上京し治療中であったが、遂に死去した」とその死去を告げている。
青木の下で働いていた内田富吉がこの年の五月、後任の技師についた。内田は広井の札幌農学校教授時代の教え子である。第一次広井山脈の一人である。
「技師・内田富吉」小澤榮著から、その業績を略出する。内田は札幌農学校一八九七年七月に工学科の第七期生として卒業後、北海道庁に就職し、小樽築港事務所に勤務した。札幌農学校の工学科は七回で募集を打ち切ったので、最後の卒業生となる。第六期生の真島健三郎は一八九六年に道庁に採用され、函館港改良工事に従事し、二年目には小樽港築港事業に転じたが、兵役に就くことになって、代わりに後輩の内田が小樽港築港事務所に赴いたのであった。内田は一八九八年一月六日付けで非職となり、コロンボ港、マソラス港、バタビア港を調査した。内田はその調査結果を安場道庁長官に報告した。コロンボ港の報告では、港の概要、自然条件、築港計画、施工方法、工事の進行、浚渫、繋船器、セメント試験、港内沿岸施設、荷物の揚卸、築港工場及び工費からなる。文中、「防波堤は南北両堤から成り、完成していた旧(南)堤は延長千二百八十三メートルである。主要部はハリケーンによる激浪で被災したので増幅し、幅十・四メートル、天端高三・五メートルのコンクリート塊式混成堤とし、重量十四~三十三トンのコンクリート塊を低水面下六・一メートルの捨石上に六十八度の傾斜で三列五段積上げ、その上に厚さ一・一メートルの場所詰コンクリートを打設した」とある。ここにはコンクリート塊を「六十八度の傾斜で積上げ」るという小樽港北防波堤にみられる特徴が報告されている。的に築港が最新の築港技術の視察・研究の上に実施されたかをこの報告に見ることができる。広井は後に当時の最新技術が施工されるパナマ運河建設への参加を東京帝国大学工学部学生に勧め、青山士がこの世紀の大事業に参加する。江戸時代の思想家富永仲基は『翁の文』において、インドは幻術(空想的・神秘的)、中国は文辞(修辞的・誇張)の癖がある。日本は隠す癖があり、インド・中国の癖に劣っているとした。広井は常に国際社会と繋がり、最新技術を身につけるべきことを教え、常に技術を公開した。一九〇九年の海外出張時にコロンボを訪れた東北農科大学(後の北海道大学)野沢俊次郎教授は「小樽築港事務所内田富吉氏が廣井博士の注意により、かつて視察したところで、同港は小樽築港工事に寄与した」と述べる。広井は、世界の最新技術にアンテナを張り、それを実験検証し、常に工夫改善することを怠らなかった。
 内田はコロンボ港等視察後一八九八年九月には札幌農学校講師兼道庁技手となり、同年母校に新設された土木工学科で一九〇二年四月まで教鞭をとる。一八九九年十月には教授となる。一九〇〇年五月青木技師の死去に伴い、内田は後任を命じられた。内田は小樽築港第一期工事(北防波堤)を担当した。丙部(延長千九十八メートル)は水面下五・八メートルまで捨石を投入して基礎を造り、その上の本体はコンクリート塊を二列四段に傾斜して積上げる、コロンボ港などのコンクリート塊傾斜積上構造によっている。内田は搗固機を考案し実用化して、コンックリートの強度・耐久性を上げることに常に留意した。また大倉喜八郎東京商業会議所副会頭は小樽築港工事を視察し、「全国各地の築港工事は物価や労賃の騰貴により予算が不足し、これを取り繕うために疎漏、不正の手段が行われやすく、失態が頻々に暴露されている。しかし小樽築港のみはいまだかつて醜聞の伝わることが無いばかりか、工事は着々進行し、非難されるような個所が一点も無い」と絶賛した。内村鑑三は広井を「清きエンジニアー」・「紳士の工学」と呼んだ。その精神は「小樽港北防波堤」に今もなお、「百年堤防」として見ることができる。





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最終更新日  2014年03月12日 02時12分49秒
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