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2014年11月21日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
4 佐藤昌介の「クラーク先生を語る」
「佐藤昌介」(中島九郎著)p34-40の「ウヰリアム・エス・クラーク先生を語る」の大意。
「先生は札幌の母校における僕の恩師である。先生に師事せる僅かに九ヶ月に過ぎない。然れども大なる精神的感化を受けてその印象は中々深く、忘るることができない。先生は普通の教育家でない。経世家であり、軍人気質もあり、また熱心なるキリスト教の信者であり、その人格は円熟せるものであった。自然科学に対しても造詣深く、その得意の科学は植物学と化学であった。農学者でないことは自ら言うところであったけれど、農場の経営に対しては一見識を持っていた。当時の先生の立場よりして、学校の管理や組織は学生の訓育指導に対しては、老練なもので非凡なる手腕を持たれていた。教育家として自分の教え子を引き付ける力は磁石力の引力の如きもののように思われた。先生一言を発すれば、我らはこれに耳を傾け、緊張して聴き、その談笑の間に訓育を受くるものであった。しかも、それは厳格なものでなく、師弟の隔てを立てるでなく、友情をもって臨まるるのであったから肩の凝るようなことはなかった。彼らは多くは十七、八歳の青年で、先生は五十歳でだいぶ老人のように思ったけれど、郊外散歩の時などは先頭に立って進まれ、我らは始終引きずられ追随するのであった。その元気の活発なる驚き入ったものだ。秋晴れで好天気の時など、我らが一室に籠って書見でもやっていると、先生自らやって来て植物採集函を肩にして我らを野外に誘うのであった。そして新種の植物を発見すると嬉々として喜び、植物の学名種類別等を直ちに野外において説明するので、我らの蒙をひらくこと大なるものあった。先生の教育は単に講堂内ばかりではなくて、或いは野外に或いは訪問の場合にも教育を離れなかった。先生と行を共にし、または会談する場合にもことごとく教育ならざるはなかった。先生らが海外万里を隔てた未開の北海道に渡来せる目的は、青年人材の教育にあって、それは唯一の使命であり責任であるに鑑みて学校の内外を論ぜず、機会あるごとに青年輩に接触を保って一人前の人物に仕上げてやろうとの念より外にはなかった。されば教師館へ夜話に来ることを勧められるるので、我らも喜んで三々五々相共に往訪せるが、先生はこれを煩わしともせず、身を青年の境遇に置きて、或いは英雄談もあれば或いは信仰談もあり、話はこんこんとしていつも尽くるところなかった。その話題の多きには驚かされたものであった。我らが先生の訪問を楽しみにせる隠れたる理由もあった。それは先生はミカンが好きで、常にミカン箱一、二は用意せられていた。我らの訪問には必ずこれを開きて共にたしなみ共に談じたのであった。師弟同心一体とはかくのごとき場合を申すことであろう。先生の発意で大胆なる登山の企てをなしたことは夜話の結果でもあったろうと思う。札幌の郊外に海抜三千尺の手稲山あり、当時道はなく熊笹深く生い茂って登山は楽ではない。クラーク先生は一行十四名の先頭に立ち、登山を始めたのは明治十年一月三十日の厳寒の候であった。一行山頂に、近付くや見事なる丈余の地衣は大樹の枝に懸って生長しある〔本書裏表紙のクラーク苔〕を発見し、先生喜ぶこと限りなく、これを採集せんとするも樹高うしてよじ登る由もない。ここにおいて先生一策をあんじて自分の肩を踏み台として一行中の丈の高い者をのせて遂に採集せることあり。この登山は午後より雪降りとなりて下山最も困難を極め、一行中四、五名は山麓まではどーやら下ってきたが一歩も歩行できなくなった。クラーク先生はその遅れたものまで待ち合わせ、麓の民家より馬を雇いて帰校せしめたが、先生の情宜の厚きには我らは感涙を催した」クラークは語った。「信念あってこそ人生というものは意義ある生活をなすことができる。その信念さえ堅固であったならば、道徳というものは自然に立って行くもので道徳以上に信仰というものは大切なものである」。(「佐藤昌介とその時代」p66)
5 「イエスを信ずる者の契約」とその信仰
宮部金吾は「札幌農学校創立者であるウィリアム・スミス・クラークの名は、北海道大学が存在する限り、また日本にキリスト教が宣伝される限り、永遠に敬慕の念をもって記憶されるであろう」と自叙伝に記した。日本キリスト教史上最も重要な運動は、クラークが札幌農学校にもたらした。その成文化された最初のものが「イエスを信ずる者の契約」(資料4p76)であり、クラークによって書かれ、第一期生全員と第二期生の大半が署名した。これは、神と相互に対しての契約である。アメリカ開拓のメイフラワー号のピルグリム・ファーザーズの契約と同様に共同体創設の構成をもつ。何を契約したか。キリストを告白すること、キリスト信徒としての義務を果し、キリストの栄光を増進するためキリスト教信仰を人々の間に前進することを願い、彼の忠実な弟子となり、聖書に一致して生きること、そして適当な機会に福音主義教会に出頭し洗礼を受けることを契約した。
何を信ずるのか。聖書を唯一の指導書とすること。イエスを信ずる者は神により護られ救われ、拒む者は罪の中に滅び、神の前から永久に退かれることを。次の戒めを記憶し服従する。1神を愛し、隣人を愛する。2偶像を拝まない。3神の名をみだりに用いない。4安息日を守る。5両親と支配者に服従する。6殺人、姦淫、他の不潔、窃盗、欺瞞を犯さない。7隣人に悪を行わない。8絶えず祈る。相互の援助と奨励のため団体を構成し、聖書を読み、祈祷のため毎週一回以上集会に出席することなど契約された。
内村鑑三は、当初この契約は、第一期生からなかば強制的に署名させられたとするが、むしろ手紙によれば、同室の親友宮部の勧奨が大きかったようである。内村にとってその実際的利益は「宇宙には一つの神」があり、「多数―八百万―でない」ことで、毎朝四方の神に拝礼したのを止め、通学途中の神社への祈りを止められたことにあった。「新しい信仰によって与えられた霊的自由は心と体に健全な感化」を与え「勉学に一層集中」できるようになった。
札幌農学校のイエスを信ずる者にとって、最初の課題は安息日を守ることにあった。契約では安息日は「不必要の労働を避け、聖書の研究と自他の聖なる生活への準備にあてよ」と説かれ、学校の勉強に費やすことはよくないことになる。安息日の遵守が信仰の障害に感じられる生徒が多く、逆に契約者は安息日を固く守り(日曜日の夜十二時まで勉強しなかった)、その他の日に集中的に勉学して、成績においてむしろ非信仰者を圧倒することによって、自らの信仰の正しさを立証しようと懸命に努力した。努力の繰返しは彼らの生活態度となっていき、信条となる。「イエスを信ずる者」の特徴は教会ではなく、聖書を唯一の指導書とし、「断えず祈れ」であった。
内村は宮部家の祝いのテーブル・スピーチでなぜ「かくも長く交友を続け得」たかを語る。同室四年間、毎夜十時の鐘を聞けば独りになって「人の見ざる場所で神に祈」った。その神聖な祈祷を相互に見た。そして相互を信頼したことにあるという。(資料7p84)そして広井勇もまた自分の信仰は特殊だからと、家族の合同の祈祷には加わらず、自分の部屋に鍵をかけて生涯独り祈祷し、涙したのである。 
内村鑑三は、札幌農学校のピューリタニズムの信仰を土台にしながら、鎌倉仏教の祖師たちが中国渡来の仏教でなく、「日本仏教」を打ち立てたように、欧米のキリスト教信仰でない「日本キリスト教」を創造する困難な道を、生涯をかけて実践し続けることになる。マックス・ウェーバーは、「資本主義の精神」はプロテスタンティズムの倫理に由来し、それは西ヨーロッパとアメリカで起ったという。しかし、日本にもクラークにより直接札幌にピューリタニズムはもたらされたのだ。それは札幌農学校出身者の教育的活動により、日本全国に広まり、日本の近代化・合理化に重要な役割を果たしたように思われる。そして内村鑑三によって創始されたキリスト教の日本化も現在もまだ進展中であるのかもしれない。





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最終更新日  2014年11月22日 03時46分25秒
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