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2015年06月27日
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平成二〇年九月一七日 〇〇市市民活動センター
第六回会報
報徳記」第二巻の後半を読み終える。
【6】物井村無頼の農夫を導き善に帰せしむは、内村鑑三が「代表的日本人」でこのように引用している。
「村人の中に一人の手に負えない怠け者がいた。尊徳の計画にことごとく猛然とたてついた。この男の家は朽ちて倒れかかっていた。男は自分が貧乏なのは、尊徳の新しい行政の失敗を物語る確かな証拠であると近所の人々に言いふらしていた。あるとき指導者の家の者が、この男の便所を借りたことがあった。永年便所は修理もせずに放ってあったため、ひどく腐っていて、ちょっと触れただけで倒れてしまった。男は怒り狂った。不始末の許しを乞い懇願する家の者を、探してきた棒で一、二度なぐりつけ、主人の家まで追いかけてきた。尊徳の門前にその男は立って、周囲に集まった大群衆に向かって大声でしゃべった。自分の受けた『大損害』のことや、指導者が、その土地に安定と秩序とをもたらす能力のないことを告げた。尊徳は、その男を面前に呼ぶと、家の者の過失に対し、誠に丁重に詫びた。『おまえの家の便所がそれほど壊れやすい状態にあるなら、さぞかし母屋の方もよくはないだろう』と述べた。『貧乏人だから家を直すことはできない』男はぶっきらぼうに答えた。『それなら当方で修理させるが異存はないか』先生はやさしく応じた。男はびっくりして一種の恥ずかしさを覚えながら答えた。「異存のあるはずがございません。身に余るお情けでございます」男はただちに家に帰り、古屋を取り壊し、新しい家屋を建てるための地ならしをするように言い付けられた。次の日、指導者の部下が、新しい家屋の資材をもって現れた。数週間のうちに近所でも目をひくような、立派な家が完成した。便所も、ちょっと触れただけでは壊れることのないように修理がほどこされた。こうして村人のなかも最も困り者が降参した。この男は、それ以来、指導者に対して誰よりも忠実な人間になった。男は、そのとき味わった実に恥ずかしい思いを語るときは、いつも涙を浮かべていた。」
【7】先生辻・門井二邑の里正を教諭すは、ある者(おそらく富田高慶)が「未発を察し、教えを下して少しも誤らないのはどうしてでしょう」と質問した。尊徳先生は「地頭は多欲でその求めは厭きることがない。源左衛門は、私の言葉を用いないで、欲でこれに応じた。だから滅亡を免れなかった。藤蔵は欲を伐って更に私念がなかった、だから多欲もこれに触れることができずに、全うする事ができた。自然の道理は、過去と未来を論ずることなくてもおのずから明らかではないか。」と答えた。
【8】川副氏采邑青木邑の衰廃を興す青木堰については、小田原藩鵜沢作右衛門が天保六年二月から六月桜町陣屋に出張し二宮金次郎の事業とその成果を大久保忠真侯に報告した復命書「深山木」と「桜街拾実」にも記載されている。「桜街拾実」 は烏山藩の菅谷八郎右衛門の著である。烏山藩の仕法については「報徳記」巻の3に詳しい。烏山藩の報徳仕法が中止になり、菅谷が放逐される。菅谷には盲目の弟があり、江戸で琴を教えて生計を立てていた。菅谷は二〇両の借金に苦しむ弟を救済するために尊徳先生に借金に行く。そこで烏山藩の仕法の中止が菅谷自身の心得違いから起こった事、たとえ放逐されても烏山藩復興のために過ちを補い再興を祈り至誠を顕し再び道が行われるよう尽力すべきである。弟を姑息な愛で救ったとしても決して全うしないと切々と説諭される。菅谷が「ああ過てり」と猛省したことから、烏山藩への復帰へと繋がっていく。浪々の身であった菅谷は、尊徳先生の説諭を恩に感じ幕府が尊徳先生を登用しようという動きがあることを知り、当時老中水野忠邦の歌道の師範をしていた遠縁にあたる村田大亮を通じて、この桜町拾実を天保13年5月に上程し尊徳を幕府に推挙する。当時幕府は印旛沼から太平洋まで運河を掘って、利根川経由で江戸へ海運を導こうという大構想が有り、青木堰建築で見せた独創的な尊徳先生の土木技術に着目したのであった。「桜街拾実」で、青木堰を建築前に、尊徳先生が村民にまずカヤを刈り取りそれを高値で買い取り村の寺社や民家の屋根を葺かせたことを「この件は、人々が働くかどうか一生懸命やるかどうかを知り、さらにおのおのの働きの甲乙によって得るところの金に多少が有ること、すなわち勧善懲悪・因果応報などの理をこの内にこめて実地教育したものです。」という考察が見える。
一〇月一八日(土)の桜町陣屋&青木堰跡見学のとき、桜川市教育長で青木堰研究の第一人者である〇〇氏に現地で説明を受ける。青木村名主は舘野勘右衛門といい、子孫にあたられる。高慶曰く「里正勘右衛門ノ此邑ニ在ル。譬ヘバ蓮ノ泥中ニ在ルガ如シ。若シ勘右衛門微セバ、則先生亦何ゾ良法ヲ施スコトヲ得ン。古ヨリ事ノ成否要スルニ其ノ人ニ存ス。小邑猶ホ然リ、況ヤ焉ヨリ大ナル者ヲヤ。」すべて事業は人である。舘野義久氏の「よみがえる金次郎」にはこう描写する。「このまま座して待てば、村は滅びる。村の復旧は二宮金次郎様にお願いする以外にない。」と、名主舘野勘右衛門は決断、身命を賭して村の立て直しに立ち上がるのです。 村民一同を屋敷に集め、村のおかれている厳しい状況を説明、一致して行動することを誓うのでした。
 天保二年(一八三一)十一月三〇日、師走の迫る寒天の朝、名主勘右衛門一行は三七名の連署を懐に、桜町陣屋の二宮尊徳へ嘆願書を提出するのです。その嘆願書とは、次のようなものでした。
『青木村荒地起返難村復旧仕法取行方嘆願書』という表紙、書き出しは『恐れながら書付を以て願上たてまつり候事』ではじまり、『川副勝三郎知行所である常州真壁郡青木村名主、組頭、百姓一同お願い申しあげます。私どもの村は、およそ七、八〇年以前家数一三〇軒ありましたところ処、洪水により桜川用水堰が大破、普請行き届かず村は困窮しております。冬枯れに野火が発生、離村・死潰れし31軒となり、年貢米も六五俵、永三四貫文(畑作の税)となりました。近年、桜町知行所の村々がご仕法により立直り、有難き仕合せに存じます。桜町と同じような荒地開発、入百姓などの救済策を、私共のじとう地頭(川副氏)にお願いした処、地行所(青木村)立直りの工夫については、いかようにされてもよいとの沙汰がありました。去る子年(文政十一年)以来、西村組頭丈八(二宮町)をもって、村の難儀、用水掛りに相談、真岡代官所へもお願い内見していただきました。しかし、その後で代官も代りこの案件が流れ、村は次第に困窮し、百姓相続が難しくなりました。地頭様の用水堰普請についての書状持参する間、別格のご慈悲をもって、村を救うためなにとぞ内見くだされますようお願い申しあげます。今まで通り百姓相続ができますよう、仰せ付けくだされますれば有難き仕合せに存じたてまつります。』以上天保二辛卯年十一月晦日常州真壁郡青木村」
そもそも村の荒廃は、用水を失ったのみではない。用水がなければ田を畑として、雑穀を得るべきだ。人を養うものは稲穀に限らない。用水の乏しきを口実として、良田を荒蕪に帰するは、井泉をふさいで水を他に求むる類い。惰民(なまけ者)となり、博奕(ばくち)を事として祖先伝来の家財を失う。農力進みて、糞培(地を耕し肥やす)怠らなければ、畑もまた田に勝る。田は一作、畑は両毛(陸稲と麦)を常とし、之をきらうは怠惰なり。我が仕法は節倹をもって有余を生み、他の艱苦を救う。各々その業に精励・善行を積み、悪行をなさず勤倹をもって一家をなすべきである。各々がそうするならば、貧村は必ず富み、廃邑は必ず興る。おまえたちの村の困窮はあわれだが、それは自業自得である。再び来るなかれ」「村民の農業を怠る所業は、先生の言う通りです。これから懶惰を改め先生の教えに従い、粉骨を尽くし艱苦に耐え、再興の業に従事することを誓います。なにとぞこの村を救いくださるようお願いいたします。」「人は苦しみが迫る時、どんな難儀もいとわないと言うが、少し良くなると元に戻る。村の再興の道は旧弊を除くことが大事だ。先ず火災の原因となる茅やすすきを刈りなさい。刈り終わったら、相当の値段で買取ろう。」〇〇氏はこう理解される。「青木村の尊徳仕法は、心に生い茂った茅やすすきを刈り取る『心田開発』からはじめられたのです。尊徳は青木村の仕法にあたり、まず働くことへの意欲、働いた結果の喜びを体感的に知らしめたのです。今までの村の仕事は、領主の指示や命令での堰普請、道普請など、どれもやらされるという受身の姿勢で取り組んできました。尊徳には、万が一青木村の人々に、荒地開発・堰普請もやらされるという意識が、心の片隅にあったのでは、この仕法は成功しないという危惧がありました。働く人々に対し、賃金を払うのは当然というのが尊徳の哲学でした。」
○懇親会場は焼き鳥の直吉。〇〇のひいおじいちゃんが小学校に二宮金次郎像を寄贈した話が面白かった。〇〇が「最近『損か得かではなく正しいか正しくないかで判断するべきだ』と言わなくなったよ。」「斎藤一人さんが『人生にはいくつもの分かれ道というものが出てきます。右に行くか、左に行くかを、判断しなくてはならないときがあります。そのときは、どちらか正しいか、ということを絶対に考えないでください。どちらが楽しいか、を判断基準にしてください。』といってるんです(『ツキを呼ぶ魔法の言葉』四一ページ)。私はカルフォルニアでキネシオロジー(筋反射テスト)で治療をされているドクター本間にメールでそのことを問い合わせたことがあるんです。本田先生からは『キネシオロジーでも同じ結果が出ると思います』と返信がありました。」





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最終更新日  2015年06月28日 02時37分53秒



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