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カテゴリ:報徳記&二宮翁夜話
二宮先生語録【二七五】三浦荒次郎は、驍将なり。相州三浦郡に居て、其の城郭を築くや、北高山を控い、南大洋に面ひ、唯々一城門を設け、尤地利を得。北条氏之を攻て、抜く能はず。遂に糧道を断ち、然る後之を挙ぐ。其の唯々一城門を設る者、敵を防ぐ為めなり。然るに唯々陸路の敵を防ぐに利にして、糧道に利ならず。之を九孔螺と栄螺子とに譬ふ。介を以て堅城と為し、一旦変有れば、則ち潜て患無きも、亦遂に人の煮る所と為る。世伝ふ。荒次郎自尽。其の首飛て小田原城の松樹に止り、以て祟を作す。而して北条氏の亡る、其の自尽の日と同じと。仏氏所謂因縁是れなり。
ここで「祟(たた)り」と言っていますね。 最近出版された大藤修先生の『二宮尊徳』(吉川弘文堂)は、いわばダムが広大な雨水域の流水を蓄えて、またそこから水をながすように、最近の研究成果を収めた本ですが、その中で金次郎が生家が洪水の被害で没落し、父母と死別し、兄弟離れ離れになった、また一族にも没落する者がでたのは、総本家が絶家となり先祖の祭祈が絶えたため、数多(あまた)の亡霊が祟りをなしたから、総本家の復興を志したとあります。 二宮尊徳全集巻16巻におさめられた「嘉永6年 先生より御書簡写」には自らはっきりそう述べています。 『報徳記』は富田高慶が儒教的、武士道的な観点から二宮尊徳の言行を描いたものもので、「君子は怪力鬼神は語らず」という姿勢から、そうした「祟り」とかいった民間信仰的な叙述はありません。 7月19日の日曜日、小田原の報徳博物館で古文書を読む会があり、U先生が南相馬博物館所蔵の富田高慶自筆の『報徳記』の原文の解読を行っています。 U先生は二宮尊徳の「天道人道説」は嘉永年間になってから、諸藩の仕法が失敗した原因を探求するなかで、天道と人道をわけて人間の努力が必要なことを述べられたので、 私またも 二宮尊徳の考えは、少年青年時代の考えで完成されていたのではなく、報徳仕法を実施する中で、その成功と失敗の原因を検証するなかで発展し、深化されたのだ。 その一例として、この祟りの考えをあげました。 二宮尊徳は少年時代、自分の家が没落した原因を先祖の祟りだと考え、二宮総本家の復興を親戚に呼びかけたが、賛同する者がいない。そこで総本家の社(やしろ)の周りに竹や木の苗木をうえつけ、それが育ったのを売り払って総本家復興の資金とし、さらに自らの給金を加えていって気基金を大きくした。最初は一族の勤勉な若者の表彰などにその基金を使っていたが、次第に村の若者、さらにますの作製などにも使い、最後には桜町陣屋に引っ越す際に、先祖の永年供養に支出したほかは桜町に持参し、無利子貸し付けなどの基金に合流させた。 二宮金次郎は当初の祟りの考えを発展させて、「多くの人々を救済すれば、その積善は先祖への回向となり、孝を全うすることにもなる」(同書63頁)と、合理化したのです、と述べたところ、U先生は私もそう思いますとおっしゃいました。 二宮金次郎の思想の特徴は、合理性であり、理にかなっているかを徹底的に思考実験し、また実地の報徳仕法のなかで実験と検証を行っていることです。 だからこそ、尊徳は私の考えは天地がある限り亡びないと宣言するのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年07月26日 01時49分53秒
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