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2015年08月30日
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カテゴリ:鈴木藤三郎
鈴木藤三郎の米欧旅行日記編(講話)
 いま、ご紹介にあずかりました〇〇です。
昨年十二月「二宮金次郎の対話と手紙」というテーマで、ここ袋井市で講演させていただきました。
今回、鈴木藤三郎の米欧旅行日記について、お話させていただく機会を与えてくださったことに感謝します。

鈴木藤三郎は袋井市のお隣の森町の出身で、本日森町から参加してくださっている方もいらっしゃいます。
本日、私がお話する内容は承知しているという方もいらっしゃると思います。本日は、本会の会員等の協力を得て、対話や朗読を交え分りやすく説明したいと考えています。
念のため、藤三郎の事は余り知らないという方はいらっしゃいますか、恐縮ですが手を挙げていただけますか。
ありがとうございます。それではまず鈴木藤三郎が米欧旅行に至るまでの経緯を簡単に振り返ってみましょう。

鈴木藤三郎は、「糖業一代記自画像」を描いています。第一期、第二期各三枚の六枚続きです。第一期の一は、明治九年報徳の教えに出会うまで、第一期の二は明治十年~二十一年、氷砂糖製造法を発明し精製糖事業を起すまでの苦難の時期、第一期の三は明治二十二年~二十八年で、自画像はサトウキビを腰にした藤三郎が岬に到達し、洋々とした大海を見ている構図です。二十八年暮精製糖事業の研究は完成し株式会社としました。鈴木藤三郎が米欧旅行に出かけるのは、この翌年です。
第一期の絵は二十歳の青年が報徳訓を見て腕組みして真剣に考えている図です。鈴木藤三郎は安政二年(一八五五)十一月静岡県周智郡森町に生れました。父は太田文四郎(通称平助)、母はちえといい、二男二女の末っ子です。家業は古着屋です。安政六年、五歳のとき同じ森町の鈴木伊三郎の養子となりました。
養母はやすといい、養家は菓子商でした。八歳から寺小屋へ通いますが、十二歳でおろされて、家業を手伝わされます。朝早くから餡(あん)を煮たり飴(あめ)を練ったりして、できあがると、それをかついで秋葉山の方まで売りに行くのが日課でした。
明治七年、二十歳の藤三郎に家督を譲って平助は隠居します。藤三郎はこの頃から田舎の一菓子商で終わることに疑問をもちはじめ、当時の投機的風潮に影響されて、製茶貿易に乗り出します。一年ほど父の知り合いの製茶貿易の人で見習いをして、商売に従事しますが、資本も少なく無経験なため、なかなか思うような結果は得られなかった。
明治九年の正月、藤三郎は生家の太田家へ年始のあいさつに出かけ、そこで一冊の本に出合います。それが二宮尊徳の教えを書いた本で、天命十か条などが書いてありました。
鈴木藤三郎は非常な感銘を受けて、やがて投機的な製茶貿易から手をひいて、再び家業の菓子製造に帰り、報徳の誠心・勤労・分度・推譲を直接家業の上に応用しようとします。
その時の感動を「余の理想の人物」という文章で語っていますので、本会の〇〇さんに朗読してもらいます。(資料編〇〇頁参照)

余の理想の人物 鈴木藤三郎(「人格の修養」『実業の日本』十巻一号所収)
 お恥ずかしい話ですが、私は明治九年二十二歳になるまで理想などということは少しももたなかった。その時までは極めて単純の生活をしていたのである。八歳の時より十二歳まで寺子屋に通学の時は、いつも先生からほめられていたが、父はほめられるだけに心配して菓子屋の子に学問は不必要だといって、十三の春から家業を手伝い、隔日に荷を持って近所に商っていた。私は勝気の性質で、朝は暗いうちに起きて夜の明けぬ前に一、二里くらいを歩かなければ承知ができず、終日の奔走でくたびれたために、夜が明けて後にめざめるときは終日商いに出かけなかった。この時までは頭はボンヤリとして運動する機械のようでいたが、十九の時にふと想いついたことがある。自分は菓子の商いをしているが、今後どうなるのであるか。近所の人を見れば、だんなと尊ばれている人もいるが、菓子商いなどをしていては、いくらたっても発達の見込みがない。だんなといわれる人はみな金を貯めた人であるから、自分も大いに金を作らねばならぬ。当時、製茶は横浜市場の主な輸出品で、遠州は茶の産地だけに、私の郷里森町でも富者(かねもち)となった人は茶商に多かったので、私も富者となるには茶商となるほかなしと決心し、父に相談したところ、茶商は十か年ぐらいは小僧で見習いしなければならないのに、中途から従事しても無理であるといって最初は聴かなかったが、私の決心が固かったので、いくらかの資本を他から借りてくれ、私は菓子業に関係なく、独立して茶業に従事していた。最初の一年は見習いに過ぎなかったが、二年目からは各地方に出かけ、四日市、豊橋等にまで行って買い集め、これを横浜に送っていた。茶の鑑定その他の事が一とおり了解でき、相当の利益もあったが、二十二歳の正月に実家へ年始に行ったところが、二宮という本があった。何のことかと聞くと二宮尊徳先生のお説を書いたものだという。私も報徳ということは聞いていたが、実は単に金をケチに貯めるとか、朝は早く起きることということに止まり、その教えが本になっているとは思わなかった。これを借りて帰って読んでみるととても面白い。その大体はこうである。人はなぜこの世に生まれてきたのであるか。どうして生きるのであるか。金銭も名誉も、その目的とするものではない。人は国家社会のためにその利益を増進する仕事をなすべきものである。過去の人がなしておくことを今の人は更に増殖し、これを後世の子孫に伝え、もって国家社会の利益を増進する。言いかえれば、代々の人はその消費するよりも以上の仕事をして、前人から受け継いだほかに更に増して子孫に伝える。何事もしないで先人のことを後人に伝えるは恩義の賊である。人間は個々としては生れたり死んだりするが、大体よりいえば人間は生きているのである。この目的は一人ではできない。また一代二代でできるものでもない。すべての人間がこの目的に向かって勤労する。その個人が分担して行うのが各自の職務である。職務は人の賢愚によって異なってはいるが、国家社会を利するという大目的に比べると同一であり、その間に上下尊卑の区別があるべきはずがない。ただ自分の職務とするところを遺憾(いかん)なく尽して明らかにすべきである。いわゆる天地の秘をも発(あば)くべきである。これが人生の大目的で、また人が禽獣(きんじゅう:鳥やけもの)と異なる理由である。
この人生の大目的の一分を達するために、各人はその職務に全力を傾注するときは、たとえ自己の利益、栄達を主としていても、これらはその職務の遂行にともなっておのずから発達して来るものである。この主義を服膺(ふくよう)する間に、自ら自己も発達することができるという意味である。
この書を読んで私は豁然(かつぜん)と悟った。
今まで金さえ貯めればよしとしていた思想は全く誤りであることを発見し、報徳主義のとても大切なことを知ることができた。まさに大河を渡らんとしたときに船を得た心地がしたので、今度はいかにしてこの道を進むべきかという問題を解くこととなった。
それからは毎月開かれる報徳の集会に出席する。会日以外にも行って種々なことを質問し、議論する。狂熱のようになって報徳主義を研究した。報徳記も当時はわずかに写本ばかりで、それすら容易に見ることはできなかったが、特に読まさせてもらった。同時に他の方面の研究をする必要もあったので、また勉強を始めた。十二歳からは以来全くやめていた経書などをあさって読み、二十三歳の時には夜学に通って勉強し、研究すればするほど、他と対照して報徳主義が立派な教えとなり、ついには二宮先生は人間以上の、神のようなものに思われてきた。
このように研究すればするほど、過去の我が身の過ちを発見し、新生活を開く必要を感じたので、明治十年一月一日を紀元とし自分は全く生まれかわったものとして新生活に入ることを決心し、今なおその決心にしたがって暮らしているつもりである。


「研究すればするほど、報徳主義が立派な教えとなり、ついには二宮先生は人間以上の、神のようなものに思われてきた」とあり、藤三郎の報徳研究の打ち込みようがわかります。
藤三郎のすごいところは、これを家業に実践するところです。





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最終更新日  2015年08月30日 07時30分56秒



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