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2016年01月30日
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カテゴリ:鈴木藤三郎
鈴木藤三郎の本当にすごいところは、報徳の「荒地を以て荒地を拓(ひら)く」を家業に実験して検証しようとするところです。
東北大学前教授の大藤修先生が吉川弘文堂の人物叢書から『二宮尊徳』という本を出されましたが、その本の中で、二宮尊徳の報徳の実施方法について次のように整理されています。
「金次郎の借財整理は『借財は借財の備えを以て返済』することを基本方針としていた。高利の借財を無利ないし低利に振り替えるのである。」
「一方、農村の復興は、『荒地は荒地の力を以て起し返す』という考えに立っていた。つまり荒地開発、窮民撫育、人別増加策などによってもたらされた農業生産力回復の成果を、繰り返し復興事業に投下することによって進展をはかるのである。」(『二宮尊徳』二三一頁)
 ちなみにこの「補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記」のテキストを、大藤先生に差し上げたところ、一昨日、このお葉書をいただきました。葉書には「藤三郎が欧米の文明や企業をどのように観察したかがうかがえ、史料的価値の高い日記だと思います」と書いて有ります。嬉しいですね、藤三郎の日記の史料的価値をきちんと評価していただいて。
藤三郎はこの『荒地は荒地の力を以て起し返す』という考えに立って、まず自分の家政調べを実施し、節約できる経費を選び出して、五年計画を立てて、その余剰を繰り返し事業に投下する計画をたて、そして、それを実行します。朝五時に起きて一心に働き、自らが立てた分度を守り、利潤を事業に再投資し、価格を次第に安くした結果、最初売上高が千五十円であったのが、五年目には一万円となります。最初は家の経費を出すために、利益は二十%取らなければならなかったのに、五年の後には、わずかに五%取っても十分になり、それだけ品物を安く売ることができるようになりました。
こうして、藤三郎は、荒地の力をもって荒地を拓(ひら)くという報徳の方法が、農業だけではなく、商業、工業、何の事業にも応用されることを自ら実証しました。この体験によって、報徳の教えに対する藤三郎の信念は不動のものとなり、後年この方法を工業や、農業に応用する基礎を築きあげます。
藤三郎はこのようにして、報徳の教えにしたがって、家業の菓子製造を新しく始めたのですが、それと同時に彼は氷砂糖や白砂糖の製造法を研究したいと思ったのでした。その理由を次のように語っています。○○館長に読んでもらいましょう。

私も予定通り五か年の計画を終りましたから、今後は菓子屋をやる必要も無かろうと思いまして、砂糖屋を始めたのです。砂糖屋を考えついた次第は、以前茶貿易で横浜へ往来する頃、貿易新聞にその頃の日本の精製糖輸入高が一か年四百万円余とあるのを見て、我々が大骨折(おおほねおり)で外国へ出す茶も、やっと四百五十万円である。砂糖と引換えに過ぎない。今後、文明が進めば、むろん砂糖の消費高も増すわけである。これを内国で製造する事となれば、国家社会に対しても、何分の貢献であると思いまして、これを終生の事業としようと決心したのです。
  しかし、事業に着手するとしても、まず資本を調達しなければならない。第一どのようにして製造をするかいっこうに分りません。そこで東京へ出て、遠州の人で猪原吉次郎という化学者が、工部大学校の学生でしたのを訪ね、砂糖精製の事を聞きました。猪原氏は色々西洋の本を読んで聞かせてくれ、更に大学校の分析所に連れて行き、実地について一通り説明してくれました。また、「甜菜(てんさい)糖製法」という日本綴り八冊の図入の書物を見付け、国へ買って帰り、ほとんど一年間この本がこわれてしまうくらい、繰り返して読んで、いくぶんか製糖の知識を得たのです。もとより精糖の技術を手に入れたわけでは無く、資本も出来ず、すぐに着手することが出来ません。そこで砂糖に縁のある氷砂糖の製造を思い付いたのです。なぜ氷砂糖の製造を思いたったかと申せば、その頃、氷砂糖は中国の福州から輸入され薬局で売っていたもので、その価格も白糖の二倍です。その品は、色も赤く笹のごみなどが交じっていて、機械的工業的の生産物ではない。それで価格が高値とすれば改良の余地は十分に有ると思い、一つこれを階段として進もうと考えて、その製造法を研究し始めたのです。しかしその実験の結果を見るのはなかなか容易ではなく、いろいろ工夫をしましたが、久しい間、非常に心身を労したのです。(「荒地開発主義の実行」鈴木藤三郎)

その頃砂糖は輸入品で藤三郎は砂糖を「内国で製造できれば、国家社会に対して貢献であると思いまして、これを終生の事業としようと決心したのです」
明治十年、二十三歳の藤三郎は、本職の菓子製造の関係から、純白透明の氷砂糖の製法を知りたいと念願し、いろいろたずねてみましたが、人に教わることも、本に頼ることもできず、自分でやってみるより仕方がないと、繰り返し蜜を煮詰めて数年を経過しました。
たまたま藤三郎が上京中、放置した製造容器の中で結晶した数個の氷砂糖を発見でき、小躍りして喜びました。その後、さらに夏の盛りに密閉した室(むろ)の中で詳細な記録製造法を発明しました。
明治十八年には森町に第二工場を建設し、事業の拡張を図り、毎年一万円の利益をあげるようになりました。そこで東京移転を実現し、明治二十一年東京の南葛飾の砂村に氷砂糖製造工場を建設しました。藤三郎は砂糖精製の技術を学ぶために、化学や工学の専門家をたずねたり、洋書の参考書を読んでもらったり、研究を続け、明治二十三年には北海道の紋鼈(もんべつ)製糖会社に精製糖製造方法を学びにいきます。そして東京に帰ると、自分の考案を加えた設計や、工夫した機械をすえつけた精製糖工場を建設しました。また製造機械の工夫改良を自ら行うべく、機械の製作を行う鈴木鉄工部を併設しました。
 明治二十三年当時砂糖の国内消費は極めて少量で、砂糖消費高の大半が輸入品で、国内産は六・六%にすぎませんでした。ところが二年後の明治二十五年には藤三郎は機械の整備を進め、その年には氷砂糖は早くも中国福州製品の輸入を全く防ぐまでになりました。
 明治二十八年の第四回内閣勧業博覧会において、鈴木製糖所が出品した精製糖は「品質外観、ひとつも間然(かんぜん:欠点をついて批判すること)するところなく」と評価されています。





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最終更新日  2016年01月30日 07時37分05秒



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