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2016年06月30日
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「報徳記を読む第四集」の序文に代えて
『報徳記を読む第四集』は、『報徳記』の巻の六から巻の八を収録します。報徳仕法のうち、下館仕法、相馬仕法、日光仕法という、報徳仕法の集大成です。報徳仕法とは「荒地は荒地の力にて起こす」という荒地開発法と「借財は借財の利息等の費えを以て元金返済に向ける」という借金返済法にあります。(全集第二五巻六四頁)下館仕法の特徴は、借金返済のため天保十年一~八月分の経常費を桜町、御用商人、石川本家の無利息金で立替、高利の元金を返済し、また藩士の俸禄の二割八分削減により、藩財政を無借金にしようということにありました。しかし大坂加番による経費増大や藩士が三割近い減俸に難色を示し、藩主も減俸を撤回するなど、財政緊縮を実施できず、新たな借財を行うなど混迷しました。本集に載録した「下館談話記」はその経緯をよく示すとともに、『報徳記』にはない我が子を結婚させてやれないという金次郎の人間的な苦悩も示され、『報徳記』の成立を考える上で興味深いものです。相馬仕法は『報徳記』の中心となるもので、最後まで当初立てた分度を守り成功した仕法です。『報徳記』では、相馬藩と他藩の仕法における、藩主と家老(草野、池田)・仕法責任者(富田)の至誠が対照的に描かれます。尊徳は一藩仕法の重なる失敗から、「興国安民は主者の道である」(「報徳論」)の主張を強めました。大藤修氏はその著『二宮尊徳』において、下館藩の奥津小一郎の「上々の者が趣法を守り、誠の徳を以て窮民を救うならば、国家が永久に治まる大道になるが、趣法を守らない時は国民は乱れる」を指摘し、領主階級が金次郎の仕法を忌避したのは厳しい財政緊縮の他に「領民が反乱を起こしかねない契機を内在させていた」ことにあるとされています。(『二宮尊徳』二三七頁)
 幕府領仕法は当初新法(報徳仕法)に反対する役人の抵抗にあい嘉永元年まで五年以上停滞します。金次郎はその間、標準仕法マニュアルといえる「日光仕法雛形」六四巻を作成しますが、弘化三年には小田原藩が仕法を廃止し、領民との接触を禁じ、金次郎は一時は諸藩の仕法の指導の中止も考えます。嘉永六年二月十三日「日光御神領興復」の命を受け、相馬藩からの仕法資金推譲も得て、順調に進みますが、安政三年十月二〇日六九歳で死去します。
『報徳記』は、著者富田高慶の入門以前と入門以後で性格が異なります。入門以前は、聞書きや記録による記述で、「例言」で、幼年時代は「村民の口碑かつ伝聞」で「誤聞でないことを保証できない」とし、一藩仕法については「私がいまだ先生に入門以前のことは目視していないために、先後順序を誤っているかもしれない」とし、後日の研究を待ちたいと記します。富田は相馬藩出身でその財政を復興する志願を立て、江戸へ出て学びましたが目的を果たせず苦悩していました。たまたま桜町で三村の復興に功績を挙げている金次郎の話を聞き、相馬藩江戸家老草野の添書をもって、天保十年(一八三九)六月その門をたたき、九月入門を許されました。富田二十七歳の時です。一藩仕法のうち谷田部藩仕法は天保六年、烏山仕法は天保八年、下館仕法は天保九年発業していました。富田の最大関心事はいかにして相馬仕法を発業できるかでした。『報徳記』で一藩仕法の導入経過が詳しく記され、仕法指導者の在り方について記述が多いのは富田自身の関心がそこにあったからです。しかし天保十年十二月烏山藩は仕法を中絶し、仕法指導者の菅谷を追放します。天保十三年には谷田部藩との関係も断絶し、下館藩も分度が定まらず、仕法をめぐる情勢は厳しくなります。金次郎は一藩仕法の停滞・中断を踏まえ、容易に相馬仕法を認めません。「国を興し民を安んずるは分度を立てるにあり」「報徳は主者の道である」(『報徳論』)とし、分度を重視し、藩主など上に立つ者の決意と、藩全体が分度を守り抜くという同意を要求しました。天保十三年、金次郎は幕府の官僚となり、一藩仕法の指導中止を関係諸藩に通知します。幕府登用後、金次郎の不遇は長く続き、金次郎は仕法廃止を口にするほどでした。これは相馬藩にとって一大事であり、富田は幕府の要職に金次郎の人格の高潔や事業の功績を説いて回り、幕府領への仕法の発業を熱誠をこめて懇請します。その結果、天保十四年に谷田部藩を除いて藩仕法の指導は「相対にて苦しからず」という老中水野忠邦の指示を得、相馬藩も同八月二八日に金次郎の指導が認められます。金次郎は分度設定のため相馬藩に諸帳簿の提出を促し、同年一二月に相馬の「為政鑑土台帳」が完成します。金次郎が相馬の成田村に発業したのは、弘化二年(一八四五)十二月でした。仕法停滞期は「報徳の教義」が深まる上で、また『報徳記』形成の上で重要だったといえるようです。
富田が『報徳記』の資料としたのは、入門以前の聞書きや入門後の記録であり、富田は金次郎の言動を忠実に記録に遺そうとしました。『報徳記』の文章の熱気を帯びた文体は、幕府登用後の不遇時代に富田が幕閣要職者に繰り返し説く中で、語り物として形成されたようです。その対象は儒教的教養を有する武士層であり、金次郎も武士道の鑑(かがみ)として聖人化され描かれます。内村鑑三が『代表的日本人』や『後世への最大遺物』で金次郎を称揚し、「『報徳記』は、実にバイブルを読む考えがいたします」と言うのは、富田が儒教的聖人、武士道的理想像として金次郎を描き出した(高級武士層が感動した話を載録した)からで、内村も理想化された尊徳像に共鳴したのです。『修身教授録』の森信三氏は、『報徳要典』に「これ正に古今に通ずる永遠の真理なり」と記し、日本大学内山稔教授は「尊徳の実践経済倫理」に「尊徳の生涯と事業、あるいはさらにその精神を知るには、彼の高弟富田高慶が熱誠をこめて綴った伝記『報徳記』にしくものはない」、「『報徳記』を読んで感動しない者は、たとえ他にどんなにたくさん解説書・研究書を読んでも、尊徳の精神、尊徳の事業を正しく理解することはできないし、その神髄に迫ることはできないであろう。」(一三九頁)と記しました。
『報徳記』は、日本人にとって「バイブル」(聖典)といえます。江戸後期の儒教的教養の高級武士層が感動した要素が凝縮されています。新渡戸稲造の『武士道』が世界的ベストセラーになったように世界に通用する「永遠の真理」があります。内村鑑三は「代表的日本人」を読んだ欧米人が「もっとも驚嘆せしは二宮尊徳先生」と伝えます。(『予が見たる二宮尊徳翁』)明治後半に砂糖王と称された鈴木藤三郎は、報徳運動の盛んだった遠州の出身で、「荒地の力を以て荒地を開く」(収益を資本に再投資し事業を発展させる)を、当初五年計画で家業の菓子業に適用し、五年後に売上げが十倍、資本金が五倍となり、「荒地の力を以て荒地を開くという主義は、どんな事業にも応用ができる、天下これによって起らない事業はないという尊徳先生の教えは一点の疑いはない」と信じました。(「報徳実業論」)
報徳は決して江戸時代の過去の遺物ではなく、単なる農業振興策でもありません。報徳は現代においても世界において適用できる真理があります。鈴木藤三郎は報徳が近代資本主義に適用できることを、その一生を通じて証明し、「願文」で「報徳の教えは東洋西洋を論ぜず、人種・宗教を問わず世界に生存する人類が貴賤、貧富、男女、老幼の別なく順守しなければならない大切な教え」だとし、「人類必至の要道である報徳の教義が広く天下に普及し真正な文明の実を見んことを」と願いました。『報徳記を読む』第四集の副題は「願文」に由来します。
本会では、『報徳記』を「いつでも、どこでも、誰でも読めるものにしたい」と願い、全国の大学図書館・公共図書館に寄贈してきました。『報徳記』の全ルビ版と現代語訳を収めた『報徳記を読む』によって、「報徳の教えが広く世界に普及し真正な文明が実現する」ことを願って本集を刊行します。
平成二八年(二〇一六年)七月






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最終更新日  2016年06月30日 00時52分09秒



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