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2016年08月26日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
四 松浦竹四郎と宮部家(一六頁)  
私たちがまだ駿府の代官屋敷に住んでいた時、松浦竹四郎氏が、明治元年閏四月六日付で京都大総督宮より「急々上京仰付」の命を拝し、京都往復の際、往復とも静岡の役宅に立ち寄られた。ことに御用を果たした帰途には数日間滞在されていった。松浦氏は当時における蝦夷(エゾ)地探検の第一人者であり、また著述家として令名のあった人で、後に開拓使の判官となり、北海道の国境を確立した。明治元年の御召の際にも京都滞在中に「蝦夷開拓基本献白書」を提出申し上げた。駿府に滞在中、徒然のままに唐紙にアイヌの絵を数枚書いて残していかれた。そのうちの一枚は今なお北海道帝国大学図書館にあり、一枚は故新渡戸稲造氏に贈呈し、アイヌが昆布を採っている絵のただ一枚が私の手もとに残っている。この絵は非常によくできているため、先年来朝した米国シカゴ大学教授スタールが札幌に来た時、これが複写を熱望され、数枚の複写をとったが、その一つは故河野常吉氏の所に蔵された。松浦家と宮部家とは極めてじっこんの間柄であり、江戸下谷の寓居は松浦家にごく近かった関係から、両家のゆききも相当に繁しかった。したがって数多い氏の名著はその都度我が家に寄贈された。このため、書物の中のアイヌや、蝦夷地の草花類や鳥獣などの絵を見ており、子ども心に早くも遠い蝦夷地に対し一種の親しみと憧れを持っていた。なお松浦氏は私に眼をかけられて、私を養子に懇望された由を、後になって、母から聞かせられた。けれどもこの話は父も母も進まなかったので取りやめになったという。しかし尽きせぬ縁というか、松浦氏が心血を注いだ北海道に、私は今日まで一生を捧ぐべき研究ひとすじの生活を送り来ったのである。

五 修学のはじめ(一七頁)
七歳(慶応二年)の時、私は初めて下谷仲御徒町岩村田藩儒者宮崎右膳氏に就き、漢学を修め始め、また近所の寺子屋にも通った。八歳の八月、父に従って駿府に移ってから九歳の一二月駿府を去る日までは同地の寺子屋に通っていた。一〇歳(明治二年)の二月、東京府にて全市を六学区に分かち、その各々に小学校が創設され、建物には皆大きな寺院を使用した。下谷と浅草の者は三味線堀に在った西福寺という寺を使用した。これが当時の東京府第五小学校である。寺小屋とほとんど同じで、学科は漢籍の素読、習字、珠算等であった。私は袴を着し、木刀を腰にして御徒町からそこに通った。その頃、父はまた私に手習いの先生として下谷長者町の服部随庵氏を選んでくれた。始めて先生の所にあがった時、父は「長兄は樋口逸斎氏に、次兄は高斎単山氏にご厄介になっていますが、この子は是非あなたのご指導に預かりたい」と申し述べた。随庵氏は大いによろこばれて直ちに快諾された。私は小学校に通う時、この随庵先生のお手本を持っていき、習字の時間にはこれを手本としていた。この年五月、生まれて始めて写真を撮る。この頃はいまだ写真の極めて珍しかった時である。父が烏帽子、直垂を賜った記念であったらしく、当時一流の名声をはせていた池の端橋本写真館に行き、父は一人で、私は文臣兄と二人で撮影してもらった。一一歳(明治三年)の初春、東京各小学校から四、五人の者が選ばれ、城内のある御邸に参上、書初めをした事がある。自分も幸にその選に入ったので、羽織、袴にお行儀よく、身を固めて御邸にあがり、帰りには扇子二本をご褒美としていただいて帰った。これは随分嬉しかったことの一つである。この一一歳の春の頃、ごく一時的であったが、外国語学校の前身と考えられるような学校ができた。建物は麹町の大きな旧旗本屋敷にあったように記憶する。各小学校において洋学希望のものでその学校に行きたいものは申し出よとの事に、父に願って、私も届け出た。入学の願いがかない、出頭の命に従って登校したところ、集まる者約七〇名。私はその中の最年少組であった。三味線堀の小学校から志願した者の内には、岡胤信者(後の工学博士)、原田鎮次君(後の工学博士)、が一緒であった。この学校には英独仏の三科があり、それぞれ希望する所を書けというので、英語を志願した。ところが英語志望者が大多数であったので、私はドイツ語の組に回された。ここで「アー、ベー、ツエー」の読み方が始まったのである。教師には西洋人が二人ほどいたらしく、屋敷内に住み、また見え隠れに陣笠を被った護衛の士も若干ついて同じ邸内に住み込んでいた。彼ら洋人は外出に際し、いつも乗馬を用い、護衛の士も騎馬でその前後を護って行った。一一歳の少年にとって登校は相当な道程であったが、ただ一人で御徒町から本郷の切通を通り、飯田橋を渡って麹町へ往復した。これより先、既にその前半頃から私は洋学修行の志を持っていたらしく、時の流れを考え、自分の発展を期して父もまた洋学修行をさせたかったらしい。後年父が石賀作助氏に宛てた手紙(明治二年四月九日付)が発見され、その事が明らかになった。石賀氏は祖父が自分の養子として石賀家を継がせた人で、父の義弟に当たり、当時横浜に在住していた。ところが当時横浜の高島学校はいまだ開校の運びに至らず、かつ適当な機関もなかったので、その話はまずそのままとなったのである。





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最終更新日  2016年08月26日 23時39分04秒
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