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2016年08月27日
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2 札幌農学校(三七頁)
札幌を北海道の首府とし、市街を形成したのは、明治五、六年のことである。明治二年六月、中納言議定鍋島直正を蝦夷開拓総督に、ついで同八月東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)が開拓長官に任ぜられた。更に明治三年五月、黒田清隆が東久世長官の下に開拓次官となった。黒田次官は明治七年八月長官となり、明治一五年一月まで在任、「開拓使の黒田、黒田の開拓使」とうたわれた本道開拓の一巨星である。黒田長官が本道開拓政策中特に讃えられるものに二つある。その一は外人の招へいであり、その二は人材の養成である。彼は開拓使顧問兼頭取として米国農務卿ケプロン将軍を初めとし、実に七〇有余名、うちアメリカ人四〇名を招へいし、開拓万般の科学的建設を勇猛果敢に断行させた。当時の国情よりすれば驚異すべき高額であったが、その結果より見れば、実に僅少なる犠牲に過ぎない。知識を広く海外に求め、従来の独善的、島国的根性を離れ、断乎たる新政策を行ったところは今日も大きな訓戒がある。しかし、いつまでも他力本願に甘んずべきではない。ここに第二の大きな手が打たれた。それは邦人人材の養成であり、留学生派遣と学校の建設の二途である。黒田次官は、明治四年正月、海外視察に赴く時、七名の青年をともなって、開拓使から留学させた。内に後の東京、九州、京都の帝大総長となった山川健次郎男爵の名も見える。その後、前後あわせて三〇余名を送り出し、更に人材養成の根本は、女子にありとの見解の下に五人の女子留学生を出した。それは一六歳を年長とし、最幼、津田梅子九歳の少女であるから驚かざるを得ない。開拓使の遠大な抱負も、中途で断絶するに至ったけれども、大学男女共学は七〇年後に実現した。たとえこの第一の方法において成功を見なかったとしても、第二の学校建設においては、それを補填して余りある成功をおさめたのである。ケプロン卿は、開拓使顧問として、北海道の拓殖産業及び教育上に貢献するところが多かった。明治五年に提出した第一年報に「開拓使は科学的、組織的、かつ実用的な農業を起すために全力を傾注しなければならない。この目的を達するには、東京及び札幌の官園に連結して学校を設け、その内において農学の重要なすべての部門を教授することを最も有効にして経済的な方法とする。」と建言している。かくて、明治五年四月まず東京芝増上寺内に開拓使仮学校を設けるに至った。これがわが国で拓殖に必要な人材養成を目的とする学校の最初のものである。北門開拓の基地、札幌は、明治二年島判官が創設にかかった時は、人家わずかに二戸に過ぎなかったが、その後着々建設され、人口二五〇〇名を数えるに至ったので、明治八年八月に学校をこれに移し、札幌学校と称した。これらの学校は普通学を授けたもので、その生徒の学力も進んだので、さらに専門学科を設けることとなり、ここに明治九年八月一四日札幌農学校の創設となったのであって、これすなわちわが大学の真の前身であり、芽生えであった。
札幌農学校開設のため、黒田次官はその指導経営の任に当たる人物の選定を、時の米国駐在公使吉田清成氏に依頼して、マサチューセッツ農科大学長ウィリアム・エス・クラーク博士を得た。博士はホイラー、ペンハローの両卒業生を伴って来朝し、母校の組織にならって、教則を編み、教育を始めた。クラーク博士がいかなる方針と意気をもって教育に当ったか、これを知るには、クラーク博士が八月一四日の開校式に当って開拓使長官、調所校長に続いて行った演説を見るべきである。まず「この最初の農学校の盛典にあずかり、胸の内に満足と感動がある」と前置きし、「今より数年を出ないで北海道の農業を勃興し、大いに生産を開くことにおいて、この学校のあずかって力あることを疑わない」と自信あるところを示し、「黒田閣下が北海道において農学校建立をもって着手の第一とする。盛挙というべきである。願わくは他日この学校の偉功が自ずから今日の公の画策が卓越であったことを表明することを」と述べ、「我輩は、まさに自ら模範となり、また教授となって学生諸子の心思の中において人生有用の器であるために、特に適合する才能を勉めて発揚させたい」と、学生の才能を啓発せんとする、自主的教育法を説き、さらに「回想すれば、数百年間、東洋諸国民を多年暗雲のように包蔵した階級、門地と因習の暴君の手から、この驚異すべき解放は、将来、教育を受けるところの学生の胸中に必ずや崇高なる志を喚起覚醒させるであろう」と、維新大業の性格を明らかにしている。かくて、学生を戒めて「君らはよろしく自国において、勤労と信任及びこれから生ずる栄光の最上地位に適するよう努力せよ。健康を保し、情欲を制し、従順と勉強との習慣を養い、時機の学ぶべきに遭うならば、学術の何かを論ぜず、力の及ぶ限り、その知識と熟練とを求めよ。・・・・・・重要の地位は常に正直で聡明剛毅の人材を渇望している」と説き、「遂にひとり北海道人民だけでなく、日本全国の尊敬と支持とを受け、かつ、これを受けて恥じないようになるであろうことを私は予め潔く信ずる」と結んでいる。この言葉一つ一つを玩味するとき、今日の私たちに、多くの考慮と示唆を与えることを認めざるを得ない。





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最終更新日  2016年08月27日 15時06分47秒



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