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2016年08月27日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
3 ウィリアム・エス・クラーク(四〇頁)
札幌農学校創立者であるドクトル・ウィリアム・エス・クラーク(William Smith Clark)の名は、北海道大学が存在する限り、日本にキリスト教が宣伝される限り、永遠に敬慕の念をもって記憶されるであろう。クラーク先生は、一八二六年七月三一日北米マサチューセッツ州アッシフィールドに生まれ、一八四八年二二歳の時アマスト大学を卒業し、次いでドイツ・ゲンッチンゲン大学に留学、専ら鉱物学及び化学を修め、一八五二年二六歳で哲学博士の学位を得た。帰米後、母校アマスト大学に一五年間化学の教授として勤続された。その間に当時米国において最も完備した化学実験室をつくり、そのため再度ヨーロッパに渡った。一八六〇年南北戦争が起ったため、志願士官として二年間、北軍の兵役に服し、抜群の武勇を現して大佐にまで昇進した。
一八六三年にモーリル法令という議案が国会を通過した。その法令により、米国各州に州立農科大学を設定することになった。マサチューセッツ州では、ボストンに建つことになったが、位置問題に関しては非常な競争が各地に起った。その際先生はアマストをもって最も適当なる地であることを盛んに唱道したばかりでなく、アマスト市民をして、このために特に五万ドルの市債を起させ、遂に同地に州立農科大学を設定せしめた。これは全く先生の努力の結果である。そして一八六七年一〇月二日開校の際には、先生はその学長として、創立経営の任に当たられたのである。これより一一年間、校長としてその職に尽瘁されたが、この期間内一八七六年(明治九年)に日本政府の招へいに応じ、一年間の賜暇を得、在職のまま来朝し、北海道に本邦における最初の農学機関たる札幌農学校創設の大任を見事に果たされ、その基礎を築いたのである。札幌に滞在した期間は、わずかに八ヶ月、その間に遺した所の感化、及び新設された農学校の大方針は、今なお先生の面影を止めている。そして先生は州立農科大学を一八七八年(明治一一年)に辞職し、Floating College(洋上大学、汽船内において大学の設備をなし講座と研究を行い、世界を巡洋航海し、各重要地点で上陸し、その国の風物物産を始め、動植物その他の天然資源に至るまで実地に生きた学問をする)を設立する事を発起したが、不幸にして、資金その他の事情によって中断された。かくて一八八六年(明治一九年)三月九日にアマストの邸宅において死去された。先生の一生を顧みるに、先生は卓越せる教育家であり、また非凡な経世家であった。そして経営の才能にとみ、その計画を実行する力量を豊富に有しておられたのである。





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最終更新日  2016年08月27日 21時54分54秒
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