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2016年08月29日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
ウィリアム・エス・クラーク(四〇頁)
札幌農学校創立者であるドクトル・ウィリアム・エス・クラーク(William Smith Clark)の名は、北海道大学が存在する限り、日本にキリスト教が宣伝される限り、永遠に敬慕の念をもって記憶されるであろう。クラーク先生は、一八二六年七月三一日北米マサチューセッツ州アッシフィールドに生まれ、一八四八年二二歳の時アマスト大学を卒業し、次いでドイツ・ゲンッチンゲン大学に留学、専ら鉱物学及び化学を修め、一八五二年二六歳で哲学博士の学位を得た。帰米後、母校アマスト大学に一五年間化学の教授として勤続された。その間に当時米国において最も完備した化学実験室をつくり、そのため再度ヨーロッパに渡った。一八六〇年南北戦争が起ったため、志願士官として二年間、北軍の兵役に服し、抜群の武勇を現して大佐にまで昇進した。
一八六三年にモーリル法令という議案が国会を通過した。その法令により、米国各州に州立農科大学を設定することになった。マサチューセッツ州では、ボストンに建つことになったが、位置問題に関しては非常な競争が各地に起った。その際先生はアマストをもって最も適当なる地であることを盛んに唱道したばかりでなく、アマスト市民をして、このために特に五万ドルの市債を起させ、遂に同地に州立農科大学を設定せしめた。これは全く先生の努力の結果である。そして一八六七年一〇月二日開校の際には、先生はその学長として、創立経営の任に当たられたのである。これより一一年間、校長としてその職に尽瘁されたが、この期間内一八七六年(明治九年)に日本政府の招へいに応じ、一年間の賜暇を得、在職のまま来朝し、北海道に本邦における最初の農学機関たる札幌農学校創設の大任を見事に果たされ、その基礎を築いたのである。札幌に滞在した期間は、わずかに八ヶ月、その間に遺した所の感化、及び新設された農学校の大方針は、今なお先生の面影を止めている。そして先生は州立農科大学を一八七八年(明治一一年)に辞職し、Floating College(洋上大学、汽船内において大学の設備をなし講座と研究を行い、世界を巡洋航海し、各重要地点で上陸し、その国の風物物産を始め、動植物その他の天然資源に至るまで実地に生きた学問をする)を設立する事を発起したが、不幸にして、資金その他の事情によって中断された。かくて一八八六年(明治一九年)三月九日にアマストの邸宅において死去された。先生の一生を顧みるに、先生は卓越せる教育家であり、また非凡な経世家であった。そして経営の才能にとみ、その計画を実行する力量を豊富に有しておられたのである。
性質と人格 私は札幌農学校の第二期生として明治一〇年に入学し、クラーク先生に直接師事したことはないが、先生の性質、人格、逸事等について収集した材料により、その人となりを考え尊敬の念を深からしめた。先生は少年の頃から負け嫌いで、非常に勝ち気であった。例えば競技においても必勝を期すため非常な努力と練習とを重ね、常に負けた事がない。またケンカをしても負けた事がなかった。この性質が終生の行動に現われ、何事に対しても成功するまで忍耐し、貫き、徹底的に処理された。競争場裡に勝ちを占めんとする精神が、全生涯を通じて最も重要な部分であった。この性質があったために、南北戦争の際には一隊を指揮し、すべての困難に打ち勝ち、武名を高からしめ戦功を立てた。この精神があったために日本政府の依頼に快く応じて、はるばる異郷に来たって永遠朽ちざる功績を遺して行かれた。不撓、奮闘的精神はその体格にも現われ、中背ながら筋骨たくましく、一種冒すべからざる威厳があった。同時に親しみやすい温かみと人をひきつける魅力を備え、教育家としても、士官としても、学生や部下に及ぼす感化は顕著なものがあった。先生の垂下せる黒く太き眉の下に輝く碧眼の鋭い眼光は人を射るごとく、時には柔らかい温情に満ち幼児をさえ近づき慕わせた。先生は老年に至るまで子供らしい無邪気な所が残っていて何事に対しても非常に熱心であった。常にユーモアに富み、また座談に長じ、しばしば青年を集め、驚異に満ちた冒険談、興味ある経験談、逸事等の物語のうちに、彼らに鞭撻教訓を与えた。青年らは先生を愛墓し、尊敬した。先生は正義を愛し、正義のため全力を尽くして戦い、妥協を嫌い、否を否として是を是とし、禁酒禁煙の人であった。
学者としてのクラーク先生 先生はアマスト大学に在学中、地質学教授エドワード・ヒッチコック(E.Hitchcock)氏の感化を最も多く受けている。地質学、鉱物学、化学等に興味を有し、卒業後特に鉱物学、化学を研究するためゲッチンゲン大学に学び、「隕石の化学的成分」という論文を提出し哲学博士の学位を得た。先生は化学を研究しているうちに、植物学に対しても興味を持ち、植物学と化学との関係、植物生理学の方面に興味を抱かれた。一八五〇年ドイツへ留学の途次、ロンドンに数週間滞在中、ロンドン市外のキュー王立植物園の温室内に、その年初めて咲いたビクトリア・レジアという南米アマゾン河に産する大睡蓮の記事を新聞紙上で読み、これを見に行きその雄大な葉と花を見て、植物界における驚くべき生活現象に直面し、感動と畏敬の念に充たされた。そしてキューに匹敵しないにしても帰国後いつの日か植物園を造り、雄大な睡蓮をも植え、植物界の神秘を人々に知らしめたいという希望を起こし、植物学に対する愛着心と研究心とが強烈となった。一八七二年「植物学と農学との関係」という演説の中でキュー植物園で抱いたヴィクトリア・レジアの夢を、アマスト州立農科大学における温室栽培で実現したことを報じている。州立農科大学の創立当時は教官わずか四人で、校長クラーク氏は植物学及び園芸学の教授を兼ね、植物園長をも兼ねたが、その当時の園なるものは名義のみで、実際は紙の上に存在していたガーデンに過ぎないけれども、それを光栄としていた。先生は時勢に先んじて植物生理学に関する実験を企て、ドイツの生理学者をしてその結果を引用させるような有益な発見をしている。この実験は共同研究によって行われたもので、これらの研究中次の二つは最も有名なものである。第一は一八七二年に実験された「植物体における液汁の循環と同液汁の圧力」であるが、研究方針は先生によって計画され、全校で学生や助手等がそれぞれ分担を決め、この研究に従事し完成させた。第二は一八七四年における実験で、それは一層規模の大きなものであって、「植物の生活現象についての観察」であり、全校をあげて研究に従事したといっていい。この実験を手伝った人々のうちに札幌農学校の教師になったペンハロー(Penhalow)、ブルックス(Brooks)両先生の名があり、クラーク先生の長男アセルトン・クラーク(Atherton Clark)の名もある。これは植物の盛んに生育している所の器官が外囲の圧力に抵抗していく膨張力を試験したのである。更に春季における植物根圧の試験をなし、その他いろいろな現象を研究した。これらに対しハーバート大学の有名な動物学者ルイ・アガシー(Louis Agassiz)は讃辞を呈している。「かくのごとき研究をなし、またこれをかく明確に報告し得るものは既にその仕事の報いは受けているのであって、他人からこれに対する讃辞がなくても自ら心に満足を感じていると思う。この論文によってアマストの州立農科大学は学界のうちに一つの確固たる位置を占めた。学術界においては何か貢献するのでなければ、その学校は存在の意義を認められないわけだ。この論文は植物生理学にとって実に驚くべき所の発見である。この学校が今日までに消費された経費は、これによって全く償われた。」先生はこの論文によりアマスト大学より名誉博士(L.L.D)の学位を得た。先生は農学に取って各種の科学はみな密接な関係をもっているが、特に植物学は科学的農学の基礎をなしていると考えられていた。
教育者としてのクラーク先生 クラーク先生が札幌を出発された時に、当時の学生職員等は島松まで見送った。その時別離に際し日本の青年に対して遺された言葉はすなわち彼の有名なるBoys, be ambitious!であった。言葉は簡単であるが、その意は実に深い。「青年よ。汝ら大志を抱き、小成に安んぜず、力の限り努力して、向上発達を図り、国のために尽せよ。」という教訓である。これは単に学術を習得するのみならず、身体の健全を図り、精神の修養を怠ってはならないという事である。この事は明治九年先生が札幌農学校の開校式においてなされた演説中にもよくその精神を発見する事ができる。先生はほとんど完全な理想に近い教育家として差支えがないであろうと思う。それは一方学生の徳育、知育、体育等に対して稀に見る所の経綸を有し、着々自分の主義理想としている所を実行して成績を挙げられたのみならず、教育行政家としてもまた非凡なる才能を現わしたのである。実際上第一の校長としてはその基礎を完全にし、かつ一種の特色を作興した。すなわち農業教育の他、国民として欠くべからざる所の諸学科=修身学、心理学、文学等=を授け、また練兵に重きを置いて、歩兵科、砲兵科等を創立当時より実行するようにしたのである。なお研究の精神を学校の生命として、職員学生間にこれを普及奨励したのである。かかる点から見ても決して通常の教育家に期待する事のできないあるものをもっていたのである。学生を指導感化するに際しては自ら先んじてその範を示し導かれた。札幌に来られて最初に試みられた所の大改造は、学校に関係する教官学生をして禁酒、禁煙及び賭博と涜神誓言を禁ずる誓約文を起草して自らまずこれに署名し、他の教授学生にも加盟せしめた。第一期の学生等の如きは先生の感化によって全級これに署名した程である。先生は日本の学生の堕落し健康を破るものの最大原因は、全く飲酒と喫煙にありと見抜いて、開校式の式辞においても既にその事について述べられている。それは学生の徳育及び体育にとって最も大切なる改革はこれが制欲である事を認められたに相違ないのである。また先生は学生の勇気を鼓舞するために自ら率先して冬期間手稲山に登ったり、盛んに屋外の運動や植物採集などを奨励し、山野を跋渉してその範を示された。時々学生の寄宿舎を廻り、日中勉強している者、すなわち午後読書するがごとき者は、これを戒めて屋外の新鮮なる空気を呼吸すべく勧告された。なお学生に対して雪合戦を挑むがごとき事さえあった。先生が作られた札幌農学校の学則を見ると、マサチューセッツ農科大学のそれと同じように、農学及びそれに関係ある諸基礎学科の外に、英文学、英語討論、演説法、歴史、心理学、兵式体操等を加えたのである。本邦の官立学校において兵式体操を実際に行ったのは実にこれをもって嚆矢とする。この事が黒田長官の札幌農学校を設立した主旨に不思議にもまたよく符合している。設立当時の覚書の要に 「札幌農学校の設けたるや、その学生を養成して拓殖業務の衝路に当らしめ、殖産興業の実を挙げしむるにあり。すなわち泰西新進の学術技芸を巧に応用せしめ、進んで一国をして学術の効果顕著なるを知らしむるに在り。これを以て学生に自修の精神を重んぜしめ、将来社会に立脚の地歩を強固ならしむるものとす。云々」とある。米国においてもクラーク先生は学者としてよりも教育家として知られているくらいで、米国人名辞書には米国の教育家としてその伝記が綴られている。
宗教家としてのクラーク先生 宗教家としてのクラーク先生は米国においてはただ熱心な一信徒であった。札幌滞在わずか八ヶ月間の先生が、いかにキリスト教の伝道に従事して偉大なる感化を遺されたかということは、最も注目に価すべきことである。先生は学者であり教育家であって、宣教師ではない。先生が専門学科教授のかたわら、学生に聖書を教えられたのは、日本の青年が身を修め、徳を養い、国家のために忠実なる臣民となさんがためである。明治九年の頃、官立学校においてバイブルを学生に、教室において教える事を黙認されたということは、実に不思議な出来事である。黒田長官は学生の品位について心を用いられ、札幌農学校の前身の東京の仮学校の時代にも生徒の不品行を憤られて全学生に退校を命じた場合もあった。先生と共に黒田長官や第一期の学生等は御用船玄武丸にて品川湾より小樽港に航海の途中、ある時学生等は甲板上で俗歌を唄うなど実に乱暴であった。黒田長官は非常に怒られ、こんな学生は到底見込みがないから函館から追い返せと命じた。航海中特に謹慎を命ぜられてその場は納まりが付いたが、黒田長官の心は穏やかでない。ここにおいて黒田長官と先生との間に徳育問題の問答となった。長官は先生に対し専門知識の外に学生徳育のため修身学をも教えることを懇請した。先生は快諾したが、徳育を施すにはバイブルを用いるのでなければ何ら効を奏することはできないと主張した。長官はバイブルを用いることに反対し、互いに堅く自説をとって譲らなかった。札幌へ着かれて長官は更に深く学生の徳育の必要と、また先生の人格熱誠に感動され、自説をまげて徳育のことは一切先生に委ね、バイブルを一の文学、修身学書として教えることを黙認した。この時先生の荷物の内には横浜で購入したバイブル数十冊が学生に配布されるべく用意されてあった。先生は毎朝授業に先だち聖書の講義をなし、学生をして名句を暗誦せしめ、彼らのために熱祷を捧げ、次第に彼らを導き感化した。明治一〇年四月札幌を去られるに先だち、「イエスを信ずる者の誓約」を起草し、学生中有志の者に署名せしめ、第一期生は全部第二期生もほとんど全部署名するに至った。先生は帰国後も札幌に思いを馳せられ、文書で彼らを奨励し、特に信仰上の働き、その奮闘ぶりを聞き、この上もなく喜ばれた。先生が臨終の際に牧師に語られた言に、「今自分の一生を回想するに何ら誇るに足るようなものはない。ただ日本札幌において数ヶ月間、日本の青年に聖書を教えたことを思えばいささか心を安んずるに足る」と。先生がいかに熱誠をこめて教導された推察できる。
クラーク先生を記念するもの 明治一〇年四月、クラーク先生は札幌を去るに先立って「イエスを信ずる者の誓約」を起草し、一期生の有志の者に署名させたが、二期生もほとんど全部が署名するに至った。その後、署名者の約半数は信仰を捨てたが、残りの半数は毎週集会を開き、聖書を研究して信仰を練り、卒業後、明治一四年同志は外国の教派と何ら関係のない札幌独立キリスト教会を設立した。クラーク先生の遺業の一つであるこの信仰の一団体は幾多の困難の内に成長発達した。大正元年に内村鑑三氏が独立教会応援のために来札した時、クラーク先生の宗教的な働きを記念すべく、札幌独立キリスト教会の会堂が、大通西七丁目に建設された。大通りにおける由緒ある教会堂として、札幌市民にも愛慕されている。





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最終更新日  2016年08月29日 01時14分44秒
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