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2016年08月30日
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カテゴリ:遠州の報徳運動
掛川の報徳運動ー岡田佐平治・良一郎父子による地域振興(「江戸時代人づくり風土記」22)

 倉真(くらみ)村に生れた岡田佐平治は二宮尊徳が説く報徳思想に感銘し、没落した自家のたて直しと村おこしに情熱を燃やします。尊徳に弟子入りした子の良一郎も父の志を継いで、報徳運動に尽力するとともに、明治維新後の地域産業振興に貢献した。

 岡田家は遠江国(とおとうみのくに)佐野郡倉真(くらみ)村の豪農である。先祖は三河から移住したと伝えられ、代々佐平治を名乗っていた。ここでいう佐平治は7代目である。名を清忠(きよただ)、号を無息軒という。
 佐平治が尊徳を始めて知ったのは嘉永元年(1844)4月である。その翌月、掛川宿で偶然の機会から安居院(あごいん)庄七から教えを受けた。 
 安居院庄七は相模国大山の生まれで、入婿先の穀物商売に失敗し、報徳仕法の評判をたよりに尊徳を桜町陣屋に訪ねたのは天保13年(1842)7月である。しかし尊徳には面会も許されない身分で、陣屋の雑役をしながら、尊徳が弟子に教えているのを立ち聞きする程度だったが、教えの一端を理解した。その後、万人講(神社の参詣、寄進のため、大勢の人が集まってつくる講)の勧誘に従事して各地を巡り、遠江にもやって来た。安居院は報徳の考え方や救貧興復の仕法を伝えたが、同時に稲の正条植え(稲の列を正しく整え、株間を一定にした田植え)など先進の農業技術も教えた。
 
 安居院の説教に感動した岡田佐平治は、その年の嘉永元年(1844)12月、自村の倉真(くらみ)村に報徳連中を結成する。加入者30人だった。
 佐平治は、この時善種金として金42両、米21俵を差し出した。善種金とは、報徳連中がそれぞれ自分の身分や収入に応じて「分度」(自分の収入に応じて支出に一定の限度を立て、その範囲内で生活し、余剰を生むこと)を立てた生活をし、その余剰を他に「推譲」(「分度」にしたがった生活によって生じた余剰を他へ譲ること)し、報徳善行を行う際の基金としたものである。佐平治が差し出した善種金は村内各集落に分け与えられ、困窮した農家の建て直しに役立った。
 勤労と節倹も、推譲とともに報徳があげる重要な徳目である。尊徳は、「人間は自然のままに身をまかせるのではなく、人間としての努力をしなければならない」と強調した。その最大の実践課題が勤・倹・譲である。
 倉真(くらみ)村の報徳連中は厳しい掟を作った。
「朝起き、夜なべの縄ない、農耕肥培の丹精、日常消費生活の切りつめ」などである。佐平治の身の入れようはひととおりでなく、村内を督励して回った。
 そのため、村内のほとんどの家が報徳連中に加入し、善種金も4年後には160両あまりに増えた。
 倉真村における村のたて直しのうわさが広がると、遠近(とおとうみ)から岡田佐平治にもとへ仕法を依頼に来る人が集まり、佐平治も積極的にこれにこたえた。嘉永4年(1851)から6年の3ヵ年だけでも、佐平治が指導した仕法は約30例にのぼる。地主・農民・商人の家政改革、それに旗本近藤氏所領の貧窮村の復興などである。
 こうして報徳運動を進める佐平治には願いがあった。「尊徳先生に会って教えを乞いたい、指示を受けたい」ということだった。その機会は嘉永6年9月に訪れた。佐平治は、6人の報徳連中惣代とともに日光桜秀坊(おうしゅうぼう)に尊徳を訪ねた。一行はそこで各地仕法書や教義書を書き写したり、門弟から説明を受けたりした。
 尊徳は佐平治に対し、「岡田家の仕法は相模国片岡村の大沢家仕法をモデルにしたらよい」と教えた。村に帰った佐平治は、ただちに過去20年間の家計収支を委しく調べ上げた上で「分度」を定め、余剰の中から、60年にわたり毎年米50俵を「推譲」することとし、そのことを書き記した家則「雲仍遺範(うんじょういはん)」を制定した。
 佐平治は、岡田家の「推譲」をもとに掛川範領内へ報徳運動を広め、貧しい農民を救い、村々をたて直そうと考えた。そのため仕法を行うための報徳金として推譲米と金100両を領主に上納する。これに対し領主は帯刀御免・五人扶持の格式を与えるとともに、領内村々の建て直しを指導することを命じた。以後、明治初年にかけて佐平治が行った仕法村は、彼の伝記である「無息軒翁一代記」にあげただけでも16ヶ村にのぼる。


雲仍遺範(うんじょういはん)岡田佐平治

古人云、財用の節を制し、入るを量りて以て出ると為す、
因て天保五年より、嘉永五年に至る二十年、毎歳所持の田圃、加地子(小作料)の入る所と、調度冗費の出す所を列ね、及び加地子、貸金利息を合せ、入る所と、冗費の出す所を並べ顕し、又田地土工の費を挙げ、毎條総て均平に商量し、以て一歳出入の用度を定め、家則を制するの基本となし、子孫に示し、其の度に過ぎざらしめんため、子細に條列する左の如し。

(毎年家徳延縮調   天保五年~嘉永六年 略
 散田米手作共年々調 天保五年~嘉永六年 略
 年々地普請入用調  天保五年~嘉永七年 略
 甲寅年~癸年 一金七十三両一朱永四十一文二分 内米五十俵 窮民撫育の為上納 略)





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最終更新日  2016年08月30日 00時35分08秒
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