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2016年09月25日
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報徳遠譲社
1 所在地
 遠江国磐田郡三川村山田27番地
2 沿革
嘉永年間相模国大住郡蓑毛村の人、安居院庄七が遠江地方に来て、報徳の道を盛んに唱えて専ら衰退した村を救済する方法を教えました。文久三年(一八六三)庄七の没後これを継承する者がなく、報徳の道が次第に衰退することを心配し、有志の者が相談して相模湯本村〔神奈川県小田原市湯本〕の福住正兄に教師派遣のことを求めたところ、慶応三年(一八六七)に小田原報徳社員の福山瀧助が来て、身をもって実践し、報徳の方法を説いて多年にわたって結社を誘導することに尽しました。その結果は空しくなく、二〇有余の結社を見るに至りました。このことによって難村を救済し、風俗を正す端緒を開いて、一郷一村の人心は大いに和合しました。明治四年(一八七一)八月推譲の道を永遠に行うことを名称とし、始めて遠譲社を組織しました。これを本社として各社を総括することとしました。以来遠近これを聞いて結社するものが多く、社員が多く増加したので、明治一二年(一八七九)一〇月始めて社則を定めて官庁の許可を得て、社務を拡張しました。明治二二年(一八八九)に至って社数が増加にともなって統轄上の必要より六つの分社を設け、各分社に属する支社を取り締まることとし、なお本社は分社と分社の支社を合せて監督することとした。明治三二年(1一八九九)一〇月に民法の施行に際し主務官庁の許可を得て法人としました。
3 組織
その目的は故二宮尊徳の遺教を奉じ、善行をすすめ、弊風を正し、貧窮をあわれみ、富強をはかることです。その目的を達するために四種の報徳金があります。ア善種金、イ土台金、ウ、元恕金、エ加入金
善種金は二宮尊徳自ら善種金として、小田原報徳社へ寄せたものより分与を受けたものと二宮尊親より受けた金円とであって、善種を蒔き善果を収める趣旨に従い、これを各分社及び支社に無利息貸付をすることにあります。土台金は社の基礎を固める目的で成立した金員で次の種類によりなります。ア二宮家よりの下付、イ特志者の寄付金、ウ無利息貸付上より生ずる元恕金を総会の決議により編入したもの。元恕金とは無利息貸与を受けた社もしくは社員が返済の終りに謝恩のために差し出した金員をいいます。加入金は社員が報徳の道に賛同し、次の種類により差し出すもので、請求によって年度末において戻すことがあるものとします。ア縄ないまたは日課積金、イ冗費〔むだな費用〕を節約した貯蓄金
   資金取扱方法
 資本貸付の方法はすべて無利息貸付とします。そしてその貸付には五か年賦、七か年賦、一〇か年賦及び一八か月賦があります。また社員中に特別の事情があるものに対しては救助のため無利息置据貸付を行うことがあります。また農業につとめている精業者に対しては奨励のために特別貸付を行います。 毎年末(一〇月)に貸付金を回収すると同時に、また新たに貸付を行い、専ら社金の活用をはかります。 毎年一〇月に総会を開いて事業の方法、年末収支清算報告、翌年度の収支予算その他いろいろな案件の議定を行います。本社は毎年三才報徳現量鏡を作製し、これを北海道本社興復社と小田原報徳社とに送ることを例とします。現量鏡には一年限りのもの及び創立以来のものとの二種があり、年々これを作製します。
4 事業
本社の事業としては分社及び支社を監督すること
ア各社を巡回し教義の普及をはかること、イ社員の美徳を表彰すること、ウ分社及び支社の中で非常の災害にかかったときはこれを救助する方法を講ずること、エ社会における非常の出来事に対しては応分の義務を尽すこと。分支社の事業としては各社とも毎月一回定まった日に社員の集会を開いて善種金の積立に余業日課積立に社員に貯蓄を奨励すると同時に徳義心の涵養に努め、また農事の改良を企画している。各社とも資金の無利息貸付を行い、専ら社員に金融の便宜を得させるといいます。
① 貸付
 本社は各社の必要に応じ無利息貸付を行い、分社及び支社は各社相応の事業を行う。その事業の概要は次のとおりです。農具肥料購入資金のための貸付、荒地開墾・山林植樹資金、道路・橋梁・堤防の修築及び改善資金、商業資金、社員の家政整理のための貸付〔明治三六年末貸付金高は省略〕
② 風教〔徳によって人々を教化すること〕
 風教を正すことは報徳社の最大の目的ですので、各自は率先して実践躬行の実を示し自然にこれを他に及ぼさんとするにあります。ですから本社の教義を盛んに広めるには推譲を旨とし、無利息貸付法を行うには貸し付ける人を選ぶ投票により、社中転々これを貸し付け、道徳・経済相互に発達させることをはかります。創設者の福山瀧助より現在の役員及び社員にいたるまで専ら道義を発揮し、経済を助長することに尽瘁しました。ですから報徳の道の起こるところ、風俗の改良されないところはなく、世人はこれを名付けて報徳風というようになりました。 この事績の一二を挙げれば次のとおりです。
 磐田郡久努村菅ケ谷部落〔袋井市国本〕は、昔は東海道の人馬を継立ての要路であったため、知識がなく悪習に流れ、業務を怠り、困窮難渋に陥っていました。明治一五年村内一同が報徳に加入し、その教義に基いて各自が仕事に努め勤倹貯蓄を行ったことから面目を一新した。初めは怠惰やぜいたくの風習が盛んでしたが、報徳の教訓を受けてからすぐに一変し、ぜいたくの風習は質素に変わり、おのおの推譲の考えを起し、風俗が大いに改まるにいたった。
 周智郡山梨村〔袋井市山梨〕は、森町、二俣町、見付町、袋井町等へ通ずる中央の地で、荷物運搬に便利でした。農工商業が繁栄した土地でしたが、これまた贅沢の風習をなし自然と貧窮に陥りました。有志の者が、これを心配して報徳社を組織し、以来贅沢を禁じて、勤倹貯蓄を奨励した結果、風徳は非常に改まり、各自業務に勤め励むようになりました。
②  水利土木
 磐田郡三川村字山田〔袋井市山田〕、山田社社長金井平六(遠譲社社長)は明治14年(1881)に報徳金179円余の貸付を受け、淵田より字川田まで長さ550間の用水路を開さく竣成して、なお地蔵前の堤防長さ50間を修築し、水害の憂いを免れさせました。また田地改良の基因である用水悪水用の2管が従来木製だったものを報徳金によって石門に改設しました。明治二〇年頃より水田を干田とし、馬を使った耕作を始め二毛作の耕地の増加をはかり、収穫の増進を企画しました。山田地方は山地で干し草、肥料等の運搬に大変不便でしたので、一、二〇〇余円の資本を投じて新道を開さくしました。その費用は本社よりの貸与金一五〇円と山田社の資金五三四円余のほかに人夫数百人の寄付によって竣功し、到るところ荷車が通じないところがなくなりました。
周智郡宇刈村春岡〔袋井市春岡〕に水を湛えた地が多く、これを憂え力をあわせて悪水路の開さくに着手し明治三一年(一八九八)に竣功しました。その費用2千余円を要したといいます。
磐田郡磐田村寺谷〔磐田市寺谷〕では、明治二五年(一八九二)に寺谷新田より以南、匂阪上南端に至る延長千有余間の堤防に強固な改修工事を施して水害の恐れが除かれ、村民は安心しました。
周智郡飯田村〔森町飯田〕は太田川が村内を貫流し、出水の時は、通路をふさぎ、わずかに渡し舟で往来することができるだけで、ひとかたならず不便でした。そこで一同が協議して、明治一二年(一八七九)四月に字中組に長さ六〇間の橋梁を架設しました。人々は報徳橋と呼びました。その影響により森町にある森川橋の渡り賃が廃止されました。明治二五年(一八九二)字上組に一二〇間の長橋を架設し大いに人々の便利をはかりました。
③  殖産興業
 磐田郡下阿多古村上野部落〔磐田市上野部〕は、四境すべて山で囲まれ、したがって耕地は狭く、地味は不良で、田畑ともに収穫が少なく、紙すきなどの副業によってわずかに食糧を得ていました。明治一六年(一八八三)非常な災害にかかって一層困苦に陥った。妻は寒さに叫び、子は飢えに泣くという悲しい境遇に沈みました。有志の者が救助の手段を尽したが、容易にその目的を達することができません。そこで金井利太郎について報徳の教えを受けて上野報徳社を組織し、以来各自が勤め励んで家政を復旧し、人心が結合しました。その結果、農事に心を注ぎ、山林の開拓や肥料の共同購入、農具の改良など着々と進歩しました。なお副産物として製茶、養蚕を行うなど、一村の面目が一新するようになりました。そこで同社員一同の協議によって山林に杉苗一万三千本を植付け、毎年社員一人について五日間まで下刈などを行った結果、有用な材木となりました。また同郡阿多古村米沢では、明治二〇年(一八八七)山林の火災にかかって立木の大半が焼失したため、この回復のため一〇町歩に対し杉苗を植えて、これまた社員が交互に下刈りなどに従事しているといいます。
⑤ 教育
 教育に関して特に挙げるべきものはありませんが、社中青年の夜学を奨励しました。また毎月定日に行う道徳経済に関する集会は、社員の老幼を問わないで出席しますので、徳義心の涵養、知識の開発など間接に教育の一端となること少なくありません。
⑥ 賑恤〔貧困者などを救助すること〕
 周智郡山梨〔袋井市山梨〕近傍は明治一三年(一八八〇)一〇月激しいヒョウのため非常な惨状となりました。老幼が道に苦しみ、ほとんど離散の状況でした。そこで報徳社を結び、本社より多くの借入れを行い、以来社員一同は報徳の趣旨を守り、勤倹貯蓄を行って回復することができました。
⑦ 難村救済
 磐田郡三川村字山田〔袋井市山田〕(山田社)は、戸数七〇戸の部落ですが、明治五年(一八七二)八戸を除く外すべて負債者でその額は千三百両(当時)余りに上り、これを処分するには六〇戸余りが離散せざるをえない悲しい境遇に陥っていました。八戸のものが協議し、福山滝助を招いて救済の方法を依頼しました。滝助はその請求を承知して、明治五年(一八七二)二月山田社を組織して負債償還の方法を講じました。明治一二年(一八七九)には旧債務の弁済を終了し、明治一五年(一八八二)より溜池の開墾や道路・橋梁の改造、山林の開拓など各種の事業を起しました。現在同社は六、七〇〇有余円の資金を有するようになりました。
⑧ 善行者奨励
 各社とも善行者に対しては奨励のため特別貸金を行う。また毎年社員の投票により農業に努める精業者を定めて奨励のため農具等を賞与します。
⑨ 時局に対する施設
 特に方法を設けたものはありませんが、軍事公債の応募、恤兵献金、軍人家族救助のために社金を支出しました。
5 本社、分社、支社社員数及び資産〔総計七七社、二三七二人、表は省略〕
6 創設者福山滝助の小伝
○滝助は小田原の菓子商で、高木氏から報徳の教えを学んで感動し実行を誓った。滝助は、相模国小田原菓子商の里見久蔵の四男で、文化一四年(一八七二)四月二八日生まれました。幼くして孤児となり母に養われ、極貧のなかに育ちました。性質は温厚で忍耐強く記憶にすぐれました。若いとき、菓子を肩にかついで日々行商を営みました。天保一三年(一八四二)の頃、村落を巡回行商したところ、いたるところ報徳報徳と唱えて買う者が少なく、売上げがいたって少ないため、帰る途中ある商家に報徳とは何かを質問したところ、主人が答えるには「報徳とは二宮尊徳が主唱する方法です。この方法を実行するには、あえて物を販売してはならないというのではなく、ただ四文で売るものは三文で売って、原価で売る商いを行うものです」と報徳のことを談じました。福山滝助はこれを聞いてその意味が深いことを知って、深く研究したいと欲するようになりました。隣家の浜田屋より小田原藩陪臣になった高木治左衛門という者があって、報徳の法を長年実行していました。ある日生家に来た高木氏が滝助に説いて言いました。「この道は天理自然に基いて五倫の道を説き、勤倹貯蓄の要より推譲を本とし、廃村や衰国を振い起す教えである。だから徳をもって徳に報いる心を失わないようにするため、専らあつく実践する者を奨励する。その方法としては日課金(余業積金)を集め、これを有用の資金に無利息貸付を行って、産業を増進することにある」と、報徳の説が至誠に出て、あえて偏るところがなく、その原理は神仏儒の三道にのっとり、よく人情に符合することを滝助に教えました。滝助は感奮してついに報徳の道を実行しようと心に誓いました。
○滝助は小田原報徳社の結社に参加し、常用以外の衣服を売って加入金とした。天保一四年(一八四三)三月に小田原町の小島屋忠次郎、竹本屋幸右衛門、百足屋孫七の三人が報徳結社を計画しました。賛成者一九名を得て一社を興しました。これが小田原報徳社の初めです。滝助は進んでこれに入社しました。入社の際には必ず加入金を要しますが、当時滝助は兄に寄食している身であったために、これにあてるべき金銭物品がありませんでした。そこで実兄に頼みました。「今年は冬夏二期の衣服の新調は必要ありませんので、お金で代わりにください。」金二分を貰い受けて、これに常用していた煙草入れを入社後は禁煙とするので不用だからと六〇〇文で売却して、二分と六〇〇文を加入金として寄入しました。後にまた自分の衣服で常用以外のものを全部売却して七両二分の加入金として寄入したといいいます。滝助二六歳の時で、その熱心さを思うべきです。
○滝助は尊徳から形の大切さを教わった
 天保一四年(一八四三)八月に大久保加賀守の江戸藩邸に二宮尊徳が滞在していた時、小島屋忠次郎の紹介によって初めて尊徳に面会しました。当時尊徳の門人の相馬藩の家臣富田久助(高慶)、吉良八郎を初め五〇余人列席していたという。尊徳はまず滝助の職業を質問しました。滝助がすぐ「菓子業です」と答えると、尊徳は言いました。「菓子の菓は因果の果である」同席の福住正兄が言いました。「果と菓とは相違します」尊徳は言いました。「差があるにもせよ、菓の字と果と同一である。まず第一に必要なのは形にある」と諭されたといいます。 滝助は社に入って後、よくこの法を実行したため、小田原報徳社より金一一両を無利息貸付に当選しましたが、これを辞退しました。その後、実兄が金二〇両を与えて「これを資本として一家を興すがよい」と言いました。滝助は報徳金一〇両を借り受け三〇両の資本を得て、初めて小さい家を借りて独立生計を営みました。福山某家の絶家をうけて、福山をつぎました。それ以来天秤棒一本で日々菓子を売り歩き、家を出るとき家の戸に鍵をさし、帰ると鍵を開き、一生懸命家業に従事しました。ある時、金三〇両の資本に一割の利を付して六〇年を経て利倍増殖金六四八四両余となる予算を作って実兄に示しました。滝助は思いました。「私が八八歳になれば非常な巨額に上る。この小田原の町二千戸中、肩をならべるものはないであろう」と。金三〇両を兄に預託し、事業につとめました。飲食は一日一〇〇文と定め、それ以外の利益は兄に託して、留守を母に頼んで一年の後、決算し多少の剰余を生じました。そこで妻を迎え、さらに広い家を借り営業するようになりました。年々決算ごとに剰余を得、借受金一〇両は五年間で返済し、残金は元資に加え、八か年での積立は四五両六貫三〇〇文となりました。そこで利倍増殖はやさしいようで難しいことを知り、ほかの方法で小田原報徳社をうるおし、また増殖の道をはかったほうがよいと、ついに一か年六両までを一一年間報徳社へ寄付し、そのほかへ加入金を寄付しましたが、なお生計に困難を感じなかったといいます。その精業のほどを思うべきです。
○滝助は遠州の報徳への教導を決意し、岡田佐平治に会った
 安居院庄七という者が遠江国に来て大いに報徳主義を唱導して各社で結社が興ったが、庄七が亡くなった後、その数は次第に少なくなり、事業もまた荒廃しようとしました。慶応二年(一八六六)二月遠江国浜松町の小野江善六が商業のため、江戸におもむいた際に、前川村の瀧川庄右衛門に立ち寄って安居院死後、岡田佐平治が社長となって報徳の法を実行しているが十分行われていないので、良い教師を派遣して挽回してほしいと依頼しました。その年の秋、庄右衛門は滝助の隣家に来て滝助を招いて「近頃、遠江より熱心な報徳教師を派遣してほしいという依頼を受けた。あなたが出張して尽力してもらえないか」と言いましたが、滝助はこの依頼を断りました。慶応三年(一八六七)遠江国佐野郡倉真村の岡田良一郎は湯本村の福住正兄方に行って、報徳先輩の派遣を懇々と依頼を行ったので、正兄は滝助を招いて遠江に出張し、報徳の道の挽回に勤めるようにしきりに勧めました。滝助は報徳の道のために尽す事は自分のためでもあると決心して、秋葉山参詣を兼ねてとにかく行ってみようと同年三月出かけました。途中小夜の中山でかの有名な飴売りのおばばに倉真村へ行く道を聞いて岡田佐平治にあいました。岡田家に泊まって佐平治と長男の良一郎とともに報徳談を行いました。良一郎は滝助を留める気持ちがありましたが、父佐平治は掛川領の大庄屋で、領内一般に報徳の道を広めたいという希望があり、そのため先輩の派遣を依頼したところ来たのが菓子商だったので、人の信用は安居院のようでなければ大事を託しても成就することは困難だろう、今一層地位のある人を得たいと思いました。滝助は佐平治の気持ちを察して「あなたと事をともにする日もあるでしょう」と岡田家を辞去しました。
○滝助は森町の新村里助、浜松の小野江善六と会い、以後報徳普及を行う
 滝助は森町の新村里助方に行って岡田の紹介状を示して面会し、報徳談を行いました。それから滝助は秋葉山に詣で、帰りにまた二、三日新村方にいて、それから深見村伊藤七郎平を訪ねましたが不在でしたので、浜松町の小野江善六方に行って報徳談を行いました。その他各所を巡回指導しました。慶応三年五月滝助は小田原に帰着しました。その後年日光今市の二宮尊徳を訪問して教えを受け、遠江の巡回のことを語って、帰宅したのちに時々遠江に出張しました。明治四年(一八七一)各地に結社数が増加したことから遠譲社を組織し、大いに報徳の道の拡張に勤めました。
 明治六年一月新村豊助と小田原付近の報徳社を巡回しました。同年小田原報徳社より報徳善種金一二〇両を貸与について滝助が請け人となって、新村がこれを借り受けて、共に遠江に帰りました。各社に協議して森町新村方に大会を開いて恩貸金の事を述べたところ気賀町の鈴木徳右衛門が「各社よりも加入金を出してこれに加えたらどうだろうか」と提案し、各社とも賛同して応分の加入金を出して一二〇両を得ました。これに森町・気賀村の二報徳社の増加入金一〇両と恩借金一二〇両とを合せて二五〇両とし、これを各社にそれぞれ貸与することとなったといいます。
○滝助は死ぬまで遠江・三河への報徳普及を行った
明治二五年ごろ、滝助は三河国に出張し、報徳の道を盛んに広め、結社を誘導したため、社数は次第に増加し明治二五年になって一五社に及びました。明治二四年一二月当時内閣総理大臣松方伯爵より信用組合論二五部を下賜されました。同年故二宮尊徳に贈位の恩典があり、滝助は聖恩のかたじけなさに感泣しました。またその当時各地に二宮式典が行われたことをきっかけに信用組合論を下賜されたことを社員に紹介したといいます。明治二五年八月に三河国八名郡山吉田村の社員が遠譲社に来て、滝助の出張を求めました。当時滝助はすでに七六歳、なお報徳の道が衰退していることを憂い、寝食を忘れてこれに従事していました。遂に求めにしたがって同地に出張し、報徳社運の挽回につとめて巡回中、明治二六年四月一六日病気にかかって同地に没しました。七七歳(数え)でした。
○滝助は自分で用いるものは薄く、自費自弁主義の大切さを身をもって示した
 滝助は容貌は体つきが大きく、性質は淡白で、自ら用いるところは大変薄く、巡回するにも一つの菅笠、一本の杖と竹行李を背負い、ワラジをはいて飄然として行きました。そのありさまは商人のようです。そしていたるところで人々を集めてじゅんじゅんと話しました。その持てる限りを尽くしたために、人は皆尊敬したといいます。
7 現任社長の履歴
静岡県磐田郡三川村 金井兵六
 明治五年(一八七二)二月に小田原報徳社員福山滝助が山田村滞在中にその教化を受けました。父が没してその後を継いで明治一四年(一八八一)三月山田社副社長及び遠譲社副社長に推選されました。その後、天竜川東社総代に選抜され、小田原に出張しました。明治二一年(一八八八)遠譲社大改革の際に委員に選抜され、打ち合わせのため磐城国行方郡二宮尊親並びに富田高慶を訪問しました。同二二年(一八八九)五月第二分社社長、本社副社長勤務、同二四年(一八九一)本社社長、第二分社社長、山田社社長を兼務することとなりました。同二五年(一八九二)相模小田原報徳二宮神社建設の際に遠譲社より委員として出張し同建設に尽力しました。明治二六年(一八九三)四月福山滝助が三河巡回中に死亡したことから、社員と協議して葬儀を行いました。明治二六年(一八九三)六月三河国八名郡を巡回しました。同二九年報徳の教義布教勉励の理由で静岡県知事より木盃を賜りました。明治三〇年(一八九七)本社社長を辞任しましたが、明治三一年(一八九八)再び社長に推挙されて、以来引続き社長です。





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最終更新日  2016年09月25日 17時53分41秒



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