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2016年09月27日
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カテゴリ:遠州の報徳運動
岡田無息軒翁一代記抄 岡田淡山(「報徳」一九六六年七月号)
(一)翁の家系と一家の衰微
 文化九年(一八一二)七月十日、岡田佐平治清忠生れる。無息軒と号し、幼名は佐次郎と言う。父は佐平治、名は清光、母の名は田鶴、市川市は周智郡下山梨村市川孫右衛門の女(むすめ)である。二男三女を生む。長女「雪」は早く死す。二女「益」は山名郡川井の一木氏に嫁す。次男勇吉は文政九年二月を以て病で死す。三女三ツ掛川宿の鈴木陸平紙に嫁す。その次を佐次郎となす。佐平治の家は本姓加藤氏、肥後の守、清正のすえに係ると雖も、先世微々徴すべきなし、中宗曾次兵衛、専ら農事を営み、その子佐平治に至って、大いに基業を起し、田宅備り、貨財富む。子孫世々産業をおとさず、祖父清弥に至るまで、質朴を家風とし連年増殖し、名は遠近に聞こえる。清弥六男三女を生む。年五十五才で没す。子女はみな驕奢放縦で貨財を視ること瓦礫(がれき)の如し。嗣子(しし)清光酒に沈面し業を怠り弟妹を治めることあたわず。家法は乱れ、各自数千金を糜爛する。加えるに享和中、火災にかかり清光の末年、財貨ために空しくする。その妻市川氏は賢にして節操あり。簿冊僅かに存するも、その力による。

(二)翁幼時五たび転々として親戚に養わる
 文化十四年(一八一四)、清忠六才にして、別家重兵衛の家に養われる。重兵衛は宝暦中の分家するところなり。このとき主人倹素にして、やや貨財優かなり、よく書算に通ず。文政元年(一八一八)清忠七才にして佐野郡日坂宿の大須賀鬼卵の家に寄寓する。鬼卵はもと大阪の人で陶山と号し、書画及び著作を事とする。文政二年清忠八才にして周智郡下山梨村市川孫右衛門の家に養われ、市場村加藤与左衛門の塾に通学する。孫右衛門は母の戚なり。与左衛門は学があり詩賦に巧みなり。文政三年(一八二〇)清忠九才にして、駿河国島田駅の和田長左衛門の家におる。同五年に至るまで、大井神社の祠官大井健司の塾に通学する。長左衛門は清忠の叔父なり。更に文政六年に至り清忠十二才にして山名郡中泉村の青山忠兵衛の家に寓す。同七年に至るまで大乗院に通学する。忠兵衛は清忠の叔母の夫である。文政八年(一八二五)、清忠十四才にして再び別家重兵衛の家に養われて、九年にいたり、初めて農事に服する。この年、兄勇吉病で死す、時に二十五才、これより先、勇吉ふかく家徳の衰退を愁い快復の意、常に切なり。焦心苦慮すると雖も、父は酒に沈面して家政をかえりみず叔父の亡状なる。その嗣家を破り、おのおの来って実家の財をもって去る。ただその敗徳なきもの兄弟中一人あるのみ、潰崩(かいほう)せんとする勢いは、いかんともこれを支えるべからず。病に伏する三年、薬餌も効なく長逝するに至った。

(三)十五才にして家に帰り再興のことに当る
 ここにおいて清忠嗣子となり、文政九年(一八二六)八月家に帰る。この年七月親戚会して、家則を改正せんとする。よって門戸を閉じ、家居を逼塞(ひっそく)し倉庫を売却する。駿州清水港の川口清助は清忠の叔父なり。清忠に言って曰く、「なんじ自今、家を治める、それ終にいかにする」答えて曰く、「われまさに勤勉心力し、大いに家産を回復し、門塀府庫を修め、白壁いらかをつらね、王侯の居に比せん。叔父それ憂えることなかれ」と。ひそかに思えらく、「あに汝らの力をからんや」暫くしてまた問う。答えて曰く、「われ、まさに馬丁を以て口腹を糊(こ)せんのみ」と。けだし、切歯扼腕に堪えず。「彼ら集まって、祖先の家産を破り、今また来て何の回復の法やあるや」と。「奴らまた辞し帰る日、必ずまさに多少の家財をもたらし去らんとするか」果してその言の如しと雖も、父清光これを禁ずるあたわざるなり。文政十二年(一八二九)、清忠十八才にして佐野郡増田村葛嶺の門に入り文学及び算術を学ぶ。葛嶺は松崎けん堂の門人なり。博学にして、詩文を善くし、ことに算術に通じ、周易を修める、門人数百人に及ぶ、清忠これに師事して通学すること年あり。
 天保三年(一八三二)、清忠二十一才にして妻高島氏をめとる。佐野郡長谷村高島甚左衛門の女(むすめ)である。その家質素にして、よく農事を治める。清忠見合いの日に、その手指、亀裂の多きを見て、共に艱苦を共にするべきを喜び速やかに結納の礼を行なう。名は「貞」という。時に十五才である。

(四)倉真(くらま)村の土地反別を改定する
 倉真村下組の田畑高五一七石六升六合六勺三才、反別五四丁九反一一歩にして、古検地をさること、年歴久しくして通路混乱し、現在の反別に符合せず、久荒の土地多くして、境界互いに掠め、争訟絶えず村吏私心を抱いて、かりそめにこれを修めんとするも連年ならず、民費かさみ、戸口窮を告げるも、徒手救うべからず。川流乱れ、堤防潰えるも、これが修理を加えるなし。清忠ここにおいて奮激し里正等を督励し、鎮守氏神に誓詞を奉げ、私心を去り、至公を表し、丹誠を凝らし、昼夜刻苦して、まず境界を正しくし、村内の田畑明細の地図を造り、段畝を概量して、以てこれを古検地に照応する。田畑反別、小前免割、詳細精緻をきわめ、ために貢租やや増減ありと雖も、村民誰も異言するものなし。成を告げるに及んで、各々押印して以て領主の検査を経る。ここにおいて争訟とみに止み、村民始めて安堵し専ら力を農事に尽すことを得た。以来その帳簿を貢租の基礎となし、維新に至っても誤謬あることなし。弱齢の業において人以て難しとするところなり。

(五)掛川藩臣海津辰也に兵学をうける(略)
(六)近藤廉之助に易伝をうく(略)
(七)寺田信胤につき弓術を学ぶ(略)

(八)掛川藩の地方用達となる
 天保十一年(一八四〇)、二十九歳にして掛川藩の地方用達となる。地方用達は領内の長である。いわゆる大庄屋なり。下情を上達し、上意を下達する。上下の間に在ってよう塞なきを勤める。清忠この役に従う、三十四年未だかつて倦怠せず。上下これに依頼する。始め清忠の家を保つや、自ら稼穡を勤め、節倹を守り、かたわら文字を励み、旧債消却、貨財増殖、まさにもって大いに素志を遂げんとす。この役に従うに及び、公務繁冗あるいは家を顧みるに、暇あらざるものあり。すこぶる素志にあらずという。





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最終更新日  2016年09月27日 06時30分23秒
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