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2016年09月28日
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カテゴリ:鈴木藤三郎
(二)米欧旅行から帰国後の鈴木藤三郎(編者)
1 台湾製糖株式会社設立 
明治二八年台湾が日本に帰属。井上馨、児玉総督、後藤新平による台湾振興政策として台湾製糖株式会社が設立される。明治三三年創設発起人会が開催され、それに先立って藤三郎、山本悌二郎による実地調査が行われた。藤三郎が台湾製糖の初代社長に選任される。工場地は藤三郎の踏査の結果、台湾南部の高雄「橋頭」が最適地として選ばれる。藤三郎は社有地農場の買収を提案し、報徳の教えに則り、両得農業法を案出し、会社と農場の農民双方が得をする農業法を目指す。藤三郎自ら工業建設に従事する。また修理工場の建設=自助の精神による会社運営を行う。台湾製糖は台湾最初の近代的製糖会社である。
1 「台湾製糖株式会社史」に次のようにある。「鈴木藤三郎氏は、工場建設地選定その他の要件取調のため、山本悌二郎氏を同伴、明治三十三年(一九〇〇)十月一日、新橋駅を出発し、三日神戸出帆、七日台北に到着した。十三日まで同地に滞在の上、総督初め諸官に面会し打合せを行い、十月十四日基隆出帆、安平に上陸し十六日台南到着、三日間同地に滞在後、実地踏査にとりかかった。初めは工場を麻豆付近に置く予定であったが、先づ高雄に出た。次いで鳳山に至り、それより万丹、東港を経て、糖業地の南端の枋寮に到着した。当社は当時既に土地を所有し、自ら耕作する目論見を立てていたから、枋寮以北の大原野について、特に注意して踏査検分した。枋寮と石光見との間には蕃界に接して原野があり、石光見より阿緱街(現屏東市)付近にかけても大原野が横たわっている。この大原野を通過し阿里港に出で、下淡水渓を渡って手巾寮に至り、蕃薯寮を過ぎ、山を越え関帝廟に出で、台南に帰着したが、この行程に費した日時は二週間に及んだ。更に北上し、大目降、曾文渓を経て・・・それより塩水港に出で新営商に至り、軽便鉄道で台南に帰着した。この間十一日を要し、前後を通じて二十四五日間にわたる踏査に、一行の苦心は実に容易ならざるものであった。その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿緱付近の大原野、即ち現在当社の阿緱及び東港両製糖所区域たる万隆及び大晌営その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼をみはらせるものがある。以上の如き実地大調査を終えて、鈴木藤三郎が帰京したのは明治三十三年(1900)十二月二日であった。」
工場は最初、総督府の調査に基づき麻豆付近が考えられていたが、鈴木、山本踏査の結果、曾文渓、橋子頭の二か所が候補地となり、運搬及び水に便利がよいことから橋子頭に決定した。明治三四年二月一五日建設工事に着手する。工場の設計設備に最も力を注ぎ、その実行を指揮したのは鈴木藤三郎であった。藤三郎は、さとうきびを搾って分蜜糖を製出した経験はなく、また工場建設に参考となるものもなかったので、ロンドンで出版された「シュガー」の一小図版を参考として設計図を作成した。当時、最先端の技術は欧米諸国の技術者の助言援助等に頼っていたが、そうした方策は採らず、北海道紋鼈の甜菜糖工場で製糖技術を修得した齋藤定雋氏らを用い実際の仕事を進めた。「鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。」と「台湾製糖株式会社史」に記す。
 明治三四年(一九〇一)二月に鈴木藤三郎は台湾製糖の事務所と工場建設にとりかかる。六月に事務所と社宅の上棟式を挙行し、工場は一〇月峻工し、機械据付は一一月に終った。
藤三郎は台湾製糖株式会社に広大な農地を購入し、
会社自らサトウキビを品種改良し、原料を自給した。
1 「前後を通じて二十四五日間にわたる踏査に、一行の苦心は実に容易ならざるものであった。その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿緱付近の大原野、即ち現在当社の阿緱及び東港両製糖所区域たる万隆及び大晌営その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼をみはらせるものがある。」
「建設工事 創立の二箇月後、即ち明治三十四年二月十五日、早くも建設工事に着手したが、工場の設計設備に、最も力を注ぎ且つその実行を指揮したのは、当時の社長鈴木藤三郎氏であった。氏は我が国に於ける新式糖業のなお渾沌たる時代に斯界に身を投じて刻苦勉励、遂に我が国製糖界に於ける最高の権威者と称せられるに至った人である。即ち、明治十年頃氷糖製造に志し、次いで精製糖製造の研究に進み、自ら精製糖工場を創設し、漸次発展して明治二十八年、日本精製糖株式会社となるにあたり、その専務取締役兼最高技術者として重きをなしていた。氏の砂糖精製に関する知識と経験とは、当社の事業たる甘蔗分蜜製糖にも役立つ訳ではあるが、何分甘蔗を搾って分蜜糖を製出した経験は全然なく、且つ又工場建設に参考となるべきものは何もなかったので、西暦一八八八年(明治二十一年)、ロンドンにおいて出版されたロック、ニューランド共著「砂糖論(シュガー)」一冊を得て、その中にある一小図版を参考として設計図を作成し、しかも当時一般の習はしであった欧米諸国技術者の助言援助等に頼るが如き策を採らず、ただ北海道紋鼈の甜菜糖工場に於て製糖技術を修得してゐた齋藤定雋氏、その他を用ひて、実際の仕事を進めたのであるが、鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。
 さて製糖機械は、既述の通り、八重山糖業株式会社が北海道紋鼈製糖株式会社から譲り受けていた仏国フイフリル会社製の三重効用缶、結晶缶その他を更に当社が引受けたのであるが、それは何れも西暦一八七九年(明治十二年)の製作にかかり、斯の種の機械中我が国に輸入させられた最初のものであった。当社はこの外、大阪汽車製造株式会社製及び石川島造船所製の火管式ボイラー、英国マコニー ハーヴェー会社製の圧搾機及びエンヂン、三重効用缶、結晶缶及びそれに付属する真空ポンプ、英国ワットソン レイドロー会社製の分蜜機及びその附属品を購入し、なお鈴木藤三郎氏経営に係る、鈴木鉄工部製作のデフヱケーター、フィルター ブレッス、タンクその他をも購入し、愈々其の組立据付に着手したのであるが、齋藤技師が主として之に当り、鈴木鉄工部から派遣された技師、職工及び紋鼈で甜菜糖製造に従事したことのある人々並に僅少の内地人現業員と、是等の工事に対しては全く無智な本島人を使用した、従って工事の進行には、想像以上の苦心困難が伴ったのは勿論である。」(台湾製糖株式会社史)
2 鈴木藤三郎は両得農業法を案出し、会社も農民も共に利益となることを会社の方針とした。「甘蔗栽培については、農民を誘導して品種の改良、肥培耕作方法の改善を講じようとして、並々ならぬ苦心を払ったが、旧来の習慣を墨守する頑迷固陋な彼等は容易に之を実行せず、従って土地を所有しても、その効果は直ちに顕れ難かった。ここにおいて鈴木社長は、農民にも利益を与え、同時に当社も利益を挙げつつ甘蔗農業を進歩せしめようとするいわゆる「両得農業法」を案出した。明治三十四年十二月付の「両得農業法草案」は次のような語を以て結んでいる。「この方法を実行すれば、会社及び農民の両者間においてニ万六千円の実利を生ずる。もしそれこの方法を会社は今後買収した土地にあまねく施すときは、その利益はますます大きくなるであろう。二宮先師訓に曰く、『天地が和して万物が生ずる、男女が和して子孫が生ずる、貧富が和して財宝が生ずる』と、まことにこの言葉の通りである。元来会社はこの趣旨にのっとって、人民と共に天地の間に充満する、いまだに所有者がない財宝の開発に勉めて、会社のため、国家のために鋭意専心実行していくことを希望する。」このように、台湾製糖株式会社は創業の初めから農民との共存共栄を図りつつ、土地所有を社是として進んで来たが、現在では約五万甲に垂んとする広大なものとなり、愈々その真価を発揮せんとしている。創立当初に樹立せられた大方針を顧みれば、今更ながら当路者の先見卓識に敬服せざるを得ない。」(台湾製糖株式会社史)
「当時、資本金百万円を超える事業会社は、内地に於ても大会社の部に属していた。いわんや台湾においては、かかる資本を擁するものは未だ類例を見なかったであるから、当社経営の成否は、ただに新企業たる新式糖業の将来、延いては国家経済の上に大なる影響を及ぼすのみならず、新領土経営上の試金石と
もなり、台湾統治の上にも密接な関係を持つもの
として重要視されていた。従って児玉総督初め官辺においても、その経営に対しては少なからず後援斡旋された訳で、当社の負える使命はまことに重且つ大であった。かかる使命と期待とは幸いにして着々その実を挙げ、台湾新式糖業の先駆会社としての目的を十分達することが出来た。」と台湾製糖株式会社史にある。当時三井物産合名会社台北支店長として、創立下準備のため現地調査に携った藤原銀次郎氏は「その頃台湾へ来ていた内地人はほとんど皆な御用商人で、三井物産のごときも、阿片を総督府へ納めるのが主なる商売であった。そういうふうで、内地人はまだ仕事らしい仕事をやっていなかった。それではいけない。資本家が資本を持って来て本当の仕事をしなければ台湾は開発されないが、その本当の仕事の先駆をしたものは台湾製糖会社である。その後多くの製糖会社が設立され、あるいはまた他の種々の事業が起って台湾は今日の繁栄を見るに至った」と述懐する。台湾製糖の成功は台湾産業のリーディング・ケースとなったもので、藤三郎の台湾における実業人としての功績も高く評価されるべきと考える。
2 鈴木鉄工部の併設、人材を育成。
藤三郎は明治二四年(一八九一)から、小名木川の宅地の一隅に小鉄工所を設け、最初は五人の職工を使って、自分が技師となって、機械の製作を始めた。鈴木鉄工部を経済的に維持するために、金庫や精穀機を製作して売り出したりもした。鉄工部ができてから新たにくふうした機械の製作も自由にやれるようになり、藤三郎の研究は一段と飛躍的な進歩をし、砂糖精製機械を完成することができた。鈴木鉄工部は明治二四年に、三千円の資本で創立された当時、三間に長屋風の建物に、機械としては、鍛冶道具に小形な旋盤と二馬力のエンジンを備えたばかりだった。藤三郎は約二十年、配当を取らず、利益があればこれを事業に投じたので、年々発展して、敷地三千五百坪、従業員四百人を抱えた、東京でも屈指の大鉄工所になった。藤三郎はこの鉄工部に鈴木発明部を設けた。鈴木鉄工所には二つの部門があった。一つは鈴木発明部といい、文字どおり発明に関する仕事をやるわけだが、主な仕事は設計をすることだった。もう一つが鈴木工作部で、これは機械をつくる部門で、発明部が設計したものを、ここで機械にする。この二つの部門を総称して「鈴木鉄工所」と呼んだ。    
3 実業家として、発明家として
明治三五年裾野桃園に鈴木農場を開く。現在の不二聖心女子学院の不二農園である。明治三六年日本精製糖株式会社社長。衆議院議員。福島県小名浜に鈴木製塩所。明治三九年周智農林学校を設立する。
1 国府犀東の「駿河みやげ」に、鈴木農場の概要と入手の経緯についての記載がある。
「鈴木氏が語る所によれば、この地はもともと幕臣黒田久綱氏ほか四名が共同して、明治六年頃より開墾し始めたものだったが、黒田氏はその後東宮武官となったが、他の人々はいずれも零落したため、黒田氏の補助によってこの地の開墾を営んでいたが、次第に困窮して事業は振るわず、そうかといってこの地を分割して売却するにも忍びないと、困っていたところから、明治三二年駿東郡長の交渉もあって、ついにこの地を買い入れ、開墾に従事することとしたという」とある。
藤三郎は明治三六年(一九〇一)三月の第八回衆議院総選挙に、井上馨から伊藤博文に紹介され、郷里の静岡県から選出されて衆議院議員となる。その議会で井上純太郎と知合い、井上から「日本の塩は輸入塩にけ落とされかかっている。三割くらい製塩費を軽減できなければ、わが国の製塩業は全滅する。いい方法を考えてください」と依頼される。井上の依頼を受け、製塩方法を研究し、明治三七年風力を利用して海水を濃厚にする製塩装置を発明する。翌年、海水を蒸発させるため、気圧を低くすると低温でも蒸発する理論を応用した低圧蒸発缶、管内の自動掃除装置など製塩に関する発明だけでも三三件の特許をとる。明治三八年福島県いわき市小名浜に鈴木製塩所を新設する。この試験工場は独力で資本金四〇万円を投じて建設し、改良に加え完成したのは、明治四二年だった。「なぜ大胆に一事業のため四〇万円の試験費を投じたか」の質問に対し「私が事業を創始するには、すべて二宮翁の報徳主義を遵奉している。翁の歌に、『世の中に人の捨てざるなきものを拾ひ集めて民に与えん』というのがある。私はこれにならって、『世の中の人の捨てざるなき業を開きはじめて国に報いん』と詠んだことがある。世人の捨てない事業を開拓し改良して、少しで国家に益したい」と答えている。発明によってまだ世に現れていない新事業を開き、社会を豊かにしようとの志である。
また藤三郎は、福川泉吾と協力し、明治三九年に森町に私立周智農林学校を創立した。
1 「特殊なる私立周智農林学校」で、山崎徳吉校長が創設の経緯について述べている。「本校は福川泉吾、鈴木藤三郎両氏が創設したもので、福川鈴木両氏は誠実熱心な報徳実行の人で、至誠、勤労、分度、推譲の四教を守って共に今日にいたったものである。福川氏はかつて思われた。二宮先生の教えに、『人は言う。我が道は積財を勤めると、積財を勤めるのではない、世を救い世を開くためであると。私は多年分度を守って勤労に努め、いくらか財産を積む事ができた。今は世に推譲して社会に有益の事に散じなければならない』と。そしてこれを鈴木藤三郎氏に相談して、まずその最初の事業としてここに本校の創設を見るに至った。本校開校式における鈴木氏の言葉に言う。『本校の設立は主として福川老人の力による。福川老人は私のためには無二の恩人である。私が昔、起業の際に福川氏が力を貸し、導きを受けたことは大変多かった。福川氏は先見の明識がある人で、維新の始め生糸・製茶の貿易に従い、後に山林経営の必要を観破し、今やまた我が周智郡の発展のために農林学校の設立の必要を感じられ、私に相談を賜わって、ついに本校の開設を見るに至ったのである』。「農業者の現在は、祖先伝来の耕作の方法を踏襲して進化の大法を知らない。ただ無意識にスキとクワをふるって、科学がどういうものかを理解していない者がほとんどである。農業を根本的に改良発展させようとするならば、かならず農家の子弟に農業教育を受けさせ、学理を研究させると共に、これを実地に応用させ、農業の本当の面白さを理解させなければならない。これが私たちが本校の設立を計画した理由である。世に私立学校の数は少なくないが、農林業に関するものはその数は極めて稀である。特に本校のような目的の下に創設されたものは、全国唯一本校があるだけである。」
4 発明王の最後 
明治三九年 日本精製糖株式会社を去る。 
明治四〇年日本醤油醸造会社社長。
明治四二年サッカリン事件で藤三郎失脚。
明治四四年 乾燥富国論と四一件の発明。
北海道に鈴木水産工場創設。
大正二年九月一三日 五十八歳で死去。
日本精製糖会社では、支配人磯村音介らが、藤三郎が台湾製糖会社の経営や醤油醸造さらに製塩法の発明に没頭しているあいだに、大阪の伊藤茂七などと気脈を通じ、東京大阪両製糖会社などを合同し、独占的地位を獲得しようと画策した。製糖会社の一大合同を計画し五か条の条件を掲げ、社長の藤三郎に迫った。藤三郎がこの条件を迫られた時、磯村らの株数が藤三郎らの勢力を凌いでいた。藤三郎は明治三九年七月臨時総会を招集し、右の条件の実行は時機が早すぎると後事を有志団体に託し辞任し、同列の重役とともに退場し、その後精製糖の事業に再び戻ることはなかった。藤三郎は日本精製糖会社を辞任すると同時に自分の持株を全部処分した。報徳文庫の寄贈や中央報徳社設立・雑誌「斯民」発行の資金援助、周智農林学校創立寄付金などの大推譲は、日本精製糖会社の持株処分にって可能となった。
 日露戦争が始まる前明治三六年(一九〇三)陸軍糧秣廠は藤三郎に醤油をエキス化する工夫を依頼した。藤三郎は醤油の性質を研究し、真空中に低温度で水分を蒸発させる方法で醤油エキス製造機を発明した。そして明治三七年(一九〇四)ら製造を開始し、戦争中十分醤油を供給できました。更に明治三七年春に小名木川の邸内に、一年に千二百石の醤油を醸造できる試験工場を建設した。そして三年間研究を重ねて新しい醸造方法でなら二か月で醤油ができることを確認した。試験工場で改良を加え、ハワイへ輸出するまでになりました。新しい醤油は、機械式攪拌のためにカビるという欠点がなかったのです。
最初は個人的に一か年六万石位を醸造する工場で事業を開始するつもりだったが、国益になる仕事は大規模に国民全般に利益をもたらすべきだと説く人が現れた。藤三郎は留岡幸助に「小名木川では三百万円の資本で好評を博したが、岩下清周氏が来て、君一個の事業として小資本でやるより、他の資本を集め一千万円の資本としてやったらよかろうと勧誘したのに、つい乗ったのが、失敗の原因であった。三百万円にするのには、多くの年月を要して少しずつ基礎を固めつつ進んで来たのであったが、一躍して七百万円を増資してにわかの成長をしたのが自分の失敗だった」と語る。
1 尼崎工場の建設について、畠山一清氏の回想がある。「私たち鈴木発明部員は、本格的に設計に取りかかった。テスト用の機械は完成していたので、『企業用』の設計に着手した。設計が終わると鈴木工作部がその設計をもとに、機械製造を開始。作業は急ピッチにはかどっていく。鈴木社長は、機械の完成を待って、資本金一千万円で、日本醤油醸造株式会社を創立、尼崎にその工場を建てた。工場へ機械を設置した総監督は、ほかならぬこの私だった。」「早造りで作った醤油は、ヨーロッパへ輸出されていった。だが、思いがけない事故が飛び込んできた。積荷をして、船がインド洋を通ると、突然醤油樽がバーン、バーンとみんな爆発してしまう。よく調べると、三か月では、完全発酵しないことがわかった。つまり、部分醗酵のまま船に積み込むため、インド洋の熱気を受けると、急に完全発酵の状態に成って、爆発してしまうのである。たいへんな誤算だ。インド洋上での醗酵はとめなくてはならない。そこで考えついたのが、サッカリンを入れて醗酵を抑えることだった。醗酵の抑制に成功。ヤレ、ひと安心と思った途端、サッカリンの使用をめぐって、とんでもない事件が持ち上がった。サッカリンは毒ではない。だが、これを毒にしたのが、鈴木社長その人なのだ。鈴木社長が製糖会社時代に、砂糖業界擁護のために、毒だということにして、サッカリン禁止法という法律をでっちあげた。それが今、自ら作った法律に縛られる事になった。この事件があって、半年たたないうち尼崎の醤油工場は失火で全焼し、これが致命的な打撃となって会社はつぶれ、再起の望みも断たれてしまった。」
5 藤三郎の近代的醤油醸造法と『乾燥富国論』
「醤油醸造技術の系統化調査」(小栗朋之著)で「彼の革新的な醤油産業への挑戦は、醤油業を営む人達には、大きな反省の機会とショックとを与えた。この事件に刺激されたように野田の地に明治四三年近代工場のさきがけとしての工場が誕生し、大正元年(一九一二)には本邦初の鉄筋コンクリート製醸造工場の建物ができ、その中には製麹室と圧搾場が設けられ最新式の設備が据え付けられ、一名かね蔵とも称され業界で一躍有名になった」と述べている。藤三郎の日本醤油醸造会社は、日本の醤油業界に産業革命をひき起こした。事業に失敗し、なお発明により新しい産業を生み出し、社会や国に貢献しようとする藤三郎の真骨頂は最後の著作「乾燥富国論」にある。「ああ予は何の面目ありて、社会に立つことを得ん。空しく生を貪らんより、一死もって知己に報いるにしかざるを想い、実は心ひそかに決する所あり。しかるにひるがって考えれば、人窮地に陥って、死を決するは易く生きて前過を償うの功を建つるは難し。難きを避け易きにつくは、古来志士の最も恥ずる所。予もまた平生一介の志士を以て自任す。死は決して知己に酬いる道にあらざるを悟り、その非を改め、むしろ進んで功を建て前過を償うの道を採らんことを誓えり。ここにおいて、眼を転じて産業界の現状を洞察するに、農林水産等各種の産業は政府・民間有志の奨励により、その発展大いに見るべきものありといえども、生産業に必要欠くべからざる物品乾燥の方法は、今なお幼稚の域にある。よって予は更に深く日本における乾燥操作の現状を調査し、この欠陥を救済する道は、完全なる人工乾燥装置の出現より外に良策無し。予は深く乾燥の目的及び原理を研究し、工夫を重ね研究を積みたる結果、斬新なる乾燥装置数件を発明し、直ちにその装置を制作し、実験を重ねて、その成績を確めたり。今この発明を日本の産業界に提供し、本邦における乾燥操作の現状及び将来に関していささか卑見を開陳し、題するに『乾燥富国論』の名をもってせり。」
鈴木藤三郎の「その過ちを改め、むしろ進んで功を建て、前過を償う道を採らん」「人工乾燥装置の発明により日本の産業界に報いよう」という不屈の精神は偉大である。
6 藤三郎 報徳文庫を奉納する。 
明治三八年二宮尊徳歿後五十周年祭の時、尊徳の遺著一万巻が相馬に残されていることを知り、原本に万一の事があった場合に備えて明治三九年から三年間、筆生二十人を雇い、石像の土蔵、鳥居とともに寄贈。また中央報徳会と「斯民」の発行を支える。
江原素六氏は森町での藤三郎の葬式に一文を寄せた。「自分は最も鈴木君を尊敬する者の一人であった。」「どの点に最も感心したかと、どの点もない、一の欠点もない。全身悉く敬服すべき人物であった。自分は徹頭徹尾賞賛していたので、君が衆議院に出るとき、自分は極力運動をしたが、このくらい心持のよいことはなかった。君が発明の才に富んでいたことは勿論であるが、然しそれは君の人物に対しては一の余技に過ぎなかった」。
元東北大学教授○○氏に『報徳産業革命の人 鈴木藤三郎』を差し上げた礼状に次のようにあった。「報徳精神が企業家にも受容されていたことは一般的には知られていませんが、今日の弱肉強食の企業世界を見るにつけ、企業家にとっても報徳精神は顧みる価値を増していると感じています。その意味でも鈴木藤三郎の足跡の掘り起こしは大きな意義をもちます。」





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最終更新日  2016年09月28日 02時28分47秒



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