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2016年10月23日
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カテゴリ:遠州の報徳運動
静岡県周智郡森町立図書館で、一〇月二一日~一一月一三日まで特別展示「二宮金次郎(尊徳)と遠州森町」展が開催され、報徳の教えが森町に普及しはじめた頃の様子が紹介されている。

 そこで編者と○○の二人、二二日の午前七時に待ち合わせて○○の運転する車で見学に出かけた。午前中特別展示を見学し、午後に奥三河の三河国報徳社跡を訪問するプランである。福山滝助はここで七七歳の生涯を終え、近くの満光寺で葬儀が行われ、墓所もこの寺にある。事前に満光寺に墓所の見学を依頼したところ、当日住職は所用で不在ということで、檀家の方を紹介していただいて午後二時か三時にお伺いするということで連絡がついている。
 早朝出発したためか、一度も渋滞することもなく午前十時前には森町図書館に到着した。一〇月二二日、二三日第三七回森町民文化祭が開催され、図書館が併設されている森町文化会館は朝からにぎわっていた。図書館長に挨拶し、展示を見ていると当日十時に会うことを約束していた○○、○○が到着した。更に今回、特別に「本集」の表紙にも掲載の山中家報徳三兄弟の色紙掛け軸を特別に出品された○○先生も同時刻に来館された。
 館長室で先生と懇談していると、大日本報徳社社長と事務局長も特別展示視察に見えられ、館長室でご挨拶し懇談することができた。
 社長が「森町の報徳社がなくなったのはいつですか」と○○先生にお尋ねがあり、「平成一三年です」と先生が応じられた。

 森町の報徳社は「報徳報本社」といい、嘉永五年(一八五二)二月、二宮尊徳の門人安居院(あぐい)庄七の指導により、森町の山中里助(新村里助)が森町報徳社を創立した。この時点では「森町報徳社」という名称は使われておらず、同志一〇人たらずの組織で、毎月三日、一三日、二三日に参会していた。これがのちに報本社へと発展する。嘉永五年八月、遠州三〇社の報徳社員の代表として、後に「遠州報徳七人衆」といわれた、影森村内田啓助、気賀町竹田兵左衛門・松井藤太夫、森町山中里助・中村常蔵、倉真村岡田佐平治の七人で出発、途中、安居院庄七も同行して、日光神領の宿舎桜秀坊に二宮尊徳を訪ねた。九月四日から一四日まで一一日間滞在、このとき尊徳は病臥中だったが、一三日には引見を許され、尊徳の直接指導と遠州三〇余社の結社の許可を得た。一行は滞在中に、報徳の原典ともいうべき仕法書(趣法書)等の写本を精力的に行い、それぞれ持ち帰っている。一行の日光訪問をきっかけとして、静岡県下に報徳の隆盛がもたらされたのである。
 万延元年(一八六〇)、遠州報徳社大参会が、安居院主宰ではじめて浜松の玄忠寺で行われた。遠州地方に報徳社が次々と結成された。安居院の報徳の特徴は、結社方式のほかに、上方の進んだ農業技術を伝え、「元値商い」の商法を広めたことにある。
 文久三年(一八五六)八月一三日、安居院は浜松で七五歳でなくなり、報徳運動が衰退したため、遠州報徳人は新たな師を求め、小田原報徳社の福山滝助を迎えた。森町では福山の指導で、慶応三年(一八六七)五月に無利息貸付の趣法を確立し、同志一一名で森町報徳社を再結成し、新村里助が社長となった。
 明治四年(一八七一)、福山の指導により山田村(現袋井市)に遠譲社(本社)が設立され、二〇余社を統轄し、森町報徳社も遠譲社の支社となる。明治八年(一八七五)一一月、遠江国報徳社が設立された。後の大日本報徳社の母体である。森町報徳社など遠譲社所属社は遠江国報徳社にも所属した。遠江国報徳社社長は岡田佐平治で、副社長は新村里助(豊作)、小野江善六、伊藤七郎平、神谷与平治、鈴木得三郎、幹事は神谷喜源治、名倉太郎馬、伊藤七郎平、小野江善六、新村里三郎(里助の養子)が選任された。七郎平と善六は里助の実弟である。明治一二年(一八七九)、遠譲社が、遠江国報徳社から分離した。この時、森町報徳社など一〇社は遠譲社を離脱し、遠江国報徳社の所属社となる。同年九月、新村里助(豊作)が死亡(六四歳)。新村里三郎が森町報徳社の社長となる。里三郎は周智郡有志と計り、一〇月遠江国報徳社の社則に基づき、周智報徳社を組織し会長となり、毎月、森町随松院で常会を開いた。明治二八年(一八九五)年、遠江国報徳社と無利息貸付法の理解の違いから、森町報徳社を中心に報本社が設立され、明治三九年には三二社が報本社に所属した。大正一三年(一九二四)全国の報徳社は大日本報徳社をもって本社とすることとなる。昭和五年(一九三〇)報本社は大日本報徳社に統合合併した。報本社所属社数四九社を数え、毎月一八日を常会日とし、報徳金の五か年無利息貸付制度は最重要事業として堅持された。昭和三四年(一九五八)、「ドラマ発明王鈴木藤三郎」を製作し放送した。平成八年(一九九六)八月二五日第三八回報徳社全国大会が森町文化会館ミキホールを会場として行われ、報本社社員約百人大会運営に協力した。昭和後半から退社が進み、報本社としての事業運営も困難となり、平成一三年(二〇〇一)一二月一〇日報本社は遂に解散した。

 図書館を出て森町文化会館内の食堂が開くまでの間、大ホールで三絃やシニアコーラスを聞く。「秋の子」という歌は始めて聞いた。

「秋の子」サトウハチロー作詞・末広恭雄作曲

すすきの中の子 一、二、の三人
はぜつりしてる子 三、四、の五人
どこかで やきぐり やいている
つばきを のむ子は 何人だろな

かきの実みてる子 一、二、の三人
さよならしてる子 三、四、の五人
ごはんに なるまで おもりする
おんぶを する子は 何人だろな

ひぐれに走る子 一、二、の三人
ふろたきしてる子 三、四、の五人
こおろぎ あちこち なきだした
さみしく 聞く子は 何人だろな

 午前十一時森町文化会館の食堂で二宮尊徳の会の2人と鈴木藤三郎翁顕彰会の2人の4人で会食し、二宮尊徳の会の2人は三河国報徳社跡と向かった。
 
 森町ふるさと納税についての新しいパンプレットをいただいた。森町の名物、治郎柿は人気で現在品切れとのこと、十一月から品揃えができるということであった。





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最終更新日  2016年10月23日 04時36分36秒
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