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2016年12月07日
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カテゴリ:遠州の報徳運動
鈴木藤三郎
(A)渋沢栄一との対話
横浜の砂糖商安部幸兵衛は、藤三郎から精製糖事業を会社組織にしたいという希望を聞いて、渋沢栄一に、株式会社化の計画を話せば、必ず賛同してくれるであろうと考えて、このことを藤三郎に話した。藤三郎はさっそく、第三十九国立銀行東京支店長の長尾三十郎に相談したところ賛成した。安部は、仲介の労をとってくれ、渋沢から明治28年8月17日に面会したいという招きがあった。東京へ出てから7年、まだ40歳前の藤三郎は、大きな期待をもって出かけた。その席には、浅野総一郎と横浜の砂糖商の増田増蔵と安部幸兵衛がいた。
 藤三郎が席に着いて、あいさつが終ると、すぐ渋沢はこう聞きました。

渋沢:あなたのお生れは、どちらですか?

藤三郎:はい、遠州森町でございます。

渋沢:最初から砂糖の製造をなさっていられましたか?

藤三郎:いえ、若い頃の家業は、菓子商でございました。

渋沢:それで、学校は、どちらを御卒業でしたか?

藤三郎:ハハ、学校教育らしいものは、私は全く受けておりません。8つから12歳まで寺子屋へ行ったのと、22、3歳のころに、1年足らず夜学に通っただけです。

渋沢(失望の色を顔に浮かべて):ホホウ、そうでしたか・・・・・・。先年、私のおいに、ガラスびんの製造を熱心に研究した者がありまして、なかなかうまくできるようになったので、相当な事業になろうと思って資本を出してやりましたが、じきに失敗してしまいました。どうもチャンとした学問の力がないと、小規模にやっているうちはよいが、少し大きくやり出すと駄目なようですな。
ことに、精製糖事業などというものは、私も、わが国にどうしても必要な事業と考えて、先年も、その道の学者にもいろいろと聞いて見ましたが、ひとりもハッキリとした説明を与えてくれる人もなければ、製造のほうの責任は、私が引き受けようという者もありませんでした。それで、私も、この事業は、ひと通りやふた通りの学問でやれるものでないと、痛感させられたのですが、あなたが、そのほうの学問もあまりなさらずに大規模な経営をなされようというのは、少し危険だと思いますな。

藤三郎:精製糖事業は、素人がやろうとしても、なかなか面倒なものには違いございません。しかし、私は長年、これを専心研究しました。そして、小規模のものではありますが、10年このかた家業といたしておりまして、その製品は、ここにおいでの安部さんや増田さんが、よく御承知下さっていらっしゃる通りです。土を砂糖にしようというのならむつかしいでしょうが、砂糖を砂糖にする位のことは、大してむつかしいことではございません、ハハ・・・

後年、鈴木藤三郎はこう言っています。「自分は3度、人を信じそこなったことがある。初めは岡田良一郎氏で、次は村山商店で、最後は渋沢栄一氏である」と。
藤三郎はそうした3回の失望をむしろ大きなチェンスとして生かしました。岡田良一郎に氷砂糖工場への出資を断られて地元の経済家福川泉吾の助力を得て森町で氷砂糖工場を成功させました。工場の東京移転の企画を村山商店の番頭に笑われて、「他の援助に頼ろうとするからこういう結果になる。郷里で今の工場を拡張して自力で東京へ出られる日を待とう」と森町に第二工場を竣功させます。渋沢栄一に賛助を断られて、自分たちで会社を設立しようと9月1日には長井の別邸で発起人会を開いています。それと同時にきちんとした学問がない者が大規模な経営をするのは危険で協力できない、という渋沢の言葉に「海外の製糖業視察と最新の機械購入のため」に世界視察旅行を計画したように思われます。そして帰国後、「日本糖業論」を発表し、文字通り日本の製糖業の第一人者となったのです。

(B)妻との最期の対話
大正2年鈴木藤三郎は東京本所の横綱に家を借りて病気療養していた。食べた物はすぐに吐くという状態で次第に衰弱していました。8月も近いある朝のことである。洗面を終って床の上に座っていた藤三郎は、ふと庭の東のヒノキの植え込みのあたりをじっと見ていて妻に言った。

藤三郎:おこと、おこと、あれを見よ!あそこに観音様がお出ましになった・・・・・

こと:どこです、どこです?

藤三郎:あの庭の植え込みの上のほうだ。

こと:私には、なんにも見えませんが・・・・・

藤三郎:そうか、お前には見えないか、わしにははっきりと見える。もう何もかも、あの観音様にお任せすればいいのだ。すっかりお引き受けくださっているのだ。ああ、有難い、有難い。

 藤三郎はそう言いながら、その方を伏し拝んだ。目から涙がしたたり落ちていた。妻も夫の背を支えながらも、共に涙ぐんだ。





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最終更新日  2016年12月07日 04時02分28秒
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