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地下者覚書

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2011.07.25
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カテゴリ:カテゴリ未分類
 先日、山下先生御本人のお話を生でうかがう機会に恵まれた。物静かな中にも、被爆地長崎の学者、医師、教育者、そして何よりひとりの人間としての深い信念に基づき行動されている。

 相変わらず「御用学者」等のバッシングが浴びせられているが、被災者を更に苦しめ国益を損なう、とんでもない愚行である。

 知人から今月発行された長崎大学の広報誌『CHOHO』をいただいた。同誌に掲載された山下氏のインタビューに胸を熱くした。同誌によると、福島各地での講演の際、30分の講演のあと質疑応答に1時間を割く、そういう形で被災者の不安解消につとめてこられたとのこと。

 同大学のサイトでもPDFで公開されている。
 http://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/about/info/publicity/file/c036-03.pdf

 携帯端末でご覧の方が圧倒的に多いので、以下に山下氏のインタビュー全文(約2000字)。
***
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 偏見にさらされても正しいことを言い続ける。それは誰かが引き受けなければいけない

震災以降、ずっと福島~東京を行き来しているという山下俊一教授。忙しい合間を縫って、長崎に戻られたところでインタビューできました。いただいた名剌には福島のマークも! もうすっかり福島の人のような……。

「はい、もうこうなったらしょうがない。今も福島は異常事態なのですから。多分、あちらにしばらく住むことになるでしょう。引き受けたものの、掃除とか洗濯とかはどうしようかと。でもうちに帰ったら、家内は単身赴任用に荷造りをすっかり済ませていました(笑)」

-先生は、そもそも最初は自分の出番ではないと思われていたとか。

「そう、我々の出番はもっと後だろうと思っていました。実際原発事故で蒸気を調整する弁を触ると言っていたので環境汚染は間違いなかった。ところが三月十五日に状況は一変しました。原発から六十キロ離れた福島市の雪に放射線測定器がガーガー反応した。これはまずいなと。実際、現地の大学の医療職もパニックになっていたし、国をはじめかなり混乱していました。それで要請を受けて自衛隊のへリで現地入りしたのです。放射線に関しては、ずっと研究してきた長崎や広島が出て行かないと収まらない。状況は刻々と変わっているし、平時のマニュアルは通用しない。長崎大学の意思決定も早かったので助かりました。『私は闘うよ』と言うと、学長が『じやあ全面的に支えよう』と言ってくれました」

-放射線についての知識を理解してもらいたい、と福島県内での講演を重ねています。

「だいたい一回あたり五百人ほどで三十回以上、それでも一万人。微々たるものです。だからメディアが大切だった。特に現地のメディアはラジオも新聞も冷静に私の話を伝えてくれましたから、助かりました。それでもね、こういう状況では火中の栗を拾うようなもの。バッシングも最初から覚悟していたことです」

-え、最初から分かっていた……!

「無責任に煽るだけならば誰でもできる。でも科学的根拠でもってリスクについての正しい知識を伝えるのは誰かがやらなければいけない。ただ、ちょっと反省してるのは、私ばかりがやりすぎた。何しろゆとりがなかったからね。非常事態のときは、『シングルボイス・ワンボイス』といって、プレないほうがいい。しかしこれも一人の力ではだめ、仲間が必要なのです。だから大学教育に意味がある。正しいことを伝える後継者を育てなければならないと思っています。福島の人たちは、私がぽろくそにバッシングされたりしているのを聞いて、『心が折れそうだ』と言っている。それが可哀想でね。それにしてもとにかく事故が収束しないことには……もう、これぱっかりは折るような気持ち」

-講演の質疑応答でも福島の人たちに本当に真摯に向き合っていますね。

「うん、それは患者さんとの対話と一緒です。これだけネガティブファクターがある中で、誰かが前面に出て引き受けないと。まあ本当は国や県がやるべきだけどね。この前も、お母さんたちが不安がってね。市民大清掃の日が来る、ドブさらいとか心配だと。だから私は『男は大丈夫なんだから、男にさせなさい!』。そしたら会場のお母さんたちは大拍手(笑)。しかしこの二か月……自分の人生では一番したくないことをやっていますね。罵倒されたり。本当にすごいよ。たまにこうして長崎に帰ってくるとほっとします。人生にはいろんな岐路があって、ラクな方と険しい方、右か左か選ばなければいけない。険しい方を選ぶのも、人生かな」

-なぜ、そちらを選ぶのでしょう。

「永井隆博士はずっとそうだったからです。彼も自分が苦労する方を取った。常に死と向き合っていた彼は死に向かって努力をし、苦労する方が天国への貯金になると思っていた。僕もクリスチャン、迫害を受けてきた浦上の子孫ですよ。だから人生観の中にそれがあるんでしょうね。まあとにかく、居合わせた人がベストをつくす。粘り強く、ギブアップしないで。今回の勝負はそこです」

JR福島駅では、毎日夕方十八時になると、永井博士ゆかりの「長崎の鐘」のメロディが流れるそうです。作曲した古関裕而氏は福島県の出身なのだとか。二十年前、福島を最初に訪れた山下先生は、そのメロディを聞きながら、運命的な「縁」を感じたそうです。

「福島には、原発の収束が未だ見えず塗炭の苦しみにある避難民、そして放射能の土壌汚染、環境汚染の中で生活を余儀なくされている方々が多くおられます。そのうえ風評被害や精神的影響も重くのしかかっている。私はその苦しみを分かち合いたい。長崎の人間はみんな、無念のうちに亡くなられた原爆被害者の『思い」を受け止めて生きてきました。今、放射線に翻弄されている福島の応援団として先頭に立つのは当然のことだと思いますよ。大丈夫、H本人がすべからく福島の重荷を背負っていけば、ちゃんとやっていけます。要は人の心の問題だから」山下先生はそう言って、静かにうなずきました。

(長崎大学広報誌CHOHO第36号)





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Last updated  2011.07.25 15:52:41



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