http://www10.plala.or.jp/shosuzki/korea/timetable/timetable1.htm
http://www.han-lab.gr.jp/~cham/ajiwau/chrono/right.html
1918年 上海で「新韓青年党」結成。
1919年 三一運動後、上海の「大韓臨時政府」は李承晩を「大統領」とした。
1920年「朝鮮日報」と「東亜日報」が創刊される。東亜は韓国資本「湖南グループ」による経営。
1921年 上海で李東輝議長(臨時政府国務総理)率いる「高麗共産党」結成。
1924年「義烈団」団員による二重橋テロ事件。
1925年 臨時政府で李承晩「大統領」辞任、金九が「国務総理」として指導。
1927年「新幹会」結成。
1930年 臨時政府の金九ら、「韓国独立党」を結成。その行動部隊として「韓人愛国団(党)」を組織。対日テロ計画。
1932年 桜田門外で李奉昌(イ・ボンチャン)、上海虹口公園で尹奉吉(ユン・ボンギル)が爆弾テロ実行。
1933年「朝鮮中央日報」が創刊される。呂運享が社長就任。
1935年 平安北道国境から左翼ゲリラが侵入、東興鎮で市街戦。
1937年 間島から左翼武装集団が侵入。普天堡(ポチョンボ)を奇襲し、駐在署などを破壊。
1940年 朝鮮日報と東亜日報、廃刊。臨時政府が「韓国光復軍」を組織。
1945年
8月15日
朝8時
呂運享は総督府を訪れ遠藤総監と会談。遠藤総監は「遅くとも17日午後2時までにソ連軍がソウル入りするだろう」とし、治安維持のための協力を依頼。
正午
日本が無条件降伏。
午後
呂運享は青年・学生2000名を動員し、「建国青年治安隊」を組織。同時に行政の受け皿として朝鮮建国準備委員会を立ち上げる。副委員長に中道・保守の安在鴻を据え、独立運動経歴の持ち主を中心に中央執行部を形成。
右派の宋鎮禹は政権への参加要請を拒否。
8月16日
午後
建国青年治安隊はソウル市内を示威行動しつつ、警察署のほとんどを接収。総督府庁舎の接収は拒否される。その後全国に162の地方治安隊が誕生。
午後3時10分
建国準備委員会副委員長の安在鴻は「国内・海外の3千万同胞に告ぐ」と題しラジオ放送。「建国準備大綱」を発表。呂運享は「雅量を示さなければならない」として国民の自制を呼びかける。
(「建国準備委員会」を結成した呂運享は、左派・社会民主主義者で、2年後に暗殺された。インドネシアにおけるスカルノの位置を占める。)
■日本人への報復を制する方針は、独立運動側がラジオ放送で住民に要請したものであり、良識ある市民はこれに従い、日本人の帰国を(必ずしも無償ではなく、さほど好意的ではないにせよ)助けたのであって、文師の回顧談は、さほど自慢できるような美談ではない。(1)
9月11日
朴憲永は「朝鮮共産党」の再建を発表した。10月13日、平壌で極秘裡に開かれた会議で同党北部朝鮮分局が設立された。翌14日の祝賀集会に金日成が初登場した。
(朴憲永は朝鮮戦争の前に「南朝鮮労働党(南労党)」の責任者となったが、米軍側協力者とされて、1955年、北朝鮮で処刑された。 現在の「朝鮮労働党」は北の「新韓民主党(新民党)」と共産党が統合したものである。)
新しい政党として、9月に「韓国民主党(韓民党)」が結成され、11月に呂運享の「勤労人民党」が結成された。
韓民党は湖南グループの支援を受け、李承晩を支えることになった。解放後、8月18日「高麗民主党」、 28日「朝鮮民族党」、9月4日「韓国国民党」、7日「国民大会準備会」、「重慶臨時政府及び連合軍歓迎準備委員会」などが結成され、これらが合流してできた唯一の自由主義政党(反共勢力)である。また、独立党は民族主義・中道保守の立場を守り、保守政党はこの2つとなった。
10月16日
李承晩帰国。
11月23日
金九など臨時政府一行帰国。
■文青年は、帰国した独立運動の幹部と会うことなく、ソウルの自宅に妻子を残したまま、金百文のイスラエル修道院に入り、さらに北へ行った。彼らと会いたくない事情でもあったのだろうか。(2)
この年の12月1日にようやく東亜日報が復刊された。
翌年1月6日にソ連占領軍が人民委員会委員長に康良■(カンヤンウク)牧師を任命した。
3年後、
1948年3月8日、独立党の金九が、北朝鮮に対して南北会談を要請し、韓国民主党を除いた政党の全てがこれを支持し、金九ら代表団が平壌を訪問した。
■金九の容共ぶりを見ると、東京でテロ組織(金九の独立運動)の連絡係をしていた(という)文青年が1946年にわざわざ共産圏へ越北したのも理解できる。(3)
1948年の7月、李承晩が初代韓国大統領に選出された。
5月の選挙では与党・韓国民主党の得票率は13%であった。翌年1月に大韓国民党(申翼煕)と統合し「民主国民党」となった。
■李承晩大統領の与党「自由党」が発足したのは、さらに3年後の1951年12月のことで、文師(31歳)は釜山あたりで働いたり原理原本を書いていたのであるから、
自由党創設を担う党綱領委員であったとは想像できない。(4)
■文師がこれら自由党の要人から信用される人物だったとすれば、
1955年7月に政治的弾圧を受けるいわれはなく、
李花女子大事件を政治謀略の一種として説明することは難しい。(5)
■文師が放免されてから2年後、CICの情報将校・朴普煕中佐が加入して右腕となってゆくが、
1960年4月に「自由党」李承晩政権は、信任を失って退陣してしまった。(6)
成約時代講義 http://www.geocities.com/MadisonAvenue/8203/seiyaku/chap4.htm
・・・・韓国が日本から解放された後、李承晩を中心として組織された自由党の党設立綱領委員会のメンバー5人の中に抗日運動に功績のあった文鮮明師が入っていた。文師は当然のこととして、神の摂理によって未来の韓国を建てようと提案したが、その内の二人の牧師が反対したために提案は実現しなかった。・・・・