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テーマ:旅のあれこれ(10088)
カテゴリ:四国
入母屋破風に唐破風 本丸は天守の横です。 天守台はありません。けっこう小高い小山の上なので これ以上高くする必要が無かったのかな。 天守内にもボランティアガイドがいますが、 出払っておられて、受けられませんでした^^ 2名居られるようで、これはなかなか当たらないかな^^ 殿さまの部屋 16代だったか、山内容堂の書。 上段の間の後方に小部屋があり 武者所となっています。 武者所の手前が雪隠 殿様しか使わないので、これまで16人しか使っていないと^^ 先週、相方がガイドの話を聞いてきました^^ 初代は、山内一豊 千代の画像と並んでいます。 一豊が土佐に入って来るのもけっこう大変だったようです。 長曾我部の一両具足(名主:田を持ち耕し、いざとなったら兵として戦う)など 山内の支配に納得しない勢力もあり 最初は、大きな一揆が起きるなど油断ならない状況だったそうで、 そんな中、高知城築城が進められたと。 一豊は、桂浜の浦戸城に入り、ときどき築城工事を見分に来たと。 その際、影武者を5名用意し、6名が同じ格好でやってきたと。 工事中でも、鉄砲を構えていたり警戒の様子が見えます。 築城責任者(名前、忘却の彼方)は高い位置から ほら貝や太鼓などを使い、指示していたとか。 石垣は、穴生衆(あのお)による野面積み(のづら)で 自然石を積み上げるので、隙間を埋める小さな岩や石が必要で 子どもたちは、たもとに石を入れて持っていくと 良いアルバイトになったようです。 瓦は、土佐では作れず、大阪から運んだと。 こういう模型、楽しくて好きです^^ 天守の手前が本丸 後方が二の丸 右が三の丸 しゃちほこの話も、外でガイドさんにお聞きしたんですが・・・❔❓ なんで、魚やったかな❓❓・・・ 天守から。 赤い星型マークが坂本龍馬の家です。 彼は下士で登城はできなかったと。 土佐では、山内が連れて来た家来が上士 長曾我部に仕えていた家来が下士で かなり厳しい身分差があり、そこから自由民権思想が生まれていったと。 黒門 この門から出て、左へ曲がると、大手門へ帰っていきます。 右へ曲がると、梅園があり、2月がきれいなようです。 左へ帰っていくと 面白い木が❣❣ 4種の木がからみあって生きていると❣❣ イヌマキの木から、左に出ているのがクスノキだと。 クスノキが大きくなったら、どうなるんでしょうね^^ この道は、もともと馬一頭が通れる狭さだったのですが 大正天皇が高知城へ来たときに、歩いて登るのはイヤ・・・ と人力車で上がるために広げた道だと。 ま、なんと我がままし放題ですな。 しかし、お陰で❓❓今は車が通れ、便利に使っていると。 いやあ、高知城、3時間以上居ましたが、良かったです❣! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Nov 1, 2023 09:37:06 PM
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