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カテゴリ:助産院での出産について
4月13日のブログの内容に対して、斎藤さんよりメールが来ました。
もう当ブログへの書き込みをする気はないとのことです。 忙しいし、直接会いたいのならこっちに来てとありましたが、会って話しましょうと最初に言ってきたのはあちらなのに…なんだかとても偉い方のように感じました。 私も忙しいので、わざわざ出向く時間もありません。 下手したら忙しすぎて、話す時間も1分すらないかもしれないし。 私に会うための時間を用意できるのなら、その分をネットできちんと活用してくれれば良いだけのことなのになぁ。 また、ハンドルネームだけで、顔を合わすことさえないネットの関係も否定されました。 そもそも、インターネットを活用している方がそれを否定するのにも違和感を覚えます。 更には営利目的のHPを運営までされているというのに、その中にある日記、そう、いくら日記とはいえ、自分の考え方を伝えてお産を請け負っているというのに、 『>でも、HPを開設している、更にはマスコミで紹介され、より多くの 方に情報を発信されている以上は、誤解を招かぬように、受信する側の ためにご自身が徹底して語っていく義務もあるのではないでしょうか。 >この場にて、是非継続してご意見ください』 との私からの発言に対し、そのような義務はないと! まぁ、結局はネットは放棄されてしまえばそれまでなのだけど、ハンドルネームのことなどを含め、そのようなネット社会を批判的に言いつつも、結局は自らが放棄という結果。 元々、斎藤さんにメールを送りましたのは私です。 私の疑問をブログで紹介することと、出来れば本人の意見を聞かせて欲しいということを伝えました。 このことに対して、斎藤さんはきちんと書き込む姿勢を最初は見せてくれていたので、私はそのことに対しては感動すら覚えそうになっていました。 でも、2度目の書き込み後に来たメールには著作権がどうだのとあって、 「この手かよ…」 といきなりうんざり。 うちの裁判でもそうだったんですけど、触れられたくない箇所から遠退かすために違うことを言い出す戦法ですかね。 私は当時の斎藤さんのサイトのリンクには引用や転載の禁じ等はなかったので、更にはリンクの場合はご一報をとだけあったので(事前の指定も無し)、その通りに従って『紹介しましたよ~』とメールを送ったのであって、本来は修正する必要はなかったのですが、上記の通り、経験から論点を替えられてしまうのが嫌で、素直に修正しました。 (でもそれをするべきでもなかったのかと反省や後悔もしています) 批判するのなら全文を読んでとあったのですね、メールに。 でも私は最初から批判はしていませんので、全文を読む対象者には該当せず。 あと、全文を読むからあの内容が理解・解決できるというような問題ではないとおもいます。 7年前に書いたこと、打ち間違いというような弁でしたが、だからなんだというのかが、私の頭ではちっとも理解できません。 逆に言えば、7年もの長い間、あの内容で広告を出し続け(本人は個人的な日記だと言っているけど、何度も言うように、営利目的のHPなのだから、私には“広告”という解釈にもなる)、情報を流す前に打ち間違いを確認するという、ごく当たり前の行為すらせずにいたのだということにも疑問を感じます。 また、これらをすぐに“批判”というのかもしれないけど、どうしてそういう風にしか受け止めてくれないのか、非常に残念です。 私は助産院で産むことはもうありません。 自宅出産を選択することも有り得ません。 だからといって、これらのことに全く無関係だともおもいません。 何遍も言うけど、批判じゃないです、疑問です。 素朴な疑問です。 なんできちんと疑問に応えてくれないのか。 ネットだから? 会いに来ればって、私だけが納得すれば良いのかい? あのHPはそういう個人的なものなの? また、自分のところに来てくれる人に誠意をもって対応していくのが自分の優先順位だとも言われました。 優先順位…HPって一体なんでしょうか。 パソコンを常にあけられているわけではないともあり、そりゃ私も同じですよ。 このブログなんて、私の体調で放置されていたり、仕事で放置されていたり、とにかくよく放置されていて、私はいつも反省ばかり。 でも、だからといって、開き直ることはしたくないですね。 もし仮にネット社会に限界を感じるのなら、ブログも閉鎖します。 優先順位ってなんでしょうかね、無責任なだけのようにしかおもえない。 お産を受けるときは危険性の説明もするし、自身も命がけだという。 でもよほどのことがない限り、お産の場で助産師が死ぬことはないでしょう。 死ぬのは私達側です。 子供か母親です。 助産師だから必死ですじゃないでしょ、病院でだって、お産に携わる人は皆、必死でしょ! お産の世界の中で、自分だけが大変なの? 子の心音が急になくなることを避けられないだろうと、ただ、明らかに自身の手を下した結果の異常は避けられるとありました。 凄い自信をお持ちのようです。 確かに、医療行為が出来ない助産院では、それを遵守していれば、“医療事故”となる可能性は低くなるのかもしれないけど(医療の知識がないからわからない)、搬送への判断を誤るとか、全く持って異常を避けられるとは言えないのではないか、言うべきではないとおもうんですけどね。 それと、結局は“妊産婦・子側の異常”ということなんですかね。 でもね、この行の文末には“どんな状況でもお互いの信頼関係さえあれば、きっと乗り越えられる”とあるんですよ。 この“どんな状況”こそに、疑問があるんです。 私には危機感の喪失というか、どこまでの状況を言っているのかを明言して欲しいのです。 “善悪の判断をすること”にも疑問を感じていらっしゃるそうです。 正直、私にはよくわからない内容のメールです。 私の脳みその問題なのかなぁ。 自分の7年前もの打ち間違いや表現の誤りを反省するよりも何よりも、自分の考え方を私に唱えてくるばかりです。 お産の安全性の問題よりも、本音で生きたいとか、世界中から自分に会いに来てくれる人がいるとか、自分がどう考えて生きているかの方が大事だとしか言っていないような気がします。 当の斎藤さんはもう応じてくれないそうです。 かなり不満はあるけど、そういう方だったとおもうしかないのでしょう。 では、他の助産師の方はどうなのでしょうか。 この問題は斎藤さんだけの問題なのでしょうか。 医療崩壊、お産難民、内診問題…助産師(特に開業されている方と特定するべきかな?)の方たちこそ、どう考えられているのか、教えてくださいよ。 出産経験のある医師さんの書き込みの中にもありましたが、 『本当に覚悟があれば産婦人科学会の出した助産院との連携のモデル案をのめるはずだし、都道府県に探すように義務化しろなどということを助産師会のHPに載せることなどできないと思います』 には私も全く同感です。 時に、このブログに出会えて幸運だったと仰ってくれる方がいます。 それはそれで、琴子の死を無駄にしないでいられるのかなって、母親としてとっても嬉しくおもうけど、なんでこのブログに出会えなかったら危険性を知らないままに助産院でのお産を選択してしまっていたかもしれないと言わせてしまうのか、この現状をどうおもわれているのでしょうか。 私は嬉しい反面、悲しかったりもするんです。 助産院での出産を全て否定するつもりはありません。 でも、身近にVBACを扱っている助産院はないですか? 会陰切開をしている、もしくはしているかもしれない助産院はないですか? しちゃいそうな会話をしている助産師に出会ったりはしないですか? 逆子の搬送がまだゼロではないようだけど、産み始めないとわからないのですか? 逆子でもうまくいけば産ませようとおもっている人がいたりはしないですか? 医療を否定して、産む側に『病院で産むのは女の恥だ!』とまでおもわせているような風潮は感じられませんか? 前にもあったけど、白衣を最初に見るのは、子供にとっては不幸なことなんですか? 医療のお陰で産まれてきてくれた命に感謝してはいけませんか? 分娩台は、そんなに悪いものなんですか? 産み方は生き方なんですか? そんなにこだわるべきことですか? 母子の命よりも大事な産み方ってなんですか? 助産院での超音波診断は問題ないのですか? 搬送後に母子のその後の責任は助産師にはないですか? 『お産は素晴らしい』『お産が好きです!』とよく楽しそうにいわれますが、お産により、お子さんに後遺症が残ったり、母親が意識不明のままだったり、お産で家族を亡くした人を想うことはないですか? お産で子供を亡くした親の気持ちが分かりますか? 助産院は安全ですか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.04.16 17:05:08
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