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第2部 花喰い鬼(その5)【60 仕掛け】 十月二十九日ようやく見舞客が一段落した頃、乃利槇楼の三階の太巻花魁の本部屋に、お針の茜師匠の姿があった。 「あたしは、おかしいと思ったんですよぉ。だって、『椿は縁起が悪いから嫌いだ』っていつも言っていた太巻花魁がいきなり『白椿の打掛をあつらえておくれ』って言い出すんですもん。『あれ花魁は、椿はお嫌いだったんじゃござんせんか』って聞いたら『夕顔が来たから、わっちの好みばかりも言ってられんのさ』だって。しかも、『錫屋とかいう流行の下絵師に』っていうお名指しでしょう」 興奮気味に茜がまくしたてるのを、花魁は脇息にもたれながら機嫌良く聞いている。 「ああ、これはきっと何かあるなって気づいたんですよ。でも、大事なことだと思い、あたしは、しっかり口を閉じてましたのさ」 「そうですよね。茜さんは、いつも口が固いからねぇ」 番頭新造のお紋さんが混ぜっ返す。 「そうなんですよ。そしたら、やっぱり下手人をおびき出す罠だったんですね。花魁、いったいどうやって、あの錫屋なんとかという絵師が下手人だって、気づかれたのですか」 「いや、わっちが気づいたのは、下手人が絵師ではないかということだけだ。後は、奉行所の連中がいろいろ調べてつき止めてくれたのさ」 花魁がとぼける。 「ああ、南町の吉村様ですね。花魁、もっぱらの評判ですよ、吉村様と花魁の仲は」 花魁は知らぬふりをする。 それを見て、茜さんが矛先を変えた。 「それにしても、夕顔さんが、大華楼の白椿花魁になりすましていたとはね。これはさすがに早耳のあたしも気づきませんでしたよ。でも、怖かったでしょう。下手人の的にされるわけだから」 「わっちは、きっと花魁が助けてくれると・・・・。」 信じていましたから、と言いかけた夕顔に、花魁が割って入った。 「かわいい新造に危ない目を見させるわけにはいかないから、最初は、わっちが白椿花魁になりすますつもりだったのさ。そうしたら・・・・」 「駄目でありんす。花魁が白椿花魁に化けても、成りが大きすぎて、たちまちバレてしまいます。わっちでも、少し背が高すぎたくらいでありんすから」 今度は、夕顔が花魁の言葉を引き取った。 「そうなんだよ。『このお役目、ぜひぜひやらせて下さいまし』と言ってきかないんだよ」 「この娘は、そういうところは強情だからねぇ」 とお紋さん。 「ところで、夕顔さんの花魁姿がなんとも美しかったと、大華楼の女将が触れまわってますよ。あたし見たかったねぇ」 「茜さん、焦らずとも、なにもう何年かすれば、見られるさ。さて、そろそろ支度にかかろうか」 花魁が立ち上がった。 そうか、そうなのか、今度みたいな、なりすましのためでなく、あたしは本物の花魁になるのか・・・。 夕顔には、いずれ来るその日のことが、まだ実感できなかった。 【61 絡む】 十一月二日 月が改まり、久しぶりに良輔がやってきた。 花魁が機嫌よく本部屋に迎える。 「どうだ、調べの方は?」 「観念したのか、白状し始めた」 「そうか、前にも言ったが、急いだ方がよいぞ」 「そのことだ。牢医者も同じことを言っていた。肝の臓の具合がかなり悪いようだ。それにしても、難しい事件だった。今にして思うと、よく下手人にたどり着けたと思う。ほとんどは、お千代のお陰だが・・・・」 「なに、わっちはここに座っていろいろ考えているうちに、いくつか筋が見えてきただけさ。花を描く絵師、血を貯める革袋、見事な白菊の花、白菊を名指しした背の高い男・・・・。ただ、そうした筋が絡んでくるかどうか、確信はなかったが・・・・。実際は、良輔たちが探索に走り回ってくれたお陰だ。」 「それは、そうだが・・・・。お千代から来る文に書かれている筋が次々に絡みはじめた時には、ほんとうに驚いた」 「絡む?」 花魁の脇に控えて、2人の話を黙って聞いていた夕顔がつぶやいた。 「そうだ。探索の方向が当たっていれば、調べるにつれていくつかの筋が絡んでくるものなのだ。さすれば、その筋が下手人につながる本筋ということだ。もっとも絡んでいるように見えて、すぐに解れてしまうこともあるので注意しなければならぬのだが」 「・・・・」 「ああ、これはなんも探索に限った話ではないぞ。事を運ぶのに、それが理にかなっていれば、人や物は自ずから寄り添ってくるものなのだ。そうでないときは、それが理にかなっていない筋、無理筋なのかもしれんと、一度、立ち返って考え直した方がよいということだ」 「あい」 「その通りだ。最初、『下手人は絵師だ』と言われても、雲をつかむような話だった。江戸にはあまたの絵師がいるしな。しかし、その絵師が描こうとしたのが、白菊花魁が殺されたあの場所に落ちていた白菊の花ということになると、花の出所が問題になる。それを調べているうちに、岩本町の隠居が騒いでいた菊盗人のことに思い至った。お千代が『菊百譜』という本から選んでくれた菊の絵を隠居に見せると『これです。ウチの菊に間違いねえです』と言い切った。その隠居の家は、昨年の秋に殺された町娘のお菊の家にほど近い。下手人はどうもこの近辺に住んでいるのではないかと当りをつけた。そうこうしていたら『革袋を扱う店を調べてくれ』という文が来たので、早速、手下に当らせた。じきに、与平が神田佐久間町の袋屋で何度も革袋を買っている男がいるということを聞き込んできた。それは怪しいと調べ始めたら、そこにお千代から『背が高い男、五尺九寸余』という文が来た。すぐに与平に当らせたら、袋屋の番頭が言うには『へえ、たしかにたいそう背が高こうございました。それは間違いなくよく覚えております』と言う。ただ、その男は、袋屋ではいつも現金買いで、どこの誰かがわからない。そこにまたまたお千代から文が来た。今度はなんと『錫屋庄得』の名が記されていた。驚いた。俺は、その名に覚えがあったからだ。そうだ、お菊の幼馴染で行方知れずになっているお梅の口書(報告書)にあった名だ!と気付いた。迂闊だった。なぜもっと早くに思い至らなかったのか・・・・」 「お梅は、別筋だと思っていたからだろう。むしろ、よく覚えていたと思うぞ」 花魁が良輔を慰める。 【62 袋の鼠】 「そこで、錫屋庄得を調べたら、岩本町の隣の須田町の長屋住まいで、背が高い。念のため、袋屋の番頭に面通しをしたら『間違いございやせん』と言う。別々の筋が次々に絡んでいく。もう間違いない。こいつが下手人だ!こいつが花喰い鬼だ! 引っ張って責め問いにかけるようと考えたが・・・・。」 「まだ確たる証がなかろう。それになにより、それでは、わっちの出番がなくなって、つまらぬ」 「つまらぬ?・・・・それであの計略を・・・・」 夕顔が口を挟んだ。 「いやいや、わっちとしては、立場上、奉行所があの男を獄門台に送る前に、この廓なりの仕置きをせねばならぬからな。あいつの身柄を奉行所に引き上げられては困るのだ。ほんとうは、あそこで殺して白菊と藤房の仇を討ちたかったのだが・・・・。まあ、そこは良輔に手柄を立てさせないといかんしな」 「いや、それは奉行所としても同じこと。これだけ世話になった以上、吉原の顔も立てないわけにはいかぬ。錫屋庄得にはしっかり見張りを付けて、いつ動き出しても仕掛けに嵌められるように備えをした。なにしろ、的になる夕顔の身にかかわることなのでな」 「庄得は、白菊殺しの前に、酔魚という幇間から『(吉原)細見』を買っている。それを見れば、廓に花の名の女たちが咲き乱れているのは一目瞭然。必ず、白椿花魁に目星を付けるはず、と思ったのさ」 「そのとおりだった。あ奴にとっては、吉原がおのれの絵を描くための花畑に思えたらしい。花魁から『白椿の反物』の注文が届いた翌日には吉原に下見に出かけたからな」 「九郎助稲荷を選んだのも、あそこなら大門からいちばん遠い廓のどん詰まりだから、下手人を袋の鼠にできる。もしも袋を喰い破った時の備えに、裏木戸は伝法院裏の親分に固めてもらった」 「わっちが、思っていたよりずっと大捕物だったのですねぇ」 夕顔がつぶやく。 「ああ、でも、いちばんの要は、おゆう、お前だったんだよ」 花魁の言葉に良輔もうなずいた。 「ところで、今日で長屋を引き払う」 「ああ、めめさんに世話してもらった揚屋町の泊まり場所か」 「寂しくなりますね」 と夕顔。 「あの女衆頭にも、世話になったと、よしなに伝えてくれ」 「わかった。良輔、これで最後か」 「いや、また判ったことを、伝えにくると思う」 「そうしてくれ。わっちも、なぜあの男が血で画を描くことになったのか、知りたいのでな」 【63 発端】 文化十二年 正月二十五日 錫谷庄得はそこそこ名の知れた呉服問屋の三男として生まれ、幼名を麻生という。 跡取りとして厳しく育てられた長男と違い、母と婆に甘やかされて我がまま放題の幼少時を過ごした。 麻生は美しいものが好きだった。やがて呉服の文様を真似て絵を描くようになり、それを喜んだ母が知り合いの絵師を師匠に付けた。小器用な麻生はまたたく間に「それなりの」絵を描くようになった。 しかし、師曰く「魂がない」と。人を描けば似絵としては良いが、生気に欠ける。花を描いても、風景を描いても同じだった。師に「形は写しているが実が入っていない」と言われて、腹を立て、激しく口答えしたあげくに師を殴って破門されてしまった。 生家に戻った麻生は、父の知己の呉服屋へ奉公に出るが、仕事に身が入らず喧嘩と反抗を繰り返し、すぐ戻されてしまう。そして、激怒した父にも勘当されてしまう。 麻生は自分の絵に自信があった。あくまでも絵師としてやっていくのだと、神田紺屋町の長屋の隅に部屋を借り、名を庄得と改めた。絵を描きためては版元に持ち込むが、魂のない絵など売れるはずもない。結局は、そっと母に金の無心をしたり、母に泣きつかれた兄が持ってくる反物の下絵を描いたりして細々と数年を過ごしていた。 そして、あの日がやってきた。 春の雨に降りこめられた庄得は、昨日の天神さんで写した梅の絵の仕上げをしていた。 空徳利に刺した、折り取った梅の一枝を眺めるのも飽きて、ううん、と痛む首を回す。その時、戸がからりと開いた。 「おや、お梅さんじゃないか」 庄得の声がはずむ。年ごろの娘らしくこざっぱりと赤い紬に黒繻子の帯の、顔立ちのはっきりした娘が入ってきた。 「あたし、昨日もきたんだけど。いやしないんだもの」 お梅と呼ばれた娘は、傘を乱暴に閉じながら小上がりにすとんと腰を下ろした。 「ああ、すっかり濡れちゃった。早速だけど、見せてよ。あたしの絵」 「う、うむ。今出す」 庄得がお梅に声をかけたのは3日前の事だ。 何かの稽古に通うらしいお梅に魅かれ、描いた姿絵をもらってほしいと言ってみたのだ。 お梅は闊達な性格らしく、庄得の家を確かめると、 「じゃあ、明後日にでも取りに行きます」と答えた。 庄得にしてみれば、「脈あり」だ。 いそいそと今まで描いていた絵をしまって、あらかじめ描いてあった梅に添うお梅の姿絵を広げて見せた。 ところが、お梅は絵を上から下まで見て、ため息をついた。 「なあに、あたしってこんな?やぁねぇ。絵で食べてる人だって聞いたからちょっと期待したのに。こんな薄っぺらな絵なら、あたし、いらない。まあ、こんな長屋に住んでるんだもん。上手な人ならもっと立派な所に住んでるわよね。あーあ、わざわざ雨に濡れて来て、なんだか損しちゃったわ」 庄得の落胆は大きかった。いや、それ以上に押さえきれない怒りが込み上げてきた。絵の事など何も知らぬ小娘が、えらそうに。なんだか頭の中でぷちっと音がした気がした。目の前が赤くなった。体の芯が熱く、赤く燃えたぎる。 我を取り戻してみれば、土間に倒れたお梅の頭には鋳物の文鎮がめりこみ、ぶくぶくと赤い泡を吹いていた。さすがの庄得も「大変な事をしてしまった」と青くなる。 ともかく、お梅をどうにかしなければならない。お梅はここに来ると誰かに話しただろうか。話したとしてもたくさんではないはずだ。今はまだ、それほど疑われることもなかろう。死体さえなければ。 土間に降りようとして、ふと、お梅の似絵に目が行った。 お梅の傍らに咲く梅の花に、お梅の赤い血が飛んで、何故かひどく生き生きと美しく見える。 庄得は妙に生き生きとしたその花の絵と、倒れている娘をゆっくりと、交互に見比べた。もし何者かがその様を見ていたならば、その眼が動くたびに何か狂ったものが庄得を支配していくのに気付いただろうか。 「そうか」 庄得はひとりごちた。 「お梅さん。あんたは神様がよこしてくれたんだね。神様が俺の絵のためによこしてくれたんだ」 血はさっきまで使っていた硯にも飛んでいた。庄得は一度仕舞った書きかけの梅の絵を広げた。飛んだお梅の血を丁寧に墨と一緒に擦って、一気に書き上げる。 「そうだ、これだ。描ける。描けるぞ。俺は描ける・・・・」 狂った男は失われた命の最後まで絞り取ろうとするように、お梅の手首にざっくりと包丁を入れた。もう本来の勢いを失った血の流れが、それでもほぞぼそと垂れるのを男は硯で受けて、墨壷に注いだ。 雨足がさらに強くなった。 【64 供養】 文化十四年十一月五日 昨日は、鷲(おおとり)神社の一の酉だった。 鷲神社は吉原の真裏にあるので、参詣の人々の便のため、御酉様の日だけは、普段は固く閉ざされている水道尻の裏門が開かれ、大門から仲の町の通りを真直に裏門まで抜けることができた。しかも、普段は女に厳しい大門の出入りもこの日だけは緩められる。酉の市と吉原見物が一度にできる「吉原の通り抜け」は、江戸の人々の楽しみだった。 初めてその賑わいを見る夕顔は、人出のあまりの多さにすっかり驚いてしまった。 「う~ん」 身支度を整えた太巻花魁が良輔からの文を読み終えて、深い溜息をついた。 「また来る」と約束したものの、良輔は姿を現さない。 やはり調べで忙しいのだろう。 代わりに長い文で、二年前の事の発端を知らせてきた。 花魁が、読み終えた文を夕顔に渡す。 庄得の長屋の床下からは、変わり果てたお梅の骸が掘り出された。 「よく今まで、誰にも気づかれなかったものですね」 「ああ、隣が空き家だったこと、日頃から長屋の住人と折り合いが悪く、誰も訪ねてこなかったことが、やつには幸いしたらしい」 「それにしても、血で絵を描くことがこんな偶然から始まったなんて・・・・」 「ほんとうにそうだな。わっちも、血で絵を描くことには、もっと何か深いいわれがあるのかと思っていた。こんなことから始まって、お梅を入れて7人もの花の名をもつ女の命が奪われてしまった。なんとも恐ろしい話だ」 「あい」 「あの男、たしかに狂っておった。いや、なにかに憑かれていたのかもしれんな」 「昔、なにかの事情で恨みを飲んで死んだ絵師の悪霊とか・・・・」 「そうかもしれん・・・・、いや、やはりあの男の育ちに過ちがあったのだろう。甘やかされて己が見えなくなっていた。素直に己の器の小ささを認めていれば、あのような妄執は抱かなかったであろうに・・・・」 そこにお紋さんが入ってきた。 「花魁、そろそろお立ちの刻限でございます」 「もうそんな時か・・・」 「はい。それから、先ほど知らせがまいりましたが、日和楼の晴春花魁が明後日、浄閑寺で例の打掛の焚き供養をなさるとのことでございます」 「ああ、あの黄菊の打掛か。殺されたお菊の血で描かれたことがわかって、日和楼は大騒ぎだったらしいな」 「はい、『わちきに不浄のものを着せた』と、それはもう晴春花魁はたいそうなお怒りで、お針頭のひふみは暇をとらされたそうにございます」 「ともかく日和楼もお晴も災難だった。お紋さん、すまないが焚き供養の料として浄閑寺にお布施を送っておいておくれ。五両ばかりでよいだろう」 「かしこまりました」 「下手人にたどりつけたのは、お菊の幽霊のお陰もある。懇ろに供養して、成仏してもらわんとな」 ![]() ↑ 歌川広重「名所江戸百景」 浅草田甫酉の町詣(吉原妓楼より大鳥神社を望む) 【65 女将】 十一月八日 大華楼のお内所のお阿津が、乃利槙楼を訪れたのは、事が落ち着いた吉日だった。 「おかげさまで、白椿花魁は命を拾いました。うちの見世は花の名の子ばかり、他の者もほっとしております。花魁、本当にありがとうござんした」 座敷に出迎えた乃利槙楼のお内所と太巻花魁、そして花魁の後ろに控える夕顔を前に口上を述べる。 「こちらこそ、無理なお願いを聞き入れていただき、ありがとうござんした。お陰さまで、花喰い鬼を退治することができんした。ご迷惑をかけんした白椿花魁に、くれぐれもよしなにお伝えくださりませ」 花魁に返礼の詞が終わると、大華楼の女将は、口調を改めた。 「太巻花魁、あんたはいい新造を持ったねぇ」 「お褒めにあずかり、嬉しゅうありんす。この夕顔、まだ勤めて日も浅く、廓の作法も身に着いておりませぬ。お預かりいただいた間、なにか粗相をいたしんせんか、心配でござんした」 振袖新造の夕顔は、花喰い鬼の的にされた白椿花魁の身代わりになるために、対決の数日前から大華楼に預けられていた。 それを知っていたのは、太巻花魁と、番頭新造のお紋、それぞれのお内所同士、そして会所の頭取四郎兵衛と番方の五郎左、南町奉行所同心吉村良輔だけだった。 謀は密なるが肝要、という花魁の指示で、他の者には、夕顔は急な病のため根岸の寮で療養していることになっていた。 乃利槇楼に出入りしている呉服屋から、庄得に白椿の下絵の注文が入った。庄得を名指ししたのはもちろん太巻花魁だ。その時、すでに良輔の手の者が、庄得の身辺を見張っていた。庄得が動いたら、花魁と良輔に知らせが入る。良輔は大華楼に客として入り、白椿花魁の孔雀の打掛を着た夕顔と共に店を出る。大門の前で名残を惜しむ時にも、わざと「椿」「椿」と名を呼び、庄得に白椿花魁だと思い込ませる。その後、夕顔が九郎助稲荷に向かい、庄得がそれを追尾すれば、良輔は大門を出たところから引き返して庄得を追う。そういう手筈だった。 庄得が動き出すまでの数日、夕顔は大華楼の納戸に隠れ潜んでいた。女将のお阿津が自ら食べ物を運んでくれた。その時、女将が退屈している夕顔の話し相手になってくれたことを、花魁は夕顔から聞いて知っていた。 「それでなんだがねぇ、花魁。夕顔をあたしに譲ってくれないかい」 大華楼の女将の唐突な申し出に、さすがの花魁も驚いた。だが、冗談ではないことは、女将の目が物語っている。 「あたしゃあ、心底この娘にほれ込んじまってねぇ。うちの看板の白椿花魁はもう二十五だ。年季明けも近い。今いる花魁や振袖新造は、とても白椿の後を継げるたまじゃない。夕顔なら、きっとうちの看板になって、店を盛りたててくれる、そう思ったのさ。無理な話だということは承知の上。もちろん、金に糸目はつけないよ。百でも二百でも、言い値を出そうじゃないか。さっきも言ったが大華楼は花の名の花魁ばかりの見世。いわば花喰鬼を退治してくれた皆の恩人だ。蝶よ花よと大切にして盛りたてるさね」 まさか、そんな話が出るとは思っていなかった乃利槙楼のお内所は目をむいた。立場上、何か言わなければと思いながらも、あわあわとしているのを尻目に、花魁が居住まいを正した。 場の空気が変わった。 「女将、この話、夕顔は承知でありんすか」 「いえ、あたしだけが言っていることさ。あたしゃ言ったんだよ。『そりゃあ、うちの花魁の身代わりになってくれるっていうんだ。是も非もないが、なんだってそんな危ない橋をあんたが渡らなきゃならないんだい』ってね。そしたら、この新造が言うんだよ『奇しき縁で大門をくぐったその日から、わちきは吉原の女でありんす。吉原はわっちの故郷、大切な家でありんす。そこで働く者たちはいわばあっちの親類縁者。あっちはただこの身が役に立つなら親類縁者を救いたいと思っただけでありんす』 むつきの頃からこの廓で育った禿立ちの新造にだって、こんな覚悟ができてる者はいやしないよ。廓で花を咲かすには、美しさや手練手管も大切だ。だけど、いちばん大事なのはこの里で生き抜いていく覚悟なのさ。この子の気持ちを聞いて、あたしは、この子が欲しくて欲しくてならなくなったんだよ」 「と女将はおっしゃっている。夕顔、おまえはどうお答えするんだい」 太巻花魁の後ろに控えている夕顔の顔に皆の目が集まった。 「数ならぬこの身にあわれをかけてくださいます皆様にはありがたく思うておりんす。なれど、わっちはこの世に行きどころなきところを太巻花魁に拾っていただいた身。乃利槙楼に太巻花魁ある限り、わっちは太巻花魁付きの振袖新造夕顔と思い定めておりんす。この思い、どうぞかなえてやってくださりまし」 「女将、わっちの預かり者である夕顔に、そこまでほれこんでくださったこと、この太巻、御礼を申し上げんす。なれど、この夕顔は、我が身の後を継いで、権現様(徳川家康)開闢以来の乃利槙楼の三階を預かる身、いかに請われようと、お譲りするわけにはいきませぬ。長きにわたってこの廓を見て来られた女将がそこまでおっしゃるなら、この夕顔、きっと我が廓を去りし後、新吉原三千の女に頭立つ花魁となりんしょう。どうか末長くお目をおかけくださりまし」 【66 うれし涙】 太巻花魁にここまではっきり言われては、さすがの大華楼の女将も引き下がるしかなかった。 女将を玄関まで送ってきたお内所が怒っていた。 「まったくもう、ずうずうしい。夕顔は先々うちの大看板になる娘だよ。百や二百の端した金で譲れるものかね」 「まあ、まあお内所、うちの夕顔が、それだけ惚れこまれたのでありんすから」 花魁がなだめる。 「そう言われれば、そうだけどね」 と言いながら、お内所は大華楼からの礼金の半分を持って座敷を出て行った。 「あの、花魁・・・・」 「なんだい」 「先ほどは、ありがとうございました。なれど、わっちは、まだ・・・・」 「まだ、どうした?」 「花魁の後を継ぐ自信なんて、これっぽっちもございません」 「それは、今はまだ、そうかもしれんな」 「あい」 「でも、お前は大華楼の女将に言ったのだろう。『大門をくぐったその日から、わちきは吉原の女でありんす。吉原はわっちの故郷、そこで働く者たちはあっちの親類縁者。ただこの身が役に立つなら親類縁者を救いたい』と。その覚悟がまことなら、何も心配はいらんさ」 「・・・・」 「あの女将は、禿立ちの花魁からお内所にまでなった人だ、この廓を五十年は見てきたお人だ。その人と、この太巻がお前を見込んだのだ。間違いはあるまい。お前は、きっとこの廓第一の大輪の花にされるさ。ともかく今は、余計な心配をせずに日々努めることだ」 「あい・・・・」 「ほら、なに涙を流してるんだい。女郎の涙は男を誑すときだけで十分だ。さあ、元気をお出し」 「あい、うれし涙でありんす」 【67 祝杯】 十一月十五日 錫屋庄得は、お梅に始まり白菊花魁に至る七人の殺しを白状した。しかし、それぞれの詳細については、自白の内容に混乱が激しく、時にはうわ言のような事をしゃべり続け、なかなか調べがつかなかった。 取り調べに当った南町奉行所筆頭与力榊忠弘は、それまでの調べだけでも罪状は明白として調べを打ち切り、南町奉行岩瀬加賀守氏紀に上申して裁きを仰いだ。 その結果、十一月十一日、錫屋庄得は七人殺しの罪で、市中引き回しの上、打ち首獄門と決まった。 そして、冷たい雨がそぼ降る十三日、引き回しと仕置きが行われた。 引き回しを見物した者によると、すっかり生気を失った土気色の顔にうすら笑いを浮かべ、なにやらしきりにつぶやきながら、曳かれていったという。 もし、耳を近づけることができる者がいたら、そのつぶやきは「描ける、描ける、俺は描ける」と聞こえたはずだ。 二の酉の賑わいが終わった翌日、久しぶりに吉村良輔がやってきた といっても私用ではなく、南町奉行所の筆頭与力の使者としての公用だ。 花魁は、最初の対面と同様に、本座敷で良輔を迎えた。 用向きは、今回の下手人補縛の功に対して、新吉原乃利槇楼抱え花魁太巻と新造夕顔に、お奉行様直々に褒美を賜るので、明月十日巳の刻、会所頭取を添人として同道の上、南町奉行所に赴くように、とのお達しだった。 花魁は「身に余る仰せ、ありがたくお受けいたしまする」と答えた。 公用を終えて立ち上がろうとする良輔を、花魁が、 「吉村様、いましばらく。今、祝いの酒を・・・・」 花魁が、ポンと手を打つと、かわいらしい二人の禿が赤漆の酒器を運んできた。 「ささ、まずは一献」 花魁が自ら朱杯に酒を注ぐ。 「吉村様、花喰い鬼、ご退治、おめでとうござりまする」 花魁の音頭で盃をあげる。 祝いの酒を干すと、花魁は急に肩の力を抜いた。 「終わったのだなぁ」 ぽつりとつぶやく。 「ああ、終わった。しかし、この事件、そなたの働きなくしては解決できなかった。そのこと、筆頭与力からお奉行様によくよくお伝えして、今度のご褒美ということになった。拙者からも厚く御礼申し上げる」 「なに、身にふりかかる火の粉を払うたまでだ。なにせ、かわいい新造が花の名であるしな。花喰い鬼にいつまでも跳梁されては困るのだ。これで廓の花も、町の花も、心置きなく眠れよう。それしても、良太郎がこれほど腕利きの同心になるとはな。幼き日を共にしたわっちとしては、うれしかったぞ」 「なに、そなたの手足となって動いただけだ。こちらこそ、改めて惜しい・・・・」 良輔の言葉を遮るように、花魁が言葉を挟んだ。 「なあ、良輔、今日で仕舞いか、もう会えぬのか。いっそ本当に真夫になってくれても良いのだぞ」 「いや、天下の太巻花魁の真夫が八丁堀の痩せ同心だ、などと噂が立ったらまずかろう。そうなる前に下手人を捕えることができて何よりだった」 「わっちは別に、噂が立ってもよかったのだがな」 花魁の後ろで二人のやり取りを聞いていた夕顔は、 「あの~ぉ、もう、すっかり廓中、知らない人はいないくらいの噂なのですけど・・・・」 と言いたかった。 「やはり辞めておこう。拙者の器量では荷が重すぎる」 「そうか、残念だな。でも、良輔とあれこれと考えを巡らすのは昔に戻ったようで楽しかったぞ。江戸の町もこのところ物騒だ。くれぐれも気をつけて励めよ」 「そなたもな」 【68 見送り】 立ちあがる良輔を座ったまま見送る花魁に夕顔が声をかけた。 「花魁、お見送りは?」 「客ではないからな。わっちがわざわざ送ることもあるまい。夕顔、お前にまかせる」 夕顔の目には、なんだか花魁が拗ねた猫のように見えた。 今日は真夫としてではなく、奉行所からの使いであるから、出入りは表からになる。 預けた大小を松吉から戻され、お内所も挨拶に出てきたが、大門まで見送ったのは夕顔ひとりだった。 「そなたも見事な働きであった。いろいろ世話をかけたな。では」 会釈して去ろうとする背に、夕顔がたまらず声をかけた。 「吉村様、花魁の先ほどの言葉、本心でありんすよ」 良輔の足が止まった。 「ああ・・・、でもな、人にはそれぞれの道がある。その道がいつも交わるとは限らぬのだ。それに、自分の中では、あやつはいつまでも八丁堀の姫夜叉の千代なのだ」 「わっちには、わかりんせん」 「今はわからいでもよい。いずれお前にもわかる。くれぐれも、花魁を頼んだぞ。あやつは、昔から意外とさびしがり屋だからな」 良輔は、それだけ言うと、振り返りもせず、大門の向こうに歩み去った。 あれ、なにか花魁のことで吉村様に確かめておこうと思っていたことがあった、なんだっけ? 夕顔は小首を傾げた。 【69 評判】 十一月十六日 「花魁、花魁、読売を集めてきましたよぉ」 お針の師匠の茜がいつものように賑やかに太巻花魁の本部屋に飛び込んできた。 花喰い鬼の事件については、奉行所のお達しで、下手人の処断が終わるまで、読売に書くことが禁じられていた。 表向きは「お調べに差し支えがある」という理由だったが、六人の女が殺されるまでその関連に気づかず、花喰い鬼の跳梁を許してしまったのは明らかに奉行所の失態であり、それへの批判を封じるためでもあった。 その禁が昨日ようやく解かれたのだ。 満を持していた読売屋たちは、一斉に書き立てた。 恐ろしい花喰い鬼を退治したのが、あの太巻花魁であることは、江戸の人々はあちこちから流れてくる噂で知っていた。 だから、当然、どの読売の記事も「対決・九郎助稲荷の場」が中心だ。 夕闇の濃くなる九郎助稲荷の境内。 おとりの花魁に扮した美しい「身代り新造」が、花喰い鬼の一撃をひらりとかわす。 そこに現れた太巻花魁が「花喰鬼の悪行、この捕物花魁がすべてお見通しだ。覚悟いたせ」と啖呵を切る。 花喰い鬼の匕首と花魁の緋房の十手が打ち合うこと七、八合、花魁は腕に向こう傷を負いながらも、ついに花喰い鬼を打ち据え、見事に殺された女たちの仇を討った。 ほとんどの読売が同工異曲にこんな筋で書いていた。 「ちがう! わっちは知っている。花魁の台詞が終わって、花喰い鬼が倒れるまで、ほんとうに一瞬の出来事だったんだから」 夕顔は心の中でつぶやく。 「ちがう!」 今度は、花魁が叫んだ。 「わっちが、自分で『捕物花魁』などと言うものか!」 「えっ、花魁、『捕物花魁がすべてお見通しだぁ』って言ったのは確かにそのお声でしたよ」 夕顔がそれを言葉にする前に、茜師匠が取りなしていた。 「まあ、まあ、花魁、大袈裟に書くのは読売の決まり癖みたいなものですから。それにしても、お二人ともたいそうなご活躍で。できることなら、あたしもその場で見物していたかったですよ」 「ふん、まあ、そんなものかもしれんな。おや、夕顔、これにはおもしろいことが書いてあるぞ」 「あい? どこでございますか?」 花魁が、その読売の一節を読み上げる。 「『花喰い鬼、五尺の棒を振りかぶり、美しき身代り新造の背後に迫れり。危うし!と思われしその刹那、新造は艶やかなる袖を翻して、ぽんと後へ一丈(3m)あまりも跳びのけり』 ふむ、これではまるで野猫の身のこなしだな」 「そんな、妖かしじゃあるまいし。わっちは、ただすぐ脇の落ち葉の山に転がり込んだだけでありんす!」 今度は、夕顔がふくれる番だった。 【70 初雪】 茜師匠を見送って三階に戻ってきた夕顔は、外廊下に誰もいないことを確めると、振袖を巻いて、後ろにぽんと跳んでみた。 「ほら、後向きに一丈なんて跳べるわけがないじゃない」 と、つぶやく。 「およそ一間ほど(1.8m)だな、それだけ跳べれば十分であろう。惜しいな、その身のこなし、修業を積めば、さぞや良き女武芸者になれたであろうに・・・・」 いつの間にか、花魁が後ろに立っていた。 「そ、そんなもの、なりたくありません。わっちは、姉さまの後を継げる立派な遊女になろうとしているんです」 また、夕顔がふくれる。 「おや、先日、後を継ぐ自信がないと涙顔だったのは、誰だったかな」 花魁がちゃかすと、みるみる真面目な顔になって、次にしゅんとする。 「今も自信はありませぬ。でも精一杯、努めるだけです」 夕顔の百面相を見ているのは面白いが、あまりしゅんとされると居心地が悪くなる。花魁が夕顔の額の上、髪の生え際のあたりを軽く撫でる。目を細めるのはそのまま猫のようだ。 「そうだ、それしかないな」 「あい」 「お前を拾ったのは桜の季節だったな。それが、いつの間にかもう今年の日数も残り少なくなってきた。早いものだ」 最初は野猫を拾って、気まぐれに餌をやったくらいのつもりだったのになぁ、と思ったが、それは口にせずにおいた 「何もかも変わってしまって・・・。わっちは、まだ時々、長い夢の続きのよう気がいたします」 「この夢は醒めぬよ。わっちとお前が共に見る夢だ。そんな夢も悪くなかろう・・・・。それにしても、今日は冷えるな」 「あい」 「風邪を引くといけない。中に入ろう」 二人は、本部屋に戻る。 夕顔が、火鉢に炭を加える。 中庭から禿達のはしゃいだ声が聞こえてきた。 夕顔は、中庭に面した障子窓を隙かした。 鈍色の空から白いものが落ちていた。 「あれ、姉さま・・・・、雪が・・・・」 花魁が窓辺に寄ってきて、夕顔の肩に手を掛け、そっと抱き寄せる。 「ああ、初雪だ。どうりで寒いはずだ」 太巻花魁と夕顔の二人の物語は、まだまだこれからだ。 (第2部 了) |