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1月4日(水) 晴れ 東京 9.4度 湿度 33%(15時)
新年の初外出は、パートナーと「六本木ミッドタウン」へ。 ![]() サントリー美術館で「殿様も犬も旅した 広重・東海道五拾三次 ―保永堂版・隷書版を中心に―」展を見る。 ![]() ![]() ↑ 歌川広重「東海道四十四 五十三次 四日市」(隷書版)嘉永年間(1848~1854) 中央やや左の白犬が「お伊勢参り」している犬。 「保永堂版」と「隷書版」を並べてみると、あらためて「保永堂版」が傑作であることを実感。 「隷書版」を揃いで見るのは初めてだったが、数点見るべきものはあるものの、「保永堂版」の意表をつく構想や大胆な構図、デフォルメされた風景描写は影をひそめ、全体的に構想は平明で、構図はデフォルメが少なく写実的で、悪く言えば「保永堂版」の「出涸らし」的感じがする。 ![]() ↑ 歌川広重「東海道二十 五十三次 府中」(隷書版)嘉永年間(1848~1854) 駿河府中(静岡市)の遊廓「二丁町」の大門前の風景。 歌川広重(寛政9~安政5年 1797~1858)が描くところの東海道五十三次のシリーズは、未完のものも含めて20数種類、五十三次すべて揃っているものだけでも16種類と言われている。 その主なものを示すと、以下のようになる。 「保永堂版東海道」大判 天保4~5年(1833~34)37~38歳 「狂歌入り東海道(佐野屋喜兵衛版)」中判 天保13年(1842) 「行書東海道(江崎屋版)」間判 天保13年(1842)46歳 「隷書東海道(丸屋清二次郎版)」大判 嘉永年間初期(1848~54)52~54歳 「人物東海道(村田屋市五郎版)」竪中判 嘉永5年(1852)56歳 「竪絵東海道(蔦屋吉蔵版)」竪大判 安政2年(1855)59歳 つまり、「隷書版」シリーズを描いたときの広重は、すでに東海道五十三次というテーマに飽きていたのではないかと思う。 また、27歳で定火消同心を隠居して、専業絵師に転じた広重にとって、「保永堂版東海道」の刊行は浮世絵師としての将来を掛けた大きなチャンスであり、まさにその才能のすべてを注ぎ精魂を傾けた大仕事だった。 一方、「隷書版」の刊行の時の広重は、すでに浮世絵界の重鎮の地位に在り、それほどの冒険をする必要はなかった。 今回の展示では、むしろ、数点ある「変わり図」の比較がおもしろかった。 最初に刊行されたときの版木を使用した「初版図」に対し、「変わり図」は一部の図柄を変え、彫り直した版木を使用する。 どこがどう違うか、対比すると、あえて改版した広重(あるいは版元)の意図が読み取れる。 ![]() ↑ 歌川広重「東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景」(保永堂版)「初版図」天保4年(1833)頃 ![]() ↑ 歌川広重「東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景」「変わり図」天保6年(1835)頃 たとえば、「東海道五拾三次」の冒頭を飾る「日本橋 朝之景」。 「初版」はまだ人少なで、夜明け前の日本橋の静けさが漂うが、「変わり図」では人の数がぐっと増えて、夜明け前であるにもかかわらず賑わう日本橋の繁栄が感じられる。 ![]() ↑ 歌川広重「東海道一 五十三次 日本橋」(隷書版)嘉永年間(1848~1854) 「隷書版」の日本橋は、橋の上を行き交う人々を描く。 ![]() ↑ 歌川広重「東海道五拾三次之内 神奈川 薹之景」(保永堂版)「初版図」天保4年(1833)頃 ![]() ↑ 歌川広重「東海道五拾三次之内 神奈川 薹之景」「変わり図」天保6年(1835)頃 水平線が下がり、雲が高くなり、空が広々とする。 新春ということですごく混んでいるのではないかと危ぶんでいたが、それほどのことはなく江戸時代の東海道の旅をじっくり堪能できた。 ![]() ↑ バックは「津軽凧」。 [お勉強]カテゴリの最新記事
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