(続き)
昼食は、自由が丘駅南口の「 Butcher's (ブッチャーズ)」で、おろしハンバーグランチ(800円)。
学芸大学駅に移動。
東口商店街の「ドトール」でコーヒー・ブレイク。
14時、「仕事部屋」に戻る。
「石山寺縁起絵巻」の資料がだいぶ溜まったので、ファイルに整理する。
その作業中に、くしゃみ連発。
風邪が直っていないのか? それともアレルギーの発作?
アレルギーだとしたら、ハウスダストかな? まさかもう花粉?
2時間ほど眠る。
体調、少し改善。
17時40分、再外出。
18時20分、自宅最寄り駅前の「ドトール」で仕事帰りのパートナーと待ち合わせ。
「東急ストア」で買い物をして、いっしょに帰る。
19時過ぎ、帰宅。
夕食は、常夜鍋(豚肉のしゃぶしゃぶ)。
普通のほうれん草がなかったので、寒ちぢみほうれん草を使ったら、実に味が濃厚。
甘味すら感じる。
今まで、寒ちぢみほうれん草を鍋料理に使ったことがなかったので、ある意味「発見」
食後、また2時間ほど眠る。
お風呂に入って髪を洗う。
夜中、都留文科大学「ジェンダー研究1」の平常点の整理と算出作業。
就寝、6時。
2月8日(水) 曇り 東京 9.9度 湿度 39%(15時)
8時20分、起床。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒地に白で抽象柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、厚手のストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョを羽織る。
9時45分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。
10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻4の第1段、紫式部が石山寺で『源氏物語』執筆の着想を得た場面の絵解。
巻4はオリジナルではなく、室町時代の明応6年(1497)の補作。

↑ 石山寺観音堂の局からはるか遠く琵琶湖の湖水に映る月影を眺めて『源氏物語』の着想を得る紫式部。

↑ 絵は室町時代中期の大和絵の名手土佐光信。
巻4第1段の詞書には、「右少弁藤原為時の娘、上東門院(藤原彰子、一条天皇の中宮、藤原道長の長女)の女房であった紫式部が、大斎院選子内親王(村上天皇の皇女、一条天皇の叔母)に差し上げるために、女院から物語の創作を下命され、その成就を祈願するため石山寺に七日間参籠した。八月十五日の夜、湖水に映った月影を眺めているうちに心澄みわたり、物語の着想を得て、観音堂の内陣にあった大般若経の料紙に書き止めた」という話が載っている。
そして紫式部が参籠した場所が「源氏の間」として、式部が大般若経の料紙を借用したことの罪障懺悔のために奉納した大般若経が今(明応6年)に現存すると述べる。
さらに「紫式部・観音化身説」にまで言及する。
「源氏の間」は、現在でも石山寺の観音堂と礼堂の「合の間」の東端にあり、もっともらしく執筆中の紫式部の像が飾られている。

↑ 後ろにいるのは侍女?それとも娘(後の大弐三位)?
なので、紫式部がここ石山寺で『源氏物語』を執筆したと信じている人はけっこういる。
しかし、ここから見えるのは石山寺の寺名の起源になった珪灰石(石灰岩が高温で変成した珍しい岩石で、国の天然記念物)の露頭だけで、琵琶湖の湖面はもちろん瀬田川の流れすらまったく見えない。

観音堂のある面から二段上って多宝塔のある高台に出て、さらに北東に歩き、月見亭があるあたりまで行って、やっとはるかに琵琶湖の湖面を望むことができる。
(2005年3月7日撮影)
紫式部が石山寺の観音堂に参籠し湖水を眺めて着想を得たという話は、いろいろ調べたところ『絵巻』の詞書が初見のようで、どうも石山寺関係者の創作のように思われる。
つまり、限りなく信じがたい。
ただし、前段の「大斎院選子内親王に差し上げるために、上東門院から物語の創作を下命され」という話には、先行する説話がある。
『古本説話集』(第9 伊勢大輔の歌の事)
いまは昔、紫式部、上東門院に歌読みいふ(優)のものにてさぶらふに、大斎院より春つ方、
「つれづれにさぶらふに、さりぬべき物語やさぶらふ」
とたづね申させ給ければ、御そうし(草子)どもとりいださせ給て、
「いづれをかまいらすべき」
など、えり(選り)いださせ給に、紫式部、
「みなめなれ(目馴れ)てさぶらふに、あたらしくつくりて、まいらせさせ給へかし」
と申しければ、
「さらばつくれかし」
とおほせられければ、源氏はつくりて、まいらせたりけるとぞ。
『古本説話集』の成立は平安時代の末期で、さらに大治年間(1126~31)とする説がある。
『絵巻』の詞書の前段は、この説話をもとに書かれているのは、まず間違いないだろう。
同様の説話は、藤原俊成の娘の執筆とされる『無名草子』(建久7~建仁2年=1196~1202頃の成立)にも見える。
繰り言のやうには侍れど、つきもせず、羨ましくめでたく侍るは、大斎院より上東門院(へ)、
「つれづれ慰みぬべき物語やさぶらふ」
と、尋ね参らせ給へりけるに、紫式部を召して、
「何をか参らすべき」
と仰せられければ、
「めづらしきものは何か侍るべき。新しく作りて参らせたまへかし」
と申しければ、
「作れ」
と仰せられけるを承りて、『源氏』を作りたりけるとこそ、いみじくめでたく侍れ。
大斎院選子内親王から中宮彰子へ「退屈を慰められるような物語はありませんか」と、尋ねてきたので、中宮は紫式部を召して「何を差し上げたらよいかしら」と問うた。式部は「珍しいものはございません。新しく作って差し上げなさいまし」と返事をした。そこで中宮が「ではお前が作りなさい」とおっしゃって、式部が承って『源氏物語』を作った、という話の流れは、まったく同じ。
紫式部による『源氏物語』執筆事情として、平安時代末期~鎌倉時代初期に広く流布していた話のようだ。
ところが、『無名草子』はこの話を紹介した後で、次のように言っている。
また、いまだ宮仕へもせで里に侍りける折、かかるもの(源氏物語)作り出でたりけるによりて、召し出でられて、それゆゑ紫式部といふ名はつけたり、とも申すは、いづれかまことにて侍らむ。
式部が、まだ宮仕えをする前、自分の里にいるときに『源氏物語』を執筆して、(それが評判になり、藤原道長から声がかかり、道長の娘の彰子の女房として)召し出され、そのために紫式部という名が付けられた、という話(と先の話は矛盾するじゃないですか、)どちらが本当なのかしら。
つまり、『源氏物語』執筆事情(時期)については、平安時代末期~鎌倉時代初期にすでに両説あったのだ。
『源氏物語』執筆の可能性がある時期の紫式部のライフステージを整理すると、次のようになる。
(1)藤原宣孝との結婚時代(長徳4~長保3年4月25日 998~1002年)
(2)宣孝に死別後、宮仕えまで(長保3年4月25日~寛弘2年12月29日 1002~1005年)
(3)中宮彰子付きの女房として出仕後(寛弘3年正月~5年 1006~1008年)
(1) の結婚生活の時期の執筆は執筆の動機という点でちょっとイメージしにくい。
執筆動機という点からしても「いまだ宮仕へもせで里に侍りける折」というのはおそらく(2)の時期を指しているのだろう。
(3) については、もう少し詰められる可能性がある。
『古本説話集』は『源氏物語』執筆の事情の後に、紫式部が伊勢大輔に興福寺から贈られて来た桜の取り入れ役を譲る話を載せている。
譲られた伊勢大輔は「いにしへの ならのみやこの やへさくら(八重桜) けふ(今日)ここのへ(九重=宮中)に にほひぬるかな」という名歌を詠むのだが、伊勢大輔の出仕時期から、それは寛弘4年(1007)3月のことだった。
つまり、その前に記されている大斎院からの要請は、寛弘3年(1006)の春のだった可能性が高い。
一方、執筆開始の下限は、寛弘5年(1008)11月1日の夜、左衛門督(従二位中納言)藤原公任が「このわたりに、わか紫やさぶらふ」と言いながら式部の局のあたりを徘徊していたことが『紫式部日記』に記されていて、すでに『源氏物語』(正確には「若紫」の巻の部分)が貴族社会で評判になっていたことがわかる。
また、同じ頃、中宮の御前では『源氏物語』の製本作業が行われており、式部が局に置いておいた草稿を道長が無断で持ち出すということが起こっている(『紫式部日記』)。
これらのことから、寛弘5年(1008)の秋には、現在に伝わる『源氏物語』の全部ではないにしろ、かなりの分量が執筆されていたと推測できる。
ということで、出仕後の執筆という説に立てば、『源氏物語』は寛弘3年春から5年秋(1006~1008)に書かれたことになる(注)。
しかし、それは現在の『源氏物語』のすべてではなく、その後も書き継がれていったのだろう。
また、その一部や原型になる物語は、式部が出仕する前の里居時代に書き始められていたかもしれない。
つまり、『無名草子』が語る里居時代執筆説と出仕後執筆説は、必ずしも矛盾せず、どちらも成り立つと思われる。
そんな話をする。
12時、終了。
(続く)
(注)『源氏物語』の執筆区分については、諸説あるが私は武田宗俊『源氏物語の研究』(岩波書店、1954年)に従って次のように考えている。
(1)メイン・ストーリー(紫上系)
(1)「桐壺」、(5)「若紫」、(7)「紅葉賀」、(8)「花宴」、(9)「葵」、(10)「賢木」、(11)「花散里」、(12)「須磨」、(13)「明石」、(14)「澪標」、(17)「絵合」、(18)「松風」、(19)「薄雲」、(20)「朝顔」、(21)「少女」、(32)「梅枝」、(33)「藤裏葉」
寛弘3~5年に紫式部が執筆。
(2)サイド・ストーリー(外伝・玉蔓系)
(2)「帚木」、(3)「空蝉」、(4)「夕顔」、(6)「末摘花」、(15)「蓬生」、(16)「関屋」、(22)「玉鬘」、(23)「初音」、(24)「胡蝶」、(25)「螢」、(26)「常夏」、(27)「篝火」、(28)「野分」、(29)「行幸」、(30)「藤袴」、(31)「真木柱」
寛弘6年以降、紫式部が執筆?
(3)後日譚
(34)「若菜」~(41)「雲隠」
寛弘末年~長和2年に、紫式部が執筆か?
ただし、紫式部は長和3年(1014)に亡くなったと思われるので、そんなに執筆時間はない。
(4)続編
(42)「匂宮」、(43)「紅梅」、(44)「竹河」と「宇治十帖」
たぶん紫式部とは別人の執筆?
娘の大弐三位執筆説が室町時代からある(一条兼良『花鳥余情』など)。
「匂宮」「紅梅」「竹河」の3巻は、本編と「宇治十帖」の繋ぎで、最終段階の執筆?
2月8日(水)
夕食を食べ終えて、NHKニュースを見ていたら地震警報。
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2月8日21時01分頃、震源地は佐渡付近(北緯37.9度、東経138.2度)
震源の深さは14km、M5.7。
発震機構等:西北西-東南東方向に圧力軸を持つ逆断層型(速報)
新潟県佐渡市で震度5強、石川県輪島市で震度4を観測。
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「佐渡で地震なんて珍しい・・・」と思う人もいるようだが、下の日本列島周辺のプレート境界図を見ればわかる通り、能登半島と佐渡島の間(やや佐渡寄り)には西日本を乗せたユーラシアプレート(私見では、アムール小プレート)と東日本を乗せた北アメリカプレート(オホーツク海小プレート)の境界が通っている。
このプレート境界では、しばしば大きな地震(M6.7~7.8)が発生し、日本海東縁変動帯と呼ばれている。
1847年 善光寺地震(M7.4)
1940年 積丹半島沖地震(M7.5)
1964年 男鹿半島沖地震(M6.9)
1964年 新潟地震(M7.5)
1983年 日本海中部地震(M7.7)
1993年 北海道南西沖地震(M7.8)
1995年 ネフチェゴルスク地震(M7.6) サハリン北部東海岸の街、この地震で壊滅。
2000年 ウゴレゴルスク地震(M6.7) サハリンの西海岸に面する港町
2004年 新潟県中越地震(M6.8)
2007年 新潟県中越沖地震(M6.8)
2011年 長野県北部地震(M6.7) 3月11日深夜の長野県栄村の大地震
3・11の東日本太平洋沖大地震で、東北日本は大きく東に引っ張られ、イメージ的には 〉の上半分を無理やり右方向に引っ張った感じになっている。
西日本に相当する下半分は動いていないので、曲がり角にストレスがかかる。
その影響が、3.11の直後の長野県北部地震(2011年3月12日M6.7)や日本海東縁変動帯の南の延長である静岡-糸魚川構造線の南端の富士山周辺の地震(2011年3月15日M6.4、2012年1月28日M5.4)になって現れている。
実は、従来から、2007年新潟県中越沖地震と1964年新潟地震の震源域の間の佐渡島付近に地震の空白域が指摘されている。
今日の地震は、その空白域で起こっているが、空白を埋めるのは規模が小さすぎる。
今後、近い将来、この空白域を埋めるより大きな地震(M6.8~7.2)が起こる可能性が十分に考えられる。
今日の地震が、その引き金(前震)にならないことを祈る。
【追記(9日3時)】 日本海東縁変動帯の大地震

↑ 図は、http://goto33.blog.so-net.ne.jp/2007-07-16-1 からお借りしました。
2007年新潟県中越沖地震と1964年新潟地震の震源域の間の佐渡島付近に小さな空白域がある。
しかし、最大の空白域は、1964年新潟地震と1983年日本海中部地震の間の秋田県沖で、ここはもう200年以上も大地震が起こっていない(注)。
この空白域の大きさだと、日本海中部地震クラス(M7.5前後)になり、同時に津波の襲来が予想される。
日本海の地震で、現在、いちばん怖いのは、実はここなのだ。
(注)このエリアの前回の大地震は、1804年(文化元年)の 象潟地震(M7.1、死者500~550人、象潟で2mの地盤隆起で象潟が陸化、3~4mの津波)か?
2月8日(火)
夜中、お風呂に入ってのんびり湯船に浸かっていたら、突然、なんの脈絡もなく、急ぎ足で先に逝った友のことを思い出した。
あれから何年経ったのだろう?
お風呂から出て、古い記録を探したら、彼が亡くなったのは2002年11月のことだった。
そうか、今年の秋が来るともう10年なのか・・・。
私より2歳年上の彼は48歳で逝った。
彼はもう歳をとらない。
年に1・2度の墓参りの度に、私の年齢はたちまち彼に追いつき、追い越して行った。
その度に、墓前で「もう、〇歳も上にになっちゃったよ」とつぶやく。
そう言えば、しばらく墓参りに行っていない。
今度、浅草に行ったらぜひ寄ろう。
それにしてもなんで、突然、思い出したのだろう。
「サスケ、まだ呼びに来るには早すぎるよ」
「へへへ、順子姐さんが、ちと寂しそうだったもんで・・・」
「そうか、あんたは、いつもやさしいね」