田中清玄 自伝では語られなかったこと

田中清玄の自伝について それを考証しようと思うのですが

専門家の眼からみるとかなり可笑しい点があるようで 下記のように
評価する方もいます
http://ameblo.jp/nyaonnyaon/entry-10034540614.html
(宮崎正弘のコメント) お話に出た田中清玄氏のこと。かれも東大新人会で、マルクス・ボーイで、火炎瓶を投げていた。小生も生前、三回ほど会っておりますが、本人が回想する体験談はともかく、ご先祖をかたる際の、氏の伝記には伝聞箇所が多く、歴史的事実としての誤認が二十数カ所におよびます。
http://72.14.235.104/search?q=cache:Yjdu557Dlt4J:www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_4/ito.html+%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%B8%85%E7%8E%84&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=78&ie=UTF-8&inlang=ja
それらと伊藤さんの仕事における聞き取りとは、大きな違いがあります。伊藤さんの聞き取りにたいする態度を要約しますと、まず第一に、運動の現場にいた活動家を対象にした聞き取りがなされているということですね。指導者の聞き取りではなくて、現場の活動家の聞き取りであるということが、ひとつ大きな特徴です。それから聞き取りをそのまま鵜呑みにしていない。非常に細かい、客観的な資料をそれと突き合わせて、本当にそのようなものであったかという検証をずっとしているという点で、大きな特徴があります。
 運動にかつて参加した人の聞き取りというのは、やはりどうしても思い込みもありますし、自分自身のやってきたことについての誇りのようなものもあるだろうと思うんですが、往々にして間違った記憶が語られているケースが多いんです。一番ひどいのは田中清玄の聞き取りです。これはもうほとんど九〇%嘘っぱちです。単純に、聞き取りはいいものだというふうには言えない。その点についての伊藤さんの警戒と言いますか、非常に厳密な検討の姿勢に、私は感銘を受けました。

ビジネスへの進出も 全部 自分でやったような印象を自伝では持ちますが しっかりしたバックが後ろにいたというほうが確かだと思われます。右翼辞典 堀幸雄著 柏書房で 田中清玄の項を見ると 1941年に出獄したあと ひもろぎ塾に入り 1944年に 土木請負や造船業を始めるとあり、戦後は横浜で神中組を起し のちにこれが三幸建設工業となるとあります。同じ本の中に、右翼と敗戦の対応という項の中では 右翼運動が敗戦時にどのような対応をしたかの項で 経済活動への転換ということで 東亜連盟の山形県における西山農場 大東塾の大和公社 ひもろぎ塾系田中清玄の土建業神中組 国粋大衆党の銀星デパートなどがある。としてあります。また 右翼団体や任侠団体の組織力を生かした進出は 戦時中から開始されており これが いわゆる児玉機関や 関根建設になります。

神中組のベースになったものは ここが出発点だったとみるべきでしょうが 清玄の人脈には もう一つ 共産党転向者グループというものがあり 自伝では あまり書かれておりませんが だいたい下記のような形で絡んでいたのではないかと思います。
昭和通商という陸軍の特務機関のダミーになっていた商社に、清玄の青森時代の知り合いがいて その知り合いの部下だったのが、下山事件 最後の証言に出てくる 矢板玄になります。
この本の中でも 神中組ができる一年以上も前から その矢板の会社に通う清玄の姿が目撃されているとあります。
http://d.hatena.ne.jp/takeship/20050721
若干 不明な面もありますが 清玄の部下?だった方の話です。
清玄とも懇意だった 今西錦司氏も 昭和通商と関連の深い団体に席を置いておりました。
この矢板の後継人で また水野成夫が 一連の製紙事業に乗り出す際の 後押しというか 巻き込まれたのが 追水久常になります
この水野が 清玄のスポンサーになる形になります。

同じ被解雇者でも 新聞社関係の記者は筆が立つから、それを生かして活路を求めるので、まだいいほうである。一番悲惨なのは、手に職を持たない人たちだ。また、逆に、パージになった人間を意識して雇う会社もある。これは その経歴から組合活動対策に向けさせるためだ。戦前の共産党の転向組の大物の今日の在り方を見れば、それは納得できよう。
松本清張 日本の黒い霧 追放とレッドパージ 文春文庫より
また この中で 清張は 被解雇者が スパイ活動をさせられる例をあげて そして こういう情報収集のために育成した連中が特審局の後進である現在の公安調査庁の情報網に、今日、含まれていなかったら幸いであると評しております。
ちなみに これは 国会でも問題になりましたが、公安調査庁に深い関係のある 吉河光貞氏は 清玄とは 新人会以来の親友でもあり、また清玄も 労働組合の切り崩しはある意味 彼の本業なわけです。いかにあげるのもそれの現れとみるべきかと思います。

http://72.14.235.104/search?q=cache:gwcWSEyf29wJ:kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/005/0488/00505180488022c.html+%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%B8%85%E7%8E%84%E3%80%80%E5%90%89%E6%B2%B3&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1&lr=lang_ja
そこで法務総裁は現在の特別審査局の局長の吉河光貞という人が、どういう思想檢事的な経歴を持つた人かということについて詳細な報告を受取つておられるか。どの程度の報告を受取つておられるか、これをまず承りたいと思います。
○殖田國務大臣 私は吉河君がかつてそんなに長く思想檢事をしておつたとは聞いておりません。思想檢事の特徴の著しき人は全部追放されておりまして、残つております人はまず無害な人ということで残つておつたのであります。私はむしろ逆に吉河君はかつて学生時代に左翼思想の研究者であつた。從つて左翼に非常に同情のある人である。ああいう人ではかえつて公正な態度がとれないではないかというような批評すらして参る人があるのであります。從つて私はごく公正な人物で、適当な人であろうと考えたのであります。
○ 梨木委員 私の調査によれば、今法務総裁のおつしやつたように、吉河氏は学生時代に、その後一時共産党の幹部になつたことのおる田中清玄氏と、帝大の新人会において並び称せられて、学生運動をやつた経驗のある人だということは聞いております。同人の経歴は大正十三年一高に入学して、一高の社会科学研究会の最高指導者であつた、その後帝大――当時の帝大に入りまして、新人会において田中清玄氏と並び称せられて、非常に活発な学生運動をやつておつたということ、それから卒業後評議会関東木材の書記をやつておつたということで、共産党員として活動しておつたこともあるということであります。昭和五年ごろに運動から脱落したということであります。かつてそういう経歴を持つておつたからといつて、左翼運動に同情があるということは言えないのでありまして、かつてそういう経歴を持つておつた人は、その経驗を生かして、非常な辣腕と陰險な方法で左翼運動を彈圧するのであります


吉田茂が愛人の小りん(日清紡績専務の娘で 元新橋芸者)と その母の志能(日本舞踊の花柳寿美治)らを大磯の別荘に迎えて住むようになったのは 昭和十九年の五月からだったが、
何も知らなかった日本人 畠山清行 祥伝社文庫より
このこりんさんが 先年 亡くなられた方ですが おもしろいのは 日清紡績の専務の娘とあることで これはいわゆる妾腹ということで 当時はよくあったようですが さらに この日清紡績の専務が 誰だったかと考えると 吉田茂とは 帝大の同級生だった 宮島清次郎ではないか?と思うのはいかがでしょうか?彼の子分が いわゆる小林中グループで 彼らが 保守本流というのは 支えるのですが その根っこというのは 妾腹の娘かわいさにあるとすれば なかなか興味深いものがあるような気がします。
それに この宮島の出発点が東武鉄道の根津一族の番頭からですから 矢板玄の一族も東武鉄道の大株主の一人ですから そこに出入りしていた 清玄がいわゆる吉田系のグループにはいるのも 当然ということになります。


http://72.14.235.104/search?q=cache:Napfb8j8KA4J:www1.jca.apc.org/iken30/News2/N87/KamataSatoshi.htm+%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%B8%85%E7%8E%84%E3%80%80%E4%BB%A3%E7%90%86%E5%BA%97&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=22&ie=UTF-8&inlang=ja
かれは、戦後、高崎に帰り、青年団をまわって「青雲塾」をつくる。反共運動の拠点になったのが、この青雲塾だった。右翼運動として、労働運動に敵対した。日本電気産業労働組合(電産)の切り崩しである。
「中曽根氏は、当時国鉄労組とならんで群馬の労働運動の主力になっていた電産をつぶすため、二十四年九月、二万になっていた塾員のなかから七百人を選んで青年行動隊をつくり、各発電所に偽名で潜入させた。さらに、同年末から翌二十五年十月まで、東京から田中清玄、風間丈吉、佐野学、鍋山貞親らを呼んで現地へ送り込んだ」(山本英典、内山偉雄『中曽根康弘研究』)
日発が 再編成され それが現在の電力会社になる段階で 清玄が 電源防衛ということで 日発から 裏金を貰い スト破りにいそしんだ時の話です。この件は 復刊された 岩川隆 日本の地下人脈の中でも出ています。自伝では 中曽根との付き合いはもっと 後と出ているようですが?さて

暗躍する政商
これらの賠償ビジネスに多くの人間が群がった最大の理由は おそらくそれが ボロ儲けできる商売だったからだろう。
現在のODAにも言えることだが こうした政府間の取引では クライアントにコスト意識がないので 個別の取引そのものが非常に利益率が高くなるよう設定されるうえ、途中でいくらでもコミッションがピンハネできる構造になっていることが多い。
だいいち相手国のクライアント側が、たっぷりピンハネ体質に染まっていたから、こうした商談の場では なによりもカネの配分の話になる。賄賂の相談を日本の外務省の役人が堂々とするわけにもいかないから、そこにフィクサーの出番が回ってくるというわけだ。

謀略の昭和裏面史 黒井文太郎 編著 宝島社より
田中清玄の関係した 三幸建設工業の場合は いまでもありますし、実業なんだろうなというくらいの会社ではないかと思うのですが、それ以外の会社は いわゆるダミー会社ではなかったのか?と思われます。
実業家と思いこんでいる方も ネットでは多いようですが、何で収入を得ていたのでしょうか?いわゆる日発の再編成に絡んだ話では、講演費という裏金を受け取り それが政界に環流されたのではないか?ということで 国会で大問題になったようですし、いわゆる石油利権では コンサルタント料を得ていたようですが、なぜなんでしょうか?
 自伝では おとぎ話を除くと 利権関係の調整をしていたとしか 読めないようにも思えます。そしてフィクサーの出てくる理由は上記にあげた理由となり 清玄が 三幸建設工業の社長を辞めた直前から 一連の賠償関係の動きが始まったことをあげておきたいと思います。タイに家を買ったとありますが いろんな裏事情があるんでしょうね?

田中清玄と 全学連へのかかわりについて いろんなページから 集めてみました。人によっていろんな見方があるんですが、清玄が論争ジャーナルという右翼系の同人誌に援助していたことは 自伝ではふれていないし、この全学連への援助との整合性を見る方が意外にいないというのは いったいおかしなものだという気がします。

田中清玄(インタビュアー大須賀瑞夫)『田中清玄自伝』文藝春秋、1993年、pp.171-175

  --田中さんといえば、六○年安保で全学連幹部に資金提供をしていた印象が強烈です。その理由を話してください。

 当時の左翼勢力をぶち割ってやれと思った。あの学生のエネルギーが、共産党の下へまとまったら、えらいことになりますからね。一番手っとり早いのは、内部対立ですよ。マルクス主義の矛盾はみんな感じていましたから。ロシアの威光をかさにきてやる者、それから共産主義の欠陥をくみ取れない連中、進歩的文化心ではやりの馬に乗った人間、彼等にはそういういろんな雑多な要素があるんです。しかも反代々木(反日共)で反モスクワである点が重要だ。彼等を一人前にしてやれと考えた。反モスクワ、反代々木の勢力として結集できる者は結集し、何名か指導者を教育してやろうというので、全学連主流派への接触を始めた。もう一つは、岸内閣をぶっ潰さなければならないと思った。




  『間違えるな日本人 ! 』(徳間書店、平成11年) (小浜逸郎氏との対談)

第1章 六〇年安保から得た思想的課題



  私は運動そのものの根源を問い直さなければだめだという立場でしたが、そのままの形で運動をもっと先鋭化してやろうという人たちが出てきた。その人たちが何をやったかというと、いままで守ってきたものを崩そうとしたんです。それで一つは右翼と結んだわけです。唐牛健太郎が田中清玄と手を組もうとした。

小浜 有名な話ですね。

林 そういう連中が出てきたのと同時に、金のつくり方がものすごく汚くなったんです。金はそんなに要らないはずですが、彼らは生活の基盤を全部投げ捨てて運動に参加していたので、自分たちが食っていくのに金が要るわけです。私は、真面目でしたから、依然として家庭教師などのアルバイトをしながら、自分のものは全部自分で稼いでいた。下っ端の運動家はみんなそうでした。私は幹部でしたけれども、そういうふうにやっていた。当時、私は家から仕送りを受けていないんです。大学に入ってからは自分で生活費を稼いでいた。ところが、連中は、うまいこと金をせしめようとしたんです。いろいろなところから騙し取った。
 

 一番ひどくて、後々まで影響を持ったのは、鶴見俊輔をだましたことです。当時、鶴見俊輔は大学を退職して、具体的な金額は知りませんが、退職金が入ったので、彼らはそれに目をつけたんです。鶴見俊輔は当時、心情的に全学連に加担していました。そこにうまいこと取り入って、借りるということで五〇万円くらいらしいんですが、だまし取ったんです。
 

 当時の五〇万円というと、いまの感覚だと五〇〇万円ぐらいの感じですよ。名目は借金ですが、返すつもりは毛頭ないわけです。私はそうした動きからは完全にはずされていた。林に言ったら反対するし、ぶち壊すだろうからということで、彼らが勝手にやったわけなんです。それでずっと後までこのことを知りませんでした。
 

 それで鶴見俊輔が怒って、「全学連の連中はけしからん」というようなことをどこかで言って、別に私のほうから「私は加担していません」と一々弁解することもないので黙っていましたから、私のことも同じ穴のむじなだと、いまでも思っているだろうと思いますが、実は全然違うんです。
 

 じつは私も小さな被害者で、私が逮捕されたときに、高校のある後輩が、わざわざ書記局を訪ねてきて、私にとかなりの金額をカンパとして預けたんですが、それは誰かが着服して私の手には戻らなかったんです。その事実はずっと後になって知りました。
 

 これはちょっと余談でしたが、運動の最終段階に至って、我々は完全に分裂していたということです。分裂と言っても、私のようなものは数から言ったら圧倒的に少数派なんです。しかし、指導部の中では少なかったのですが、一般の活動家は私のような真面目派のほうが多かったんです。そういうことを手段を選ばずやっていいなんていう人は、むしろ運動の中に入ってきません。

小浜 ブントが中核派と革マル派に分裂したのはそのころですか。

林 そうです。手段を選ばずというか、暴力化した連中が中核と革マルとして残ったんです。

小浜 政治には汚いことはつきものだというような、一種の合理化の論理によって……。

林 暴力的なことをやっても構わないということになって、そこで一つのたががはずれたというか、チェックポイントがなくなったんですね。
 

 我々が大衆運動をやっていたときには、暴力は振るわないということが絶対的な基準だったんです。そういう歯止めをかけていたのですが、それが崩れてしまった。我々はそこでもうこの運動はだめだということで見切りをつけました。そして、見切りをつけなかった人たちが中核と革マルになったということだと思います。
 













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