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2009年05月08日
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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10029318&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
ゴタ続きの正金 試みに正金創立以来の重役更迭の跡を顧みるに、初期頭取の中村道太は本店が大隈系である上に、仲々狭気があり大胆の男であったから随分思い切った貸付をしていたものだ。
 それが十四年下半期の決算に際して紙幣整理や銀塊安で正金の業跡が悪化し整理を必要としたに拘らず平常通り配当をしようとして時の蔵相の松方の知る所となり、重役の木村利右衛門等が松方に大叱言を喰うた所以であった。
 そこで敗けぬ気の中村は友人関係などで融通した不良貸を自分一身に引受け、これなら文句はあるまいと十五年七月頭取の地位を去った。これが為め一時副頭取の小野光景が頭取となり、次いで明治十六年の一月の総会には取締役の一人の白須退蔵が頭取に互選せられた。
 白須は摂津三田藩士、森有礼に先だちて廃刀論を唱えた程の男で、明治四年廃藩置県後、神戸に出て島三商会を興して貿易に従事し、正金には十五年の八月以来取締役となっていたので、小野の後を承けて頭取に就任したが、松方は別に思う所あって十六年三月白須を退け第百銀行頭取の原六 カを頭取に推し、正金の整理に当らしむることとなったものである
 当時右の如く頭取の更迭が頻繁なりしを以て正金に対して種々の悪宣伝が行われ、株価は下落して額面割れとなったので、株主も動揺し解散説を唱えるものも出て来たので松方は正金の神戸支店長たる深沢勝興の意見に聞き原に命じ反対株主の株を悉く買上せしむると共に、内部の整理を実行せしめたのである。
園田幸吉の改革 原に依って一通り整理が成ったが前述の反対株主の株の買収は松方蔵相の意に従ってやったものだが原個人の名義で之を実行したので、後に株価が騰貴するや、原が銀行の金を利用して旨いことをやったと云う理由で、株主重役間に改革派なるものが出て来て原の排斥を企てた。原も嫌気がさしていた所へ日銀理事の約束で帰朝した園田孝吉が、川田小一 カの総裁就任の為めに、沙汰止みとなって遊ぶこととなったので、原の辞意あるを幸い園田が後任となった、米国のシャマン条例に依る銀塊安の為めに損をすると、若尾逸平などの配当主義の重役が矢釜しく云うので園田も一旦辞表を出したが、松方に引止められ、その職に当っていると角等の不正事件が暴露し、茲に小泉信吉、山川勇木などを重用して正金の大改革をなすこととなった
 園田の正金内部の改革は一通りは出来たがしかし当時正金内部に実勢力を持っていた取締役の相馬永胤が兔もすれば、園田の虚をつかんとする気勢があって、正金内部に対する威圧はさ程大なるものでなかったが之に反し中上川は、三井銀行の整理を着々進行せしむると共に、三井の内部に対して□然たる勢力を持つこととなって、茲に先輩の益田を凌ぐの勢いを呈し、一時三井に中上川時代を現出する事となった。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10018587&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
意気地がなくなったのか、それとも当世流行の綱紀粛正でもやってるのか、とにかく現在の十五銀行には相場をやるような重役さんがあることを聞かないが、昔の十五銀行にはなかなかヤマ気のあるのがいた。備前岡山の殿様池田章政が頭取だった時代の支配人山本直成は、公岩倉具視の家令であったが、公卿さまの家令には似気ない相場ずきで、炭鉱株の買占めなどもやったことがある。その後明治二十六年、兜町に独眼竜の名を馳せた丸上株式店の半田庸太郎が夜の立合で突然八千枚の炭鉱株を売出して、市場を驚かしたことがある、これが十五銀行の持株だ。この時買方に廻ったのも雨敬一派であるが、これは雨敬側の勝利となり、山上の売崩しは失敗に終った。
 それやこれやで十五銀行の業績は非常に悪化し、重役の改造が叫ばれるようになって、前に正金の頭取だった園田孝吉が池田章政に代って十五銀行の頭取になった。園田を推薦したのは松方正義で、爾来十五銀行内に蟠窟する岩倉の勢力が駆逐されて、薩州系がこれに取って代ったのである

http://www.tobunken.go.jp/kuroda/archive/k_diary/japanese/1896/dy8960509x.html
黒田清輝日記
【1896.05.09】
 河村鐵 樺山資英 大久保 樺愛 白洲某(日本銀行)氏等と紅葉館ニ集る 内へ歸つたのハまさに十二時ならんとした頃

http://wapedia.mobi/ja/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E5%B9%B8%E6%AC%A1%E9%83%8E
松方 幸次郎(まつかた こうじろう、
薩摩国鹿児島に生まれる。明治17年(1884年)に東京帝国大学を中退し、同年エール大学に留学し明治23年(1890年)帰国。明治24年(1891年)第一次松方内閣組閣に伴い、父の首相秘書官となる。一時、新聞事業経営や官途についたが、明治27年に浪速火災保険の副社長に就任し関西における財活動を開始した。
明治29年(1896年)川崎財閥創設者・川崎正蔵に要請されて株式会社川崎造船所初代社長に就任。それをきっかけとして大阪舎密鉱業(31年)、神戸瓦斯(同)、神戸新聞(32年)、神戸桟橋(41年)、九州電気軌道(同)、九州土地信託(同)、川崎汽船(大正9年)、国際汽船(同)、神港倶楽部、ベルベット石鹸、日本ゴム蹄鉄、の社長に就任し、その他11社の役員をつとめ、一方神戸商業会議所会頭、明治45年(1912年)衆議院議員に当選し神戸の政財界の巨頭であった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E9%9A%86%E7%BE%A9
九鬼隆義
好子が嫁いだ松方幸次郎は、明治の元勲・松方正義の次男







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最終更新日  2009年05月08日 17時31分21秒
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