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カテゴリ:スピリチュアル
今日の屋久島は、雨のち曇。
少し気温が下がっている。 でも、もう真冬には戻らない。 確実に春が近づいているようだ。 昨日の日記は多少のショックを与えたようだ。 あまりにも今の常識と懸け離れていたので、当然といえば当然かもしれない。 人は、これまで自分が当然と思っていたこととは異なることを言われると、最初は拒絶反応を示す。 それが普通だ。 でも、何回も言われているうちに、もしかしたら?ということになり、やがて、そっちの方が本当かも?に変わっていく。 まあ、ゆっくり進みましょう。 昨日書いたことは、たぶん過去世では伝えていなかったことだと思う。 お坊さんの過去世の時に、多少は言ったかもしれないけど、ここまではっきりとは言ってないはずだ。 キリスト教の宣教師の時は、信仰の話ばかりしていた。 神道の神主の時も、話したのは神様のことだけだろう。 たぶん昨日のことは、今生で初めて明確に伝えることだと思う。 だから、伝え方がまだ下手なんだね。 そのため、受講生のみなさんは多かれ少なかれショック症状を呈しているようだ。 新米の教師につくと、生徒もたいへん。 今の精神世界では、ここまでの話は出ない。 「私」が幻想だと言う人はほとんどいない。 ほんの少数だけいるかな? 主流は、肉体はなくなっても、あなたは存続する、というレベル。 魂は永遠だ、ということ。 まあ、それも悪くはない。 別にそのレベルでもいいのかもしれない。 でも、それだと、なかなか自我は消えない。 自我もしっかり生まれ変わる。 ハー、まだ六道輪廻の中だ。 肉体は車のようなもので、車を降りても、あなたは存在し続ける。 と、スピリチュアリズムの本にある。 それは間違いない。 肉体とは別の自分がいる。 幽霊の自分だ。 オット、間違えました。 正確に言うと、幽体の自分。 幽体にも肉体と同じように「体」がつく以上、それも肉体と同じように衣にすぎない。 幽界でだけ通用する衣。 同様に、霊体があり、神体もある。 いずれも霊界や神界で着用する衣だ。 魂も衣だと言ったら、またショック? 魂こそが自分だと思っている向きにはショックかもしれない。 いずれも器、エネルギー場。 では、本当の自分はどこにいるの? みんながそれを聞きたがるだろう。 人は神の分け御霊? 大神様の分霊? 確かにそうに違いない。 では、自分は神様? 確かにそうに違いない。 でも、現実は哀れでみすぼらしい人間? 確かにそうに違いない。 そう思っている限りは。 エネルギー場が無数にある。 神の分け御霊が入る器が限りなく存在する。 肉体もその一つだ。 幽体も霊体も、神体も魂も、みんな器だ。 神の分け御霊が入る器。 人間は何重にも重なった器の集合体。 だから、自分を肉体だと思っている人もいれば、魂だと思っている人もいる。 それだけでなく、自分を神だと思っている人もいる。 何とでも思える。 何にでもなれる。 それが人間だ。 自分は何だろう? 本人の思っているところのものだ。 肉体だと思えば、肉体人間。 魂だと思えば、魂人間。 神だと思えば、生き神様だ。 「私」は何? その人が思っているところのもの。 自分が自分に抱いているイメージが「私」。 それ以外に「私」はいない。 「私」は継続するか? しない。 イメージは一定ではない。 「私」についてのイメージも変化している。 そのため、「私」も変わっている。 「私」は継続していると思い込んでいるだけで、実際はイメージは微妙に修正されている。 若い頃は、元気いっぱいの「私」だった。 歳を取ると、いつの間にか老人の「私」に変わっている。 「私」のイメージは一定しない。 「私」の実体の方も刻々に変化している。 どこに継続性があるのだろうか? 継続しているという幻想? いのちを直接見ることはできない。 ただ、形あるものを通して、その変化によって知ることができるのみだ。 いのちは様々なものに宿り、植物となり、動物となり、星々となっている。 同じひとつのいのちが、万象万物に宿っている。 現れ方が異なるのだ。 人とて同じ。 同じいのちの現れなのだ。 植物と人間と、どう違うか。 人間は肉体だけでなく、たーくさんの体を背負っている。 何重にも重なっている。 植物よりも遙かに複雑だ。 それぞれの体のエネルギーを同時的に使いながら存在している。 様々な体のエネルギーが入れ替わりながらと言ってもいい。 いろいろな次元の記憶を潜在的に背負っているということ。 そういう多次元的な存在なのだ。 器にいくつもの器が重なっている。 多次元・多重存在なのだ。 継続しているもの? いのちだけだ。 宇宙にひとつのいのちだけが継続している。 と言えば、そうとも言える。 しかし、そのいのちさえも刻々と変化している、と言えば、そうとも言える。 ひとつのいのちが刻々に変化している。 が、いくら変化しても、ひとつのいのちに変わりはない。 変わらないもの? いや、変わるもの? 変わりながら、変わらないものかな。 結局、「私」はどうなったの? 「私」はいのち? いのちはひとつ。 ひとつだったら、みんなひとつで、「私」とは認識できない。 「私」はあって、なきがごときもの? ひとつのいのちの中に「私」は存在しない。 「私」が存在し得るのは、個々の命が自分について「私」というイメージを持つ時だけ。 個の器をベースに、個の命が自分を「私」と認定する時だけ「私」は存在する。 自分のことを「私」と思わなかったら、「私」は存在しない。 ただ名もない命がきらめいているだけだ。 そこら辺の雑草と同じように。 名もなく貧しく美しく・・・ 「私」というプライドが、どれだけ世の中を傷つけていることだろう。 「私」というプライドが、お互いに傷つけあっている。 名もない草は、お互いに傷つけあったりはしない。 ただ太陽をめざして背伸びしているだけだ。 「私」、人間の追究は続いていく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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