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ちょっと前のブログで、「織田信長が平家の子孫を名乗った理由」という話を書きましたが、 織田氏がまったく平家と関わりがないわけではありません。 織田氏は尾張の守護代の家系ですが、元々の出身地は越前国(福井県)。 そして、越前は平家にとっても思い入れのある土地です。 平清盛の父・忠盛、清盛の嫡男・重盛、 その息子で織田信長が先祖だと主張していた資盛と、 平家が代々治めていた土地だったのです。 平忠盛は若い頃から白河法皇・鳥羽天皇に仕え、治安維持などで活躍し、 25歳で越前の国司になります。 いまでは北陸にあまり豊かなイメージはないかもしれませんが、 当時の越前国は豊かで栄えた国でした。 九頭竜水系がもたらす肥沃な越前平野は多くの米を産出し、 米どころとして全国でも1、2を争うほどの国でした。 また、塩・鉄・馬も産出するなど、都に近い国の中でも随一の生産国として誇っていました。 大和朝廷も507年に王朝がいったん途切れるのですが、 越前国から出てきた継体天皇が後を継ぎます。 これも越前の経済力があってこそです。 そして、他の国と決定的に異なっていたのは、 博多に次ぐ国際貿易港を有していたことです。 当時、宋船や高麗船は博多港ではなく、敦賀港に着くこともあったのです。 朝鮮半島南部からは対馬海流の流れに乗れば、すぐに敦賀まで行くことができたのです。 朝廷は、博多よりも京都に近い敦賀に外国船が来ることを嫌がっていましたが、 京都は日本の最大消費地でもあったので、商人側としては魅力がある港でした。 忠盛が越前守になったのは1120年。 長男・清盛が生まれたのは、その2年前、1118年です。 もしかすると、清盛も幼い頃ちょうど国際貿易港・敦賀にいたのかもしれません。 この越前での経験が、のちに忠盛・清盛親子が 日宋貿易に力を入れるきっかけになった、 と言われています。 清盛が瀬戸内海沿岸の各国を押さえた後も、越前の支配を重視していたのは、 重商主義政策を進めるために貿易港はすべて押さえたい、という意図が あったものと思われます。 さて、この越前が源平合戦の時代には争乱の火種となります。 越前の知行国主・平重盛が1179年に亡くなると嫡男の維盛に引き継がれるのですが、 それを後白河法皇が没収します。 後白河も、豊かな越前が欲しかったのです。 これに怒った清盛が軍事クーデターを起こして後白河法皇を幽閉(治承三年のクーデター)、 その反動が以仁王の乱から始まる「源平合戦(治承・寿永の内乱)」となるのです。 越前は古くから平家側の勢力が強かったのですが、 1181年に加賀(石川県)の反乱軍が越前に侵入してきます。 平家軍は迎え撃とうとするのですが、平家の家来であった越前の豪族・斎藤氏が裏切り、 平家軍は敗走します。 1183年、平維盛が率いる10万騎の平家軍が北陸道を進攻し、 越前を取り戻し、加賀・越中(富山県)国境まで迫るのですが、 倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲軍に大敗北。 そのまま越前の反乱軍も従えた義仲軍が京都に攻めのぼり、 平家は都落ちすることになります。 越前は北陸道の要であり、ここを完全に失うことは 都の維持も不可能にしたのです。 越前は平家の拠点でありながら、平家を都から追い出した張本人でもあったのです。 │<< 前日へ │翌日へ >> │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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