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2011年08月22日
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剣を投じる

 聖書に次のように書いています。
 「地上に平和をもたらすために、私が来たと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むために来たのである。私が来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と仲たがいさせるためである。そして、家の者が、その人の敵となるであろう。
 私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない」(マタイによる福音書10・34~37)。
 この箇所はマタイによる福音書第六章三十三節にあります「まず神の国と神の義とをもとめなさい」という所と、裏表の関係になるのです。
 現世というものは、朽つべき世界です。これは簡単なことです。こんな簡単なことがなぜ分からないのかと言いたいのです。これを誰もはっきり言わないのです。こんなことは科学的に考えても分かるのです。物理的存在の世界は、朽つべき世界です。
 いつかこの地上に人間が住まなくなる時が来ることは、誰でも知っているのです。従って、現象世界は般若心経で言えば色即是空ですが、これは現象世界をはっきり否定しているのです。
 このことと、十章三十四節の内容とを突き合わせてみますと、般若心経の思想とイエスの思想はよく似た点があるのです。ただ般若心経は五蘊皆空と照見しています。五蘊皆空を悟ったとだけ書いている。五蘊皆空というのは、非常に無責任な言い方でありまして、朽つべき世界を朽つぐき世界であるとだけ見ているのです。こんなものは仕方がないと言っていますが、それならそれに代わる新しい世界がどのように現われるのかということの説明、または、結論を般若心経は出そうとしないのです。ただ色即是空だと言っているのです。
 色即是空という感想は間違いないのですが、色という不完全な世界がなくなるとして、何ができるのかということです。これについては仏国浄土と言いますが、仏国浄土の正体が何であるのか。浄土というものと、現在の地球との関係はどうなるのかという説明を一切しようとしない。ただ仏国浄土が現われるというのです。
 草木国土が悉皆成仏すると浄土が現われるという。成仏するというが、草や木がどのように成仏するのか、地球が成仏するというのは、どのようになるのかと質問すると、仏教関係者は答えられないのです。一万七千六百巻ともいわれる膨大な仏教経典の中に書いていないからです。悉皆成仏するとは書いていますが、それは物理的にはどのような状態をさすのであるのか。また、それが現存する地球とどのような関係があるのか。それについて、一切述べていないのです。
 新約聖書における地球完成の思想を、大乗仏教が真似しているのです。そのようにしか考えられないのです。聖書は神の国のことを書いています。それを真似して浄土を書いているのです。仏国ということと、神の国とは同じことです。
 新約聖書の世界観がインドに流れ込んだ結果、インドの仏教に新約聖書の影響を与えた。そして、仏国浄土という言葉だけはできたが、聖霊がないものですから、仏国浄土に対する明白な説明ができないのです。
 とにかく、般若心経でさえも、般若波羅密多と真っ向から言っているのです。この世にとどまっていてはだめだ。こちらの岸にいたのではだめだ。向こう岸へ渡るのだということを、般若波羅密多という言葉ではっきり言っているのです。現世に生きている人間は、死んでいくために生きているのです。死んでいく人間ばかりが現世で生きているのです。般若心経は向こう岸へ渡ることを、初めから前提条件にしているのです。般若心経でさえもそうです。現世はだめだと言っているのです。現世にいたら、ただ死んでしまうだけです。だから、向こう岸へ渡れと言っているのです。
 現世にいるということは、五蘊の中にうろうろしているだけのことです。無知蒙昧の中にうごめいているだけのことです。だから、川の向こう側へ渡ってしまえ、向こう岸へ行ってしまうのだと、また、その知恵が五蘊皆空を表現することだという言い方をしているのですが、抽象的にはこの見解は正しいのです。般若心経でさえも、この世を問題にしていないのです。
 イエスは剣を投じるためにこの世に来たと言っています。剣とは諸刃の剣です。聖霊のことです。聖霊をこの地上に投じるためにイエスは来たのです。イエスが十字架にかかって復活し、昇天しなければ、聖霊は下らないのです。十字架と復活、昇天という三つの手続きがいるのです。そうして初めて、聖霊という剣が下るのです。
 イエスは剣を投じるために来たというのは、自分自身が剣ではない。しかし、本物の剣、真理の御霊という剣が、イエスが天へ行った後に下ってくる。この真理の御霊が地上に下る時に、御霊を崇める者はその人自身の魂が剣になるのです。御霊自身が剣ですから、聖霊を受けて聖霊に満たされる状態になりますと、その人自身が剣になるのです。ずばりずばりと切るのです。
 イエスは皆様を剣にするために来たのだと言っているのです。イエスは諸刃の剣である聖霊をこの地上に送ると言っています。聖霊を受けた人間が、諸刃の剣である聖霊を崇めることになりますと、その人自身が剣になるのです。光に照らされた者は光になるのと同じことです。恵みに満たされた人は恵みになるのと同じことです。
 もしある人が剣になると、その家の人は皆仇になるのです。また、その人が聖霊の剣になるためには、家の人を仇と見なければ剣にならないのです。その人自身が剣になっていれば、その人は聖霊の器だと言えるのです。そうでなければ肉の器です。
 なぜイエスが聖霊の剣をこの地上に投じなければならないのかと言いますと、現象世界は朽つべき世界です。朽ちる世界です。腐る世界ですが、地球が腐るのではない。朽ちるというのは、やがてだめになるという意味です。
 日本では昔から、形あるものは必ず壊れるという諺があります。生ある者は必ず死ぬると言います。日本人はこれを常識としてきたのです。明治以後に、欧米から近代学が流入したために、形あるものが必ず壊れるという思想はなくなったのです。なくなったのではありませんが、非常に薄くなったのです。
 平安時代の文学には、諸行無常という思想が非常にはっきりしているのです。平家物語には「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と、初めからそういう思想が出ているのです。源氏物語でも、諸行無常の思想をそのまま小説にしている。人間生活、政治や文化、社会の人間関係が、結局諸行無常であることを、そのまま書いているのです。
 ところが、近代の日本の文芸には、諸行無常観が非常に希薄になっているのです。ほとんど出ていない文芸作品もあるのです。それは現代文明の洗礼を受けたために、せっかくの諸行無常という優れた世界観がなくなっているのです。文明の度合いが高くなることによって、日本人はバカになったのです。現代の文芸には、平家物語のような切実な意味での諸行無常的な価値は、ほとんど見られません。それだけ日本の文学は堕落したのです。文学的な価値を失っているのです。
 現在の有形世界は悪魔の反逆によって、神が暫定的な形として悪魔を試みるため、または、悪魔に属するか、神に属するかについての、人間の霊魂を裁くために有形世界が造られたのです。
 悪魔に属する霊魂か、神に属する霊魂かを審判するために、現象世界が造られたのです。そのためだけなのです。現象世界そのものに意味がある訳ではない。どうせこんなものはだめになるに決まっているのです。
 だめになるに決まっているものを神があえて造ったのは、だめになるようなものを造って、それを金科玉条のように尊ぶか、あるいはこんなものはだめだと考えるのか、どちらを選ぶかを神が審判するためなのです。色即是空と言える人間が、何人いるのかということです。それを審判するために、神が現世を造ったのです。
 般若心経のように色即是空がはっきり正しいと言える人間は、たとえ神の約束が分からなくても、地獄の刑罰は逃れられるのです。色即是空とはっきり言い切っているからです。これが仏教の徳です。
 特に日本に新約聖書と聖霊が入ってくるまでの時代において、いわゆる明治維新以前の年代においては、般若心経が重要な役目を果たしていたのです。明治時代以後の人間は、神との間において正しい判決を受ける状態におかれたのです。明治維新までの人間は、仮判決の状態におかれていたのです。
 それまでの人間は、色即是空と本当に思えたのです。色即是空を実際生活しているように思える人、例えば白隠禅師のような人は、恐らく裁かれないでしょう、地獄の刑罰に合わないでしょう。裁かれる自分がいないと言っているのですから、心底からそう思っていたのです。
 有名な話ですが、寺の前の花屋の娘が白隠禅師に子供を産ませられた。花屋の主が白隠禅師に、どうしてくれるのかとどなり込んできたのです。白隠禅師は「すまん、すまん」と言って、一生懸命に子守をしたという話です。後から、他の坊主に産ませられたことが分かって、花屋の主が平謝りをしたのです。白隠禅師は、「そうか分かったか、分かったならそれでいい」と言ったということです。本当に色即是空を見ていたら、そうなるでしょう。色即是空を悟るなら、こういうことになるでしょう。そういう人なら、山上の垂訓をそのまま実行していると言えるのです。だから裁かれないでしょう。
 ところが、明治以後の人はだめです。聖書と聖霊が日本に入ってきた以上は、正式に聖霊を受けて神の御霊を崇めるかどうかによって、携挙されるかされないかが決定されるのです。
 今私たちは、ユダヤ人と同じ判決を受けるでしょう。だから、私たちは異邦人だと言って誤魔化していられないのです。聖書に書いてあることを知らなかったと言っても、知らない方が悪いのです。知らなかったではすまないのです。現在はそういう責任があるのです。
 現象世界は、その実在を信じる者と、これを空と見る者との二つの流れが出てくるのです。現象世界を実在と信じる者は、神が現象世界を造った目的を誤解しているのです。この人はとこしえの命に適わない者として、悪魔と共に処罰されることになります。
 現象世界は嘘である、空であることを知ると同時に、この空なる世界が壊滅した後に、神の国が現われるということをはっきり受け取った者は、肉体そのものが栄光の姿に変えられるのです。新天新地があることが本当に分かった者は、その人自身の肉体が新天新地と同じ物質に変えられるのです。死なない者に変えられるのです。これが完全な救いです。
 現世を信じている者は、携挙されません。現世を信じない者は肉体が変えられるのです。現世を信じている者は変えられないのです。墓場へ行って、地獄へ行くのです。死ぬべき肉体を脱いで、天から栄光の体を着せられる人は、永遠の生命を与えられるのです。栄光の肉体を与えられるかどうかは、その人の精神状態のイメージによるのです。その人の精神がどういうイメージを持っているのか、現象を実体としているかしていないかによって決まるのです。
 この地球に平和を来らした所で仕方がない。地球はそのような試験をさせるために、現われたのです。この地球は永遠に存在すべきものではありません。ただ人間を試みるためにだけあるのです。
 現象世界を信じる者は、肉の思いを持っているのです。現象世界を否定する者は霊の思いを持っているのです。霊の思いか、肉の思いか、どちらの思いで生きているのかを神が審判するだけのことです。だから、朽つべき地球に平和を与えることを神はしないのです。朽つべき地球に平和をきたらせようと一生懸命になっているのは悪魔です。悪魔と悪魔の思想に感激している人間だけです。
 





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最終更新日  2011年08月22日 18時02分55秒
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