キリマンジャロへの道(前半)以下は、オイラが2006年にマチャメ・ルートでキリマンジャロに登頂した時の記録である。 たぶんキリマンジャロについて日本語で書かれた記録で、マチャメ・ルートについて書かれたものは少ないと思うので、参考までにこれまで楽天日記に書いたこととかをまとめてここに公開することにする。 前半はキリマンジャロ登山の基礎情報と、6日間の登頂記の初日から3日目まで、 後半は登頂記の4日目以降と下山後の反省記までを含んでいる。 ところでオイラはワンゲル部出身でもなければ「山と渓谷」ファンでもない登山のド素人である。登山用語はぜんぜん知らないし登山を趣味にしている人なら必ず注目するようなポイントについての記述がぜんぜんないと思って読んで欲しい。 あと、オイラは海外在住であり、現地のツアー会社とインターネットを通して直接登山のための手続きをしている。だから以下に書いている登山のための手続きの中には、日本に住んでいて英語で意思疎通できない人にはちょっと無理なものが含まれている。 【なぜキリマンジャロか?】 オイラがキリマンジャロに登ろうと思ったのは、単純に「極端な標高」というのを死ぬ前に経験してみたかったからである。 年始には「極端な寒さ」が経験したくて真冬のアラスカを訪問し、それまでは肉体的な極限状況を経験したくて10回以上フルマラソンを走っていた。端的にいえば、「より極端な状況」を経験したくなったのであろう。 キリマンジャロは、富士山に登れる程度の体力さえあれば「素人でも登れる最も高い山」として知られている。ふつう6000mの山といったら特別な技術や装備が要りそうなものだが、キリマンジャロはほぼ赤道直下にあるために頂上付近でも「真冬の服装」さえしていれば堪え凌げる程度の寒さ(氷点下5~15℃くらい)であり、また傾斜が比較的緩やかで登山道もよく均されていて特殊な登山装備を要しない。 いわば、シロウトでも根性と体力さえあれば登れるおそらく唯一の5000m級の山なのである。 また、熱帯にあるため登山道が雪に閉ざされるということもなく(もちろん頂上付近は万年雪である)、基本的に年がら年中登れる。もちろんわざわざ雨季を選んで登る人は少ないが。 ただし、いくら素人向けの山と言っても、登頂に成功するのは50%弱と言われている。マラング・ルートであれば、山頂から200m手前のギリマンズ・ポイントまでなんとかたどり着くまででも登山者の4割が脱落するらしい。そして、高山病が発症するか否かは、よほどの高山経験者でない限り「登ってみなければ分からない」。だから、体力自慢の人も登山のベテランもこの「登頂成功率5割」というのを念頭においておく必要がある。 ところで、キリマンジャロを目指す人、とくに、観光化されたマラング・ルートではなくマチャメ・ルートやシラ・ルートを選択して頂上を目指す登山者(ヨーロッパの人がほとんどだが)の多くと接していて知ったのは、誰もが1年以上も前から入念に計画を練り、そのための準備やトレーニングを積み重ねてきた人ばかりだったことである。彼らは山に敬意を払い、安易に登頂を期待していない。登山のど素人のクセに「単なる思い付き」と多少の体力への自信だけで登頂を目指していた自分がいかにキリマンジャロをナメていたか、オイラはあとで痛感することになった。 しかし、頂上(ウフル・ピーク)からの眺望、あの筆舌に尽くし難い、恐ろしいほどの美しさをはじめとして、キリマンジャロからの眺めは気が遠くなるほど美しい。いくらカネと時間と労力が掛かったとしても、キリマンジャロに登ったことを後悔しているという登山者は(事故に遭った人を除けば)まずいないだろう。キリマンジャロはそれほどの魅力に満ちた山であることは言える。 とにかく、オイラが言いたいことをひと言でいうなら、「キリマンジャロはスゴイぜ、ナメたらあかんぜよ」である。 【準備編】 予算 まず航空券だが、北米からタンザニア(キリマンジャロ空港)やケニア(ナイロビ空港)までのフライトは2000ドルが相場であった(日本の場合もだいたい同じらしい)。 あと、キリマンジャロは富士山みたいに自分で勝手に登るわけにはいかないので、諸手続きに費用が掛かる。キリマンジャロ国立公園は登山事故や登山病などの急病などによるトラブルを防止するため、登山ルートによって最低何日間を掛けて登らなければいけないとか、免許を持ったポーターやガイドを最低何人つけることとかいった規則を設けている。だから、ガイドやポーターを確保するなどの手続きのためには、現地の登山ツアー主催会社などに依頼せざるを得ない。日本の旅行代理店などを通さずに現地の登山ツアー主催会社に直接予約すれば、入山料約650ドルを含んだパック料金は、ルートや日数によって1000ドルくらいから3000ドル台までいろいろである。あと、下山したあとでガイドやポーターに払うチップに100~200ドルくらい(額はグループの人数による)払うとして、さらに前泊や後泊のホテル代を入れれば、キリマンジャロ登山のための総予算には40万円くらいは必要であろう。日本の旅行代理店を通せばこれに5万円くらい上乗せになると想像される。 所要期間 次項で説明するが、プロの登山家向けのルートを除けば、キリマンジャロには5つのルートがある。いちばん短い期間で登れるマラング・ルートやロンガイ・ルートで最短5日間、いちばん長いシラ・ルートやラモショー・ルートで通常7日間掛かる。いくら体力に自信があっても最短ルートで最低5日間掛けることが規則になっている。日本や北米からキリマンジャロまでの往復には24時間前後掛かるので、登山前後の予備日を入れて、最低10日は休暇が取れないとキリマンジャロ登山は実現できない。 ルート 現在一般登山者に解放されているキリマンジャロの登山ルートは主に5つある。 いちばんポピュラーなのが通称「コカコーラ・ルート」と呼ばれるマラング・ルート(Marangu Route)で、移動距離が短い(マチャメ・ルートの約半分)ため5日間で登頂・下山できる。また、毎晩山小屋に宿泊できる(ほかのルートには山小屋はなく、すべてテント泊でのキャンピングが前提である)。難易度は全ルートの中で断然低い。一般に日本の旅行代理店が紹介してくれるルートはたぶんこれ以外にない。 次にポピュラーなのがオイラの選択したマチャメ・ルートMachame Route(6日間)。景色が優れているルートとして知られている。距離が長いだけでなく、途中を岩場を登らねばならない場所もあり、難易度は比較的高い。 最近ポピュラーになりつつあるのがやはり5日間で登頂・下山できるロンガイ・ルートRongai Route。マチャメに比べるとはるかに空いているので、時間に余裕がないがロンガイの混雑を避けたい人が利用している。難易度は、足場が砂礫質でマチャメほど整備されていないので、マラングよりは多少大変かもしれない。 シラ・ルートShira Route は、通常7日掛けて登頂・下山するようデザインされた“時間に余裕のある人たち”のためのルートである。登山2~3日目のシラ・キャンプにて、マチャメ・ルートと合流している。景色は全ルートで最高だといわれている。登山者の数は全ルートでいちばん少ない。 ラモショー・ルートLamosho Routeはシラ・ルートとほぼ平行しているコースで、標準はやはり7日間、途中でマチャメ・ルートと合流する。このルートを選択する登山者もシラ同様少ない。 トレーニング 先に書いたとおり、あるキリマンジャロ登山ツアー主催会社の統計によると、キリマンジャロの頂上を目指す登山者のうち、実際にウフル・ピークまでたどり着けるのは50%弱だと言われている。 キリマンジャロはしばしば「富士山に登る体力と技術があれば登頂可能」と言われるけれども、富士山であればふだん習慣的に運動をしていない人がいきなり頂上を目指して登頂に成功することは大いにあっても、キリマンジャロはなかなかそうはいかないと思う。だって、毎年何人か脳軟化症で死んだり後遺症が残ったりしているのである。富士山ではなかなか脳軟化症では死ねないもんなあ。 オイラは1度だけ気まぐれに富士山に(スニーカーで)登頂したことがあるのを除けば登山に関しては知識も経験もないが、キリマンジャロ登山の1年くらい前まで3年くらいにわたって年平均4回くらいフルマラソンに出走していて、毎日のように10キロ前後を走っていたので、人並み以上の体力はあった。実際、オイラと同じ日に同じルートで登山を開始したヨーロッパ各国の連中は、ほぼ例外なくジョギングなどの持久トレーニングを習慣にしていた。登頂にこだわるなら、たぶんそれくらいのトレーニングは必要なのかと思われる。 ちなみにあるキリマンジャロ関連のウェブサイトでは、登頂を果たすための大雑把な体力の目安として「30分間走り続けて息切れしない程度の体力」と書いていた。まあ、元・市民ランナーとしては、ある程度これは妥当な目安かとは思う。 【登頂記 マチャメ・ルート6日間】 初日 マチャメ・ゲート(950m)からマチャメ・キャンプ(3000m)へ マチャメ・ルートによるキリマンジャロ登山6日間コースの初日の今日は、標高950m付近にあるマチャメ・ゲート(登山口)から3000m付近にあるマチャメ・キャンプまで2000m強を約6時間掛けて一気に登ることになっている。 マチャメ・ゲート 登山口には世界中から集まった約50人の登山客(白人ばっかり)と、その倍くらいの数の地元のガイドとポーターたちが出発を待っている。 オイラと同じ日に同じツアー主催者を利用し同じルートで登頂を目指すグループは3つあり、いずれも3人ずつで構成されていた。 まず、ドイツ男性とスイス女性のカップルに日本人のオイラが加わったグループ。次に、ニュージーランド出身の男性2名と女性1名のグループ。そして、テキサス出身のアメリカ人男性2名と女性1名のグループ。偶然にも、オイラ以外の8名はいずれも30~31歳のヤンエグのプロフェッショナルだった。 キリマンジャロという山はほぼ赤道直下 (南緯3°)にあるので、最初の1~2000mの斜面は開墾されバナナ畑などになっているが、そこから2800mくらいまでの間は高木やシダ植物に覆われた熱帯雨林である。 そこから上は雲の上になるので降雨量が極端に少なくなり、3300m地点までは低木と草に覆われた荒地になる。 さらに4000mを超えるとついに草木は絶え、コケや地衣類が岩の表面や地表を覆っているだけになる(いわゆる高山砂漠)。 登頂のためのベースキャンプとなるバラフ・キャンプあたりの高度(4600m)以上は冷寒帯の気候となり、コケや地衣類さえ見当たらない岩と氷河だけの世界となる。 いわば、赤道直下の熱帯雨林気候から北極・南極圏までの気候を、6日間掛けて水平方向ではなく垂直方向に経験していくことになるわけだ。 8月はアフリカの赤道直下は乾季にあたるが、それでも熱帯雨林の登山道のあちこちはひどくぬかるんでいる。キリマンジャロはもともと富士山同様の休火山であり、泥炭質の土壌はグチョグチョの荒れ放題である。 キリマンジャロ国立公園の規則により、登山者が自分で背負うことを許されている最大重量は15キロで、それを超える荷物はポーターに運んでもらわなければならない。三食分の食料やテントの類は一切ポーターが運んでくれる上、この「15キロ超過分」の個人の荷物もポーターが運んでくれる。要するに、登山者1人につきポーターが平均2人つく勘定になる。 オイラの場合、後日に備えて自分を鍛えるつもりで(規則を破って)20キロ近い荷物を背負っていて、ポーターには非常用の飲料水のボトルをいくつか預けただけである。 現地人ポーターたちは、30キロくらいありそうな荷物を頭の上や肩に載せた状態で、10キロ程度の小ぎれいなバックパックを背負った登山者たちをひょいひょいと追い越して、悪路を先に進んでいく。そのスピードと体力はまさに超人的である。 熱帯雨林では強い日光を樹木がさえぎる中、鳥が鳴き蝶が舞いサルが吼え、登山というよりもまさにジャングルのトレッキングである。たまに途切れる樹木の間から覗くキリマンジャロの頂上が実に涼しげに目に映る。自分が数日後にそこに立っていることを想うと武者震いがする。 オイラは現地人ポーターとおしゃべりしながら一緒に登っているうちに4時間半足らずでマチャメ・キャンプに到着していた。あの悪路を20キロ近いバックパックを背負った状態でこのスピードで踏破したのは、初日としてなかなか好調な出だしであった。(…しかし、この過信が後日裏目に出る) 現地人コックの作った夕食を食べてすぐテントの中で休んでいたら、同じグループのドイツ人男性のフィリップが、スゴい星空だから外に出て見るようにテントの外から呼びかけている。ちょうど尿意を催していたので外に出てみた。マチャメ・キャンプはほぼ雲と同じ標高にあるので、何物にもさえぎられない夜空の星の多さは年始に見た“アラスカの星空の再来”といった感じだった。ただし、南半球の空なので、これまで見たこともないような星座がいっぱいある。 その夜、何度も尿意を催しテントの外に出たが、放尿しながら天空いっぱいの星を見上げ、この上も無い幸福を感じた。 第2日目 マチャメ・キャンプ(3000m)からシラ・キャンプ(3800m)へ 今日の行程は、標高3000m付近のマチャメ・キャンプから標高3800m付近にあるシラ・キャンプまでを5時間程度で踏破する。 初日である昨日は標高差2000m、移動距離18キロだったことを考えると、標高差は1000m足らずで移動距離は10キロに満たない今日は、6日間の中では比較的ラクな1日である。 今日の目的地のシラ・キャンプの面白い点は、オイラたちが選択したマチャメ・ルートとシラ・ルートの合流点にあるため、このキャンプから先はシラ・ルートを選択した人たちと行程が一緒になるところである。 朝8時過ぎにマチャメ・キャンプを出発し、昨日より傾斜のきつい登山道に入る。しかし登山道があるのは最初の1時間だけで、やがて手足のすべてを使わないと先に進めない岩場が現れる。オイラは極端な偏平足の持ち主であるため傾斜した足場でのバランスの維持は最大の試練であり、何度か「足を滑らしたら谷底まで真っ逆さま」みたいな場所で怖い想いをした。 体調に異変を感じ始めたのは3時間目くらいだったろうか。 まず尿意の頻度が高くなり、用を足して1時間もしないうちにまた強烈な尿意を催すのである。あと、それまでは同じグループの仲間であるフィリップとそのガールフレンドのヴェロニカと歩調を合わせて登っていたのだが、ふつうに歩いているはずなのに気がつくと2人から10m以上後退していた。そして、ついに思考の明晰さが低下してきたのを自覚し、体の感覚にも異状を感じ始めた。 昼過ぎの約5時間後に、ガイドのジョセフやフィリップ&ヴェロニカに数分遅れてシラ・キャンプに到着した。昨日と比べるとずっと広大な台地にたぶん15~20くらいのテントが張られている。眼下に雲と下界を見下ろす素晴らしい眺望なのだが、それを晴れやかな気分で堪能できる心身の状態ではなかった。先にキャンプに到着していたポーターが張ってくれたテントにもぐり込んだとき、オイラは明らかに疲労し体調の変化に困惑していた。 3800mというと4年前に経験した富士山頂上と同じくらいなのだが、この体調の変化は確かに高山病の初期症状であろう。テントの中で横になって脈拍を測ってみると、たしかに通常時の1.5倍くらいになっていて呼吸もやや苦しい。典型的な高山病の症状である頭痛や吐き気はまったくないのだが、頭は微熱時のようにポーっとした感じがする。 3800mでこんな様子だと、これから先の頂上までの2000mは絶望的ではないか。 食事用のテントで茶をすすりながら和んでいるフィリップとヴェロニカはとくに体調の変化は感じておらず、好調であるとのことであった。オイラはというと、「スプーンを持って自分の口に運ぶ」とか、「食べ終わった果物の皮をテントの外に放る」とかいった基本的な日常動作でさえが自分の思ったとおりに行かず、高山が身体のコーディネーションに影響を与えていることを痛感していた。 さえぎる雲のない直射日光を浴びて内部は30℃近くまで上昇しているテントの中でオイラは座禅を組み、ヨガの呼吸法で呼吸と脈拍を整えることにした。呼吸が落ち着いたところで、今度は横になってiPodを聴きながら落ち着こうと試みた。そこでまた不可思議なことに気づいた。iPodから流れてくる音楽が、明らかに遅いのである。 カセットテープなどと異なり、メモリチップに直接保存されているデータであるiPodの音楽は“音とび”とか“回転数”とかいった問題とは無縁なはずなのだが、オイラが聴いている音楽は明らかに下界で聴くときよりも遅かった。 オイラはこの事実を明らかにするため、腕時計でタイムを計ってみて、さらに困惑した。いずれの曲も「正しい時間」で終了しているではないか。 これは、赤道直下でかつ標高4000mという遠心力のもっとも強そうな場所では時間の流れが微妙に遅くなっているとか、あるいは単に自分の脳に異状が生じているためのどちらかであると思われた。この説をフィリップとヴェロニカに話したところ、怪訝な顔をされた上にきっぱりと後者の説を支持されたのであった。 昼間は30℃近かったシラ・キャンプだが、日没とともに気温は一気に下がった。 夕食を終えてすぐテントに入り寝袋にくるまったオイラは、夜中にあまりの寒さに目を覚まし、持参していた携帯温度計を確認して驚いた。テントの中だというのに氷点下まで下がっているのである。雲という遮蔽物に守られていない世界というのは、火星や月のように寒暖が激しいのである。 いよいよ下界の常識の通用しない世界に足を踏み入れていることを痛感したオイラは、昨日までの楽観はどこえやら、登頂成功への自信が一気に萎えてしまうのであった。 3日目 シラ・キャンプ(3800m)~ラーバ・タワー(4600m)~バランコ・キャンプ(3950m) 朝、食事用のテントで顔を合わせたヴェロニカは、昨日とは打って変わって元気がなかった。昨晩から腹の調子がおかしいという。朝食にもほとんど手をつけず、朝食と同時にポーターから手渡されたランチ袋からも消化のよいゆで卵とかを残してすべて朝食のテーブルに残していた。 典型的なキャンプのランチ そういえば昨晩トイレに行くためにテントを出たとき地面に誰かのゲロの跡を見た。吐き気と頭痛は典型的な高山病の症状なので、かなりグロッギー気味だったテキサス3人組の紅一点ジェイミーが吐いたものかと勝手に思っていたが、あれはヴェロニカのものだったのかも知れない…と思った。 8時過ぎに、ガイドのジョセフを先頭に、アシスタント・ガイドのハミスを最後尾に、シラ・キャンプを後にする。今日の行程は、3800m地点のシラ・キャンプから標高4600mのラーバ(溶岩)タワーまで一気に登り、それからまた標高3900m付近にあるバランコ・キャンプまで下りる計約15キロを、6-7時間掛けて踏破することになっている。昨日に比べるとややハードな行程といえる。 出発して10分もしないうちに、ヴェロニカが列を離れ草葉の陰で用を足し始めた。腹痛に襲われたらしい。いったん列に戻りまた皆と登山を再開するが、また5分もしないうちに列を逸れて岩場の陰で用を足している。今度は下痢だけでなく、食べたものを吐いている様子である。 そんなことを30分やそこらのうちに4-5回も繰り返しただろうか。ヴェロニカが用を足すのを待っているうちに、シラ・キャンプを出発した登山者とポーター50~100人程度の列に追い越され我々は最後尾になっていた。 何回目かの用を足し終わったヴェロニカとフィリップは、行進を再開する前にドイツ語で真剣に何かを話し合っていた。このような体調でこれからの行程をどうするかを話し合っていることは間違いない。 やがてフィリップが痛々しい表情で宣言した。ヴェロニカは以降の行程を踏破するにはあまりにも弱り切っている。この時点で彼女は下山し、フィリップ1人がチームに残ることにする、と。 …その決断を聞いて、ジョセフとハミスが話し合い、ハミスがヴェロニカに付き添って下山することになった。 ヴェロニカの下山のために2人はそれぞれのバックパックの中身の交換を始め、あとの3人はそれを黙って見ていた。フィリップはいかにも辛そうであった。うな垂れて涙を流していた。 後になって本人にから聞いた話だが、ヴェロニカが下山を決心したとき、フィリップはいったんヴェロニカと一緒に下山しようと思ったそうである。しかし、ヴェロニカの「あなただけでも山頂を目指して」という希望を聞き入れ、泣く泣くフィアンセと離ればなれになることを選択したらしい。 事実フィリップはキリマンジャロ登頂をもう何年も前から計画しており、フィアンセとともにその夢を果たすことに決めてからは、その準備やトレーニングのために(オイラなんかと違って)1年以上も費やして来たのであった。 だから、登頂をともにする相手がフィアンセでなく、何かの間違いで参加したようなアジア人の中年のオッサンであるオイラに変更になったわけだから、これが泣かずにいられようか。 ヴェロニカとハミスを見送り3人になった我々は、しばらくそのまま押し黙って先に進んだ。 4000mを超えると降雨は極端に少なくなるため草木は見当たらなくなり、地衣類だけが赤茶けた岩や地面の上を覆う、SF映画の火星かどこかのロケみたいな光景が続く。 一方で、4000m以降はそれまでははるか彼方に見えたキリマンジャロの頂上がすぐ眼前に迫って見えるようになり、いよいよ登頂が夢ではなく現実のものであるという実感が湧いてくる。 とくに、3日目の最大標高4600m地点にあるラーバ・タワーはまさにキリマンジャロ頂上のすぐ足元にある、という感じで、そのまま頂上まで登っていけそうな錯覚にさえ陥る。 実際、プロ級の登山者用ではあるが、ラーバ・タワーのあたりから頂上を目指す“近道”ルートが存在し、「ウェスタン・ブリーチ Western Breach」と呼ばれているその険しいルートを通常であれば6日間のマチャメ・ルートに盛り込み「5日間コース」として売っているツアー主催会社も存在した。 しかし、ガイドのジョセフの説明によると、今年の初めにウェスタン・ブリーチからの登頂を試みたアメリカ人登山者3名が事故で命を落として以来、この近道ルートはキリマンジャロ国立公園の当局から閉鎖を言い渡され、今は一般には公開されていない、ということであった。「一般登山者向けの山」といった印象のあるキリマンジャロであるが、やはり人が死ぬ程度の危険はあるわけだなあ…とあらためて思う。 オイラはジョセフの先導で、むしろ休息することを選択したフィリップを残し、溶岩流が固まってできたらしいこのラーバ・タワーに登ってみることにした。 標高4000m以上ともなると、登山者のほとんどは何らかの形で高山病の症状が出始め、グロッギー気味になる。わざわざラーバ・タワーのてっぺんに登ろうというヤツは、よほど体力に余裕のある少数派である。 岩の表面に張り付いて必死でタワーを登っていたところ、テキサス3人組の中でも体力自慢のライアンが上から降りて来ていた。彼の話ではやはり相棒の2人は休息を選択し、タワーに登ることにしたのはライアン1人とのことであった(笑)。 ラーバ・タワーから下を見下ろすと… ラーバ・タワーを後にすると、あとはバランコ・キャンプまでほとんど下り道である。 下りの途中では、解け出した氷河が山頂付近から流れて作っている小川をいくつも横切ることになる。 実は、我々登山者のキャンプ中の飲料水はこの解け出した氷河が作った小川の水を、ポーターが汲んできて煮沸したものである。標高4000mともなるともはや降水は微々たるもので、解け出した何万年も昔の氷河だけが我々の命の元になるのである…というのはちょっとロマンチックである。 火星のような光景の中でも、小川の周囲だけは一部高山植物が生育し、蝶が舞ったりしている。バランコ・キャンプに向けて標高が下がるにつれて霧が出てきたりして、氷河の小川が流れる谷はなかなか幽玄な雰囲気を醸し出している。 午後4時くらいになってようやくバランコ・キャンプに到着した。先に到着したポーターが張ってくれたテントに入ってひと息つくが、昨日に比べると体調は悪くない。昨日の座禅とストレッチが効いたのかも知れない。 ただ気になるのは、バランコ・キャンプから先の登山道がさっぱり見当たらないことである。このキャンプは2つの尾根に挟まれた台地のようなところで、右を見ても左を見ても切り立った崖のような地形であり、頂上へと続く山道らしきものが見当たらないのである。登頂の前日となるはずの明日の行程に不安が募るではないか。 明朝、この不安はすぐに現実となるのであった。 (「 キリマンジャロへの道(後半)」へと続く) |