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カテゴリ:思い出話
ボクがオトナになる過程で学んだ「コドモ時代には知らなかったコト」の中で、それを知ったときの衝撃度ベスト3に入るのは、セックス関連の諸々のことに加えて、「人間の精神の大部分は無意識が占めている」という事実であろう。 ボクが無意識というものの恐ろしさを思い知ったのは、フロイトの著作を読んだ高校時代から、さらに中学時代まで遡る。 あれは確か中2の2学期の期末試験だった。英語の試験の答案が返却され、満点だろうと思って点数を見たところ、97点であった。どうやら英作文の回答の1つに、先生がいったん○をつけていながら、それを取り消して思い切り×を書いた形跡がある。 それは『私はスキーの仕方を知っています。』という和文を英文に替える問題で、なんのことはない不定詞の“how to …”の用法を問う問題である。ボクの回答に間違いがあるはずはない。 ボクは先生に抗議に行こうと思って一瞬席を立ちかけて、答案に目を落としたままその場に凍りついた。そして、全身から火を噴きそうなくらい恥ずかしくなって席でひとり赤面した。 ボクの答案には、”I know how to sex.”と丁寧な筆記体でハッキリと書かれていたのだった。 ”ski”と書いたつもりで、”sex”と綴っていたのである。 中2の当時すなわち80年代の初頭、世間ではナラバヤシ先生の『How To Sex』という書籍シリーズがベストセラーになっていた。ボクは、その本を読んだことがなかったものの、絡んだ裸の男女のカバー写真か何かを新聞の下段広告などで目にしたり、不良の同級生がその本を所持しているのをチラっと見たことがあったかも知れない。 そして、その”how to sex”という中学生にも分かりやすい(しかし文法を完全に無視した)英語は、思春期の入口にあったボクの頭の中に固定観念として焼きつき、それがふと試験に回答する際に自分の手を通じて表出したらしかった。 …いずれにしても、ボクは、マスターベーションさえ覚えて間もない坊主頭の中学生の分際で、定年間際の教師に向かい『私はセックスの仕方を知っています』などと答案用紙で宣言してしまったことに、叫びだしたくなるくらいの羞恥心を感じると同時に、 ”ski”と書いたつもりの手が勝手に”sex”とつづっていた…というミステリアスな事実に大いに困惑し、そして震撼した。 これが単なるスペルミスであれば、こんなに戸惑うことはなかった。何がショックかといって、ボクの間違いが「意味のあること」(しかも衝撃的な)を書き綴っていたことにある。 自分の手や口が、自分がまったく意図しない大変なことを書いたり言ってしまうことがあることを、中2のボクはこうして学んだのであったが、それが具体的にどういうことを意味するのかを理論として理解するには、さらに3年を要した。 筒井康隆の小説やエッセイの影響であろうが、フロイトの著作の邦訳を読み始めた高校生のボクはある日「錯誤行為には意味がある」という一節を目にして、中2の英語の試験でおかした間違いの謎をついに理解した。 このウェブサイトを訪問されている大多数の知的なひとびとには説明不要であろうが、ボクのパパやママが読んでいる可能性を考慮してカンタンに説明すると、言い間違い聞き違いとかいった錯誤行為は、本人が無意識に抑圧していたホンネや願望が、本人の意識の隙間をぬって噴出したものである…というのが、フロイトさんが『精神分析入門』で著した画期的な洞察であった。 小学生が筆箱を紛失してしまったのは「CMで宣伝してる新しいスタイルの筆箱が欲しい」という願望の表れだとか、誰かが人の名前を呼ぶのが自分の名前に聞こえたりするのは、誰かに声を掛けて欲しいという孤独な自分の気持ちの表れだとか、新入社員が歓迎会でスピーチをさせられて「(感激で)もう胸がいっぱいです」と言おうとして「もういっぱいいっぱいです」と言ってしまったのは、本人の口を借りた密かな悲鳴である…とかいうのが、この“錯誤行為には意味がある”の分かりやすい例である。 これを前述のボクの答案での書き間違いに当てはめていうと、”I know how to sex.”と書いてしまった中2のボクは、まいにち天真爛漫で純朴そうな顔をして先生やパパママに接しているけれど、それはコドモらしく振る舞おうと無理をしているに過ぎず、日頃のオトナとの接触で抑圧されていた「オトナ並みかそれ以上の知識や知恵を持つ無意識の自分」は、実はもうセックスの仕方なんて知ってるんで~す…ということを言ってしまいたくて、坊主頭の中学生の手をしてこんな大胆な文章をスラスラと書かせたに違いないのである。 神経症の強迫症状とか、馬鹿げた強迫観念とか、こうした笑えない錯誤行為とかが、日頃自分が自覚していない「無意識」という大きな力を持った存在の仕業であるというこの発見は、すなわち「自分が自分だと思っているところのもの(=自我)」がチッポケで無力なものであるという発見でもあった。 無理をせずにホンネと願望に身を任せて自然体で生きるというボクのスタイル(笑)は、この中2の試験の答案に端を発するのである、というのが今日の日記の結論である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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