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わたしの金光教の信心道
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カメ信心の日記 [全73件]

2011.10.25楽天プロフィール Add to Google XML

自己を確立して自分の意志で確り生き方を定めましょう

人間が戦争して、都市を破壊したり人と人とが殺し合いする事は、運転手が車体を壊したり、道路を破壊したり運転手の命を奪い合いしたりする事と同じなんだ。
運転手はそんな愚かな事はしません。

交通社会にも交通戦争と言うモノがありますが、それは事故によって起きるもので、
運転手同士が対立して起きるモノではありません。
運転手と車体が一体と成った姿を自動車と言います。
そして個々の自動車が沢山集まって交通社会システムが完備されます。

その社会に問題があれば改善されて行きます。

社会から問題を無くして、自動車が安心安全な走りが出来れば、運転手は喜びます。

自動車にはタイヤが必要なんです。ハンドルが必要なんです、エンジンが必要なんです、ガソリンが必要なんです。不要な物は何もついていません。
道も社会も環境もみんな必要なんです。

その自動車から運転手が降りれば、自動車は走れません。
走らない自動車は路肩で永遠に定まり続けます。
走らない自動車は取り除かれて処分されて無くなります。

車体を放棄した運転手は、運転手では無くなり、人間の世界で生きています。
車体と縁が切れた人間にとって、交通社会は別世界と成り、その世界に捉われる事が無くなります。

自己を確立して人間の運転手に成ると、人間の世界がよく見えます。
その自己が気を失って意識が無くなると、人間の世界とは縁が切れます。
気が付いて意識が戻れば、自己は人間として人間の世界で生きられます。

自己は車体から縁が切れれば、交通世界とは一切関係ありません。
自己は肉体から縁が切れれば、人間世界とは一切関係ありません。
自己はパソコンと縁が切れれば、ブログの世界とは一切関係ありません。

交通世界で人間世界を説いても意味成しません。
人間世界で交通世界を説いても意味成しません。
ブログの仮想空間で自己確立を説いても、人間世界にはあまり意味成しません。

自動車には自動車の社会の法が説かれルールが敷かれ義務が課せられます。
人間に道交法は適用されない、運転手に適用されます。

人間には人間の社会の法ルール義務があります。

車体は創造された物であり、その物を生かしているのが運転手です。
生かすモノと生かされる物が一体となってこの世に姿を現した自動車とその社会。

この世の現実に生きる人間の世界で、あの世の話を説く宗教思想団体。
物を説かず心を説く行為が、動物の生きる道を破壊してしまった。
人間の街や道が破壊されて人の命が肉体ら離れてしまう。

自分とは精神的なモノなんだ。肉体は自分ではなくて、自分の肉体なんだ。
車体は運転手ではなくて、運転手の所有物なんだ。
パソコンの機体は自分の所有する物なんだ。

自分とは、そう言う物ではなくて、その物を生かす主なんだ。
その主の考えが主観と成る。
そしてその物として観る事を客観となる。

客観的に自分の姿を見ると、その姿は人間であり、この世の現実で自分は人間として生きている事が分かる。
運転手が客観的に自分の姿を見ると、その姿は自動車の姿であり、交通世界で自分はマイカーのドライバーとして生きている事が分かる。

創造された物の世界が宇宙であり、自己を確立して物の世界で道理に沿って生きれば、人は人と人との衝突を無くする事が出来ます。
自分とは何であるかを知らないで生きていれば、物としての道理が分からない。

だから人それぞれが自分勝手に走り出して衝突事故を起こし、又あの世を説き非現実論を説く宗教思想に洗脳されて、この世の現実を見ようとしない人間に成ってしまう。

人間よ、信心して神に成れ、仏に成れ。
神に成れば人間を生かす主と成る。
神に成らなければ、運転手不在の自動車と成る。
道理がつぶれて、人間の世界から争いが無くならない。

何故世界の人間同士が争い苦しめ合うのか。
知恵者の人間、人間の世界に宗教思想は悪魔を呼ぶ。
宗教は麻薬だ、アヘンだ、悪魔だ、ウンコだ、ゴミだ。

マイ宗教は太陽だ、ダイヤモンドだ、自ら光を発する幸せの玉手箱だ。

自分で運転しなければ、マイカーのドライバーにはなれないよ。
外部情報に惑わされないで、自分の五感で確り情報処理をしましょう。

カメさんでした。まる




Last updated 2011.10.25 20:19:30
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2011.09.17

金光教の信心の道 道理に適ったマイ宗教

滝

金光様はこの世の道理を観て、それに適う信心をするようにと説かれています。
例えば自然界の姿、滝は上から下に向かって落ち、その水は川を伝って大海へと注がれて、一つに成ります。
元々は一滴の雨露が自然の道理に従って川を下り一つに成る。

これが金光教の信心なんだ。
しかし難儀な氏子が助かりすればよいと言う信心には、このような道理が観られない。
何故難儀になるのか、その訳を説いて二度と難義にならないように信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えて行く信心、自らが神となり自立した信心が出来るようになるのが道理に適う信心だと思う。

個々の信心は、人それぞれ自由な信心でよいと思うのですが、世界の信心、つまり宗教界の姿は、大海のように纏まって行く筋道が観られません。
それでは共に生きる人々が心一つに和合できなくなります。

道理に適う信心の道とは、水のごとく下へ下へと流れて人それぞれの心が一つに成る事だと思いますが、多くの宗派も信者も一つに纏まる事は先ず無いでしょう。

信心の稽古の道は、頂上を目指す登山道のような道で、頂上に立って御来光が拝めることの有り難い道でありますが、そこでは人間の生活は出来ないので、再び下山して裾野に広がる日々の生活現場に戻り、何時ものように生きて行きます。

日に日に生きるが信心なんだ。
特別なモノを求めて修行するような信心は一時の迷い信心なんだ。

組織に依存しないで、個々の信心が自立して行く自然界の道理に適った信心を広めないと、命の水が一つになって信心の大海が実現しないでしょう。

大海の水は蒸発して天に昇り、再び一滴の雨露となって個々の生き物を生かす事に成ります。

水の流れは人生のごとく、様々にその様相を変えて流れて行きます。
激流のような人生からなだらかな浅瀬のゆったりした人生もあり、最終的には、みんな大海へ注がれて一つに纏まる。

己を信じて流れ続けて行く道理に適った信心を金光教から発信して行きたいモノです。

カメ






Last updated 2011.09.17 12:29:49
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2011.06.11

信心して神に成り、自己を確立すれば道理に適う生き方が出来るようになる。  (1)

久しぶりに更新して観ます。
金光教の道理に適う信心をひも解いて行けば、組織は商売に成らなくなってしまう恐れがあります。
つまりカメさんのような自己確立で自らの意志で生きられるように成れば、教会も病院も気功治療も先生もみんないらなくなってしまうからです。

日に日に生きるが信心だ。
信心に連れはいらない。
一人黙って静かに信心しなさい。

道理に適う信心とは、教えを頂いて御取次で難儀な氏子が救われる教団組織の仕組みと、救われた氏子が自立して行く筋道は、続いて行くモノであり、それは決して留まるモノではない。

病人が健康に成れば、退院します。
病人で無い人が病院で生活するりゆうはありません。

苦しい時の神頼み、苦しみが無くなれば神は無用となる。
この恩知らず目と叱られるかも知れないが、神様は難儀な氏子が救われて元気を取り戻して元の生活が出来るようになるのが楽しみなんだ。
教会へ参らなくても良い。
神様を忘れてしまっても良い。

自分がその信心を頂いて自己消化して行けばよいのだよ。

健全な社会とは、みんな健康で生きられる社会と成ります。
自分で健康管理が出来て正しく生きられるようになるのが理想です。

苦しんでいる人が沢山いるから病院を建てよう、教会を建てよう。
人気が出てくると、病人や信者が増えて、組織が貼ってして行きます。
苦しんでいる人が多くいないと組織は発展しない。
集まってくる人がいなく成れば商売に成りません。

病院も教会も寺も、無くする事は出来ないが、社会システムとしては、健全な姿が一番望ましい姿に成ります。
つまりみんな健康に成れば、救済システムはいらなくなる。

教えと現実の矛盾をどう解決すればよいのか。
道理に適う信心で悟りを開きましょう。

つまり宗教も学校法人として登録し、義務教育のように教え育てて卒業して行く筋書きを作る事なんだ。
病院には退院があり、学校には卒業がある。
教会には退院も卒業も無い。それが道理に適うものなのか。

カメさんは、道理に適う信心を頂いて自己を確立して宗教を卒業する事に決めた。

卒業して社会人としての信心生活を実現しています。

卒業出来ない信者や会員達が社会生活でみんなと普通に暮らす事が出来なくなっている。
信者は普通の人ではない。
無神論者も普通ではない。

卒業すればみんな普通の社会人として自立して行きます。
みんな信心してこの世の道理を悟り、自己を確立して社会人としての生き方を定めましょう。
金光教の信心は実に分かりやすい教えです。
教会の先生も、難儀な氏子である信者もみんな信心すれば誰でも神に成れると教祖様が説かれているが、誰も神に成った話が聞こえてこない。それが一番の問題なんだ。


カメさんでした。まる



Last updated 2011.06.11 12:01:16
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2011.04.10

道理に適う金光教の信心を見直しましょう

金光様の信心を頂いて、自己が神である事を気付かせて頂きました。
それはあくまでも私個人の思いでありまして、その気持ち、心境をYahooのブログ(カメさんの日記)で書き続けています。

誰でも信心すれば神に成れると言う金光様の教えが、どう言う事で有るのか理解するのがとても難しい。
人間は人間の世界で人間の両親から生まれて、その子が育ち大人になって社会人として生活を終えて一生を終えます。

その人間が神に成るとは、どう言う事であるのか。

先ず私は金光教の信心の稽古を積み重ねて、自己を確立しました。
それは自分とは何であるかと言う問いに答える事が出来るようになったと言う事です。

自分は人間なんだと思っていた事が思い違いである事に気が付きました。
人間と言う実体が信心の心から消えてしまいました。
人間と言う名は、総称であり、それは自分の名ではない。
自分の名は人の名である。
その名を人名と言います。
人は死んでも名を残しますが、人間が死んだら消えて無くなります。

一心に願え、お陰は我が心にあり。
金光教の信者として、金光様に対する気持ちを一つにして、その教え通りに生きる稽古を重ねて行く内に、自己確立のお陰が現れました。
自分とは、物では無い、精神なんだ。
だからその人間の姿を自分なんだと思っている事が間違いなんだ。

その間違いに気付いて、気持ちを改めて信心を見直す事に成りました。
そして自動車の比喩が浮かんで、自分は車体を生かす運転手のような存在なんだと言う気持ちが定められました。

運転手としての生き甲斐を感じられるようになって、心眼が開きこの世の道理が見えるようになり、職場で働く物としての気持ちが整えられました。
生き方が定まってくると、信頼されるようになります。
気持ちが人それぞれで生き方が定まらないと、信用を失います。

こう言う筋道は、特別のモノではなくてみんな当たり前の規則正しい生き方に成ります。

被災者も救援隊も国民も世界の人々もみんな心一つにして頑張っています。
時間がかかりますが、必ず復興は遂げられます。
それは、この世の道理なんだと言う事に成ります。
そう言う道理に適う信心をせよと金光様が説かれています。

この世の道理に適う信心とは、現実的な生き方であり、この現実にいるものは神でも無く仏でも無く自己でも無く運転手でも無く魂でも無く心でも無く、存在しているのは人間です。
人間が人間の世界で生活しています。
その人間が神の世界を説いて宗教は特別視されるようになりました。
神も仏も特別なモノなんだ、だから思想集団の信者さん達は、特別な思いで活動するようになります。

この現実を無視して人間に愛や思いやりの精神論を説き、肉体を物としてその生き方を定める事をしない。
人間の難儀は、生きる物として、働く物として、動く物として、子孫を産み育てる物としての生き方を定めないところから生まれて来ます。

形有る物はみんな定められています。
創造されて生かされています。

精神は人それぞれ自由で有るから、物としてその気持ちを定める事が出来ません。
金光様はこの世の道理に適う信心の道の稽古を説かれています。

肉体が無く成れば生きられません。
その肉体を物と認識し、自分は物ではないと認識すると、人と神とのあいよかけよの主従関係が確立されます。

車体と運転手もあいよかけよの関係です。
肉体と精神(自己)もあいよかけよで生かされていると説かれています。

信心して神に成れば、肉体を生かす運転手として自己が確立されます。
運転手の気持ちに成れば、この世で生きる訳が分かり、心配事が無くなります。
難義が消えて、気が楽になり、気楽に生きられるようになる。

そこで金光様の道理に適う信心が分かっていないと、この大震災の教訓が分からないと思います。
そして復興しても、又人それぞれの生き方が改められる事は無く、一つになった復興の気が又バラバラになってしまう事でしょう。

戦後0から立ち上がった国民の一つにまとまった気持ちが、人それぞればらばらになって社会の人としての気持ちが消えてしまって、自分勝手に生きて統制が取れなくなってしまいました。

そうした気の乱れが、地球の気の乱れに成ってくると考えられます。

信心して神に成れ。
それは人間を正しく生かす運転手に成れと言う教えです。
運転手は今を常に正しく運転します。
復興の道も、復興を遂げた後の道も、運転手は何時も正しく安全運転を心掛けます。

神とは物を定める意志なんだ。
それは人の気持ちなんだ。
その気が有れば、人間は信心して神に成れる。
神の気持ちに成れる。

金光教の信心は、難儀な氏子が助かりさえすればよい信心ではなくて、難儀な氏子が救われて元の生活が出来るようになり、信心を頂いて信心生活が出来る気持ちに改める事なんだ。
みんな信心生活が出来るように成れば、世界の人々が信じ合えるようになる。

この素晴らしい金光教の道理に適う信心が、広がりません。
その原因は、信心しても神に成れないからです。
教えを実践しないからです。

教えを稽古すれば、神様の気を頂けるようになり、その気を持つ事を気持ちと言います。
カメさんは信心して自己を確立して神に成りましたと書くと、自己満足であり、そんな信心を他者のブログで書いて意見を押し付けられると迷惑だと言われます。

難儀な氏子が救われさえすればよいのだ。
一生神信心の修行なんだから、神に成るなんて思い上がってはいけないと言う。

それは個人である人それぞれの心ですから、どうにも成りませんが、道理に適う信心と言うものがどう言う信心で有るのか、毎日地獄絵巻を見る思いでテレビを観て、この世に神も仏も無い事が良く分かったと思います。
この現実に生きているのは、自分しかいない。
その自分とは何かを気付かせて頂けたのが、金光教の信心です。

神の氏子が信心して神に成るのは当然の事です。
人間は現実の世で生かされています。
自分はその人間の肉体の心の中の運転席で人間を正しく生かしている主なんだ。

それは物ではなくて精神なんだ。
神に成らなければ、そう言う気付きは生まれません。
運転手に成って正しく生きられるように成れば、復興を遂げて元の生活が蘇っても人それぞれ勝手に生きる事は無くなります。

どんな事情があろうとも、運転手は常に安全運転を心掛けています。

信心生活には衝突事故は起きません。

かメ



Last updated 2011.04.10 19:08:34
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2011.01.09

信じられない人の心

ドライバーはみんな自己が確立されている。
だから車体を正しくコントロール出来るんだ。
自動車を物として観るから、道理適う運転が出来る。人間を物と観ないのがそもそも道理に適った生き方が出来ない原因なんだ。
物はそれぞれ自由に生きようとはしない。道理が有るから常に物は今に定められる。
定まり無い物であれば、全て物に依存する生活設計は建てられない。物のお陰で生活が出来る。
人間も物として心を定めれば、物としての生きる意見も一つに定められるでしょう。
人それぞれの定まり無い心が世界を乱してしまう。
定まり無い人の心、誰も人を信じられなくなる。

カメ


Last updated 2011.01.09 07:24:23
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2011.01.08

マイ宗教発信基地

カメさん今度こう言う仕事が入ったので、こう言う部品を大量に作らなければならないから、その方法を考えてくれ。
アイデアが得意とするカメさんとしては、水を得た魚のように会社の中を泳ぎ回っています。

何度か試作品を作り改造しながら加工機を完成させて行くそのプロセスが実に楽しい。
アイデアが閃くと、夜も寝られない事もある。
寝不足で疲れがたまってくるが、機械が完成すれば疲れも吹っ飛んでしまって、達成感が満ち溢れてくる。

そこには信心生活が有る。
信心して自己が確立されて、肉体が生きる原点が定められ、その物が職場でどう言う部署に配属されるかと言う事に成り、機械の部品のように定められた位置でその役目を発揮する。
物の道理に適う生き方が出来るようになって、人間として生きる悟りが開かれてくる。

ところが毎月の給料明細の成果手当の欄には何も書かれていない。
契約社員の決められた時給が計算されて、毎月支給されるだけ。
自己確立以前の話で有れば、成果を出しても評価されない会社なんかでバカバカしくて働けるかとすぐに止めてしまう。

自己確立の世界は、肉体を物として認識する事によって物の道理に適う人生哲学が浮かんでくる。
物達はどのように存在しているのかを観ます。
便利な生活が出来るようになったのは、物のお陰。
その物を創造して物質文明が発展して、人間達は自分が働かなくても物に全てを依存して好き勝手に生きられるようになった。

いらなく成れば物は捨てられてしまう。
物達は何も言わずに、ただただ人間達の奴隷と成り、物として定まり続けている。
この肉体を物と認識すると、物の道理が観えてくる。
物として己の心を定めるのが信心の道となり、物が物として生きる道が開かれてくる。

自己は肉体ではなくて精神であり、その物を生かす主なんだ。
物で無いから、物の道理は無く自由でいられるが、肉体は毎日物の道理が定められた道を生きる事に成る。

信心の道は宗教によって開かれる。
宗教は道標、教えを信じて生きる稽古を重ねて行く内に迷いが無くなり、安心して生きられるようになる。
そして自分は何であるかが観えてくる。

信心すれば神に成れる。
神に成れるのではなくて、元々から神であった事が分かる。
人間にはこう言う筋書きは理解できない。
それは信心を実践して観なければ分からない世界なんだ。

自分は肉体では無い、精神だと気付くのも信心の積み重ねによるモノ、この分別論が物の道理に適う。
物で無いモノが、物を創造してその物モノを生かす立場に立てば、相対論が適用される。

物は物から生まれるモノではない。
物は想像力から生まれてくる。

部品の加工機は、設計理論を組み立てるアイデア能力からそのプロセスは始まるのだ。
人間がこの世に生まれて生きるとはどういう事であろうか、その訳が分からずに生きるとどう言う事に成るか。
それが人間世界の実体ではないか。

訳が分かれば、人間の苦は解消します。
苦を滅する宗教は、道理を説かない。
私のブログには愛や思いやりや優しさが欠けていると宗教論者から指摘を受けます。
精神疾患の苦しみは、そんな屁理屈では治らないと叱られます。
鬱や自殺が増えて、宗教界がますます発展して行きます。
苦しい時の神頼み、宗教はただ神に、仏にすがりなさいと説く。
苦しみの人のために命がけで祈りを捧げている先生方にはカメさんのブログは屁理屈にしか見えないようだ。

苦しい時の神頼み、神に頼んで苦を救って頂いた恩は忘れない。
苦を救ってい頂いて苦が無くなった。
自己を確立して、この世の道理を悟り哲学が生まれて子が親から乳離れして一人で自立して生きられるようになった。
道理が分かれば、迷いが無くなり、当然苦は生まれない。

苦の無い所には神は無用。
親から離れて子が自立して一人で生きられるようになるのが道理なんだ。
宗教がその道理を説けば、信者が自立して組織が潰れてしまうから、思想宗教は道理は説かない。それが人間の不幸の原因と成る。
自分は物では無くて精神だと分かり、神の氏子が自分であり、その氏子が成長して行くのが信心の道なんだと言う事に成る。

道理とは、筋道であり、筋の通る話をして、人間を納得させれば信じなければ成り立たない宗教の問題は解けてくる。
人間は考える動物なんだ。
その人間の世界が苦しんでいる。

苦しい時の神頼み、自己が救われたが、人間が救われない。
人間が道理を悟れば救われる。
信じる人と信じない人がいる人間の世界で、精神論に偏った救済的な宗教を説いても道理は適わない。

道無くば人は生きられない信心の道を説く道理に適った宗教、それは個の確立であり、他と議論しても何も生まれないマイ宗教なんだ。
ブログはマイ宗教に適した世界だと言える。

カメ


Last updated 2011.01.08 08:39:27
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2011.01.06

哲学を書こう

哲学の哲とは、道理に明るく、知恵がある徳や知恵のある人。才能・識見のすぐれた人。哲人と辞書にある。
道理に適う信心を求め続けて、哲学が書けるようになった。

ただこれが哲学であるのか、哲学とはこう言うものであるのか、分からないが、心境を書くと哲学らしき文が出来上がったと言う事に成る。

人間的には、こう言う心境は一切理解できない。
書いて観れば、何一つ特別なストーリでは無く、読んでみればみんな当たり前の事ばかり、哲学が書けるようになったとしても、日常は何も変わり無く、毎日が過ぎて行く。

そう言う事で有るが、何故人間は問題を抱えて苦しんでいるのか、その訳を宗教や哲学や占いなどで解き明かせられないのか、それらの事についての情報は色々あるが、人間の世界から問題が無くならない。とみんなが思っている。

自己を確立すると、問題意識が消える。
自己が確立されると、先ず自分の生きる原点を定める事がいの一番にする心定めなんだ。

自己が確立されるまでの道のりは十年、二十年と長い。
何も分からず、宗教を信じて信心の稽古を積み重ねて行く内に心は一つに定められてくる。
そしてどんなにあがいても、もがき苦しんでもどうにもならない事に気がついて、思考が停止する。

何も考えないで、何も思わないで、毎日の務めを果たしていれば生きられる。
ロボットのように、歯車のように、そして運転手に生かされて走る自動車のように、ただ走り続け、生き続けて、無我の境地を悟る事に成る。

朝目覚ましのベルで目が覚める。
起きてトイレを済ませ、顔を洗い、神前にお水を供え祈りを捧げ朝食に成る。
毎朝の決められてストーリがそこにある。
そして出勤時間と成り、職場でその日の務を働いて、定時と成れば出社して家に帰り、風呂に入って食事してテレビを観て寝床につく。

この一日のスケジュールが一生続けられる訳です。
その訳が分からないので、心はその生き方に定まらなくなり、色々な生き方を模索して、そしてもがき苦しんで、再び元の生き方に戻る事に成る。

生き方を変えたとしても、結局毎日同じパターンに成る。
何故そう言う事に成るのか。
その訳を知る事が出来たのが、分別論による自己確立なんだ。

自分とは何であるか。
自分とは肉体ではなくて、精神なんだ。
人間は神様に生かされて生きていると説かれている。

自分は人間だと認識していると、毎日生かされるがままに生きれば道理は適う。
がそれは無理なんだ。
自分とは物では無い、精神だと認識すれば、人間を生かす立場に立つ事に成る。

そこに自動車の比喩が浮かんでくる。
肉体は科学的に完全に解明されている。
物には道理が有るから、求めれば訳は分かる。
精神は物では無いので、求めても何も答えは見えてこない。

それは信じるしかない存在だと言える。
肉体から切り離された自意識には思考が働かず、思考は物としての肉体に自動的に働いて、車体が運転手の意志で走るように、肉体は無意識で生きるようになる。

人間的にはとても信じられない生き方が実現する。

ただそこに哲学が生まれてくるんだ。
形ある物としての生き方が哲学なんだ。
その物を生かす命が、自己と成り、物意識が消えて無我と成り、人体を生かす立場に立ち、マイカーのドライバー人生哲学が書きあげられる。

どんな生き方を模索しても、生きるには道が必要なんだ。
その道の理を悟れば、今その道の上に心は定められる。
運転手は何を考えたとしても、今走っている道を踏み外せば苦を招く。

道に沿って走り続けていれば、何れ目的地に着く。
それが道理と言うモノなんだ。
この世の道理を観て、それに合う信心の稽古をせよ。
誰でも信心すれば神に成れる。
神とは人間を生かす運転手なんだ。

誰でも稽古すれば運転手に成れる。と言うのが自動車の宗教と成る。

自分は人間の運転手だった。
その事を知ってから、哲学が書けるようになった。
運転手は誰でも交通の哲学が書ける。
みんな当たり前の事。難しいモノは何も無い。

カメさんでした。まる



Last updated 2011.01.06 18:34:02
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