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信心が組織化してしまうと、マイカーのドライバーの信心、つまり個々の人の心の中の自由な信心が消えてしまいます。
個人のマイカーでは無くて、大型の乗合バスの信心に成ってしまう。 運転手が一人いて、その運転手が運転するバスに乗せてもらって信心の道を旅する事に成る。 運転手は責任を持つ事に成るので、社会の法人手続きが必要になります。 乗客は、運転免許はいらないので、信心の道の稽古をする必要が無く、ただ乗せてもらって生きて行けばよい訳です。 道理も悟りも修行も何も要らない、乗り物に乗ればそれで目的地へ着く。 マイカーの運転手は、バスの乗客のようにはいかない。 交通社会の道理を全て分かっていなければ、一台の自動車を生かす事が出来ないのだ。 一人の人生もそう言う事で、一人一人の心の中に信心の道が有る。 その訳知らずして、人間が生きるところに問題の種が有る。 金光教はその訳を説いていますが、組織化されて大型乗合バスに成ってしまった。 運転手を信じて乗っている乗客は気楽なもんだ。 その社会、その世界がどんな世界に成ろうとも問題意識は生まれない。 ただ乗せられて生きている。 マイカーの運転手はそんな気楽な生き方は出来ないのだ。 社会の問題を解決しなければ、安心して運転が出来ないのだ。 カメ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.09.18 10:04:17
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