|
テーマ:戦争反対(1187)
カテゴリ:降伏と占領と独立
戦後「沖縄」について「昭和天皇」は意見を持っていた、寺崎英成氏は米国にそれを伝えている。
1947年9月19日、対日占領軍総司令部政治顧問シーボルトへ 『沖繩(および必要とされる他の島々)に対する米国の軍事占領、日本に主権を残したままでの長期租借』 〓サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)1952年4月28日発効〓 第三条【信託統治】 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦(そふ)岩の南の南方諸島(小笠原群島、西ノ島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。 このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。 1972年5月15目の「沖縄返還」後は、パスポートなしで沖縄へ行ける様になり、通貨はドルから円へ。 「琉球諸島に関するメッセージ」の是非は、 「日本国憲法施行」後に行われた事、現在に繋がる「沖縄」の負担等、簡単ではない。 日本が戦後、平和と繁栄を享受できたのは「沖縄」が大きな要因と思える。 戦後日本の軍備は「米軍」を主体としたものとなったが、「メッセージ」は、 「米軍」の力を「沖縄」にある程度限定する効果があったのか、 「日本」は「軍事的」には全くの「空白地帯」になる可能性があったのか、 「日本独立」までに「朝鮮戦争」が始まっている為、「空白地帯」には成り得ないと思える。 【戦後簡単年表】 <1945年> 09.27:昭和天皇とマッカーサーとの会見(第一回)、米国大使館にて、奥村、全11回 10.09:幣原喜重郎を首相に新内閣(幣原内閣)成立 10.19:ニュルンベルグ裁判「起訴状」発布 11.20:ニュルンベルグ裁判開廷 12.04:梨本宮守正(元帥 陸軍大将 伊勢神宮祭主)、戦犯の逮捕==>数ヵ月後釈放 12.06:近衛・木戸、戦犯の逮捕命令 12.16:近衛文麿自殺(出頭期限日) <1946年> 01.01:天皇の人間宣言 04.29:極東国際軍事裁判「起訴状」発布 05.03:極東国際軍事裁判開廷 05.31:昭和天皇とマッカーサーとの会見(第二回)、寺崎 10.01:ニュルンベルグ裁判判決 10.16:昭和天皇とマッカーサーとの会見(第三回)、寺崎 <1947年> 05.03:日本国憲法施行 05.06:昭和天皇とマッカーサーとの会見(第四回)、奥村、奥村は会見内容をもらす->懲戒免官 05.24:天皇の自称が「朕」から「わたくし」に変更 『慶応義塾90周年式典に際してのおことば』1947年5月24日 『第一回国会開会式のおことば』1947年6月23日 09.19:昭和天皇の「琉球諸島に関するメッセージ」 昭和天皇のメッセージを寺崎英成宮内庁御用掛が対日占領軍総司令部政治顧問シーボルトに伝える 【琉球諸島に関するメッセージ】 ■「昭和天皇独白録」の『寺崎英成御用掛日記』より □昭和22年(1947年)、9月19日(金) 拝謁 沖縄島 シーボルトに会ふ 沖縄の話 元帥に今日話すべしと云ふ 余の意見を聞けり 平和条約にいれず 日米間の条約にすべし ■資料:アメリカ政府より秘密を解除された文章(アメリカ国立公文書館「ナショナル・アーカイブス」所蔵) 下記資料は外務省が当時取り寄せて存在を確認している。 下記の国会議事録により確認した 87 - 衆 - 内閣委員会 - 7号(昭和54年04月17日) 87 - 衆 - 内閣委員会 - 8号(昭和54年04月19日) 87 - 衆 - 沖縄及び北方問題に関す… - 4号(昭和54年04月27日) 87 - 参 - 内閣委員会 - 8号(昭和54年05月22日) 87 - 参 - 内閣委員会 - 12号(昭和54年05月29日) 87 - 衆 - 内閣委員会 - 15号(昭和54年05月31日) 91 - 衆 - 内閣委員会 - 3号(昭和55年02月21日) ■「国会議事録」よる「昭和天皇」の「琉球諸島に関するメッセージ」 □「資料・(1)」 一九四七年九月二十二日付:対日占領軍総司令部政治顧問シーボルトから国務長官マーシャルあての書簡 この資料には、「資料・(2)」が添付されている 「天皇のアドバイザーの寺崎英成氏が同氏白身の要請で当事務所を訪れたさいの同氏との会話の要旨を内容とする一九四七年九月二十日付のマッカーサー元帥あての自明の覚え書のコピーを同封する光栄を有します。」 「米国か沖繩その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇か希望していること、疑いもなく私利に大きくもとづいている希望が注目されましよう。また天皇は、長期租借による、これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしています。その見解によれば、日本国民はそれによって米国に下心がないことを納得し、軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろうということです。」 □「資料・(2)」 一九四七年九月二十日付:総司令部外交部作成「マッカーサー元帥のための覚え書」の「琉球諸島の将来にかんする日本の天皇の見解」 昭和天皇のメッセージを寺崎英成宮内庁御用掛が対日占領軍総司令部政治顧問シーボルトに伝え、 そのメッセージをマッカーサに報告したもの 「さらに天皇は、沖繩(および必要とされる他の島々)にたいする米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借――二十五年ないし五十年あるいはそれ以上――の擬制にもとづくべきであると考えている、天皇によると、このような占領方法は、米国が琉球諸島にたいして永続的野心をもたないことを日本国民に納得させ、また、これにより他の諸国、とくにソ連と中国が同様の権利を要求するのを阻止するだろう。」 □「資料・(3)」 一九四七年十月十五日付:アメリカ国務省政策企画部部長ジョージ・ケナンよりロベット国務次官あての勧告「琉球諸島の処理」 一部引用 「政策企画部は、米国の南琉球支配の原則をうけいれる。しかし、当部は、戦略信託統治があらゆる点で、米国支配のもっとも満足しうる形態であるとする納得のいく証拠を見たことはない。政策企画部は、米国が沖繩ならびにその他の必要な島々にたいする軍事占領を、主権は日本が保持したままで、長期の租借――二十五年ないし五十年あるいはそれ以上――にもとづいて継続すべきであると、日本の天皇が提案していると伝えられていることに留意する。当部はこの方式を戦略信託統治の代案として検討するのが当然だと考える。」 □「資料・(4)」 一九四八年二月二十六日付:シーボルト発国務長官あて書簡(外務省が新たに発見したもの) 内容不明 ■昭和天皇の「琉球諸島に関するメッセージ」を記載したもの(昭和54年発行) □「世界」4月号での進藤榮一筑波大学助教授の論文 「分割された領土」/岩波現代文庫 ■昭和天皇に対しての調査は行われたのか 国会等で「昭和天皇」に対しての審問はなかった思われる。 【沖縄の簡単年表】(主に「日本人の境界」より) 1609:薩摩は琉球王国に侵攻、薩摩は琉球と中国の冊封関係を廃さず、朝貢貿易を利用 (冊封:中国皇帝から王として承認、定期的な朝貢、中国暦の使用、越南(ベトナム)・朝鮮も中国と冊封関係) 1846:フランス艦隊が琉球へ来航、琉球王府に和親・布教・貿易を求める。 島津斉彬は老中阿部正弘と協議、通信・貿易は黙認、布教は認めずの方針で一任される 1846:イギリス艦が琉球へ来航、宣教師ベッテルハイム一家(英国琉球海軍伝道会が派遣)を上陸される、布教は許可されない。 1853:米国使節ペリーは琉球に寄港、王府に修好を希望。 1854:ペリーは日米和親条約の調印後、琉球に立ち寄り琉球と条約を結ぶ(西暦と清朝の年号を用いる) 1855:フランスは琉球と条約を結ぶ(西暦と清朝の年号を用いる) 1859:オランダは琉球と条約を結ぶ(西暦と清朝の年号を用いる) 1872:6月、福州からの清国船が那覇に入港、12名の宮古島民を送還。 前年、宮古・八重島の帆船4隻が那覇から貢納の帰り難風にあい離散、 宮古島船一隻が台湾南部に漂着、63人中3人溺死・54人は原住民に殺害される・生存者12人 1872:9月、琉球王尚泰(しょうたい)は琉球藩主として華族に列せられる、琉球藩が新設される。 琉球は両属が続く、清国への隔年朝貢は継続(明治5年、明治7年) 1874:2月閣議で征台を決定、4月陸軍中将西郷従道を台湾征討の都督に任命。 英米は兵員輸送を断る、日本政府は中止、西郷従道は独断で長崎より出航。 台湾南端の牡丹社を攻略、約3600名の内、戦死12名、戦傷17名、マラリアで病死561名 1874:10月講和成立、清国は日本の征台を「保民の義挙」と認める。 撤兵を条件に50万両(テール)の支払いを約束する、協約で清は「日本国属」と遭難者を記す。 (互換条款) 1875:日本政府は、琉球藩に隔年朝貢・「明治」年号の使用等を求めるが、琉球藩は応じない。 1876:日本政府は、正式に琉球藩に対し、清国への臣礼謝絶を伝達。 1877:清の駐日公使は琉球の進貢さし止めは「日清修好条規」違反と抗議 1879:1月、日本政府は、再度正式に琉球藩に対し、清国への臣礼謝絶を伝達。 1879:3月、松田道之は警察官160名・鹿児島分営の鎮台兵約400名を率い琉球へ渡る。 琉球藩を廃し沖縄県を置く。 1879:米国前大統領グラントによる斡旋(李鴻章・恭親王、伊藤博文・明治天皇)、日清の交渉再開(1880) 1880:日本側の案:宮古・八重山群島を清国に割譲、中国内地での通商と最恵国待遇を西洋諸国同様に日本に認める。 清国は調印を拒否。 清は琉球の朝貢儀礼を求める、日本は無視 1894:日清戦争で台湾・琉球は日本の領土となる 沖縄県では教育を重視「会話伝習所」を発展させ「師範学校」へ、授業料免除、弁当代・補助金の支給 小学校の平均就学率3%(他府県は40%台)、 日清戦争後は男45%・女17%、1907年には全体で93% お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.06.03 23:13:09
コメント(0) | コメントを書く
[降伏と占領と独立] カテゴリの最新記事
|